北勢町は、三重県の最北端に位置する町です。
東には養老山地、西には鈴鹿山脈があり、
岐阜県・滋賀県と接する緑豊かな町です。
| 町の花 アジサイ |
たくさんの小花が集まって、見事な「手まり型」になつアジサイ。「すべての住民が結集し、平和で豊かな町づくりを」とい願いが込められています。 |
| 町の木 ヤマザクラ |
4月初め、赤褐色の新葉とともに花を咲かせ、野山を彩る、なじみの深い木です。 |
| 町の鳥 ヤマドリ |
キジよりやや大きめのわが国固有の鳥で、「縁起が良い活力ある鳥」といわれます。 |
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北勢町の地名
| あげき(阿下喜) 阿下喜は上木ともいわれるが「阿下喜根元記」によれば、『この辺は檜の大樹が生い茂っていたので、それを御用木に上げたからとも、上木が出たからともいわれる。また鶯(うぐいす)を局より内裏へ差し上げたところ喜ばれ、年貢を三分の一に減らされたので、阿(あまね)く下に喜んだから阿下喜といったともいう。』とある。 |
| いぐら(飯倉) 飯倉(いぐら)は飯倉(いいくら)があったからだといえる。昔は米を蒸して食べたていた。飯(いい)はその蒸してたべること、またはその米をいう。飯(いい)をしまっておく倉が飯倉(いいくら)である。飯倉は昔、神宮へ米を差し上げるところに作られた。そのイイクラが短くなって、イグラになったと考えられる。また、斉倉(いみくら)がイグラになったともいわれる。 |
| せぎ(瀬木) 瀬木は、五鈴遺郷に、「水涯ニシテ堰ノ義ヲ名トセリ」とある。 |
八幡祭
| 毎年7月の第四土曜、日曜に行われる阿下喜の祭である。土曜日は、子ども御輿、日曜日は暴れ御輿といわれる大人御輿である。 白装束に身を固めた集団が、御輿を中心に御幣、榊、高張提灯、旗を前後にして、鉦・太鼓を打ちならしながら、大西神社から町の中を練り歩く。各要所に設けられた各町奉納の「やかた」をくぐるごに、祭は佳境へと向かい、祭の終わりを惜しむように御輿は行きつ戻りつを繰り返し、神社へと戻っていく。 |
八幡祭の歴史
| 幕末、西村の稲垣太仲が、八幡社は荒れはて神事がたえていることを嘆き、庄屋・組頭等を動かし祭礼を復興した。御旅所は御くじにより西村薬局堂と決め、木を十字に組み、御幣をたてて、嘉永2(1849)年6月15日は、村中総出の中をかつぎ歩いた。 人々は祭の復活を喜んだが、さらに立派な御輿をと、嘉永4年多度神社の御輿を借り、それに金紙・銀紙でいろいろな模様や紋所をきりぬいて飾り、祭の日には八幡溜で洗い浄めて、阿下喜初めての御輿の渡御をおこなった。初年は宮守がかつぎ、翌年からはくじ引きで、赤神、東町、北条、西村、町の順と決めた。 八幡社から急坂を西南に下り見性寺参道にで、城山道を通り西進して町に入りさらに西進薬師に入る道は、その頃家も少なく夜は暗かった。それで多度神社から借り貰いになった御輿は、明治の中頃までかつがれた。 明治の頃は八幡祭は宮守が主体であった。当番垣内の宮守が前年度の宮守から芥子菜の種子一斗をもらい、川岸の砂地にまき、実った実を刈って干し種子をとって、一斗を翌年の宮守に渡し、残りを売って、その金で御輿の費用一切をまかなったといわれる。 幕末よりかついだ御輿は明治も末になると破損はなはだしく、ついに新しく御輿を買うことになり、明治32年京都で購入した。御輿205円、御輿の横棒43銭、御輿購入旅費3回で33円21銭、荷造り用渋紙3円、さらし3反1円15銭だった。京都からかついできたとも大八車でひいてきたとも言われるが、御輿が到着した日には氏子は喜び村外まで出迎えたそうである。 新しい豪華絢爛目を御輿を誰が最初にかつぐか激論となり、結局その年は村内総員・赤神・当番垣内と3日にわたりかつぐ事となった。またこれまでの御輿は小さくかつぎ棒は縦2本であったが、新しい御輿は大きくかつぎ棒4本となったので旧道は狭く通れないので、道順を変更せざるをえず八幡社から急坂を下り、野畑道を下って、濃州街道に出、それを西進して町に入り、町を北上島田宅の前で左折、西村の薬師堂にいたるように変更された。 八幡祭の道順はその後明治40年八幡社が大西神社に合祀されたので、大西神社から西町を東進、町に入り、新角屋前を左折、御旅所へという現在の道順になった。 5垣内が順にかついでいた御輿は、本町の人が少なくなり昭和47年から赤神と本町合同でかつぐようになった。 |
まんぼ
| 天明の飢饉に続く百姓一揆の続発の中で幕藩体制のゆるみがみえ、地下道規制がゆるみ、秘法とされていた治田銀山の坑道掘りの技術がもれ、また一方土木技術の著しい発展がある中で、水不足に悩む農民は湧水に目をつけ、より多く地下水を集めようと、崖下のちょろちょろ流れる出水から奥へ奥へと掘っていった。 まんぼは、富農が資金を出しては掘らせ、自分の田に水を引いた。あまれば「水代」をとって他へもまわしていたところもある。また自作農が自らの田の水のために掘った小さいまんぼもある。まんぼには、多良平まんぼ、八重次まんぼ、太仲まんぼ等掘った人の名がつけられている。 多良平まんぼは、幅50センチ、高さ80センチほどの石垣で囲まれた出口がある。石垣は30メートルほど奥まで続き、腰をまげれば奥まで入っていける。水は夏は冷たく、冬は暖かく、天然の冷蔵庫である。 まんぼ掘りは、粘土層の上を出口から奥へ掘り進んだ。つるはしを使ったが、柄を短くして狭いまんぼの中でも使えるようにしてあった。掘った土はじょうれんでさらえ、竹で編んだ直径30センチのかごにひもをつけた「そり」に入れ、腰にくくりつけて、四つんばいになって引きずり出した。まんぼはカンテラをかざして水の出る方、出る方を見定めて掘り進むので自然に水平になった。奥深く進むにつれ20メートルおきに縦穴を作った。縦穴は体がどうにか通れるぐらいの大きさで、直径70センチぐらいで、井戸のように石組された。土の軟らかい崩れ易い所には石をつんだ。上へ行くほどひかえの長い石を崩れないようにした。縦穴は浅いところで2〜3メートル深いところは9メートルもあった。 まんぼさらえは、田植え前の4月頃に行われた。落ちた土を竹かごに入れ、さらえ口(縦穴)から引き上げたが、水が出てくるところは崩れやすく、まんぼさらえは命がけだった。しかしさらえないと水漏れして、止まってしまうので、1年に1回は必ずしなければならなかった。雨の多い年など、あちらこちら崩れていて何日もかかった年もあった。縦穴の周囲には、まんぼをさらえた土や石が今も小山のようになっている。 |
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使命重し わが北勢中学校 |
希望に満ちて いそしまん |
明日に備え 今日の日を |
ここ鳥坂の学と吾れ |
・北伊勢の地を 見下ろして |
光充てり わが北勢中学校 |
玉と磨かん 我が力 |
たゆまずここに 集い来て |
白亜の窓に 風澄めり |
・さっそう明くる 朝の空 |
誇高し わが北勢中学校 |
そのあけくれに 節度あり |
蛍雪三年 この庭の |
湧出る水に 淀みなし |
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米山 正夫 作曲 |
川瀬 一郎 作詞 |
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引用・参考文献
目で見る学区の歴史、阿下喜小学校PTA