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2004/9/3 こだわるところ? |
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毎夏、国立女性教育会館で開催される「女性学・ジェンダー研究フォーラム」(以下ジェンダーフォーラム)にて、『be…』は過去2度フリートークをWS参加で行いました。『be…』を始めた頃は、まだフェミニズムのことを何も知らずに、ただ雰囲気でこういうことをやりたい!という威勢だけでやっていました。けれど、感性だけとはいえ、第二派フェミニズム、ラディカル・フェミニズムの思想や行動の流れをかなりな程度、踏襲していたのでしょう。 ジェンダーフォーラムに過去参加してきた中で、セクシュアリティに関する WSが皆無ではないけれど、少ないなと感じていました。60年代、70年代とウーマン・リブが席巻したとき、「性の解放」は高らかに謳われたけれども、欧米のそれのように、「レズビア二ズム」やあるいはモノガミー(一夫一婦制)からの脱却といった広まりにはならなかったと認識しています。 ジェンダー間のパワーバランスは強制異性愛という装置を担保として成り立っているというのは自明のことだし、セクシュアル・オリエンテーションやアイデンティティもんだいだけではなく、自分の身体感覚もんだい、国家権力や父、夫、恋人に絡め取られずに自己の身体感覚を取り戻すといったことを考える際、セクシュアリティの広がり、深化の浅さは一時嘆いてみてもいいのではいかと思うのです。だからこそ、ジェンダーフォーラムでセクシュアリティをメインテーマに掲げたWSをやること、にとても意義を感じていたのでした。 しかし、『be…』に3度目はありませんでした。代わりに別グループでやっぱりせくすありてなWSを私個人はうちました。そして、今年、、、 今年もまたさらに別グループでWSを催しましたが、今回はどちらかというと、大枠ジェンダー・スタディーズでした。ジェンダー視点で物事を解していくとき、セクシュアリティもんだいが如何に人の深層心理や行動に影響を与えているのか、そんな分析を緻密にできたわけではないのが、私という人間の限界というか浅はかというか。かといって、参加された人たち全員が、「LGBTIA」(セクシュアル・マイノリティ)の人たちのことまで想像力が働くかといえばさもありなん。 「私は女性学に興味があって、え、セクシュアリティ?そういう問題があるのは知っているけど、でも私にはあんまり関係ないことだし、もう若くもないし、そこまで深く考えられていないし、、、」 わかっている人もなかにはいるし、言えばわかるというのもわかる。けれど、いまや「個々に見識がある」だけではたりないだろう。だから相変わらずセクシュアリティもんだいが二の次であったり下手したら不可視であったりするのだろうと思います。だから「セクシュアリティ」を全面に持ってくることにこだわっていたのだな私はということを思い出しました。 |
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2004/10/4 リテラシー |
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メディア・リテラシーなどというと、見る側、受け手側のリテラシーがもっぱらいわれていると思う。だけど、情報を発信する側、能動側のリテラシーも必要だろうといわれたことがあります。 たとえば、フリーランスの編集者という立場だった場合、何か企画もののページを任されたら、どんなオーディエンスに、どういうことばで伝えたらいいのか、そのためにはどんな情報を集めたらいいのか、誰にインタビューや執筆の依頼をすればいいのか、自分のバックグラウンドでまかなえそうになかったら、あの人に頼んでみればカバーしてくれるかもしれないといったことをいろいろ考える。ある“失敗談”として聞いた話で、 某雑誌で「父親の育児参加」という特集を組んだときに、誤った編集者が、かの林○義氏に取材に行ってしまったそうな。 ミニコミのように“内輪”だけしか読まないようなものだったら、よそでは言えないようなことも平気で書けたりする*1。立場上絶対主張できない、クローン人間是!ということだって、獲得形質は違うわけだし人格だって別物だしねと、気軽に思考実験できたりもする。なるほど、立場や振られた役割もそうだし、発信する場もさらに「発信側のリテラシー」には必要かもしれない。 ところで『be…』は基本的には内向きな活動団体です。「女性」の場合、社会的立場とか、全般的にみて置かれている状況というのは、自己肯定が中々できなかったり、低かったりしがちだと思います。自分を低く見積もってしまって、自己主張ができなかったり、周りに気を遣いすぎてしまったりしてストレスをためたり、etc,,,
『be…』は、そういったところからの自己尊厳の回復というとちょっと大仰な気もしますが、自分の感情に「気付く」とか、自己肯定していくということに繋がっていければいいなと思っています。やっぱり、周りに気をつかいすぎたり、人にどう見られるかとか他者評価を気にしがちな人(それは「女性」に限らずですね)が、あらたに自分の自己認識というか、場面場面で何をどう感じたのか、感じていたのか、それは自分の“真意”とどう、どのくらいずれていたのか、一度自分と向き合って考えられれば、というのが、どこにあるのかわからない
(けれどあると思っていたい)“私らしさ”にこだわった理由です。“私らしさ”と、それと他に“性”と“身体”にこだわったわけですが、こちらはまた別の機会に。 アウトプット(そんなに大げさでなく日常会話程度でも)する際に、自己肯定が低いと、相手の顔色を窺いがちになったり、合わせたり、周りに流されやすくって(結果それがストレスだったり)、言葉やTPOを選ぶといえば聞こえはいいけれど、実は自分がなかったり、思わぬ批判を頂戴したときに、足腰弱くて踏ん張り効かなかったりします。そんなことを考えると、「発信する側のリテラシー」とはこういうところにも係ってくるのかなと思いました。 *1 そもそもミニコミってそういうものだったのね |
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