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体外離脱を続ける意味とは?

『何のために体外離脱をするか?』

はじめは、こんなことはあまり深く考える必要もないだろう。

「興味本位でやってみたいから」

・・・まずはそれで十分だ。

「神秘体験っぽくてなんか面白そう」

「○○ちゃんに体脱して会いにいきたい」

・・・案外こんな些細な動機が多かったりするのだろうか(笑)

しかし、こんな「些細な動機」だけで体外離脱をしていても、いずれ・・・

『なんで体外離脱を”続ける”の?』

という疑問と葛藤しなければならなくなる。

「体外離脱を続ける」ということになると「興味本位で」という動機付けだけではちと辛くなってくる。

何かを続けるなら「それ相応の動機付け」が必要だ。それはもちろん体外離脱でも同じ事なのだ。

「体外離脱を続けているとこんなすばらしい世界が待っているぞ!皆も是非おいで!」

なんてことを私は声を大にしては言わない。

それは

「私は、体外離脱でそんなす ばらしい世界は経験していないから」

興味深い体験をした、と主張する人は多い。たまには俺も「ちょっとすごいんじゃないの?」なんて体験はすることもある。ただこれに関し てもあくまで「主観的かつ個人的」な体験であり、本人の思いようで「俺ってやっぱすごかたったりする?」なんて自我肥大に陥ってるパターンがほとんどのよ うだ・・・残念ながら。


「そもそもおまえは何のために体外離脱を続けているの か?」

しばらくはこの問いに対する答えは見つからなかった。・・・あえてそんなことを考えもしていなかった。

「できるから続けててきた」

案外これだけだったのかもしれない。・・・自分が出来るから、得意としているからそれに価値を見い出したい・・・全くこれを否定しな い・・むしろ「それで十分じゃん」と積極的にこのことを受け入れ開き直っていたのかもしれない。これも体外離脱という曖昧な世界継続ために必要なモチベー ションかもしれない。

「結局現実逃避でしょう?」と遠くから揶揄するヤツはどこにでもいる。残念ながらこれに一理を認めざるを得ない。 それは体外離脱で 「現実逃避」に走りたがる人が多いのを見れば明かだから。しかし現実には上述したように体外離脱を続けることは決して楽ではない。現実世界をすぐ放り投げ てしまうような人は結局体外離脱も途中で放り投げてしまうので、現実逃避すらできないという悲劇が待っていたりする(笑)

*********

「体外離脱を続けて、何の意味が有るんだよ?」

押さえても、押さえてもこう叫ぶ心の中が聞こえてくる・・・・

・・・かつて「私」は現実ではない「もう一つの世界」に離脱した。そこは夢の中なのかもしれなかった。しかし確かに私が立っていたその 場所、そこは・・・

”少なくとも”現実の世界ではなかった。

私はその時現実ではない世界を確かに体験していた。「ただの夢だろ?」とネガティブに一蹴してしまえばそれまでだ。でもよくよく考えて みてほしい。この場面で「何が驚きか?」ということを。「魂が抜けたかも?」「霊界にきちゃったかも?」・・・そんなことは言ってないし興味もない。ここ では「現実ではないもう一つ世界」を確かにリアルに体験しているということに驚いてみてはどうであろうか?体外離脱者はそのただ頭の中で起こってるだけの 「夢」を「もう一つの世界」と感じることができているということに注目して欲しい。強いて言うならそれだけがある意味「特異な能力」といういことになるの かもしれない。

「夢」が「もう一つの世界」となる。

「もう一つの世界として感じることが出来る」と表現するのが正確か。ふつうの夢と違うのは「その場所が現実ではない」と気付けるか否か という違いだけだ。言うまでもないが、普通の夢しか見たことがない人は夢の世界を現実と錯覚している。故にそこが「現実以外の世界である」ということは理 解していない。覚醒してから「回想する」という形でしかその世界を認識することはできない。その人にとってリアルに現実以外の 世界を実感する機会はないということになる。

「ああ夢の中で夢と気付く・・・明晰夢ね?」

・・・とりあえずそうなんだが・・・あえてここでは「違う」と言ってみる。というのは体外離脱者は「そこは夢の世界である」という認識 を必ずしもしない。我々は「現実の世界ではない」と気付いているだけで「これは夢である」という認識はない。別にこれは体外離脱は夢ではないということ 言っているのではない。夢でも別にいいんだけど(いや、俺も「この場=覚醒中」では夢だと思っているけど)「体験中の感触として」はそういうことなのだ。

*****

「好き勝手なことができる自分だけの世界!最高!」

これもいいかもしれない。ただ冒頭で書いたようにそれだけではこの世界を続けることは年々しんどくなってくる。

その現実ではない世界はいったいどういった世界なのだろ う?

どれだけの広がりを持っているのだろう?いったいどういったルールが存在するのだろう?好奇心でこういった世界を探究するのも面白いか もしれない。

ロバート・A・モンローというこの「もう一つの世界」を果敢に探究した先駆者がいた。私は彼の影響で、彼の体験を追体験したくてこの世 界に強力なモチベーションを感じた。簡単に死後の世界を持ち出してしまった彼のスタンスを踏襲するつもりはないが、「現実ではないもう一つの世界を探究す る」というテーマはなかなか魅力的だ。

よし!それでいくか!・・・と続けてみた。しかし問題があった。「思うような進歩がない」のである。体験の内容がはじめから全く代わり 映えしない。

「何がいけないのだ?」

・・・さんざん悩んだ結論・・・

「体外離脱ではこの世界を垣 間みれても探究できない」

ということ。

「なんだよ!いまさら!」

と怒られてしまいそうだが、今の俺の正直な感想だから仕方がない。理由は簡単だ。なんだかんだいっても体験中の意識状態は覚醒時のそれ とはまるで違うのだ。つまり我々が慣れ親しんだ表現を使うなら「明晰さが足りな過ぎる」ということ。全く「探求」なんかできたものではない。もしかすると それは私個人のスキルの低さからということもあり得る。だとしても私はこの手法をいくら続けても今後大した進歩は期待できないという結論に至った。

「いつかは大きな進歩がやって来て・・・」

なんて夢想するのは空しさがつのるだけだ。

「じゃあ!どうすんだよ!」

「もう一つの世界」を「夢の中」という条件で探究するとすれば寝るしかない。「夢の中で覚醒できる、覚醒したまま夢に突入できる」とい うのが体外離脱経験者のアドバンテージだった。そこに可能性があったことは間違いない。しかし経験者の皆はどうだろう?どんなに夢の中で覚醒しようが、覚 醒したまま夢に突入しようが覚醒時、起きている時と同じような意識の明瞭さ、頭のクリヤーさ(明晰さ)を持続できただろうか?

「いやいや!俺は覚醒と同じ明晰さを発揮できる!」

なんて強がる人もいるだろう・・・いやホントにそんな人もいるのかもしれない。でも普通に考えて同じな訳がない。そんなことは生理的に みても結論はでている。限界はあるのだ。「夢を探究する」としてしまうと「眠り」と直結してしまうから上述のことは避けられない。

・・・「もう一つの世界」を探る方法は寝て「夢を見る」しかないのだろうか?

そんな苦悩をしているときに見つけた、まさにドンピシャリの救世主・・・

アクディブ・イマジネーショ ン

ユング派の心理学で用いられる心理療法だ。簡単にいってしまえば覚醒中に頭に浮かぶイメージと対話するというものだ。

「なんだよ今度はただの妄想をしろってか?」

と言われれば・・・とりあえず「そう」と答えておこう・・・ただ、

イメージには「自律性がある」

とうことをよくよく知っておく必要がある。「自律性って???」・・・イメージは自分の意志とは無関係に勝手動くということだ。動かそ うと思わなくても勝手に動くのだ。そう夢が勝手に動くのと基本的には同じこと。ただ覚醒中(起きながら)明晰な意識を伴ってこの自律性のあるイメージを追 えるのがこのアクティブ・イマジネーションのポイント。常に「明晰な自分(=アクティブな態度と呼ぶらしい)」でイメージ(=もう一つの世界のメッセー ジ)と対話(折衝)ていくというのアクティブ・イマジネーションなのだ。

「もう一つの世界」・・・深層心理学ではそれを「無意識」という言葉でよぶ。深層心理学・・・いやユング心理学と限定してもいいだろ う・・・になじみのない人は多くの場合、大きな認識違いをしている。それは「無意識の世界」のポテンシャルをあまりに過小評価しているということだ。無意 識の世界とは実は神秘主義者が語る死後の世界を遥かに凌ぐ奥行きがある。

「これだあ!俺の求めていた ものはあ!」

と思えてしまう図書にであった。

「無意識に出会う」
「成長する心」
「元型的イメージとの対話」
老松克博 著 (トランスビュー社)

これはアクティブ・イマジネーションだけに焦点を絞った三部作である。しかも理論よりも実践を重視した 図書。・・・久々に興奮した。この興奮はモンローの三部作以来だ。・・・決して大げさではない。

この本を読みながら常にモンローの三部作を思い出した。あまりにも共通点が多すぎるのだ。この本を読み終えて確信した。

モンローのあの強烈な超越体験は実は体外離脱によっても たらされたのではなくアクディブ・イマジネーションによってもたらされたのではなかろうか?

ということ。そうすればかつてモンローに 対して抱いてた「疑問点」がほとんどがすっきりと解消してしまう。

なぜ、体験中あそこまで明瞭な意識状態を維持できたのか?」
「なぜ、あのような連続性のあるストーリーを継続して経験できたのか?」
「インスペックスとは何者なのか?」
「なんでモンローは体験を通じて心の成長ができたのか?」
「寝ている時には自然に離脱していると主張するなら、なぜ意識的に離脱してその世界を探究する必要があるのか?」
・・・・etc

モンローが語る「向こうの世界」とユングが語る無意識の世界を秤にかけてもユングの無意識の世界は全く負けていない・・・というよりむ しろ「おそらく同じ世界のことをいっているのだろう」としないと納得がいかないほどの共通点がある。

*****

変化は驚く程すぐに現れた。アクティブ・イマジネーションを初めてすぐに感じたこと。まずは

「アクティブ・イマジネーションも体外離脱体験と大きな 違いはないな」

ということ。ただ上述しているように体外離脱体験よりはるかに明瞭な意識を発揮できる。常に明晰度は最高潮だ。

そして体外離脱体験の質が変化した。今までのようになんの脈絡もないハチャメチャ体験をしなくなった。常にアクティブ・イマジネーショ ンを軸にそれと関連する内容が展開するようになった。つまり体外離脱体験に「意味が出て来た」ということだ。

いままで随分遠回りをしてきた気がする。しかし

ようやく進むべき道が見えて 来た。

この先アクティブ・イマジネーションを軸に無意識の旅へ進んでいこうと思う。体外離脱はアクティブ・イマジネーションを補償するための 強力な武器になるだろう。

そう考えると主従という意味ではアクティブ・イマジネーションが主で体外離脱体験は従ということになる。しかしそもそも求めるものは体 外離脱という手法そのものではなく無意識の世界を探求することであり、その過程で起こる心の成長である。いまさら手法云々に頓着するのは意味のないこと だ。

今後の体験は今までとは全くちがった展開になりそうだ。いやすでになりつつある。それはここ数日の体験談をみても明らかである。

一つのターンングポイントが訪れた。ようやく体外離脱を続けてきた「意味」が見えてきた。きっと道は険しいだろう。でもようやく「探求 者」としての一歩を踏み出せることができた。

これは私にとっては記念すべきことといってよい。

<2004.11.27>