CHOPIN ETUDES WITH KEMAL GEKIC  ケマル・ゲキチとショパンのエチュード

レコーディングは、厄介で、怪しげなものだ。音楽の演奏は、演奏家の心から聴衆の心へ直接伝わる瞬間にしか存在しない。まさにこの本質によって、いかに優れた録音技術であっても演奏会場での体験をなぞったもの以上のものは、まず保存されないものなのだ。

スタジオ・レコーディングされた演奏に惹かれる一方で、とりわけその演奏家が死んでしまっている時、私たちはその録音の中に記録されているわずかな真実を探し求めているのである。過去の巨匠の映像遺産を擁しているYou Tubeの計り知れない人気を見てみればこのことがよく分かる。

ケマル・ゲキチは録音のやり方の形をまるごと変えてしまうことで、スタジオ・レコーディングの中でとらえどころのない、生きている何かをとらえようとしているのだ。若い頃に既に頭抜けて輝かしいピアニストであったゲキチは、できるだけ多くの評論家を喜ばせることで、あっという間にスターになるという安易な途をとらなかった。自分の信念を守る勇気(と頑固さ)を持ち、彼の創造的な天性に忠実に従った結果、演奏するごとに異なるいくつもの演奏をしたからだ。それは物議を醸すためではない。感傷的な演奏やありふれた演奏を嫌悪していたのだ。ゲキチは、音楽の持っているもっと深い意味を極めたい気持ちを満たすために、あえてリスクのある斬新な演奏をしたのである。音楽の意味を極めたいという知性の力は、十分な技術があってこそ、演奏を豊かにするのである。作品の対位法的・旋律的・和声的そして構造的な面と、これらの構造的要素が伝えようとする感情的な内容とを、まとめるための十分な技術があってこそ、初めて知性が演奏を豊かなものにするのだ。

ゲキチは、絶え間のない努力によって芸術的に成長し続けている。ゲキチは、ありとあらゆる限界を超越しようとしている。名声の上にあぐらをかくのではなく、何かを達成してもさらなる次の段階へと音楽を進歩させている。鍵盤でのゲキチの驚くべき肉体的な技量は、生まれながらのものだ。彼にとっては、それは当然のことと感じられるかも知れない、しかし、彼はそうはしない。ゲキチは、自らの両手を絶えずさらに発展させ続けており、両手が繊細に、巧みに連携するように努め、自らの創造的な精神にとって欠かすことができない両手が、ありとあらゆることの限界を押し広げられるようにしている。そして彼は自らの知性にさえももっと多くを求めている。彼は目前の音楽上の課題のためにものすごく深い読解力を用いる。しかし、ゲキチの中の技巧と知性の結合によって、第3の力、つまり哲学的で心を打つ音楽体験が生み出されており、これこそが聴く者を深く感動させ、彼岸へと運び、忘我の淵に沈めるのである。

The seed of another advancement  もう1つの発展の種

C major(ハ長調)の前奏曲の最初の数小節の中で、どうして、主音と属音の和音を同じピアノの音色で弾かなければならないというのだろうか?私は、この2つの和音を同じに感じない、だからなぜこの2つは同じに響かなくてはいけないことがあるだろうか?」恐らく、この素朴な疑問だけから、このショパンのエチュードのCDの演奏の開花につながると言うのは、単純化し過ぎであろうが、この中に、一粒の真実があるのである。この単純な思考を発展するままにすることによって、ゲキチには巨大な問題が生まれた。というのも、一旦、エチュードの1曲を自分で取り上げて、これほど繊細さをもって弾き、これほどのニュアンスに自らを開くと、楽譜のあらゆるページが、文字通り、数千の抑揚の可能性を持つからなのである。誰であっても、おそらくこれら可能性のすべてをリハーサルすることはできない。だから、練習の中でできるだけ多くを試してみて、そして、舞台に出てからは、インスピレーションに任せて、その日のその瞬間における組み立て方が自発的に展開するようにするのだ。

ゲキチは、彼のレコーディングへの取り組み方全体を変えることで、この自発性を録音スタジオに持ち込むことに成功した。レコード会社に依頼される特定のレパートリーに縛られずに、ゲキチは単に自分の思い通りにできるホール、スタインウェイ、そして録音チームを持ち、それらはゲキチが弾こうという気になるかも知れないありとあらゆる曲を録音する準備をして待っているのである。ゲキチは意図的に、レコーディング・セッションに「自然体で」現れる。過剰なリハーサルで自らの解釈を殺してしまう代わりに、彼は、予定している曲には、直前にほとんど注意を払わない(本当の準備は、年来、あるいは十年来行われている)。そして、当日に現れてくるものが何であれ、現れ出でるのに任せる。結果は、かつて私が経験したことのない、インスピレーション、自由、閃き、美、繊細さ、デリカシー、力、思慮深さ、紛う事なき天才の開花である。

それぞれのエチュードのためにゲキチはしばしば10テイク以上、場合によっては5テイク足らず、時には15テイクほど演奏した。ゲキチが、これほど多くのテイクを必要としたのは、ミスタッチのないCDを作るためではなく、解釈の点であらゆる可能性を徹底的に追求するためなのである。ゲキチは録音セッションの中で自分の無意識を縦横に働かせる。そして、一連のテイクを通じて、ゲキチは、これやあれやの和声の色彩、フレーズの抑揚、リズムの強調を試みる。一連の過程を経た後に新しい真理に最も深く到達したテイクはどれなのか、それぞれの個性的な作品の中に隠されて、扉を開かれるのを待っている天才性により深く到達したテイクはどれなのかを知ろうとする。この時、1つの有機的な解釈が現実に形を表す現場を人は聴くことができる。私たちの編集室での仕事は、これらのテイクのミスを修正するということではなく、私たちは、ホールで創造された成果を集めて回るというもっと幸せでもっとずっと手強い仕事をする。その仕事とは、多くの解釈の可能性の中から、どれが、掴み出してCDに定着させる価値があるものであるかを選ぶことだ。そして、この過程を通じて、その曲の劇的・情緒的・哲学的な表現豊かなコンテクストを最も反映している解釈を作り出すことなのである。私たちはオーケストラの指揮者のような役割を果たす。ある解釈がどのような方法で進む「べき」かを決めるというよりは、寧ろその解釈がどこに進もうとしているかを察知しようとするのである。

しかし、なぜ、これらのエチュードをいまさら新たに録音するのだろうか?レコードの歴史の中で既に80-100種のショパンのエチュードの全曲盤が存在しているのに。何が一体いまさらもう1つの録音を正当化するというのだろうか?まだ表現されていないことが、何か残っているのだろうか?

ゲキチは書く、「この質問に答えるためには、私たちは源泉に、つまり曲そのものとその作曲家に戻る必要がある。エチュードとは研究のことだ。しかし、何について?わずかな常識を持って楽譜を何気なく一瞥するだけでショパンのエチュードは、特定のピアノの問題に、つまり『研究』の対象であると思われる問題の解法に捧げられている。」殆どの場合、この発言は質問の答えになっている。それ故、表題が(それらは1つとして元々あったものではないが)「オクターヴ」「3度」「6度」「黒鍵」などと付けられている。おのおののエチュードの音型を本当に習得するということは、それだけでも、鍵盤上での高度に熟練した行為である。

「しかし、よく見ると、物事はそれほど全く単純ではないことが明らかになる。課題となっている音型の習得自体を別としても、さらに、通常は『問題』で忙殺されていない方の手に割り当てられている副主題がある。」この副主題は、課題となっている音型を補完し、対立し、付け加え、説明し、息づかせている。しばしば、この副主題は、「問題」自体よりも複雑でより難しい。この2つの要素(課題音型と副主題)の間に理想的な均衡を見つけることは、達成することが最も難しいことの1つである。僅かに副主題が強くなり過ぎるだけで、エチュードは暗く、重たく、平凡になる。その逆に、課題音型が強くなり過ぎると、全てが機械的で、薄っぺらで、表面的になる。首尾一貫して適用できるような包括的な解決策も、理想的なバランスも発見することはできない。ある部分では、課題音型が支配的であるべきだし、他の部分では副主題がより際立っていなくてはならない。

「さらには、第3のレベルの難しさがある、それは先に示した2つ(音型の習得と均衡の実現)を体得するのに先立つものだ。課題音型が完全に習得され、課題音型とその副主題との間の均衡についての疑問が解決されたと仮定すると、人は次のように尋ねたくなる気持ちに駆られる。「なぜ?この全ては何の目的に役に立つのだろうか?」この疑問に答えようとすることで、ショパンの構想が幾重にも重なった偉大なものであるということが明らかになる。それぞれのエチュードは、はっきりとした音楽的な独立した存在であり、性格を備えており、人格がある。全ての技術的な問題は、それぞれのエチュードのインスピレーション、ムード、空気感、それぞれの個性的な特徴、つまり、リズム、ルバート、色彩などを際立たせるというより高次な目的に臣従しているのである。そうである、エチュードは、技巧の点、オーケストレーションの点、しかし、究極的にそしてもっとも大切なことには、解釈の点で、研究であるのだ。

楽譜からショパンの音楽について正しく理解することはできることではなく、人はショパンの人となりを聴かなくてはならなかったと記録には残っている。ショパンの生徒は、ショパンの曲が実際には紙の上で見えているようには響かないと述べていた。ショパン自身の演奏、彼のリズム、彼の調性の遠近法、彼の独特の民族的風味、彼の色彩、彼の呼吸の機微は、5行の比較的原始的で単純化された表記手段、7つの音、6つの強弱記号などを通して表現することができなかった。人は、印刷された楽譜を乗り越えてこれらのエチュードの真の意味とインスピレーションをつかみ取って、伝えなくてはならない。

今までに書いてきたことが、このレコーディングの目的とその存在理由である。上記80余りの全曲録音盤のほとんどは、エチュードが紙の上で見えているように響いているだけであるが、このCDはそうではない。このCDは、本当に楽譜に従っており、時々は、標準的な演奏よりも、より誠実に楽譜に従ってさえいる。(例えば、2曲だけプレストと記されているエチュードop104op25#2は他のアレグロのエチュードとの関係でプレストを守っている。そしてエチュードop106は作曲家によって示されている適切な速度:付点4分音符=69で録音されている)。しかし、このCDはまた、さらに重要な一歩を試みる。作曲家のインスピレーションの源に遡るという一歩である。これから一曲ずつエチュードについて議論しながら、私が一曲ごとの基礎となっている存在意義であると感じたことについて言及してみてよう。"

12 Etudes, Opus 10

ショパンがエチュードop10の作曲を始めた時に、まだ10代であったということは人を驚かせる。かくも横溢する若さが、かくも円熟した天才であるとは!ゲキチは、この2つの横溢する若さと円熟した天才を自分の解釈に持ち込んでいる。彼はやおら核心を突く major (ハ長調)Etudes Op.10#1の堂々とした解釈をもって、これから始まることへの舞台を設えるのである。ゲキチが数年前に、16分音符のアルペジョの飛沫の中に隠されているコラールの旋律を示し、コラールが遺憾なく歌っていることを示してくれたことを思い出す。このCDの中で、あなたは、ゲキチが次第に次の3つの要素、テンポを保って弾かれた時だけ本当に十分に響く16分音符と、内声のコラールと、大胆な低音の基礎とを錬金術で融合させることににじり寄ってゆくのを聴くことができる。この立体的な解釈は、より伝統的な読譜では絶対にできないやり方で、ショパンの作品の内容を明らかにする。

続くA  minor(イ短調) Op.10#2のエチュードは、ひどく困難である。右手は和声的な支持に対応する間、半音階的上声部の疾走している線を操りながらあちらこちらに捻れる(訳注:右手が一人二役、第1指&第2指が伴奏、第3指〜第5指が旋律を奏している)。他の何よりもこのエチュードはショパンの手が鍵盤の上で本当に蛇のようであったに違いないということを示している。全ての音符を高速で弾くだけでも、ピアニストは既に大変な成果を挙げている。しかし、ゲキチは、和声とフレーズの色彩を加えることで、自分の読譜に真の個性を与え、彼自身の言葉によれば、「ショパンの色彩の調和と転調のこの迷宮の迷路」を私たちに案内して回るのである。全ての16分音符が聞き取れるだけでなく、十分に分離され、彫琢されてさえいるテイクと、ゲキチの16分音符のタッチがより軽くて、より流れるようで、曲の儚い性格により忠実で、あまりはっきりとした粒立ちを求めなかったテイクとの間で選ぶことは難しかった。これは綱渡りなのだ!繰り返しの部分で、ゲキチは、美しいということとオリジナルであるという趣旨で、ショパンが右手の和音をレガートと記譜している初期の版を復原している。再び、音楽的な重要性という点で、明らかな技巧的な困難さから、根底にある音楽的発想に比重を移しているのである。

ショパンのエチュードのいくつかは、ゆったりとした叙情的な性格を持っている E major(ホ長調)Op. 10 #3は最も人気の高い作品だが、ある聴き手にとってはほとんど聴き飽きた作品の1つでもある。しかし、ゲキチは、この曲の対位法の要素を出すことによって、この作品を新たにした。バロック的な厳格さに引き戻すことをしないながらも、ゲキチはこの曲にはかわいい旋律よりも多くのものがあるということを示している。彼の言葉では、「Op.10#3は、ショパンに関して、旋律が最高に支配するにもかかわらず、テクスチャーが、同時に展開しているいくつかの水平の線から構成されて、並外れた美の体系を生み出せることを証明している。」

続く sharp minor(嬰ハ短調) Op.10#4が、前の曲に引き込まれていた私たちを目覚めさせる、そのやり方ときたら!ゲキチは、危険きわまる猛烈な早さで、賑やかに演奏する。その演奏は、終始、ばらばらになるのではないかとハラハラさせるが、それでいて、粘り強く踏みとどまっている。ゲキチは、「Op.10#4では、猛然と突進しては、たかだか4小節ごとに止められる音型があり、いくつもの転調をして、前に進むことを許されず、遂には最後のページで情熱が爆発的に噴出し、それまで溜め込まれた全てのエネルギーを解放する。」繰り返しでは、曲がこれ以上は少したりとも激しくなり得ないと思ったちょうどその時に、ゲキチはギアのレバーをもう一段前にシフトさせ、第1巡目よりも冒頭主題を早くさえして、コーダのあの最後の破壊的な解放のためにさらに押さえつけられたエネルギーを蓄えている。恐らく、これは、私にとって、この部分、それと、このCDの他のどの部分をとってもであるが、編集操作で早送り操作をしたりはしていないと、聖書の山に手を置いて誓わなくてはならない瞬間である。ゲキチは、ここを本当に早く演奏したのである。

 ゲキチの黒鍵のOp.10#5の演奏は、定番中の定番の中にさえ、いかに多くの新鮮さが潜んでいるかを示している。ここでゲキチは、リズムの自在さとタッチの信じられないほどの軽やかさとを結び合わせ、この作品のユーモラスな可能性を活かしている。「Op.105では、私たちは、ショパンの本当にごく数少ない作品を体験している。この曲では、右手のパートが黒鍵の上でより高い音域になればなるほど、曲がひらひらするにつれて、ますます人間の感情のより幸福で、より高い領域の中をこのひらめきが進む。本当に愉快で、ほとんど意図的に軽薄にしたようでもある。」

その後で E flat minor(変ホ短調) Op.10#6、ショパンの2番目のゆっくりとしたエチュードが現れる。この曲は、田園的で家庭的なE major(ホ長調)と完全な対照をなしており、厳しく、そして寂しい。「Op.10#6はその全く孤独で沈潜した雰囲気が個性的である。ワーグナーであれば、自分の時代よりもずっと先行しているこの曲のいくつかの半音階的転調を誇りを持って使用しただろう。そして、美しい4声の対位法的テクスチュアは、もう一人の巨匠であるバッハへのショパンの敬意を示している。」しかし、ゲキチは通常のテンポを採用しない。賢明にも、彼はこの曲をショパンの示した速度(私たちが慣れ親しんでいるよりはかなり早い)で演奏している。それにもかかわらず、心が痛む余りに涙を浮かべることさえできない厳しい悲しみをこの曲に与えてのけるのである。

C major (ハ長調)Op. 10 #7のエチュードでは、ゲキチは優雅で魅力的な左手の音型に焦点を合わせる。和音と反復音の難しい組み合わせと共に右手は進みつつ、背景で、常にしかし仄かに、存在感を示している。結局、技術的な難しさはこの曲が書かれた目的ではない、違うだろうか?

ゲキチ=ショパンの機知に溢れ横溢するエネルギーのセンスは、F major(へ長調) Op.10#8で最も強く感じられる。両手は、2人の人がどちらが一番おもしろいかを競っているようである。左手の陽気な付点リズムがあなたの心を勝ち得たように思われたその時に、右手は、迫力一杯に競争の先頭に踊り出ては、妖精のようなユーモアで後ろ向きに後ろに下がり、人は笑わずにはいられない。この曲は、物語仕立ててであるが、ゲキチが自身をひけらかしている印象を受けることはない。ゲキチは、曲の性格をとてもはっきりと生きている。このことは、ショパンのゲキチのではなくエチュードに、始めから一貫している。

 「F minor(へ短調) Op.10#9では、曲の殆どの間、長い低音のペダルの上に、テノールの旋律を書いている(*)ショパンの意図に従って、私は、ソプラノの影になっているテノールの旋律に目立つ役割を与える。ソプラノとテノールの2人の登場人物は、上へ急ぎ、下へ落ちて、平行して、あるいは反対方向へ動く。しかし、悲しいことに、2人は決して出会わない。」私たちが編集を始めた時、冒頭主題が問題を提起した。いくつかの比較的に標準的な声部のバランスのテイクと、1つだけ、ソプラノ声部を背景にしたままで、左手の親指でテノール声部を出したテイクがあった。結局、私たちは、この暗めのテイクが物語性をより強くするので、このテイクを選択した。この曲は、底光りする色彩に塗られており、Op.10#6の速度を上げた異種でさえある。冒頭主題のゲキチの不明瞭な始め方は、一連の過程を経た後に、結末でショパンが到達するより深い真理への舞台を準備するものである。その結末に姿を現すのは、絶望的で情熱的な感情の激発とわびしく希望のないささやくようなつぶやきとの交錯である。

私が1980年代末にゲキチがOp.10#10を演奏するのを聴いた時、私の知る限りでは、彼はショパンの指定したアーティキュレーションを実際に全て行う、唯一のピアニストであった。それらのアーティキュレーションが聴きとれるには、アーティキュレートは、大げさに行われなくてはならない。ゲキチはこれを行う指を持ち、そしてまた、複リズムとレガートースタッカートの交錯する微妙でもつれた演奏がなされる必要があるということを知るだけの知性を持っていた。この複リズムとレガートースタッカートの交錯が、この曲を作っているものなのである。20年後に、ゲキチは、この対立する要素を考え抜くことで見いだせる音楽的な真実をここで聴かれるように深めていたのである。(ゲキチには児戯である)アーティキュレーションによって私たちに与えられた色彩的な演奏は、今ではおまけに愛情溢れる演奏なのである。ここには溢れる熱意とまた優しさ、楽しい甘やかさがある。最良の意味でピアニスムの奇跡であり、このCDの私のお気に入りの1つである。

ショパンは、「もう1つの」ハープエチュード、E flat major(変ホ長調) Op.10#11の中で、より一層甘くなる。それはまるで、ショパンが生涯でこれきりの優しさと親密さの中に私たちをでき得る限りたっぷりとに浸そうとしたかのようであり、その後、革命Op.10#12で、ショパンはそれを完全に一掃する。この「革命」では激怒ながら前に進む左手と、歌いながら終始広い範囲を動く右手との間での緊張を緩めさせることなく、ゲキチは、英雄的で、悲劇的になる。もしこの音楽の中で起こる全てのことを、あなたが素直に心を開いて感じ、そして、それから本当に管弦楽化し、本当にフレーズを息づかせ、フレーズを形作ることようにすれば、この演奏のような解釈は自然に生まれて成長するものだと、ゲキチは言うだろう。「Op.10#12だけで、作曲家の名前を不滅のものとするのには十分だ。絶望的で、嵐のような、前に進む左手の音型の上に、右手のオクターヴと和音が叫びを上げ、啜り泣く。これは、最良の音楽的な表現についての研究である。面白いことには、ショパンは、最高に劇的で霊感に満ちている時でさえ、自分の思考と技量の主人である。最初の3つの左右の音型は、右手の主題の反映である。」

Trois Nouvelles Etudes

3つの新しいエチュードは、必ずしも超絶技巧的ではないが、あらゆる真剣なピアニストにとって真の諸問題を提示する。3拍で2つの音符を、または、2拍で3つの音符を演奏することは、難しいことではないが、しかし、この制約から逃れて自由なフレーズを作るとなると、別問題である!しかも、このそれぞれのフレーズは個性と強い感情的なトーンを持ち、それが表現されることを求めるのである。この曲には取り組むべき多くの音楽的問題があり、ゲキチの演奏は、それを反映している。音楽的諸要素の質とコントロールとについての基本的な問題は、常に姿を見せており、これらの問題が本気で取り組まれれば、「単純な」曲も見事に演奏され得ることを、この演奏は示している。

「最初のF major(ヘ長調)は、ワーグナーが無限旋律について述べるよりもはるか以前に、無限旋律という着想について考究している。第2のA-flat major(変イ長調)では、和音がどこで終わり、旋律がどこで始まるかを言うことは難しい。アルカディアの至福の雰囲気の中で、ショパンは1つ以上のバロックの理想、つまり旋律が和声的な動きから生み出されると共に、和声的な動きの中に納まっているだけではなく、和声がそれ自身で旋律の動きから結実すること、を実現することに成功している。第3のD-flat major(変ニ長調)は和声的な伴奏、分離している中声、レガートの上声を持つOp.10#2の全音階的な改作だ。華麗なエチュードからは、雰囲気の点で大きく離れているにもかかわらず、この曲は、それでも、特にあなたが、私がやるように親指で独立している中声の全ての音符を弾く時には、この曲は技術的には扱いにくい。この弾き方によって、この曲はより難しくなるが、しかし、音の点では面白い効果をもたらし、陽気で魅力的に気まぐれな個性をより完全に発揮する。」

12 Etudes, Opus 25

この曲集の編集をしている時に、ゲキチは、作曲家としてのショパンの天才性への畏敬の念を繰り返して表現した。「これらのうちの1曲だけでも、他の作曲家よりも頭抜けた位置にショパンを置いたことだろう。」としみじみと言ったものだった。 作品25のセットは、より変化に富んで、広範囲で、作品10よりさらに実験的だ。ショパンは、より厳しい、そして、時々より複雑な作曲上の課題を自分に課しているが、それでもなお、1曲のエチュードを通じて自分に1つの音型しか許さない。しかし、音符を変えることなく、パッセージの音や意味を変えることができる手法、つまり、内声の声部配置で満たされている画期的な、例外的な、そしてかなり風変わりな反復音型(#3)や、隠れた前打音やアーティキュレーション上の変化を持った(#5)を携えている。その上、あなたが信じることができるなら、ずっと大きい多様性があるのである。3つのエチュード(nos.3,4,5)は変奏曲の手法を用いており、2つ(nos.511)は新しい主題素材を用いて拡張されたトリオ形式を持っている。ショパンの作曲過程では、ここでは、自分に厳密な制限を課し、そして、その制約を、自分の創造性を刺激して、本当により多くの創意につなげ、それで制限を乗り越えて次の名作につながるように用いるのである。

ゲキチの解釈は、この曲集の独創的で普通ではない面を浮き彫りにしている。ゲキチは書く、「エオリアン・ハープ,Op.25#1は、簡潔な構造の中で、機能和声のそれぞれの層が、独立して、表出力のある旋律線を描くための潜在性を持っているということを示している。分散和音の明らかな簡潔さが、どの瞬間でも7または8を下らない水平方向への線が発展していることを隠している。この曲の表出力のある、陰影に富んだ可能性は、尽きることがないようだ。」

いつものように、名作は、名作を創作する原動力となった感情に満たされており、ゲキチはOp.25#1を例外的に緩やかなテンポで演奏し、表現の詩的で、心に滲みる親密さに向かって、この作品の潜在的な可能性を解き放っている。 minor(へ短調) Op.25#2の刺すような身に滲みる個性は、曲の絶え間なく、急かすような半音階的なターン音型に表されており、不気味な半旋法の最後のカデンツァに至ってやっと和らぐのである。ゲキチのタッチは、とても繊細で軽いので、私たちは技巧上の難しさには全く気がつかず、代わりにこの複合リズムの小さい名作の奇妙で、殆ど、説明できない雰囲気に心を奪われるのである。

 「E minor (ホ短調)Op.25#5で、ショパンは、素朴な着想にいくつかの異なった外見をまとわせる。開始部では、和音か装飾音か全く決めることができない音型の中に隠れているより短い音価で書かれているので、主題はかくれんぼをしている。その後、主題は自身の装飾音符から段々と目立って次第に独立するようになる。マズルカのようなリズムの中で、曲は、特徴的なスラヴ風の魅力を持つ。スラヴ人は短調で喜び、長調で悲しむので。

Double Thirds(「3度のエチュード」)Op.25#6A minor(イ短調)#11よりも、「木枯らし」という名で呼ばれていてもよいかもしれない。その気味悪い調和としばしば表現力豊かな対位旋律は、吹きさらしの雪だまりを抜ける夜のそり乗りを思わせる。再び、ゲキチの読譜は私たちの注意を右手についてのそれと分かる難しさからそらし、代わりに、根底にある主題の思わせぶりな荒涼とした呻きで、私たちの想像力を捉える。

 The C sharp minor(嬰ハ短調), Op. 25 #7は、ゆっくりとした哀歌のような、ショパンの最も詩的な音楽的発露の1つである。中間の大袈裟な部分の装飾的な走りすぎるパッセージは、それほど、取り組むべき技術的な難しさではなく、むしろ、難しいのは、よく歌う、表現豊かな旋律的な線を、四角四面にしてしまわず、しなやかで語るように保つことや、繰り返される和音が繰り返されて鳴るしつこい傾向を避けて、その代わりに流れて、いつの間にか相互に溶け合うように鳴るようにすることなのだ。

2つの比較的軽い、陽気な曲が続く。最初は、Double Sixths(「6度のエチュード」) Op.25#8で、幸せで暢気な優しい感情を反映している。このエチュードは技術的には難しいものの、作曲としては、最も単純なものの1つである。片方の手が、扱いにくいレガートの6度(Double Sixths)の音型(訳注「連続した6度」のこと)に対して、合いの手を入れる代わりに、基本的には伴奏にとどまり続ける数少ない曲の1つである。よく知られている「蝶々」Op.25#9は、もう1つの「単純な」、左手の単純な伴奏と右手のアーティキュレートされた愉悦に満ちた軽やかさをもつ曲である。しかし、この2曲は、作品25の記念碑的な最後の3曲の前の一休み、短い一時的中断である。ショパンのエチュードは我々に、魅力的なミニチュアから、詩的な深さと情熱的で男性的で強烈な猛スピードの爆発への親しみまでのありとあらゆる、表現力に満ちた世界を覗く万華鏡を提供する。それでも、少なくとも叙事詩雄大さに関しては、ショパンは最後のために最高のものを取っておく。作品25の最後の3曲のエチュードの各々は、巨大で、それ自体完結した楽曲であり、ゲキチの演奏はショパンの自身の魂?かくも遙か長い年月の昔にショパンを天才のかくなる行為に最初に突き動かした神秘的な活気に満ちた、創造的な力?よりも遙かにもっと根源的な何かを表現するというより高いゴールに行き着くように思われる。

Octave(「オクターヴのエチュード」) Op.25#10は、自然の脅威であり、典型的なショパン的なレガートのオクターヴで表現されたハリケーンである。このオクターヴが指の技術で演奏され、主として手首から演奏されることを確かなものとするために、ショパンは、テクスチャーに、オクターヴの嵐の最中の追加的なトランペットとトロンボーンの動機を与えた。このように演奏されるオクターヴと肘から演奏される典型的なスタッカートのオクターヴとの間には、音色の点で、僅かであるが重要な違いがある。この曲の同音異音の荒々しさは、3つの決然とした和音がある最後で、大きく裂けた顎のような門が閉じる地獄からまっすぐに来ているようである。

「木枯らし」Op.25#11は、前後の2曲と、最も壮大なショパンのエチュードの表題を競う。神秘的な導入部に続いて(ショパンの改訂版、ショパンの最初の版は、荒々しいパッセージ・ワークでいきなり始まっている)、長い、冒険の旅が始まる。特に展開部において、この曲は非常に劇的で、そのデザインで壮大で、調和して豊かである。右手がジグザグのパターンで滝になり、最高声部から低音域まで落ち、そして、それから曲がりくねった線で再び最高声部まで上る一方で、左手では、ここで導入部の運命的なテーマが喧噪を奏で、悲劇の、戦争のようなトランペットの呼び声を鳴らす。構造上の重要な箇所で、両手の関係は変化する。展開部の始めに、トランペットの呼び声は最高音部へ移り、そして、反復の前に、2本のジグザクのパッセージは反対の動きで互いに対立する。まるでショパンがこの音詩の悲劇の景色を絶滅させようとするかのように、鍵盤全体を横断しているスケールが続く極めて強い和音の中で書かれている主要なテーマの中に蓄えられたエネルギーを、壮大なコーダが解放する。

C minor(ハ短調) Op.25#12は、上行しては下降するいくつものパッセージが、海原の大波と表面的に似ているという理由で、しばしば「大洋」と呼ばれる。(幸いにもショパンは、この表題については知らなかった)このような理解を受け入れることは、このユニークな曲のもっと多くの素晴らしい特徴を過小評価することだ。『悲劇の』調性であるC minor(ハ短調)書かれていることによって、曲はもっとずっと深い意味、人間の悲劇、ヒロイズムと死後の栄光についての意味を持つ。パガニーニのような圧倒的な16分音符の一群は、もっとより多くのもの、つまり心に訴える、非常に人間的なコラールや最高音部と騒々しいベースラインの鐘のような応答を含んでいる。パッセージ・ワークには、『反響する』、つまり、ピアノの鍵盤の上で旋律の音符の木霊を響かせること、空間的な幻想を喚起すること、テクスチャーにエネルギーを与えることという複数の機能があるのである。この曲は、悲劇的な感覚の進化の物語であり、本当に高まって、ついに最終的に神の高みに到達するのである。」

数年前に、ゲキチは、いまだかつてなされたことがない素晴らしさで、ピアノを演奏することを自分の目標とした。実に大胆な挑戦であるが、しかし、傲慢な挑戦ではない。競争心ではなく、可能なあらゆることを純粋に極めたいという心で行えば、この挑戦は、献身の究極的な形になるのである。私は、この編集を終えて、私たちが無謀にも夢見ていたよりも、もっと良い音が鳴った時、大勝利の瞬間に勝ち誇ったゲキチを見ることができた。また、目標が実現できないと思われていた時に、ゲキチが打ちひしがれているのも見てきた。これらの演奏は、一人の男の自分の芸術への謙遜と献身とを映し出している。これらの演奏は、一人の男の全ての芸術的な可能性が、強烈な創造性という触媒変換器の中で溶け合った結果である。それがゆえに、これらの演奏は、人の心に何かを吹き込むのである。これらのエチュードは、たった2日間で録音され、その間にゲキチは250のテイクを行った。人間業とは思われないが、しかし、その挑戦を成し遂げるということ、望むことが妥当であること以上に、多くのことを熱意をもって自分に望むことこそが、このCDの演奏に聴かれる、技術と知性と感情の融合に導いたのである。この演奏は、しばしば、私たちがいままで知っているピアノ演奏の宇宙の限界を超絶しているようである。

Alan Fraser, November 2011

著者のアラン・フレイザー氏は、音楽教授であり、エチュードの編集を担当されました。

完成された訳文の誤謬についての責任者:梶山弘

この録音については、jasminium氏のBlogMay each day 201115日の記事「個性派ピアニスト、ケマル・ゲキチ」(http://jasminium.blog45.fc2.com/blog-entry-358.html)にご参考になる記事がございます。この記事の中の写真でマエストロが着用しておられるのは日本のファンの方がご作成になった「劇緻(漢字の下に音符でgekicが表現されています)」Tシャツです。マエストロはこのTシャツがお気に召したご様子で、着用してインタビューに応じておられます。