どうして教職を目指してしまったのか・・・
〜○○と教育とワタシ〜

 ついに沈黙を破り執筆を開始した、たかが27年間の自分史、名づけて「○○と教育とワタシ」。○○に入るのは一体なんでしょう。書いている本人もわかりません。遺書にならなきゃいいけどな。
 さて、とりあえず、小さいときの夢はなんだったんですか、という質問から・・・。
1.鉄道と教育とワタシ
 小学校にあがるまで、家業のスナックが忙しかったため、ワタシは浦和のじいさんばあさんの下に預けられて育ちました。その家の前は京浜東北線とか東北線とかの線路があって、そこを通る電車や列車を見ているうち、「国鉄の鉄道員になりたい」という夢を、けっこう真剣に持ちました。というわけで、現在の敬虔な鉄っちゃんになる素地は整っていたわけです。この、「国鉄の鉄道員」というのに、なぜか異常なこだわりをみせ、国鉄が解体されてJRになったときに、小学1年生の分際で「会社員なんかやだ」とかぬかす、かわいくない子供になっていました。
 ですが、ワタシは幼稚園の段階で走る列車の行き先表示板に書いてある漢字は読み書きできていたので、国語的な興味や関心はこの段階からあったといえましょう。
 そして、またまたなぜかこの段階で「将来は絶対早稲田大学に入る」と言い切っていたというから空恐ろしい。なぜワタシがこの段階で早稲田大学という大学を知っていたのか定かではないが、けっこう真剣だったらしく、このエピソードを親より知っていたじいさんばあさんが、ワタシの大学が決まったとき一番喜んでくれたことはいうまでもありません。
 幼稚園のときの異名が「あなうんさー」。口が達者だったようで、幼稚園の人気者でよく女の子を口説いていました。このしんちゃんのような特技をいつ忘れてしまったのでしょう。生きていくうえで重要な何かをどこかへ置いてきてしまったような心境。ああ、もったいねえ。
 小学校。地元の普通の、特に荒れているとかいうこともない(今は・・・ねぇ)、都心に近い割りに児童数の多い(全校で13学級)小学校でした。そこで出会った友達は当然鉄っちゃんつながりが多く、「でんしゃのうんてんしゅさんになる」という共通の夢を語り合い、児童館の「鉄道ファン」のグラビア写真を見ながら列車の絵を描いたりしておりました(ああ、だから口説けなくなったんだな、きっと)。このときの友達で、小学校2年生のときに岡山に転校したKクンは、当時の夢を追いかけて、いま車掌をやっています。もう一人のともだちMクンは、中学の卒業アルバムに「声優になる」と熱いメッセージを残し、さて今どこで何をやっているやら。
2.音楽と教育とワタシ
 4年生のときに父の意向で強制的に合唱団へ入ることに。これはクラブ活動などの正課の活動ではなく、音楽の先生が独自に運営していたもの。このとき指導していただいた臼井先生が、ワタシの隠れた音楽的才能を引き出してくれたともいえる恩師であります。先輩をさしおいて4年生のうちからソロパートをやらせてもらったりしていました。5年生の時にはこれまた父の意向で強制的に正課のブラスバンドに入れられ、トロンボーンを担当。6年生のときはさすがにアタマにきて「音楽はやらない」といって囲碁将棋クラブなんかでのほほんと碁を指していたかったのに、合唱団の夏のコンクールに出させられて、団員でもないのにソプラノを任せられたりしたけれども、あいにく声変わりしてしまい、ソプラノを任されることは以後なくなってしまいました。これ、嫌がっていたくせにけっこうショックで、自分のソプラノを残しておこうとテープに録音しておいたのだが、どこかへ行ってしまった。
 中学。入ったのはこれまた地元の普通の、その割りに全校で16クラスもある中学。そう、ワタシたちが入った年までは普通の中学校だったのです。
 あれほど嫌がっていた音楽だが、他に行きたい部活動がなかったので自分の意思で吹奏楽部へ。小5でトロンボーンを担当したが今度はフレンチホルンを。理由は、小学校のブラスバンドにはアルトホルンしかなかったことと、あの右手をベルの中に突っ込んで支えるという変な姿勢が面白そうだったから。新1年生が希望する楽器はだいたいトランペットやサックスといった派手で目立つものに人気が集まるが、いきなりホルンを希望するような奇特な1年生は珍しく、ドラフト逆指名ですんなりホルンに確定。
 夏のコンクールは、1年生からレギュラー。そして、10月のマーチングジャンボリー。ここで運命の歯車がかたりと動いたのでございます。
 審査結果発表をおしゃべりしながら聞いていたら、突然ウチの中学の名前を呼ばれ、とりあえずなんだかわからないけど喜んでいたら、表彰を終えて戻ってきた先輩が「おい、俺たち全国大会に行くんだぞ!!」
 はい、ワタシたちは誰もこの大会が全国大会の支部予選であることを知りませんでした。
 全身疑問符状態のまま全国大会が行われる震災前の神戸へ。神戸ポートアイランドホールのやたら高い天井とカクテル光線を浴び、精一杯の演技を披露したが、同時に全国レベルの高度な演奏に衝撃を受けました。「ことしはなりゆきで決まった全国大会だった。来年は自力で全国大会へいこう」と団結したのでした。
 翌年の同じ大会、今度はちゃんと練習して全国大会へ。しかし、目標を「出場」に置いていたため、出ただけで満足してしまい、往復の新幹線の中や遠征先のホテルではしゃぎまくり、翌日の本番はほとんどの人が寝不足状態のまま、なんと演奏が途切れてしまうという大失態をしてしまいました。
 この教訓を生かして、部活動とは一体何なのか、大会に出るということは一体どういう意味を持つのか、真剣に考える機会を得、結局、吹奏楽部(部活動)とは音楽を学ぶところではなく、音楽を通して人間形成をする場なんだ、という結論を出し、「音楽による人間形成」を部のモットーとして、3回目の全国大会に出場することになったのでした。
 3度の全国大会出場は、ワタシの音楽の技術を向上させることよりも、全国の高いレベルの学校の部活動運営を生で見られるいい機会になり、どんな部活は演奏も高度になるのか、どんな部活は下手なのか知る機会になりました。それは礼儀や感謝の気持ちを表せるかどうかであり、人間形成のできているバンドは演奏も上手いのであって、そこをどう教育していくかが部活動を運営していく上で重要なんだなと、ワタシなりに結論付けられました。
 それと、中学の文化祭では合唱コンクールがあり、1年のときに指揮者をやらされて嫌がっている友だちから自由曲の指揮を代わってもらい、指揮者賞をいただきました。2年では最優秀指揮者賞を先輩を差し置いていただくことになり、生活指導の先生から「もし3年がねたんでお前に何か言ってきたら、すぐ俺に言えよ」と、厳戒態勢をしかれたなんてこともありました。で、ワタシはこの学校ではいつの間にか伝説の指揮者として後世名を残すことになり、いまだに過去の名演奏としてワタシたちの3年生のときの合唱が音楽の時間にビデオで流されたりするらしい(一部誇張)。ついでに言うと、性教育の教材ビデオで初心な男の子に対してそういうのを教える友人役の生徒がワタシに似ているということで、何年かは時期になると指差されて からかわれたりもしましたなあ。
 この、「指揮=ワタシ」という印象が、後々貴重な経験をさせてくれるようにワタシを導いてくれたのです。
 高校は「共学で、制服がブレザーで、学食があって、吹奏楽部が上手い」という優先順位をクリアした、池袋の高校へ進学。「全国大会出場の経験を生かしてがんばります」とかなんとか熱いメッセージを入学直前に定期演奏会のアンケートに書き込んでおいたため、吹奏楽部の勧誘につかまったときに名を名乗ったら「お待ちしておりました」と丁重に迎え入れられた。
 でもまあ、充実しすぎていた中学の部活を引きずりながらの高校の部活は、物足りなさ過ぎたのが本音であります。
 ところが、1年時の定期演奏会で音楽物語「美女と野獣」の編曲と脚本を(先輩の下請けで)担当したのが、これが思った以上の大好評で、「いや〜、お前、自信を持っていいぞ。お客さんに『思わず涙がこぼれました』って言われたよ」と指揮者の先生にベタ褒めされ、以来この学校の定期演奏会では毎年自前の音楽物語をやってるんですって。
3.競馬と教育とワタシ
 おっと、 いきなり異色なキーワード。競馬ですってよ。
 96年6月、第63回東京優駿。競馬好きのクラスメイトに「Lフサイチコンコルド、なんか調教とかいいらしいぜ」とか言われ、父の影響でちょっと競馬に興味のあったワタシは、Lの複勝を1000円、父に買ってもらって、発走を待ちました。たぶんクラスメイトとしては、こんな2回しか走っていないような馬が勝てるわけない、と、からかい半分に薦めたのだろうが、周知のとおり、過去のダービーのデータを一気に帳消しにする結果となりまして、6000円あまりの配当を得たのでした。
 競馬って面白い! こうしてずるずると競馬道へ引きずり込まれていったのでした。
 興味のあることにはホントに努力を惜しまないワタシは、競馬についていろいろ勉強しました。それこそ、サラブレッドの歴史や競馬の歴史、日本の近代競馬の歴史、競馬の組織や運営、馬券の仕組み、厩舎や牧場の運営、血統、そして、競馬の周りの仕事。特に競馬新聞と実況アナウンサーは、一時期本気でなりたい職業でした。
 競馬新聞は、今は地方競馬専門になっていしまった「ケイシュウニュース」を愛読。ケイシュウってプロの境地にいるような人が選ぶ新聞らしい(友人談)のだが、塩崎利雄の「行きのエビス、帰りの閻魔」が面白く、週刊誌感覚で読んでいました。土曜日は学校近くの酒屋で制服のまま競馬新聞を買い求め、部室で競馬新聞を広げ競馬中継を聴いていたのだから、勇気があるというかなんというか。
 3年の秋は、ついに自分で新聞を作って友人たちと競馬談義。競馬友だちのGT予想を金曜日にアンケートに書いてもらって、その日の夜にその予想をまとめてB4一枚に馬柱とともに書き込み、土曜日にみんなに配る。けっこう的中率が高く、天皇賞のエアグルーヴやエリザベス女王杯のエリモシックを本命で当てるなど、プロ顔負けの出来でした。そんなことばっかりやっているから浪人したんだけど。
 ラジオたんぱの「レースアナウンサー養成講座」の話を聞き、ラジオたんぱから資料を取り寄せ、大学に入ったらダブルスクールで通おう、と思ったが、なかなか半年で30万の学費は難しく、結局思っただけで終わってしまいましたが、ラジオの入らないスキー場にいる父から「お前、テレビ見てるなら電話で実況してくれ」と頼まれて実況したり、一人でいるときはテレビを見ながら熱く実況してみたりして、こういう日々もまた、大声で割舌よくしゃべる練習になってたりもするので、人間万事塞翁が馬ですな(ちがう?)。
4.予備校と教育とワタシ
 競馬と部活しかやっていなかった高校時代。せっかく大学付属なのについている大学へは行かず、しかも相対的に成績はよかったくせに指定校推薦の指定校にぜんぜん魅力を感じずにいたうえ、相当のお金をかけていた塾へもろくに行かず、竹槍でB29を落とさんばかりの意気込みで3校を受験し、大方の予想通りきれいさっぱり落ちた。受験を控えた1月の面談でも、「全部落ちたらYゼミナール」と、行く予備校まで予告していただけあり、希望通りに代々木駅前にある大手予備校のYゼミに進学。
 「俺から競馬を取ったら贅肉しか残らない」を合言葉に1学期のうちは、毎週土曜日は東京競馬場へ行き、「牝馬を見る目だけは確かだ」と自信を持てるようになった。でも、これが後々考えるといい生活サイクルになっていたとも言え、月〜金までは予備校でしっかり勉強。ちゃんと予習・復習をし、講義は(ゼミナールのくせにゼミなんかなくてみんな講義)ちゃんと聞いていたし、模擬試験も皆勤したので、それなりに勉強する習慣がついてきて、逆に土曜日は完全にガス抜きして一切勉強しないということがいい気分転換になったといえましょう。
 予備校がなぜ楽しかったのか。学期末に単位が来るかどうかハラハラしなくてよかったし、学食は安くて美味かったし、それにやっぱりテキストと講師の授業の充実さだと思う。古典は例の暴走族上がりの先生、英語はアンパンマンのテーマを歌う(まだ歌っているのかな?)先生、現代文は今となっては同じ大学・学部の先輩、地理はさりげなく面白いことを言うので何度もツボにはまった先生。これらの先生の講義での話し方とかが、後の教壇実習で大いに役に立ったと思います。どうしたら話を聞いてもらえるのか。聞き取りやすい授業でなく、聞いてもらえる授業を目指すことが結果的に面白い授業につながるんだと、そう思ったのでした。
 現役時には考えられなかったような大学にバシバシ受かり、終わってみれば「8戦6勝2着1回」という戦績(競馬風に)で、そのとき受かった中で一番偏差値の高かった今の大学へ進学することに。2敗のうちひとつは一文なのだが、もうひとつは模擬試験でA評価だったところ。ここを受験し終わったとき、雰囲気とかで「ああ、この大学は役不足だ」と思って、他に行くところがなくてもここだけは行きたくないと思ったのだけれども、大学のほうから「お前は来なくていい」といわれた格好で、出願のときに書いた第二希望の学科のほうに合格ということだったため、「2着1回」なのであります。
 面白いけど来年は居たくない学校。それが予備校。一応専修学校扱いなので卒業証書があったのだが、うっかりもらい忘れた。つくづく惜しいことをした。
5.競艇と教育とワタシ
 憧れの大学生活。サークルはオケに入れてもらい、それなりに楽しかったのだが、いかんせん1年のうちは玉拾いみたいで、どんなに実力があっても練習は先輩の片手間程度にしかさせてもらえず、自分の中でモチベーションが凄い勢いで落ちていき、高い団費などの要因も手伝って冬を前に休団してしまう。
 こんなところでちゃちゃを入れるのはアンフェアだと思うのだが、ワタシがいた当時からそのオケはレベルの低下が問題になっていて、そんなもの旧態依然とした運営方法がいけないに決まってるじゃん、とかなんとかワタシなりに問題点を見出していたものの、ごく一部の人間が閉鎖的な運営をしているこの組織のかたちに、とりあえずは合法的に入っていかなければ運営を変えることが出来ないと思ったのだが、吹奏楽上がりのワタシにはどうしても超えられない相手がいて、ここにいては一番になれない、つまり運営に参加させてもらえなくなるらしい、と悟ったときに、退団を決意することになったのでした。おお、今明かされる真相。
 いまサークルの代表をやっているのが、そのワタシが超えられなかった彼なのだが、この場を借りて言いたい。2・3年つぶす覚悟で新入生を大事に育てていかないといい人材が流出していく。音楽やってるやつらなんてみんなプライドが高いんだから、本練のなかで比較的レベルの低い課題は不断の努力で解決し、限られた練習時間のうちなるべくたくさんの時間を新入生のために割くことが、確実なレベルアップへの道だと思っている。みんなそう思っているのにできないのというのは、やらないからじゃないか、と思うよ。
 話がそれたが、大学に入ってもまだ競馬をやっていたワタシだが、父の出していた店の隣で板長をしていた人がワタシに競艇を教えてくださった。嫌いじゃなかったので大学2年のゴールデンウィークに、平和島競艇場で競艇デビューを果たす。
 競馬しかやらなかったときは、他の公営競技はインチキくさくて食指が動かなかったが、競艇って勝負の決まり方が競馬とまるっきり逆で、用意ドンでスタートして最初に回った段階で勝負が決まるというさっぱりしたところが魅力的で、逆に「競馬って馬が走ってるんだぜ。畜生の気持ちを類推して金をかけるなんて、なんて質の悪い博打なんだろう」とかなんとか思い始め、2000年秋の中山大障害で本命2頭が最初のなんでもない障害で落馬してから競馬は一切やらなくなってしまった。
 断っておくけれども、ひとつのスポーツとして競馬はすごく面白いと思う。血統とか馬にまつわるドラマ性は競艇などでは太刀打ちできない面白さがあると思うから、買わずに見ている分にはとても面白い。だから今でもたまーに買うことがあるが、本気で付き合うにはやってられないよ、というのが本音である。競艇に慣れてしまうと競輪の9車でも多いと感じてしまう。16頭の馬の1着から3着まで順番どおりに当てるなどという行為は神の領域だと思う。競馬は馬連複までだ。
 ここまで読んで大方の人は、「競馬ならまだしも競艇や競輪なんて・・・」と思った人が多いと思います。ワタシはその「競馬ならまだしも」というところがどうしても納得がいかない。みんな同じギャンブルじゃないですか。あるいは「宝くじならば」という人がいたら、宝くじは控除率が50%もあって、あんなに当たりにくいくせに当選金額が安いのなんか競輪より質が悪いと思うのに、世論は本質を見ていない。つまりイメージ、あるいはメタファという部分で、競艇・競輪は競馬より分が悪い。同じなのに。
 社会的認知度が低いとはいえ、競艇や競輪の世界で働いている人に、面と向かってそんなこといえないでしょ。結局、何を基準にモノを言っているのか、出来れば平等な見方ができ、よく知らないくせに周りがそう言うからで反対反対しか言わないような人が増えて欲しくない、というのも、ひとつワタシが教育を通して伝えたいことであります。
 競艇を通して知り合った人も多いですし、そういう人々の生活を圧迫している可能性があるということを、あるいはノミ屋などの違法行為を助長している可能性があることをわかって反対運動を起こしているのか大いに疑問であり、それらをじっくり総合的に検討したうえで、理性的に自分たちの意見を表明できる人間の育成が課題だと、それが、競艇を通して感じたこと。
 とくに、競艇は水の上での男女の区別がなく、今まで女子だった人が明日から男子で走りますと言って、認められる世界です。
 もっとも、競艇の教材化は難しく、どこまで扱っていいものか悩むところで(偏見があるから)ありますが、生涯のうちに一人は自分の教え子から競艇選手を出したいなあ、なんて野望もあったりします。
  

 

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