メッセージ

2020年9月13日

目を覚ましていなさい。その日、その時をあなたがたは知らないのですから。
          マタイの福音書25章13節

 今日は再臨の話をします。再臨はイエスさまが再びこの地上に来られる時のことです。イエスさまを信じて待ち続けていた人たちは天の御国に迎え入れられます。
1.十人の娘のたとえ
 当時の婚礼は花婿が友達を連れて花嫁と花嫁の友達を迎えに行きました。一般的な到着時間は夕方ごろでしたが遅くなる場合もあったそうです。夜遅くなってもいいようにランプを用意しておく必要がありましたが、今回のたとえ話はそのランプの替えの油を用意していたか、していなかったかです。5人の娘は予備の油を用意しておらず、油を切らしてしまいました。慌てて買いに行きましたが間に合わず、婚礼の祝宴にに参加できませんでした。
2.備えること
 このたとえ話の花婿はイエスさまで、花嫁は教会・クリスチャンのことを表します。イエスさまの再臨はいつか分かりません。しかし聖霊によって目を覚まし、いつでもイエスさまを迎え入れることができる準備をしておくようにと言われたのです。イエスさまを信じている人は御言葉に忠実に従って生きる歩みが大切です。まだ信じていない人はイエスさまを救い主と信じて受け入れることが大切です。主の願いは誰も滅びることなく、すべての人が悔い改めに進むことです。

2020年9月6日

女の方、あなたの信仰は立派です。あなたが願うとおりになるように。
          マタイの福音書15章28節

 イエスさまと女性のやり取りの中から信仰というものを見ていきます。
1.苦しみの中でもあきらめない
 イエスさまのもとに一人の母親が来ました。娘を癒やしてもらうためです。しかしイエスさまは彼女の訴えを聞かれませんでした。この女性はカナン人であり、ユダヤ人とは違う神さまを信じている地域に住んでいました。ユダヤ人は宗教的汚れから異邦人と関わることを嫌っていましたが彼女はイエスさまのことを調べ、この方こそ世に与えられるべき救い主であると信じてイエスさまのもとに来ました。家族を救うために、苦しみの中でもあきらめずに求め続けた結果、彼女はイエスさまにたどり着きました。
2.イエスさまだからあきらめない
 イエスさまは沈黙されていましたが、この女性の信仰を引き出すためにあえて沈黙されていたと思われます。ユーモアを含む言葉で彼女に語り、女性もそれに応答しました。それはたとえ異邦人であったとしても神さまの恵みをいただくことができるという信仰です。イエスさまはこの言葉に驚かれ、「あなたの信仰は立派です」と言われました。イエスさまの言葉を謙遜に受け入れつつ、しかしあきらめずに主の救いを求めた彼女の信仰は家族を救いました。

2020年8月30日

しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。
          マタイの福音書14章27節

 私たちが見るべきお方はどなたでしょうか。
1.恐怖の中で
 イエスさまは弟子たちだけで舟に乗り込ませ、向こう岸に渡らせようとしました。けれども嵐となり、舟は前に進めなくなりました。弟子の中には漁師出身の人たちがいましたが、彼らではどうすることもできませんでした。嵐によって荒れている湖の上で何時間も過ごし、彼らは恐怖で押しつぶされそうでした。その時イエスさまが湖の上を歩いて弟子たちのところへと行かれたのです。弟子たちは恐怖のあまり「幽霊」だと勘違いしてしまいますがイエスさまは「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と声をかけ、弟子たちの心に平安を与えました。
2.揺さぶられる中で
 イエスさまのもとに行かせてくださいと申し出たペテロは湖の上を歩いてイエスさまの方へ行こうとしました。しかし風の音や足もとを見て恐れてしまい、おぼれてしまいました。イエスさまはすぐに手を伸ばして彼を助けました。弟子たちは恐怖の中、揺さぶられる中、何度もイエスさまを見失いました。しかしイエスさまは決して彼らのことを見捨てず、助けてくださいました。弟子たちはこの経験を通してイエスさまこそ神さまであることを知るようになったのです。

2020年8月23日

イエスは、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて神をほめたたえ、パンを裂いて弟子たちにお与えになった・・・
          マタイの福音書14章19節

 イエスさまが行われた奇跡の中でとても印象的な箇所です。
1.イエスさまの目
 バプテスマのヨハネが殺害されたことを知ったイエスさまは寂しいところに行かれました。しかし群衆がイエスさまを求めて後を追ってきました。イエスさまは彼らをあわれみ、病気を癒やしました。その時夕方となったことに不安を覚えた弟子が、解散させて群衆が食事をとることができるように提案します。しかしイエスさまは弟子たちでどうにかしなさいと言われました。弟子たちは群衆の中から5つのパンと2匹の魚のお弁当を持っていた少年を見つけ、イエスさまのもとに持って行きました。弟子たちの目にはこれだけではどうにもならないように映りましたが、イエスさまの目には感謝と映りました。
2.弟子たちの手
 イエスさまは神さまをほめたたえ、パンと魚を弟子たちの手に渡されました。そして弟子たちはそれらを配り歩いたのです。少ないはずのパンと魚は尽きることなく、弟子たちの手から配られて行きました。イエスさまのもとにささげられたパンと魚はここにあるすべての食材でした。現実的に見れば到底足りるはずのないものでも、すべてがささげられたのなら、神さまは祝福してくださいます。

2020年8月16日

わたしは狼の中に羊を送り出すようにして、あなたがたを遣わします。
          マタイの福音書10章16節

 イエスさまは宣教の働きのためにご自分の権威を弟子に授けられました。
1.宣教のための選び
 イエスさまはまず12人の弟子を選んで寝食を共にしました。そして彼らにイエスさまの権威を授け、遣わしたのです。彼らが選ばれたのは宣教するためです。イエスさまの福音をより多くの人に届けるために選び出されました。
2.宣教のための指示
 イエスさまは宣教するにあたって指示を出されました。経験の少ない彼らが働きやすいように、同国人に絞り、拠点を定め、神さまが必要を満たしてくださることを信じて働くようにと勧めました。
3.宣教のための迫害
 イエスさまは弟子たちに「狼の中に羊を送り出す」ような遣わされ方をされます。つまり、拒絶されたり、攻撃されたりするような中に弟子たちは遣わされていくのです。しかし、イエスさまは蛇のように危険を素早く察知できる賢さ、鳩のように遣わしている方への純粋な信頼を持つことの素直さによって宣教することを教えました。
 12使徒は神の使者として遣わされます。今も神さまの権威が授けられ、神の国がこの地に訪れたことを身をもって証ししていく働きは変わりません。

2020年8月9日

子よ、しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。
          マタイの福音書9章2節

 イエスさまによって中風の病が癒された人の話です。この時イエスさまは罪の赦しの宣言をされました。
1.イエスさまのもと
 中風とはからだの麻痺した人のことです。この人はいつから中風を患っていたのか記されてありませんが、彼には癒しが必要でした。幸いなことに彼の病気を治すために協力してくれる人々がいました。彼らは中風の人をイエスさまのもとに連れて行くことによって病が癒されると考え、イエスさまのもとへと中風の人を運びます。そしてイエスさまは彼らの信仰を見て「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」と罪の赦しを宣言されました。
2.イエスさまの宣言
 罪の赦しを宣言できるのは神さまだけです。律法学者たちはイエスさまが罪の赦しを宣言したことに憤り、心の中で非難しました。けれどもイエスさまは彼らの心を見抜かれて、イエスさまこそ神であることをお示しになるために、中風の人を癒されました。イエスさまは罪の赦しのためにこの世に来られたお方です。そして罪の赦しはすべての人が必要としている宣言です。罪によって傷ついた心が癒えるために、イエスさまのもとに導かれる必要があります。

2020年8月2日

主は約束したとおりに、サラを顧みられた。
主は告げたとおりに、サラのために行われた。
          創世記21章1節

 神さまの約束が実現するまで、アブラハムとサラは多くの年月、忍耐が必要でした。
1.主の約束は必ず果たされる
 約束が実現するまでの間、二人は苦しい期間を過ごしました。神さまの約束を信じられず、自分たちの力で解決しようとしていました。つまり神さまには不可能だと思っていたのです。けれども神さまはアブラハムに、御使いはサラに子どもが確かに生まれることを語ります。その言葉にあきれた二人は心の中で「そんなことが起るはずがない」と思っていたのです。しかし「主は約束したとおりに、」(1節)サラに子どもを授けられました。神さまの約束は必ず実現されるのです。
2.主の約束は幸せをもたらす
 神さまの約束はアブラハムとサラに幸せをもたらしました。約束が果たされた時、彼らは神さまの約束が真実であったことを知ったでしょう。「主にとって不可能なことがあるだろうか」(創18:14)と御使いは言いましたが、イエスさまも「それは人にはできないことですが、神にはどんなこともできます」(マタイ19:26)と語っておられます。神さまはご自分の力あるわざを人に施されます。私たちがたとえ不信仰に陥ったとしても神さまは約束を果たされます。アブラハムとサラにそうされたように、新しいことを始められます。

2020年7月26日

アブラムは主を信じた。主はこれを彼の義と認められた。
          創世記15章6節

 神さまの祝福の基となっているはずのアブラムでしたが、彼にはまだ晴れない心がありました。
1.アブラムの心配
 アブラムは神さまの約束を信じて神さまの示す地に出かけていきました。けれども、アブラムはサライとの間に子供が生まれないことを心配し、神さまの祝福の基であることを疑いました。ある一部のことに関しては神さまを信じることができ、ある一部のことに関しては神さまを信じることができていないアブラム。そんな彼を神さまは夜空の下に連れて行きました。まるで、アブラムの手を取って一緒に外に出ていくような様子です。
2.神さまからの平安
 神さまは不安に思うアブラムに寄り添いました。アブラムもまた自分の胸中を神さまに明かしていたのです。神さまはアブラムを連れ出して空一面に輝く星を見上げさせました。そしてアブラムの子孫は星のように増え広がると言われたのです。その時、アブラムは神さまを信じました。これは「本当にその通りです」という意味の言葉が使われています。アブラムは子供のことも神さまの言葉どおりになると信じました。神さまの創造された星空の下で、自分の無力さを感じ、それと同時に神さまの偉大なみわざを覚えたアブラムは、神さまから平安をいただいて前に進んだのです。

2020年7月19日

あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、
わたしが示す地に行きなさい。
          創世記12章1節

 アブラムは神さまからのコール(呼びかけ)を受けました。そしてそれに答えて一歩踏み出したのです。
1.神さまからのコール(呼びかけ)
 神さまは人に呼びかけられるお方です。アブラムは神さまの示す地に行くようにと言われましたが、別の場所に留まってしまいました。けれども、神さまは繰り返しアブラムに呼びかけられたのです。なぜ繰り返し呼びかけたかというと、祝福するためでした。アブラムだけではなく、この世界を祝福するために何度も語られたのです。
2.私たちのレスポンス(応答)
 神さまから呼びかけられた時、私たちは言われた通りに行えばいいのです。しかし、これがいちばん難しいことでもあります。アブラムは当時75歳で妻と共に家畜や財産をもって、新しい一歩を踏み出さなければなりませんでした。そして彼を通してこの世界は祝福されると言われても、アブラムには子どもがいませんでした。到底従えることではなかったのです。しかし、アブラムは神さまの言われた通り、出て行きました。この先どうなるか分からなくても、神さまに信頼を寄せて新しい一歩を踏み出しました。この一歩は小さい一歩だったかもしれませんが、ここからイサクが生まれ、世界に救い主が誕生しました。

2020年7月12日

主がそこで全地の言葉を乱されたからである。主はそこから彼らを全地のおもてに散らされた。
          創世記11章9節

 世界が造られた時、言語は一つでした。バベルの塔以来、様々な言語が生まれ、地のおもてに人々が満ちていきました。
1.人間の一致
 人びとは町と塔を建てることで一致をしました。けれども彼らの動機は「名を上げる」ことです。天にも届くような高い塔を建てることによって全地のおもてに散らされるのを免れようとしていました。人が文明を発達させたり、新たな発見を得ると、自分たちの手だけでこの世界を生きられると錯覚してしまいます。神さまなしで生活を求め、自分が物事の主導権を握っていると勘違いします。神さまは人が塔を建てようとしているのをご覧になり、また、動機を知られ、人々の言葉を乱して全地に散らされました。神さまのみこころは「生めよ、ふえよ、地に満ちよ」でした。
2.聖霊の一致
 神さまは世界に人が増え広がることを願っています。けれども、人は高慢になり、違いを見つけては非難し合い、一致できません。人は一人として同じ人はいません。神さまがそのように創造されました。人は違いがあるけれども、神さまは聖霊を通して一致できるようにしてくださいました。聖霊によって神の愛を注がれているお互いは、神さまの愛に根差して人々と一致するように求められています。

2020年7月5日

あなたと家族とはみな箱舟にはいりなさい。
          創世記7章1節

 ノアが作成した箱舟は神さまによって造られた救いの箱舟です。誰でも救いの箱舟の中に入るならば救われます。
1.神さまの言葉に従うノア
 ノアの時代、人々の思うことは悪いことばかりでした。地に悪がはびこり、各々自分の好き勝手に生きていました。ノアはそのような中で「正しく、全き人」と呼ばれ、「神と共に歩んだ」人物でした。ノアも人ですから罪を犯します。けれども、彼は神さまと共に歩むという点において完璧でした。神と共に歩むとは、いつも神さまの言葉に従い、罪を犯したとしても神さまの前に立ち返るということです。神さまは悪がはびこる地上をぬぐい去ろうとされますが、ノアとノアの家族に目を留め、救いの道を与えました。ノアは神さまに命じられて救いの箱舟を作ったのです。
2.神さまを信じて過ごすノア
 箱舟の中で過ごす彼らは神さまの約束を信じて過ごしていました。神さまは約束されたようにノアとノアの家族に新しい地上を与えられ、そこで彼らに再び生活していくように命じました。この救いの箱舟は神さまの言葉を受け入れる人なら誰でも入れました。そしてこの箱舟はイエス・キリストでもあります。罪から立ち直り、神さまの言葉を受け入れるならば誰でも救われます。

2020年6月28日

ペテロは言った、「金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。
ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」。
         使徒行伝3章6節

2020年6月21日

あなたがたの天の父が完全であられるように、
あなたがたも完全な者となりなさい。
         マタイによる福音書5章48節

 天のお父さまの子どもとして歩むべき生き方を聖書の中から見ていきます。
1.神の義に生きる
 当時のユダヤ人社会では多くの規定がありました。それらを守り行うことによって律法学者やパリサイ人たちは神さまの前に正しいと認められようとしていました。けれども、彼らの教えは外面的な事柄がほとんどで、心の中で人を憎み、差別し、馬鹿にしていても問題に取り上げませんでした。イエスさまはそのことを注意し、「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」と言われました。私たちは怒り等の感情で人を傷つけることなく、すべての人を愛し、受け入れるように求められています。この生き方こそ神の前に義と認められるのです。
2.神の子として生きる
 イエスさまの語られた神の子として歩む生き方は愛の生き方です。外面が変わるのではなく、内面が変わることを願っておられるのが神さまです。神と人を愛する生き方は人間だけの力では送れません。イエスさまを手本とし、聖霊によって神の愛が注がれなければなりません(ローマ5:5)。そして、自分にはできないけれども神には何でもできることを信じるのです(マタイ19:26)。神さまは愛に生きています。神の子である私たちも愛において完全に生きることを求められています。

2020年6月14日

野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。
         マタイによる福音書6章28節

 神さまを信頼する生き方は私たちの思い煩い・心配事を和らげてくださいます。
1.思い煩うからこそ神さまを信頼する 
 イエスさまは何度も「思い煩うな」と警告されています。つまり心配する必要はないと言われます。けれども、私たち人間は心配しやすいです。そのような中、イエスさまは天の父なる神さまが空の鳥や野の花が養われ、成長するさまを話されました。人は神さまに造られた最高のひとりですから、ないがしろにされることはないと断言されたのです。人は神さまによって造られました。創造主なる神さまは私たちのことを鳥よりも花よりも価値ある存在とし、いつも目に留めて支え続けてくださいます。思い煩ったとしても信頼できるお方がいるのです。
2.必要を知っているからこそ神さまを信頼する
 私たちを造られた神さまは私たちの必要をすべてご存知です。私たちの思いを神さまの御手に委ねて、まず神の国と神の義とを求める生き方を送るならば、必要なものは必要な時に与えられます。御言葉に約束されています。思い煩っている時、私たちの心は神さまから離れがちです。しかしその時に神さまを信頼し、神さまのもとに行くならば、心が軽くなり、神さまを知ることができた喜びに満たされます。

2020年6月7日

こころの貧しい人たちは、さいわいである、
天国は彼らのものである。
         マタイによる福音書5章3節

 イエスさまが言われた「本当の幸せ」とは何でしょうか。
1.常識はずれの幸せ
 イエスさまが語られた「幸せ」は一般的に考えると受け入れがたい内容です。イエスさまは神さまを信頼して、神さまがいなければ生きていくことができないのだと悟った者が本当の幸せ者であると言われました。頭で理解できなくても、クリスチャンはもうすでにイエスさまの言われているような幸せ者ライフを送っています。神さまなしでは生きていけない存在となっているのです。
2.常識はずれのクリスチャン
 クリスチャンは神さまに信頼できるという点でものすごく力強く生きていくことが可能となりました。迫害下の中にあったとしても御言葉の約束を信じて過ごすことができるのです。本当の幸せな人となる秘訣は、神さまを知り、神さまとの交わりの中で生きることです。この時に最高の幸せ、永遠に続く幸せが与えられていきます。イエスさまの弟子となったクリスチャンはこの世の価値観で生きず、イエスさまを中心とした生き方を送っています。ですから時には人々に理解されず、孤独を味わうかもしれません。けれどもイエスさまが語られた「さいわい」な人を忘れないで生きていきましょう。

2020年5月31日

一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。
         使徒行伝2章4節

 今日はペンテコステ礼拝です。私たちの上にも聖霊が降ったことを感謝しましょう。
1.聖霊は私たちの心を満たす
 イエスさまが十字架にかけられた過ぎ越しの祭から50日目に聖霊は降りました。イエスさまによって約束されていた聖霊を弟子たちは待ち望んでいました。聖霊が降ると弟子たちは色々な言葉で福音を語り、全世界の人々がイエスさまの福音を耳にすることができるようになりました。聖霊に満たされると、私たちの内に力強く息づくイエスさまの復活のいのちの恵みに対する感謝と喜びに満たされて、福音を語る者となります。
2.聖霊は私たちを造り変える
 聖霊が心に満たされるならば私たちの心は造り変えられます。弟子たちがそうでした。イエスさまが十字架刑に処せられている時、弟子たちはイエスさまの側にはいませんでした。怖くなり逃げてしまったのです。イエスさまは復活された時、怖がる弟子たちのもとへと復活の事実を知らせるために向かわれました。そして約束の聖霊が与えられた時、彼らの心は打ちくだかれて福音宣教者になりました。部屋に閉じこもっていた弟子たちが全世界へと主と共に出て行ったのです。今も聖霊は私たちの心を新しく造り変え、宣教の力を与えてくださいます。

2020年5月24日

主なる神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた。
         創世記3章21節

 罪を犯したアダムとエバは神さまに見捨てられることなく、希望といのちを神さまからいただきました。
1.希望を与える主
 神さまは悪魔に向かって必ず滅ぼされることを宣告されます(15節)。御言葉の中に「女のすえ」や「彼は」と言われている人物はイエス・キリストのことを指しています。神さまは初めからイエスさまを救い主としてこの世に与えようとされていました。それは人が死んで終わりではなく、生きて再び神さまと共に生きるようになるためでした。アダムは神さまの宣告を聞いて希望を抱いたでしょう。
2.いのちを与える主
 アダムは妻の名を「エバ」と名づけました。「エバ」は「生きる」という意味の言葉です。神さまはアダムとエバに皮の衣をプレゼントしました。それは動物が犠牲となったことを意味します。罪を犯してしまったならば死をもって償わなければなりません。旧約の時代、神さまの前に集う時には犠牲となる動物が必要でした。けれども、今は動物の犠牲は必要ありません。イエスさまがたった一度十字架で流してくださった血で十分だからです。イエスさまを救い主と信じ、救われたクリスチャンは罪が全くない者に変えられました。イエスさまの十字架だけが完全な救いです。

2020年5月17日

罪の支払う報酬は死である。
         ローマ人への手紙6章23節

 神さまとの約束を破ってしまったアダムとエバは罪を犯したことになりました。
1.罪の結果-神さまから隠れる
 罪の結果、人は死ぬ者となりました。それは肉体的な死を意味するだけではなく、霊的な死もあらわします。人は創造主なる神さまの約束を破り、身を隠して生きるようになりました。そして罪を罪とは思わず、自分勝手な解釈をし、罪を正当化するようになりました。
2.罪の結果-救いが必要となる
 人は「土のちり」(2:7)から造られました。人は神になることはできません。サタンは「神のようになる」(3:5)と言ってエバを誘惑しました。そして「土のちり」であるにもかかわらず、神になれるかもしれないと誤解してしまいます。アダムもエバも善悪の知る木の実を取って食べても神にはなりませんでした。むしろ、神さまを恐れ、身を隠して生きていくことになりました。そして神さまは「死」を宣告されました。しかし、神さまは自分勝手な人をどこまでも愛し続けられます。「しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである」(ローマ6:23)。罪の結果、死へと向かって行く私たちを、イエスさまによって永遠に生きる者へと変えてくださいました。驚くべき恵みです。

2020年5月10日

子たる者よ。主にあって両親に従いなさい。
         エペソ6章1節

 両親に従うこと、子どもを育てることは主にあって行われるべきことです。
1.主にあって従う子どもと親
 子どもは親に従うこと・敬うことを聖書は教えています。親は子どもを正しく怒り、主と共に育てていくことを教えています。どちらも「主にあって」行われることが重要です。私たちは罪のゆえに自己中心的な思いに縛られています。しかし神さまはご自分のことを優先されず、私たちのことを中心に物事を考えてくださいます。イエスさまをこの世に与えられたのも私たちのためなのです。私たちのことを第一にされるお方との関係ができあがると、「主にあって」両親に従い「主にあって」子育てすることも分かってきます。
2.主にあって従う神のことば
 まだ家族の中にイエスさまを信じていない方がおられると思います。しかし信じる者が真摯に御言葉を受け止め、従っていくならば必ず状況は変わります。まず私たちから神さまのことばに生きていきましょう。神さまはイエスさまを私たちのために手放してくださいました。自己中心的な生き方から変えられたクリスチャンは、主にあって人と関わることができるようになっています。主にあって子は親を敬い・主にあって親は子を育てる生き方を実践してみましょう。

2020年5月3日

善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう。
         創世記2章17節

 今も罪は私たちの目の前にあります。罪に陥ることがないようにするためには…
1.みことばを正しく受け取る
 神さまの語られる言葉を「みことば」と言います。神さまはアダムとエバに大事なルールを言われました。それは「善悪を知る木からは取って食べてはならない」ということです。これ以外のことは彼らの自由に任せられていました。ここで悪魔は神さまの語られた言葉を捻じ曲げながら誘惑をしてきました。エバは正しく神さまの言葉を受け取っていなかったので、迷いが生じ、自分の目で見て判断をし、食べてしまいました。アダムも同じように食べました。
2.みことばを大切にして生きる
 神さまの言葉を捨てて生きることは、神さまから離れて生きることになりました。そして人は神さまの愛を受け入れず、自分を中心にして生きていくようになりました。神さまによって造られた私たちは神さまの愛の中で生きていかなければ、干からびて枯れてしまいます。神さまは私たちを生かすためにイエスさまを十字架にかけ、私たちに最大の愛を示してくださいました。イエスさまも悪魔の誘惑に遭われた時みことばをもって勝利しました。みことばには罪に打ち勝つ力があります。

2020年4月26日

神は自分のかたちに人を創造された。
         創世記1章27節

 神さまに造られた私たちはどのような存在として創造されたのかを見ていきましょう。
1.神さまのかたちに造られた
 私たち人間は神さまの似姿に造られました。それは外見を似せて造られたのではなく、中身が神さまと似せて造られたのです。人が善悪の判断が分かるのも、きよくて正しい神さまに造られたからです。神さまは私たちのことを心から愛し、深く関わり続けたいと願っておられます。私たちは神さまに祈り、聖書を読み、賛美することによって神さまとの交わりを保っています。
2.世界の管理人として造られた
 そんな私たちは神さまからこの世界を管理しなさいという使命を与えられています。愛の心で正しくこの世界に満ちている動物や自然、人間と接しなさいと言われています。罪によって神のかたちを損なってしまった人はこの世界を自分の好き勝手に管理しています。しかし神さまはそんな私たちに神のかたちを取り戻す方法としてイエスさまを人としてこの地上に与えました。イエスさまはこの地上において神のかたちを体現されたお方です。そして罪の解放者です。イエスさまによって私たちは神のかたちを取り戻し、愛の心をもって正しくこの世界を管理することができるようになりました。

2020年4月19日

はじめに、神は天と地とを創造された。
         創世記1章1節

 天地創造は私たち人間の考えには及ばない、神さまの偉大な力を知ることができます。
1.神さまの言葉
 神さまはこの世界をどのように造られたでしょうか。聖書には「神は~言われた」などと記されてあります。この世界は神さまの言葉によって創造されていきました。神さまの言葉の通りに様々のものが生み出されていったのです。そして人も神さまによって造られた存在です。
2.神さまの目
 この世界を造られた時、神さまは「見て、良し」とされました。神さまの目から見てこの世界はとても素晴らしい、最高傑作でした。何よりも人を神さまは「神のかたち」としてお造りになりました。一人ひとりの存在を愛してくださり、喜んでおられます。けれども、この世界には罪が入り込んでしまい、環境や動植物などが傷ついています。そして人も「神のかたち」として造られましたが、本来の姿を損なってしまっています。しかし神さまは私たち人を見捨てず、愛し続け、私たちの存在を喜び続けておられます。なぜならば、私たちをお造りになったのが神さまだからです。神さまの目から見て私たち一人ひとりはかけがえのない存在です。最高のひとりとして神さまに認められ、愛されていることを信じましょう。

2020年4月12日

女よ、なぜ泣いているのか。
         ヨハネによる福音書20章13節

 イースター(復活祭)はイエスさまがよみがえられた日を記念する日です。復活の主のいのちをいただいている希望を感謝しましょう。
1.復活の主との出会い
 マグダラのマリヤはイエスさまと最後のお別れをしようと、イエスさまが納められていたお墓に行きました。けれどもお墓は空っぽになっていました。マリヤは泣いてお墓の前にいました。そこに復活のイエスさまが現れて、確かに復活したことを示されました。マリヤは復活の主とお出会いし、涙はぬぐわれ、悲しみは喜びに変わりました。
2.復活の主を伝える
 イエスさまから離れたくなかったマリヤでしたが、イエスさまは復活の主とお出会いしたこと、そしてイエスさまの語られた言葉を弟子たちに伝えに行きなさいと言われました。イエスさまは弟子たちのことを「わたしの兄弟たち」と呼ばれました。弟子たちは今、悲しみに暮れ、後悔し、ローマ兵たちを恐れて身を隠していました。そのような彼らに、主は生きておられるという喜びのおとずれを告げるようにマリヤに言ったのです。復活の主によって喜びを得られたマリヤは伝えに行きました。今、私たちにも復活の喜びが伝えられています。悲しみを喜びに変えてくださった主の復活を心から感謝し、伝えに行きましょう。

2020年4月5日

イエスはそのぶどう酒を受けて、「すべてが終った」と言われ、首をたれて息をひきとられた。
         ヨハネ19章30節

 今日は棕櫚の日礼拝です。イエスさまは十字架へと向かう最後の週を歩まれて行きます。今日はイエスさまが十字架にかけられ、十字架上で宣言された救いの完成を見ていきます。
1.「わたしは、かわく」命の泉である主
 イエスさまは生ける命の水の源です(ヨハネ4章)。あふれるばかりに命の水を流れさせることができるお方が十字架上でかわきを覚えました。そのかわきは肉体的、精神的かわきでした。救いの完成のためには徹底的に罪を背負われ、神のさばきを受けなければなりません。イエスさまがすべての人の罪を背負ってくださったこと、そしてかわききってくださったことによって、私たちに永遠の命の水が注がれるようになりました。
2.「すべてが終った」救いの完成者である主
 イエスさまが息を引き取られる前に発した言葉は「すべてが終った」です。これは勝利の宣言の言葉で、聖書の救いが完成したということです。十字架によってすべての罪と悪の問題から勝利を取られ、イエスさまを信じる私たちにも同じ勝利をあずからせてくださいます。神さまの私たちに対する愛は途中で変わることなく最後まで注がれ続けました。十字架こそ神さまの愛が注がれている場所です。

2020年3月29日

あなたがたが父に求めるものはなんでも、わたしの名によって下さるであろう。
         ヨハネによる福音書16章23節

 イエスさまは弟子たちのもとを離れる事を告げられました。イエスさまの言葉の意味を理解できなかった弟子たちに語られた事とは・・・
1.悲しみが喜びに 19-22節
 イエスさまは弟子たちがこれから泣き悲しむことを知っておられました。それは十字架の死によってです。けれどもイエスさまはこの世から去ることを益だと言われました。なぜならそのことによって聖霊が与えられるからです。そして聖霊が与えられた時私たちの悲しみは喜びに変えられていきます。主と共に働く者へとなっていきます。
2.祈りでつながる 23-24節
 イエスさまが去られたことによって聖霊が与えられ、私たちを通して人々は主とお出会いしていくようになりました。イエスさまは「わたしの名によって求めなさい」と祈ることを教えられました。私たちはイエスさまによって父なる神さまのもとに近づける存在となりました。神様と私たちをつないでくださるのがイエスさまです。イエスさまは私たちが悩んでいることをご存知です。祈ることによって心の声を聴きたいと願っておられます。主の名による祈りをやめることなく、祈り続け、主の栄光が現わされるまで耐え忍んで歩んでいきましょう。私たちの悲しみを喜びに変えてくださるのはイエスさまです。

2020年3月22日

人がその友のために自分の命を捨てること、
これよりも大きな愛はない。
         ヨハネによる福音書15章13節

 イエスさまは弟子たちに「互いに愛し合いなさい」と言われました。愛し合う生き方を求めておられるのです。
1.イエスさまが示された愛 12-15節
 イエスさまが示された愛は神の愛です。無条件に人を愛する愛であり、自分の命を相手に差し出す愛です。イエスさまは弟子の中に裏切る者がいることをご存知でした。けれども裏切る者も最後まで愛し通され、愛に生き続けました。罪の中に沈んでいた私たちを引き上げて下さり、イエスさまの「友」となった私たちはこの世界に神の愛を示すために生かされています。
2.イエスさまによって示せる愛 16-17節
 イエスさまが求めておられる「互いに愛し合う」生き方は簡単な生き方ではありません。イエスさまによって生きることができます。そのために覚えておく必要があることは、①私たちは主に選ばれた者であること。②主に祈りながら愛をいただくことです。イエスさまを信じて救われた人はもうすでに神の愛によって包み込まれています。主との交わりを絶やすことなく、いつも祈りながら人々と接することが大切です。愛の実が実るために今日も祈り、祈られながら、支え、支え合いながら主の愛を周りの人に示していきましょう。 

2020年3月15日

わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。
         ヨハネによる福音書15章5節

 イエスさまが十字架におかかりになる前、最後の晩餐の席で弟子たちにお語りになったことばから学びます。
1.わたしにつながっていなさい
 イエスさまは「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」(1節)と言われ、5節では「あなたがたはその枝である」と言われました。農夫は神さまであり、イエスさまはぶどうの木の幹、そして私たちは幹につながる枝です。イエスさまは何度も「つながっていなさい」と言われます。イエスさまにつながることは親密な交わりを維持することです。
2.豊かに実を結ぶ
 イエスさまにつながることは豊かに実を結ぶことができるということです。実とはイエスさまの弟子となることにつながります。愛の実を結ぶことをイエスさまは願っています。
3.わたしに求めなさい
 神さま、イエスさま、わたしの正しい関係が成り立ったとき、イエスさまは「なんでも望むものを求めるがよい」(7節)と言われます。これは救われた私たちが、ただイエスさまにつながっているだけでなく、深い豊かな交わりの中に入れていただいたことを意味します。神さまは良い実を結ぶためのお祈りには答えてくださいます。 

2020年3月8日

わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。
         ヨハネによる福音書14章27節

 助け主(聖霊)とともに平安を与えると言われるイエスさま。私たちにどのような平安が与えられるのでしょうか。
1.聖霊の働き
 神さまが私たちに与えると言われたものを誰も奪うことはできません。イエスさまを救い主と信じる者の人生を神さまが特別に守ってくださいます。イエスさまがこの世を去る時に助け主なる聖霊を送ると約束されたのです。聖霊は私たちのうちでみことばを正しく教え、解釈してくださいます。そしてこの世ににはない平安を与えてくださいます。
2.キリストが与える平安
 イエスさまが十字架におかかりになるということは弟子たちのもとを離れることです。イエスさまとの別れは弟子たちの心に不安と恐れを呼び起こします。この世の与える平安は不動のものではありません。しかし、イエスさまが与えると約束された平安はイエス様ご自身が与える平安です。この平安はイエスさまのみことばに聞き従うことによって与えられます。イエスさまが約束された平安を信仰によって受け取るときに平安が私のものになります。そして平安は喜びと結び付けられています。弟子たちは恐れと不安で心がいっぱいになっていましたが、約束の聖霊を受けると、心が喜びに満たされました。

2020年3月1日

父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。
         ヨハネによる福音書14章16節

 イエスさまはヨハネの14章で永遠の住まいを備えに行かれること(2~3節)、イエスさまご自身が道、真理、命であること(6~11節)を語られました。そして今日のところでは祈りと聖霊について語られています。
1.イエスを通して神と交わる
 ピリポは神を見せてくださいと要求しました(8)。イエスさまは目に見えない神さまの御姿を見せて下さり、聞こえない神の御声を聞かせてくださいました。父なる神さまは、御子イエスさまを通してみこころを語られ、十字架の贖いを成し遂げられました。このことを信じる人は、イエスさまの名によって求めるなら、何でも与えられる恵みを得ます。
2.助け主なる聖霊
 イエスさまが父なる神のみもとに帰った後で、弟子たちに助け主なる聖霊を送ると約束してくださいました。「助け主」は、援助のためにそばに呼ばれた者という意味があります。助け主なる聖霊は、そばにおられるだけでなく、信じる人の心に住んでくださり、離れずにいてくださいます。私たちは、聖霊の助けを受けて、世が打ち勝つことのできない信仰をもって、この世の戦いに勝利させていただきましょう。

2020年2月23日

わたしは道であり、真理であり、命である。
         ヨハネによる福音書14章6節

 イエスさまは神のひとり子として地上にお生まれになり、十字架の道を歩みました。イエスさまは十字架の苦しみから逃れることができたでしょうが、常に神さまの御心を優先しました。
1.備えられた住まい
 13章でイエスは弟子たちの足を洗われ、「あなたがたは私の行く所に来ることはできない」と言われました。この言葉に弟子たちが「心を騒がせ」たので、イエスは「心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい」と言われたのです。先に行かれるイエスは、父の家を備えてくださいます。そこは、一時的な住まいではなく、主を信じる人が主と共に永遠に住む場所です。
2.天国への道
 トマスはイエスさまの言葉を聞いて「主よ、どこへおいでになるか、わたしたちにはわかりません。どうしてその道がわかるでしょう」と言いました。「わたしが道であり、真理であり、命である」これがイエスさまの答えでした。イエスさまは、ご自分が(天国へ通じる)道であり、真理(まことの教え)であり、(永遠の)いのちであって、ご自分(イエスさま)を通してでなければ父(神さま)のもとに行くことはできないと教えられました。永遠のいのちの道は、ただイエスだけです。聖徒は永遠の故郷である父の家を望んで生きるのです。

2020年2月16日

もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる。
         ヨハネによる福音書13章8節

 中東では、足を汚いものだと考えます。蒸し暑い気候で、すぐに足に汗をかき、ベタベタします。砂漠を歩くので、ほこりや砂にまみれます。ですから、中東では足を洗うことは、最も地位の低い奴隷の仕事でした。
1.時を知るイエス
 イエスさまは神さまの時を知って行動されます。イエスさまの働きの中で最も大切な「時」は、十字架を負う時です。最後の晩餐の席でイスカリオテのユダの心が悪魔に占領されました。ユダは銀貨30枚でイエスさまを売ったのです。しかし、これは神のご計画の中にありました。
2.足を洗うイエス
 弟子に対するイエスの愛は、足を洗う行為に現れています。裏切ろうとしていたユダに対しても悔い改めの機会を与えます。またペテロは、この足を洗う行為の意味を理解できませんでした。足を洗う行為はイエスさまの深い愛を示しています。また、翌日の十字架による贖いによって、イエスさまが私たちの罪をきよめ、赦してくださる予告であり象徴です。私たちもイエスさまの十字架による赦しをいただいて互いに足を洗う者となりましょう。イエスさまが自らしもべとなって仕えられたように、私たちもイエスさまに倣う者となりましょう。

2020年2月9日

一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。
しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶ。
         ヨハネによる福音書12章24節

1.一粒の麦となられたイエス
 20節を見ると礼拝にきた者の中にギリシヤ人がいたことがわかります。彼らはピリポの所に来て、イエスに会いたいと言います。神の救いはユダヤ人から始まりますが、この救いは全世界に広がっていくことを教えています。イエスさまご自身が十字架の死と復活によって神の栄光を受ける時がきたことを宣言されたのです。イエスさまは十字架の死を一粒の麦にたとえて、人の子イエスは犠牲の小羊として十字架上で死ぬことによってこの世にいのちと救いをもたらしてくださることを教えられました。
2.救いの完成
  イエスが選ばれた道は苦しみの道でした。イエスさまはつらい思いで神に祈りました。しかし同時に、それは最も栄光に満ちた道でした。イエスが十字架で死なれることにより、世の救いが成し遂げられるのです。イエスさまはご自分にとっては最も苦しいことでも、すべての人のために十字架を受け入れます。ここに救いが完成されました。
 十字架への道はイエスさまだけが歩まれた道ではなく、イエスに従うすべての者の道です。喜んでイエスさまに仕えてその道を歩む人々に、神は永遠のいのちと栄光をもって報いてくださいます。

2020年2月2日

香油のかおりが家いっぱいになった。
         ヨハネによる福音書12章3節

 聖書にはマリヤという女性が何人か出てきますが、ベタニヤのマリヤはマルタとラザロのきょうだいとして有名です。
1.マリヤの信仰
 マリヤはイエスさまの足もとにすわってみことばに聞き入るような女性でした。弟ラザロを死からよみがえらせてくださったイエスさまに香油を注ぎ、自分の髪の毛でふきました。この時、香油の良い香りが部屋いっぱいに満ちたのです。香油は高価なものでした。金額が高価というだけでなく、イエスさまに自分のすべてをささげようとするマリヤの純粋な心がこもっているという点でも高価でした。自分に対するイエスさまの愛を体験した者は、ささげることを喜びとなります。
2.ユダの信仰
 マリヤの行為を見たイエスの12弟子のひとりであるユダは無駄と思います。イエスさまよりもお金を愛していたからです。神さまは私たちの行いを見る前に、動機をご覧になります。マリヤの純粋な動機とは違い、イスカリオテのユダは貧しい人を口実に、その心には貪欲が潜んでいました。
 イエスさまは愛によって働く信仰を求めておられます。

2020年1月26日

モーセが手を上げているとイスラエルは勝ち、手を下げるとアマレクが勝った。
         出エジプト記17章11節

 勝利は、神により頼む者に与えられます。
1.祈りと戦い
 アマレクが攻めてくると、モーセはヨシュアに兵士を集めてアマレクとレピデムで戦わせます。ヨシュアは戦いの訓練を受けていないイスラエルの民を引き連れてアマレクに勇敢に挑んでいきました。モーセはアロンとホルと丘の頂に立ち、祈りました。モーセが手を上げて祈っている時には、イスラエルが優勢になり、手が下がってくるとアマレクが優勢になりました。アロンとホルは両側からモーセの手が下がらないように支えました。その結果、イスラエルは大勝利を収めました。霊的な戦いで勝利するためには、祈りと行動が大切です。
2.主はわが旗
 戦いに勝利したモーセは祭壇を築き、その名を「主はわが旗」と呼びました。イスラエルに勝利をもたらしたのは、人間の力ではなく、祈りに答えてくださる神の力であることを明らかにしたのです。モーセは、戦いの勝利を自分自身にも、ヨシュアにも帰してはいません。
 教会の中には、実際に体を動かして奉仕する器も必要ですが、その奉仕を通して教会が祝福されるかどうかは、その奉仕を支える祈りにかかっています。

2020年1月19日

イスラエルの人々は人の住む地に着くまで四十年の間マナを食べた。
         出エジプト記16章35節

 エジプトを出たイスラエルの民は神への不従順のため荒野で40年間過ごさなければなりませんでした。しかし神はイスラエルの民およそ200万人を毎日養い守ってくださいました。
1.神による霊的訓練
 神はマナで民を養います。マナは毎日1オメル集めます。マナは貯蔵できません。朝まで残しておくと虫がわき、悪臭を放って食べられなくなります。神はすべての人に公平に与えられます。欲にかられず、神がすべての必要を満たしてくださると信じ、日用の糧のために祈りましょう。
2.神の特別な恵み
 神が行われたみわざを忘れないとき、生ける信仰を持つことができます。イスラエルの民は荒野で神が与えてくださったマナを食べました。この経験は一つの世代だけのものではありません。神は、モーセとアロンに、1オメルのマナをつぼに入れて、主の前に保存するように命じられます。子孫たちも、マナを通して必要を満たしてくださる神を覚えるのです。
 神はご自分の民の必要を満たしてくださいます。それを通して、神がどのようなお方であるかを知ることができます。日ごとに肉体の糧を求めるだけでなく、神のみことばにより頼んで生きる者となりましょう。

2020年1月12日

かたく立って、主がきょう、あなたがたのためになされる救を見なさい。
         出エジプト記14章13節

 背後に迫るエジプト軍と前に広がる海に挟まれて絶望しているイスラエルの民に神は何をしてくださったでしょうか。
1.不信仰なイスラエルの民
 エジプトの奴隷となり苦しんでいた民を神は導き出してくださいましたが、エジプトの軍隊が追ってきました。前には海が広がっています。イスラエルの民はモーセにつぶやきます。モーセは絶望せず、神を仰ぎ見ました。モーセは主がなされる救いを見なさいと言われ、神様が私たちのために戦ってくださると宣言します。神はそのお言葉どおりにイスラエルの民を救ってくださいます。神の民はどのようなときもあきらめずに信仰をもって前進するべきです。神は想像もできないような方法で救ってくださいます。
2.神のみわざ
 モーセが杖を持って海の上に手を指し伸ばすと、海が両側にわかれました。海の中に神様が道を造られ、雲の柱がエジプト軍とイスラエルの間にあって盾となってくださいました。イスラエルの民は、海の中を通り過ぎるという神の方法によって、エジプト軍から守られたのです。この奇跡を通して、イスラエルの民はもう一度神様を恐れ、主のしもべモーセを信じるようになりました。あなたは奇跡を起こす神を信じていますか。

2020年1月5日

わたしはその血を見て、あなたがたの所を過ぎ越すであろう。
         出エジプト記12章13節

1.ご自分の民を救われる神
 エジプトの奴隷となったイスラエルの民を解放するために、神はモーセをリーダーとして立て、エジプトに10の災いを下します。最後の災いは初子を殺すというものでした。神は、イスラエルに死のわざわいが過ぎ越すように、特別な準備をしなければならないと言われました。それは家族ごとに羊を用意し、その羊をほふり、羊の血を左右の門柱とかもいに塗ることです。神はその血を見て過ぎ越すつまり初子を救われるというのです。
2.ご自分の民を守られる神
 神はかもいに塗られた血を見て、初子の命を守られました。神は罪の奴隷となった私たちを自由にしてくださいます。それは神が私たちが受けなければならない罪のさばきから守ってくださるということです。この時、流された羊の血は、イエス様の十字架を表しています。私たちがイエス様を信じて、イエス様に従うなら、私たちに自由が与えられ、それだけでなく神様が私たちを守ってくださるのです。神様の守りは罪のさばきからの守りです。また、いろいろな出来事の中にも最善となるように守ってくださいます。

2020年1月1日 元旦礼拝

見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである。
         マタイによる福音書28章20節

2019年12月29日

わがたましいよ、主をほめよ。
そのすべてのめぐみを心にとめよ。     詩篇103篇2節

1.神の恵み(1~5節)
 主のしてくださったことを思い起こして神を賛美しています。神は私たちに何をしてくださったのでしょうか。すべての不義をゆるし、すべての病をいやし、いのちの墓からあがないだし、慈しみとあわれみを与え、良きものをもって飽き足らせてくださいました。これらのことを心にとめなさいと言われます。主がしてくださった恵みを忘れず、私たちにとって神さまがどういうお方かということをしっかりと覚えましょう。
2.神の姿(6~18節)
 神はどのようなお方でしょうか。作者は正義と公正にを行われ、あわれみに富み、恵み深く、怒ること遅く、慈しみ豊かなど神の姿を描いています。作者自身、自分は神の恵みをいただくことのできるようなものではないと気づき感謝をささげています。
3.神への賛美(19~22節)
 「主をほめよ」とすべてのものに対して神を賛美するようにと招いています。神さまは私たちといつもともにいてくださって、すべてをご存知で、私たちを助け、導き、贖ってくださいます。神さまは信仰者の失敗も罪も赦し、信仰の成長へと導いてくださいます。私たちは神をほめたたえ、神の導きに従いましょう。

2019年12月22日 クリスマス礼拝

神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛してくださった。
         ヨハネによる福音書3章16節

 ヨハネ3章16~21節は、聖書全体とキリスト誕生の解説になっていると考えてよいでしょう。そこには救いとさばきがあります。
1.神の愛の真実
 16節の「この世」は神様によって造られながら、神様を無視し、神様に逆らい、神様を信じようとしない世界のことです。そんな世であっても神様は変わらない愛でこの世を愛してくださいます。神様は私たちを限りなく愛されています。
2.神の愛の大きさ
 「神はひとり子を賜ったほどに」とあります。「ひとり子」とは、父なる神にとってただひとりで、他に代わりのない、愛する子イエスのことです。「賜る」とは「お捨てになった」という意味です。ひとり子を捨てるほどにこの世つまり私を愛してくださったのが、聖書の神です。そして、そのひとり子イエスは私たちの罪の身代わりとなって十字架にかかってくださいました。
3.神の愛の目的
 「それは御子を信じる者が・・・永遠の命を得るため」です。イエスは罪なき神の子であるにもかかわらず、この地上に生まれ十字架にかかって下さいました。神の愛はイエスを信じる者にも信じない者にも注がれています。この愛を受け取りたいならイエスを信じることです。

2019年12月15日

すべての人を照すまことの光があって、世にきた。
         ヨハネによる福音書1章9節

1.はじめに言があった
 言(ことば)は初めにありました。そして言は神と共にあり、言は神であるとヨハネは言っています。人はことばによって意思を表します。神の心を表したのがキリストです。そして、ことばにはいのちがあります。ことばによって世界が造られました。ことばである神から出るいのちは、世を照らすまことの光です。暗い世でさまようことなく正しく歩むためには、まことの光が必要です。
2.すべての人を照らすまことの光
 私たちは幸せになるためにあらゆる努力と手段を尽くします。しかし、私たちの熱心や意思や訓練によって幸せはなかなか得られません。まことの光から顔を背けるなら、闇の中に留まるしかないのです。まことの光であるイエス・キリストを受け入れるなら、神はその人に神の子としてのまことの幸せを与えてくださいます。しかし、イエス・キリストを受け入れられない人もいます。イエスが宣教に行かれた時も、主のことばを受け入れた人は少数でした。私たちは自分の心にまことの光を受け入れているでしょうか。2000年前、この地上に来られたお方は、今私たちの心に住んでくださり、恵みを与えてくださいます。

2019年12月8日

生きている限り、きよく正しく、みまえに恐れなく仕えさせてくださるのである。
         ルカによる福音書1章75節

1.ザカリヤの賛美
 約9カ月ぶりに再びしゃべることができるようになったザカリヤは神と神のすばらしいご計画を預言し、主をほめたたえます。み使いの前で不信仰な姿を見せていたザカリヤとは思えません。この賛美は4つの部分から成り立っています。メシヤ到来の感謝、大いなる解放、ヨハネの使命、メシヤによる救いです。ザカリヤは息子ヨハネの誕生を喜ぶよりも、メシヤの到来を喜び感謝しています。私たちは知識として神を知るだけではじゅうぶんではありません。神を知り、神の働き、力を体験するとき、信仰は生きた信仰となり、神への賛美があふれます。
2.ヨハネの使命
 ザカリヤは、預言を通して与えられた息子ヨハネの使命を明らかにし、み使いから聞いたとおりに育てました。ヨハネはイエスの道を備える預言者として整えられていきました。
 ヨハネはザカリヤとエリサベツの祈りによって神から与えられました。しかし、いざ与えられると、み使いから語られるとそれを受け止めることがザカリヤにはできませんでした。私たちはどうでしょうか。神の力を信じていますか。私たちの口からは神への賛美、感謝があふれているでしょうか。

2019年12月1日

恐れるな、ザカリヤよ、あなたの祈りが聞きいれられたのだ。
         ルカによる福音書1章13節

 ユダの町に住むザカリヤとその妻エリサベツは、子どもが与えられるようにと願い、祈りつつ過ごしていましたが、子どもが与えられないまま老年を迎えていました。
1.バプテスマのヨハネ誕生の予告
 この当時の祭司たちは24の組に分かれていました。アビヤの組は8番目で、その組の当番の時、くじが当たりザカリヤは香をたくために神殿に入りました。神殿の中で、主の使いが現れ、ヨハネの誕生を告げます。しかし、ゼカリヤは信仰と理性の板ばさみとなります。「わたしは老人ですし、妻も年を取っています」と叫ぶと、ザカリヤはものが言えなくなります。これは不信仰に対する罰であると同時に、神がザカリヤに与えた恵みでもあります。ザカリヤとエリサベツの祈りは聞き届けられていました。
2.祈りは聞かれる
 神は彼らの願った以上のことをしてくださいました。生まれてくる子は、多くのイスラエル人を神に立ち返らせる働きをするようになると言います。神はザカリヤにヨハネを与えられました。
 私たちは神に向かって祈ります。神の全能を信じていますか。神のみことばに立ち、望んで疑わず、祈り続けましょう。神は必ず祈りに答えてくださいます。

2019年11月24日

食物と喜びとで、あなたがたの心を満たすなど、いろいろのめぐみをお与えになっているのである。
         使徒行伝14章17節

1.ルステラでの癒し
 イコニオムで迫害を受けたパウロたちは、ルステラに行きます。そこで生まれながらに足のきかない人に会います。パウロはその足のきかない人に「いやされるほどの信仰」があるのを見て「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」と命じました。すると、彼は立ち上がりました。そこにいた群衆は、バルナバとパウロが奇跡を行ったと誤解し、バルナバをゼウス(ギリシャの守護神)、パウロをヘルメス(雄弁の神)と呼び、いけにえをささげようとしました。真の神を知らないということがこのような行動をとる結果となりました。
2.使徒たちの証し
  パウロは群衆に真の神である生ける神(15節)を伝えようと語りかけます。真の神は、天地創造の神であり、歴史を支配するお方です。神はパウロとバルナバを通して働かれたのであって、人間は神になることはできません。そして生ける神は、私たちに恵みをもって、天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と喜びで心を満たしてくださいます。パウロは、人を神と考えることの愚かしさ、むなしさを説きました。真の神は創造主であり、恵みをもってご自身のことを私たちに証ししておられます。

2019年11月17日

神の栄光が都を明るくし、小羊が都のあかりだからである。
         ヨハネの黙示録21章23節

1.新しいエルサレムの栄光(21:22~27)
 新しいエルサレムの都には聖所がありません。神様と小羊が聖所だからです。神様の栄光がすべてを照らし、小羊が都のあかりなので、太陽も月も必要ありません。イエス様を信じて救われた人が、神の光の中を歩みます。イエス様を拒み、罪の赦しを得られなかった者はそこに入ることができません。私たちの信仰は決してむなしいものではありません。
2.神の国の完成(22:1~5)
 1、2節で新しいエルサレムにおけるいのちの豊かさを描写しています。神の国には水晶のように輝いているいのちの水の川が流れていました。この川は神の小羊の御座から出ていました。川の両側にはいのちの木があります。その木は12種類の実を結ぶのです。新しいエルサレムの中心は神の小羊です。私たちのためにいのちを捨ててくださった神の小羊が都の中心におられるのです。私たちの最大の感謝は、イエス様の十字架と復活により、この地のすべての苦しみと悲しみを栄光と喜びに変えてくださる恵みであり、救い主なるイエス様とともに永遠に住むことのできる天の御国でしょう。この希望を抱いている人は、この世でどんな大きな苦しみがあったとしても、感謝の心で勝利することができます。 

2019年11月10日

わたしは初めであり、終りであり、また、生きている者である。
          ヨハネの黙示録1章17、18節

 イエスは、私たちの罪のために十字架にかかり、復活して天に帰られました。天にお帰りになってから約60年後の出来事です。
1.栄光の主
 ヨハネは迫害によってパトモス島に流刑となっていました。ヨハネは迫害の中にあっても主日礼拝を守り続けました。そのヨハネに対して、神はこれから後の何千年もの間、イエスがもう一度地上においでになるまでに、世界にどのようなことが起ってくるかを見せられました。燭台の真ん中に見えた人の子は、髪の毛は白い羊毛、目は燃える炎のようで、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い剣が出ていて、最初であり最後であり、死と黄泉のかぎを持っています。ヨハネは輝く栄光に満ちたイエス・キリストの姿に対面することにより、大きな慰めと励ましを得ます。
2.確信による勝利
 イエスの威厳ある姿を見たヨハネはまるで死者のように倒れました。主はヨハネに右の手を置いて「恐れるな」と励まされます。そして「死と黄泉の鍵」がご自身にあることを明かされます。主は未来の勝利者であるだけでなく、今も教会を治められ、守っておられる主権者です。どんな試練や逆境がやってきても、教会は永遠の勝利が保証されているのです。

2019年11月3日

もし信じるなら神の栄光を見るであろうと、あなたに言ったではないか。
         ヨハネによる福音書11章40節

 イエスは永遠のいのちを与えることができると、ラザロの復活の奇跡を通して示されています。
1.ラザロの病と死
 ベタニヤにマルタ、マリヤ、ラザロという3人の兄弟がいました。イエスはこの兄弟を愛していました(5節)。イエスはラザロが重い病気にであることを知らされましたが、すぐに向かわず、イエスが行ったときには死んでお墓に葬られていました。マルタとマリヤは「主よ。もしあなたがここにいてくださったら、私の兄弟は死ななかったでしょう」(21、32節)と言っています。ラザロの死は誰にも変えようのない事実です。死んで4日もたってしまったら、たとえイエスでもどうすることもできないと考えたのかも知れません。
2.イエスは復活と命
 ラザロの墓は大きな石でふさがれており、死んで4日も経って臭くなっています。イエスが石を取りのけるように言われますが、マルタは、そんなことをしても仕方がないという態度を示します。するとイエスは、信じるなら神の栄光を見るであろうと言われ、祈った後、「ラザロよ、出てきなさい」と叫ばれました。すると、ラザロは墓から出てきました。人々は、ラザロがよみがえる奇跡を体験しました。私たちも信仰をもって祈り、主の栄光を見る者となりますように。

2019年10月27日

わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる。
         ヨハネによる福音書10章11節

 この話は9章を受けて、特にパリサイ人に向けて語られました。
1.門なるキリスト
 この当時の羊飼いは羊が囲みに入った後、入り口をふさぐように身を横たえて眠りました。羊の命を守るためです。門から入らず、他のところを乗り越えてくる者は盗人であり、強盗であると言われます。この盗人や強盗はパリサイ人のことを言っています。イエスは豊かにいのちを得させる存在です。囲いの中にこそ安全があり、永遠の命があります。
2.羊飼いなるキリスト
 羊飼いであるイエスは羊のことをよく知っており、命を与えます。そしてその命がさらに豊かにされるために、牧草のあるところに導いてくださいます。羊は羊飼いを信じ、ついて行きます。また、羊飼いは羊が大切なので、一生懸命に養います。
3.命がけの愛
 羊飼いは羊のために命を捨てると書いてあります。「捨てる」は危険を冒すという意味があります。命をかけて羊を守るのです。イエスの愛は自分のいのちを犠牲にした愛です。イエスは私たちの罪の犠牲となり、十字架に命を捨ててくださいました。
 良い羊飼いであるイエスはあなたのことを呼んでおられます。わたしを信じて、従ってきなさいと。あなたは何とお答えしますか。

2019年10月20日

わたしは、この世にいる間は、世の光である。
         ヨハネによる福音書9章5節

 イエスは道の途中で盲人を見られます。弟子たちは、だれの罪のために盲目に生まれついたのかと質問します。
1.盲人をめぐる質問
 当時のユダヤ社会では、生まれつき盲目に生まれたのは両親に責任があるとする考え方があったようです。日本にある因果応報の考えと同じです。弟子の質問に対し、イエスは丁寧に答えます「ただ神のみわざが、彼の上に現れるため」と。誰かの罪の結果ではなく、神の働きがこの人に現わされるために盲目に生れたのだとのだとイエスは言われました。神は人間的な不幸を不幸のまま終わらせないお方であり、むしろ神のわざの現れる積極的な機会としてくださいます。
2.盲人の癒やし
 イエスは地につばきをし、そのつばで泥を作り、盲人の目に塗りました。そしてシロアムの池で洗うように言われました。目に泥を塗られたままイエスのみことばに従ってシロアムの池に行くこの盲人を見て、人々はあざ笑ったかもしれません。池に行く途中では何の変化もありませんでしたが、池の水で洗うと目は癒されたのです。それと同時に霊の目も開かれました。イエスを神からつかわされた方(33節)と告白するに至ったのです。時に、苦難を通して神がどのようなお方であるかを知ることがあります。神のみことばを素直に受け入れる決意をすること、そこに神のみわざがなされます。

2019年10月13日

わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう。
         ヨハネによる福音書7章38節

1.わたしのところに来なさい
 イエスは「だれでもかわく者は、わたしのところに来て飲むがよい」と言われました。どんなに盛大な儀式でも人々の心は満たされません。イエスは人々の心のかわきが満たされるよう願っていました。そして、イエスのもとに来るものに対して「生ける水」を与えると言われました。
2.わたしを信じなさい
 わたしを信じる者には腹から生ける水が川となって流れ出るとイエスは言われます。イエスはかわいた心にいのちの泉を与えると言われました。いのちの泉であるイエスが内に住まわれることにより、わたしたちの心は満たされるのです。
3.聖霊が与えられる
 では、水とは何でしょうか。それは、聖霊の注ぎです。しかし、聖霊はイエスが十字架について、天に昇られたあとに与えられるものです。人間の力や努力では満たされないものが、イエスを信じることによって、助け主なる聖霊が与えられることによって満たされるのです。世の楽しみや権力、富ではかわきは満たされません。ただいのちの水である主のみもとで新しいいのちを得るとき、永遠にかわくことがなくなります。イエスのもとに行きましょう。そして、イエスを救い主と信じ、喜びに満たされましょう。

2019年10月6日

起きて、あなたの床を取り上げ、そして歩きなさい。
         ヨハネによる福音書5章8節

 イエスはだれからも顧みられないような孤独な人にも目を留め、絶望しているような人に近づき、救いを提供してくださる救い主です。
1.言い伝えに頼る
 38年間、病気に悩んでいる人がいました。この人はユダヤの言い伝えによってべテスダ(憐みの家)の池の水が動いたとき、真っ先にがいる者はどんな病気でも癒されるということを信じて、べテスダの池のほとりにいました。この人は言い伝えに頼って病のからだでべテスダに池にやってきたのでしょう。しかし、38年間、病がいやされることはありませんでした。
2.人に頼る
 38年間病に悩む人に対して、イエスは「治りたいか」と質問します。その答えとしてこの人は水が動くときに自分を池の中に入れてくれる人がいないと言います。人を信頼しても裏切られることがあります。また、真っ先に入る者がいやされるということは、自分だけが良くなることで、他の人をけ落として自分だけがいやしていただくことです。
3.恵みをいただくために
 イエス・キリストの恵みを受け取ろうと思うなら、ただ信じ、受け入れることです。イエスはこの人に触れることはなく、ただことばをかけただけでした。
 私たちのからだも心も癒す権威を持っておられるのは、イエス・キリストただお一人です。

2019年9月29日

わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがない。
          ヨハネによる福音書4章14節

 永遠に枯れることのない水とはどういうものなのでしょうか。イエスは言いました「わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう。」(14節)。私たちも、イエスが与えて下さる水をいただきたいものです。
1.サマリヤの女の渇き
 イエスはガリラヤに行かれるのに、サマリヤを通りました。それは、神のご計画があったからです(4節)。サマリヤの女は誰にも会いたくないので、昼の12時ころに水をくみに行ったのに、イエスから声をかけられます。この女は何の希望もわいてこない渇いた心の持ち主だったのです。
2.イエス・キリストが与える水
 イエスが与えようとされていた水は、イエスを信じることによって心の中に与えられる喜びの泉であり、渇くことのない水であり、永遠のいのちに至る水でした。
3.まことの礼拝
 イエスとの対話によって、この女の心にはイエスが与える水への求めが起こされました。それは神を礼拝する思いでした。イエスは礼拝する場所が大切ではなく、唯一の神へ心が向けられること、霊とまことによって礼拝することが大切であると語られました。この後、女の生き方は変わります。この女の渇きが満たされ、永遠の命が与えられたからです。永遠の命を得たいと願うなら、私たち自身が神の前に出なければなりません。つきることのない泉から、日々恵みをいただきつつ、永遠の命の道を歩みましょう。

2019年9月22日

だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない。
         ヨハネによる福音書3章3節

 神の国に入るために大切なことは何でしょうか。
1.ニコデモの訪問
 ニコデモはパリサイ人であり、ユダヤ人の指導者でしたが、神の国に入るにはどうすればよいか知りたかったのでしょう。イエスを訪問しました。ニコデモの思いを知っていたのかイエスは「新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」と言われました。
2.御霊による新生
 水と御霊によって生れるというのは、バプテスマと聖霊の働きによって新生することを語っています。神の国に入るためには、神の力によって霊的に生まれる経験をしなければなりません。イエスは風を例に、人を新しくする聖霊の働きを説明します。風は目で見ることはできません。しかし、風が吹いたと結果で知ることができます。神の御霊が働くと、新生という結果を確認することができるのです。
3.十字架への信仰
 イスラエルの民は神に対してつぶやき逆らったので、神は燃える蛇を罰として送られました。彼らが赦されるために、神はモーセに青銅の蛇を作らせ、それを棒に掲げ、すべての人が見上げることができるようにしました。信仰をもって十字架につけられたイエス・キリストを見上げるならば、罪が赦されるのです。
 私たちの罪のために十字架にかかって下さったイエスを信じましょう。Ⅱコリント5章17節。 

2019年9月15日

イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行い、その栄光を現された。
         ヨハネによる福音書2章11節

 聖書の中に奇跡(しるし)の記事が35回記され、ヨハネによる福音書には7つの奇跡が書かれています。そして、奇跡の特徴は「信仰」と「祈り」を強調していることです。
1.主イエスの時
 イエスの母マリヤの親戚にあたる人の婚礼だったからか、イエスはその結婚式に招かれました。弟子たちや客たちが飲みすぎたため婚礼の途中でぶどう酒がなくなったのです。接待役のマリヤはイエスなら何とかしてくれるであろうと思い、この問題を解決してほしいと願います。主が肉の欲でいつでも人を喜ばせるような力あるわざを行ってくれると期待してはいけません。
2.主イエスの力
 母マリヤは、しもべたちにイエスが言うことは何でもするようにと命じます。イエスはしもべたちに井戸から水を汲んできてかめを満たすように言います。しもべたちは水をくむことがどういう意味なのか分からなくてもイエスに従いました。料理長がかめの水をなめてみると、それは今までのぶどう酒よりも良いぶどう酒だったのです。
 私たちの人生にも、人の力ではどうしようもない時があります。しかしその時こそ、主の力が示される時となります。イエスの力は私をまた私の人生を変える力があるお方です。

2019年9月8日

見よ、世の罪を取り除く神の小羊。
         ヨハネによる福音書1章29節

 生れてきたからには幸せになりたいと願うのが私たちの自然な願いです。しかし、イエスもバプテスマのヨハネも、人々のために人生をささげ、報いとして受けたのは「死」でした。
1.人となられた意味
 ヨハネはイエスはことばであり、光であり、いのちであると書いています。このようなお方が、人となって私たちの間に住まわれました。それは、罪の贖いを成し遂げるためでした。
2.犠牲の小羊
 先駆者としてのヨハネの役割は、罪の悔い改めを説き、人々の心を整えること、そしてメシヤの到来の時にそのお方を紹介することでした。ヨハネはイエスのことを「世の罪を取り除く神の小羊」と紹介します。では「神の小羊」とはどういうことでしょうか。これは旧約聖書を知らないと理解できません。旧約時代、人々の罪を贖うために、傷のない小羊が身代わりとしてほふられました。イエスはこの羊としてこの世にお生まれになったのです。罪の代価を払うために、神はひとり子であるイエスを犠牲としてささげたのです。
 私たちは自分の中にある罪を解決しないでは天国へ行くことはできません。私の罪の身代わりとなってくださった十字架のイエスを信じ、心に受け入れましょう。

2019年9月1日

わたしの神はその使をおくって、ししの口を閉ざされた。
         ダニエル書6章22節

 ダニエルの姿を通して信頼すべきお方はどなたなのかを学びます。
1.ダニエルを陥れる陰謀
 ダリヨス王の信頼を得て総督となったダニエルを、総監や総督らはねたみ、失脚させる陰謀を企てました。彼らは「今から30日間、王以外のいかなる神にも人にも祈ってはいけない。祈る者はししの穴に投げ込まれる」という禁令を出すように王に進言しました。
2.ライオンの穴に投げ込まれるダニエル
 ダニエルは王が禁令に署名したことを知りましたが、以前からおこなっていたように、一日に三度ずつひざをかがめて神の前に祈っていました。ダニエルは自分の信仰生活を隠したり、遠慮することはなかったのです。すると、ダニエルを陥れようとする者たちは、王に訴え、ダニエルは禁令に違反する者として王の前に連れ出されました。王は「あなたがいつも仕えている神が、あなたを救われるように」と言って、ダニエルをししの穴に投げ込ませました。
3.信頼する者を守る神
 穴に投げ込まれたダニエルは守られました。どのような状況にあっても聖書の神を信頼する者を神は見捨てられることはありません。神は信仰者に勇気を与え、救いの恵みからもれないように迫害の中でも守ってくださいます。

2019年8月25日

わたしは雲の中に、にじを置く。これがわたしと地との間の契約のしるしとなる。
         創世記9章13節


2019年8月18日

わたしは海と陸とをお造りになった天の神、主を恐れる者です。
         ヨナ書1章9節

 ヨナが活躍したのは北王国イスラエルのヤラベアム(列王紀下14:25)の時代と言われています。ヨナ書の特徴は預言者が異教の国に遣わされて、イスラエルの神、真の神のメッセージを語るということです。
1.神の命令
 神はヨナに対してアッスリヤのニネベに行き、人々の罪を指摘し、悔い改めさせるように命じられました。しかしヨナはイスラエルをおびやかすアッスリヤの救いのために働くことを拒み、神の命令に従いませんでした。自分の感情や好みで神に従うかどうかを決めることは、実に愚かなことです。
2.ヨナに介入される神
 ヨナはニネベに行かず、「主の前を離れて」ニネベとは反対のタルシシ行の船に乗りました。神は大風を起こし、船は沈みそうになり、その原因だとわかったヨナを海に投げ込むと海は静かになりました。神のみこころから外れても神は介入して下さいます。悔い改めて従いましょう。
3.ヨナの救い
 ヨナは神の前を逃れることはできませんでした。神は神にそむこうとする者に対してもあわれみを示し、方向を変えてくださるお方です。ヨナには大きな魚が用意されていました。真の悔い改めは、破れてしまった神との関係を謙遜に求めることです。

2019年8月11日

身を洗って清くなれ。
         列王紀 下5章13節

1.ナアマン将軍の苦しみ
  ナアマンは勇士であり、王の信頼と尊敬を得ていました。ところが、ナアマンには深い悩みがありました。思い皮膚病で悩んでいたのです。ナアマンの妻に仕えていたイスラエルの少女を通して、病がいやされるかもしれないと希望が与えられました。ナアマンはスリヤ王の手紙を携えてイスラエルに行き、エリシャに出会います。エリシャはナアマンにヨルダン川で七たび身を洗うように言います。神はナアマンが神のことばに謙遜に従うか見ておられました。神のことばを受け止めることなしに祝福を得ることはできません。
2.従順を通していやされる
  ナアマンの性格をよく知っていたしもべたちは、身を洗って清くなれと言われるだけなので、それを実行してみてはどうかと勧めます。ナアマンはこの言葉に目が開かれ、ヨルダン川に7回、身を浸しました。私たちは簡単なことよりも、難しいことを言われた方が、良いことがあるように考えるかもしれません。
 ナアマンの悩みは人に言えないものでした。しかし、エリシャの前に打ち明けた時、解決がもたらされました。私たちも神の前に、悩みを持って行きましょう。神は正直に打ち明ける者に、解決と恵みを与えてくださいます。

2019年8月4日

あいた器を借りなさい。少しばかりではいけません。
          列王紀 下4章3節

1.やもめの願い
 このやもめはエリシャのもとで働く預言者の妻でした。夫の負債を返済することができず、ふたりの子どもが奴隷として取られると言ってきました。この訴えは不満ではなく、神はこのような者を顧みてくださらないのだろうかというものです。神に仕える預言者でもこのような悲惨なことがあります。このような時に、訴えを聞いてくださるお方がおられるということは何と幸いでしょうか。
2.信仰と期待
 エリシャは訴えを聞いた後、彼女に「あなたのために何をしましょうか。あなたの家にはどんなものがあるか。」と尋ねます。エリシャはこの女が負債を返すための助けをしなければなりません。一びんの油があると答えた女のその答えに、器を借りてくるように言います。女は器が何に用いられるかわからなかったでしょう。しかし、言われるままに従いました。
3.奇跡の満たし
 女は命じられた通り、子どもが持ってくる器に油を注ぎました。最後の器に油を入れると、油は止まりました。神の御業を経験する者にとって、なぜという質問は不要です。言われたことを忠実に行うところに神の恵みがあります。人の必要をご存知でそれを満たしてくださる神を知りましょう。信仰は苦難をも神の働きを経験する恵みとなります。

2019年7月28日

どうぞ、あなたの霊の二つの分わたしに継がせてください。
         列王紀 下2章9節

 エリヤとエリシャの最初の出会いは、列王紀上19章19節以降に記されています。
1.エリヤに従うエリシャ
 エリヤが天に召される時が少しずつ近づいてきました。エリシャはエリヤの後継者として召されていましたので、その時期が間近に迫っていることがわかったとき、エリヤから離れることなく、少しでも多くのことを学ぼうとしていました。エリヤのように自分もよい働きをしたいと願ったエリシャはどこまでもエリヤと共に進んでいきました。
2.霊の継承
 いよいよエリヤが天にあげられようとする時、エリヤはエリシャに「してほしいことは何か」尋ねました。エリシャは「霊の二つの分を継がせてください」と答えたのです。エリヤ自身がそれを与えることはできません。主の働きをするための力は、人から人へと与えられるのではなく、直接、主ご自身からいただかなくてはならないものです。つむじ風に乗って天に上げられたエリヤを見届けたエリシャは、エリヤの外套を拾い上げ、主から霊と恵みをいただきたいと願いました。神の働きのために大切なのは、人に力があるかどうかではありません。神に従う人に与えられる神の力こそが最も大切なのです。

2019年7月21日

火をもって答える神を神としましょう。
         列王紀 上18章24節

1.カルメル山の対決
 エリヤは、偶像を崇拝していたアハブ王に神が干ばつという裁きをくだされると宣告し3年間雨がありませんでした。その後、エリヤはアハブ王のもとに行き、バアル礼拝の中心地だったカルメル山上で、バアルの預言者と対決しました。エリヤは自らの神とバアルの預言者たちが仕える神とどちらが本当の神なのかをはっきりさせようとします。祈りに答えて下さる神こそが本当の神だから「火をもって答える神を神としましょう」と言います。バアルの預言者450人によって祈りが捧げられましたが答えられませんでした。
2.火をもって答えられた神
  バアルの預言者のむなしい努力の後、エリヤは再び主の祭壇を築くことから始めます。イスラエルの崩れた信仰をもう一度立て直そうとしたのです。そして、いけにえとたきぎに水を注ぎ、絶対に火がつかない環境を作ります。エリヤの祈りは聞かれ、神はすぐに火を下し、濡れていたいけにえとたきぎを焼き尽くします。エリヤは勝利しました。「エリヤは、わたしたちと同じ人間であった」(ヤコブ5:17)。私たちの信じる神は真の神です。必ず祈りに答えて、驚くべき方法で主が神であることを示してくださいます。聖書の神を信じましょう。

2019年7月14日

わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられます。
         列王紀 上17章1節

1.神は生きておられる
 イスラエルの北王国のアハブ王は、サマリヤの町にバアルという偶像を拝むための神殿を建て、祭壇を築いてみんなが拝めるようにしました。また、アシラという女神も造りました。王も民も真の神と偶像の神を礼拝するという状況の中に、神はエリヤを遣わしました。エリヤがまず伝えたのは神は生きておられるということでした。エリヤが「わたしの言葉のないうちは、数年雨も露もないでしょう」と宣言すると、その言葉通り、その後3年間、一滴の雨も降りませんでした。アハブ王とイスラエルの民が真の神に立ち返るために、神が備えられた3年間でした。神はエリヤにアハブ王からの迫害を避けてケリテ川のほとりに身を隠すように言います。エリヤにとって神の力を信じ、祈り備えるときでした。
2.神の備え
  ケリテ川がかれてしまうと、神は、シドンのザレパテに行くように命じます。エリヤはそこでひとりのやもめ女に出会い、水と食べ物を求めます。やもめは最後に残った食べ物で食事をして死のうとしていました。神に従うときに、神は必要なものを満たしてくださいます。神はみことばに従うことが容易でない状況でも信じて従うとき、驚くべき方法で助けてくださるお方です。神が生きて働いてくださることを体験できるのです。

2019年7月7日

主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます。
         使徒行伝16章31節

 ヨーロッパに入ったパウロたちはその地方第一の都市ピリピで宣教を始めました。
1.パウロの投獄
 占いの霊にとりつかれた女奴隷を助けてあげたにもかかわらず、占いでお金儲けをしていた主人たちはお金を儲けることができなくなり、パウロとシラスを長官に訴えました。不当な罪で、むちで打たれ、奥の獄屋に入れられました。二人は失望したのでしょうか。いいえ、二人は神に祈り、賛美が口からあふれていました。環境や状況に支配されるのではなく、その場を変えてくださる神に期待できることは感謝です。神の不思議なみわざにより、大地震が起こり、獄屋の扉が開きました。
2.主イエスを信じなさい
 獄屋の扉が開いたにもかかわらず、パウロとシラスそしてほかの囚人たちも逃げ出す者はいませんでした。その状況の中に獄吏の心に神を求道する心が起りました。獄吏だけが主を信じただけでなく、家族みんなが救われバプテスマを受けました。
 パウロとシラスまた獄吏にとって、今回の状況は望んで起こった事ではありませんでした。しかし、その中にも素晴らしい神の恵みを経験したのです。

2019年6月30日

マケドニヤに渡ってきて、わたしたちを助けて下さい。
         使徒行伝16章9節

 使徒行伝15章36節からパウロの第2回伝道旅行が始まります。この伝道旅行は福音をヨーロッパにまで伝える旅行となりました。
1.聖霊にとどめられたパウロ
 テモテという良き助け手を得たパウロは伝道旅行を続けます。パウロはアジヤ圏内の伝道を願っていましたが、神は、それよりも大きな計画をもっておられました。イエスの御霊が、パウロをトロアスまで導きました。パウロは神の導きに従って伝道の働きをしていたことがわかります。私たちの信仰生活でもご聖霊の導きを感じることができますように。
2.幻に導かれたパウロ
 パウロがトロアスにとどまった時、幻を見ました。マケドニヤ人が助けて下さいと懇願するという内容でした。魂の救いは、人の力でできるものではありません。パウロは。マケドニヤに福音を伝えることが神のみこころであると確信し、船に乗ってネアポリスに向かいました。自分がどんなに良い計画を立てていたとしても、神が願われないのなら、その計画を中止しなければなりません。神の導きに従うことが、神のお働きを進めていきます。そして、そこに祝福があります。神のみこころに従う者となりましょう。

2019年6月23日

天から光がさして、彼をめぐり照した。
         使徒行伝9章3節

 サウロの回心は使徒行伝では大変重要な箇所です。その証拠に同じ記述が3回(22、26章)も出てきます。回心とは従来の不信の態度を改めて、信仰者としての生活に入ることです。
1.神に選ばれたサウロ
  サウロは聖徒たちを捕らえようとダマスコに向かっていました。そのサウロにイエスが現れ、クリスチャンを迫害することはわたし(イエス)を迫害していることだと言われます。サウロは目が見えず、人に頼らなければダマスコへ行くことができませんでした。神が人を選び、神の働きをゆだねるとき、自分の力に頼ることをやめさせます。神の力により頼むことが神の働きを担うにふさわしい器であることを教えるためです。
2.サウロの回心
  ダマスコにアナニヤという弟子がいました。アナニヤは祈りの中で神に導かれサウロに会います。アナニヤがサウロの上に手をおいて祈ると目からうろこのようなものが落ち、見えるようになると、バプテスマを受けました。イエスはアナニヤにサウロの使命を伝えていました。サウロの人生は今までとは全く違う人生へと変えられたのです。欠点や弱点があるにもかかわらず、私たちを選び、救ってくださり、器として用いてくださる神に従いましょう。

2019年6月16日

ナザレ人イエス・キリスト名によって歩きなさい。
         使徒行伝3章6節

 ペンテコステの後、聖霊に満たされた弟子たちを通して多くの不思議やしるしが現れます。
1.生まれつき足のきかない男
 美しの門は宮に出入りするために必ず通らなければならない門でした。足のきかない男はそこで毎日施しを求めて生きていました。美しの門に行くにも人に運んでもらわなければならない状況でした。宮の近くでその日を過ごしながらも、神に期待せず、人を頼っていました。
2.イエス・キリストの力
 ペテロとヨハネは生まれつき歩けなかった男のたましいの渇きを見抜き、彼の関心をイエス・キリストに向けさせます。ペテロはイエス・キリストの名(権威)によって癒しの御業を行いました。癒されたこの男は踊りあがって立ち、歩き出しました。この男の願いは数日間でもよいから生きることができる施しをいただくことだったかもしれません。しかし、ペテロは自分で生きていけるようにしてあげたのです。イエスは私たちに永遠のいのちと新しい人生を与えてくださいます。イエスは、唯一の救い主であり、その御名には病を癒す力があります。私たちの願いどおりにならないからと言って、祈りをやめてはいけません。イエスの御名によって大胆に祈りましょう。

2019年6月9日

ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となるであろう。
         使徒行伝1章8節

1.大宣教命令と約束
 イエスは聖霊が注がれることによって、弟子たちが経験した事実を伝える証人となることを告げられました。いつ起こるかはわかりませんが、イエスの約束を信じて従う者を通して大宣教命令は実現し、前進します。
2.熱心な祈り
 神の偉大なみわざは、祈りの後に広がります。14節に心合わせて、ひたすら祈っていたと記されています。そこには婦人たち、イエスの母マリヤと兄弟、11人の弟子たちがいました。ここで祈りに打ち込んでいたのです。待っている時は祈るべき時です。神は、熱心に祈り求める者に、喜んで聖霊を与えられます。
3.聖霊の降臨
 ペンテコステの聖霊降臨は、すべての民に聖霊が注がれるという預言の成就(ヨエル2:28~32)です。突然激しい風が吹いたような音がして響き、舌のようなものが、炎のように分かれて現れ、一人びとりの上にとどまりました。一同は聖霊に満たされていろいろな言葉で神の御業を語り始めたのです。ペンテコステは一度きりの出来事であって、繰り返されることはありません。しかし、その体験は日々霊的に味わい直すことができます。

2019年6月2日

わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。
         ヨハネによる福音書13章34節

 イエスは弟子たちに新しい戒めを与えました。それは「互いに愛し合いなさい」と言うものでした。イエスは15章でも「互いに愛し合いなさい」と語ります。私たちにとって互いに愛し合うとはどういうことでしょうか。
1.互いに愛し合いなさい
 新しい戒めはイスカリオテのユダがイエスと敵対する人のもとへ出て行った後に語られました。互いに愛し合う愛の共同体として生きるようにということでした。他者を愛し、自分を愛することが大切です。自分を愛することができなければ他者を愛することはできません。
2.イエスが愛したように
  では、どのように愛するのでしょうか。イエスはわたしがあなたがたを愛したようにと言います。イエスは弟子たちをありのままの姿で受け入れました。私たちもお互いにありのままの姿で受け入れ合うことが大切です。そうするならば、イエスの弟子であることをこの世が認めることになると言います。
 自分の姿を顧みてください。自分の良いところも悪いところも受け入れて自分自身を愛することができますか。そして、兄弟姉妹を愛していますか。互いに仕え合い、赦し合い、励まし合ってキリストの愛を証ししましょう。

2019年5月26日

そこであなたがたは、もはや異国人でも宿り人でもなく、聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族なのである。
         エペソ人への手紙2章19節

 イエスを信じる信仰によって神の子とされた私たちは神の家族であることを覚えましょう。
1.同じ国籍である
 イエス・キリストを救い主と信じた者は神の子とされました。神の子とされた者は日本人であれ、外国の方であれ神の子として同じであると言います。聖書には「異国人でも宿り人でもなく、聖徒たちは同じ国籍」と書かれています。パウロは、ユダヤ人も異邦人も「キリストによって」一つの「国民」とされ、神の民として聖徒と呼ばれていると語っています。
2.教会は神の家族
 イエスと神との関係は、永遠の親子関係です。神を父と呼ぶ特権が私たちにも与えられました。イエスが祈りについて教えられたとき、「あなたがたの父に祈りなさい」と言われています。神が父であり、イエスは長子です。そして、私たちはお互いに兄弟姉妹と呼びます。新しい神の家族が生れました。クリスチャン同士が神の家族として助け合い、永遠の家、つまり教会を築き上げていかなければなりません。教会は神の家族の集まりです。互いに愛し合いましょう。

2019年5月19日

すべてイエスのキリストであることを信じる者は、神から生れた者である。
         ヨハネの第一の手紙5章1節

 この手紙には2章で従うこと、愛、信じることを説明し、3章では従うことと愛を、4章では信じることと愛を説明しています。5章の最初には信じること、愛、従うことをヨハネが述べています。
1.世に勝つ信仰
 聖書が「世」という時、それは、「世の中」のことではなく、神に敵対している不信仰な世界という意味です。クリスチャンはこの不信仰との戦いの中にいます。4~5節には「世に勝つ」という言葉が3回出てきます。2回目の「世に勝つ」は過去に起った一度きりの確実な勝利つまりイエス・キリストが十字架と復活によって悪魔、罪、死の支配に勝利されたことを意味しています。神を信じる者は、罪と死に打ち勝たれたイエス・キリストにあって神の力で生きているので、すでに世に勝った者です。
2.神の子として生きる
 父なる神を愛し、神の戒めを守りましょう。イエスを完全に頼るとき、世に勝つことができます。イエスは私の救い主ですという信仰があるなら、私たちは神の子です。信仰によって神を愛し、神を信じる兄弟姉妹を愛し、神の命令を守ることによって神の勝利が与えられます。

2019年5月12日

あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神です。
         ルツ記1章16節

 今日の主人公ルツはモアブ人(異邦人)であり、ユダヤ人ではありません。義母であるナオミは飢饉のためにモアブへと移り住みました。
1.モアブからベツレヘムへ
 夫と二人の息子を失ったナオミは、ベツレヘムへ帰ることを決心します。今は悲惨な状況ですが故郷へ帰るならば、神の祝福の道があると考えたのかもしれません。しかし、嫁のオルパとルツには、それぞれ自分の家に帰って新しい出発をするようにと説得します。
2.ルツの信仰による決断
 ナオミの決断に対して、ルツはそれを受け入れず、ナオミについて行くと決心します。ルツの決心は単なる親孝行の心ではなく、神への信仰告白であり、献身の現れです。それは異邦の地でも信仰を失わなかったナオミの信仰が結んだ実でもありました。イスラエルの神を自分の神として受け入れ信じ一歩踏み出すとき、ルツはボアズと結婚することができました。そして、イエスの系図に名前が載る存在となったのです。神を愛し、人を愛することで神に祝福された人生を歩むことができると信じましょう。

2019年5月5日

あなたがたは、これらの事の証人である。
         ルカによる福音書23章34節

 イエスは十字架にかかり、復活後、40日間に渡り500人以上の人に現れて、オリーブ山のふもとの村ベタニヤで天に昇られました。
1.イエスの復活の証人
 エマオに向かうふたりの弟子たちに聖書を説き明かしてくださったように、イエスはほかの弟子たちの心も開かれ、ご自分の受難と十字架の死、復活、福音が世界中に伝えられていくことが旧約聖書にあらかじめ預言されていたことだと教えられました。弟子たちは、イエスが逮捕された時にはみな逃げてしまいました。ペテロでさえ、イエスを知らないと否定しました。その弟子たちが証人となるために、イエスは聖霊を与えると約束してくださいました。
2.天に上げられたイエス
  この地での働きをすべて終えられたイエスは、ベタニヤで弟子たちを祝福し、昇天されます。弟子たちは昇天されたイエスを拝し、非常な喜びに満ちてエルサレムに帰り、宮で神をほめたたえます。ルカによる福音書は礼拝で始まり、礼拝で終わっています。イエスこそ、私たちの礼拝と賛美を受けるにふさわしいお方です。

2019年4月28日

彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。
         ルカによる福音書24章31節

1.エマオの途上で
 女たちが空になった墓を訪ねた同じ日に、二人の弟子がエルサレムから少し離れたエマオへ向かっていました。一人はクレオパと紹介されていますが、もう一人はだれであるかわかりません。この二人の弟子は墓に行った女性たちの体験談を聞いていました。ですが十字架刑を見て、失望と挫折を味わい、復活の真偽を確かめることができませんでした。道中、イエスに出会いますが、イエスであるとわからず、自分たちの悩みを打ち明けます。彼らの信仰は「望みをかけていました」(21節)と過去形になっていました。
2.目が開かれて
 イエスと二人の弟子は語り合いながらエマオへと向かいます。イエスは旧約聖書の初めから全体にわたって詳しく説明しました。二人は何かを感じていたでしょう。「心が内に燃えた」と言っています。夕方になり、無理に願う二人にこたえて、イエスは一緒に宿に入り、食卓でパンを祝福して、ふたりに渡しました。その時、目が開かれてイエスであると気づきます。私たちも目で見ることのできないイエスがそばにおられることに目が開かれてなければなりません。みことばによって内が燃えた弟子たちのように、私たちも信仰が強められ、復活の主を信じ、喜びに満たされましょう。

2019年4月21日

あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。
         ルカによる福音書24章5節

 イエスが十字架におかかりになり、3日目によみがえると言われた言葉はこの日成就されました。
1.週の初めの朝
 日曜の朝早く、マグダラのマリヤたちはイエスのお墓に出かけていきました。入り口が開いて墓の中は空っぽでした。イエスが言われた復活の意味をこの時点では理解していなかった女たち。イエスの遺体がないことに失望したのではないでしょうか。
2.よみがえられた主
 からのお墓を見て途方にくれている女たちにふたりの者がイエスがよみがえられたことを告げます。イエスの約束のことばを思い出したことでしょう。女たちの関心はからのお墓ではなく、よみがえったイエスに向けられます。途方にくれた女たちでしたが、イエスが生きておられると知ることにより、喜びが与えられます。
3、弟子たちの反応
 女たちはイエスの弟子たちにイエスのよみがえりを伝えます。イエスの復活を信じることができなかった弟子たちは女たちのいうことをたわごととしか思えませんでした。イエスの復活は事実です。死は終わりではなく、私たちの救いの始まりです。復活のイエスを信じ、今も生きて共におられるイエスを信じ、喜びに満たされましょう。

2019年4月14日

あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう。
         ルカによる福音書23章43節

 今日から受難週が始まります。今週の金曜日はイエスが十字架につけられた受難日です。
1.罪の深さ
 ユダの裏切りによって神の子であるイエスは捕らわれ、裁判にかけられ、罪人として十字架につけられました。この十字架刑にはイエスの他に2人の犯罪人がつけられます。3本の十字架のまわりからイエスをののしる声が聞こえてきます。そして、イエスの真横から犯罪人がイエスを冒涜します。罪を犯した犯罪人は、最後の時も罪を重ねようとしています。罪を犯した者が真の意味で罪を悔い改めることは難しいことです。
2.神の愛の深さ
 もう一人の犯罪人は十字架にかかった時、一緒になってイエスをののしっていました。しかし、「父よ、彼らをおゆるしください。」(34節)という祈りの声にイエスがキリストであることがわかり、きょう、パラダイスへ行くことの宣言をイエスから受けました。イエスは十字架上で苦しみながらも、死を前にして神の働きをなされました。どんな人であっても、真実に悔い改めの祈りをするなら、神の赦しを受けることができます。

2019年4月7日

父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです。
         ルカによる福音書23章34節

 十字架の場面は4つの福音書に記されていて、十字架の意味を教えています。
1.敵のために祈る
 イエスは十字架上で「父よ、…わからずにいるのです。」と祈られました。十字架のまわりにはイエスを十字架につけよと叫んだ人がいます。また、自分の服をくじ引きで分け、あざ笑った者がいます。しかし、イエスはその人たちのために祈りました。なぜなら、神のみこころは罪人の赦しであったからです。私たちは、主イエスのように本心から、敵のために愛をもって祈ることができるでしょうか。
2.十字架による赦し
 イエスが敵の赦しを祈った後も兵卒たちは、ユダヤ人の王なら十字架から降りてみよとあざけります。ののしりやあざけりを受けつつもイエスは黙って耐えられます。イエスはすべての人の罪が赦されるために自分を救わず、十字架の刑を受けました。人を赦すことは難しいことです。しかし、イエスは兵卒や罪人、そして私たちの罪のゆるしのためにご自身のいのちをもって愛を示してくださいました。

2019年3月31日

神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。
         コリント人への第2の手紙5章21節

 ヨハネによる福音書11章にはラザロのよみがえりの記事が書かれています。
1.ラザロの病と死
 ベタニヤにマルタ、マリヤ、ラザロというイエスが愛された兄弟がいました。ラザロは重い病気にかかり、姉たちはイエスに知らせますが、イエスはすぐにラザロのもとへ行きませんでした。イエスがベタニヤに到着した時には死後4日が経過していました。ラザロの死は誰にも変えることのできない事実です。マルタとマリヤは奇跡を行うイエスであっても死んでしまったラザロをどうすることもできないと考えました。
2.ラザロのよみがえり
 泣き悲しむマリヤを見て、イエスは涙を流されました。墓の入り口の石を取り除けるようにマルタに命じます。ためらうマルタに「もし信じるなら神の栄光を見るであろう」と言われ、ラザロを生き返らせてくださいました。
3.イエスは復活といのち
 イエスは「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」(25、26節)と言われます。イエスはラザロをよみがえらせることにより、イエスを信じる者が永遠のいのちを得ることのしるしであり、やがて十字架の上でいのちをささげるイエスが死に打ち勝ってよみがえることの予告でした。

2019年3月24日

主は振りむいてペテロを見つめられた。
         ルカによる福音書22章61節

 サタンはイエスの弟子たちを試みました。12弟子のひとり、ユダはイエスを裏切り最後は首をつって死ぬことになりました。ペテロはどうだったのでしょう。
1.ペテロのつまずき
 イエスに対してのペテロの告白は真実であったでしょう。しかし、信仰の道は意志や決意、情熱だけでは歩めません。イエスはペテロのために信仰が亡くならないように祈ったと言われています。サタンの試みは巧みです。ペテロは三度知らないとイエスを否定しました。しかし、この経験が同じ信仰を持つ仲間を励ます力になります。
2.イエスのまなざし
 イエスが十字架におかかりになる前に大祭司の邸宅に連れて行かれました。そこにペテロもついて行ったのです。鶏が鳴くまでに3度知らないと言ってしまったペテロをイエスは見つめられました。そのまなざしに何かを感じたのかペテロは外に出て泣きました。ペテロ自身、自分の弱さに気づいたことでしょう。それ以上にイエスの愛とあわれみを感じたのではないでしょうか。イエスのまなざしは私たちにも注がれています。

2019年3月17日

あの貧しいやもめはだれよりもたくさん入れたのだ。
         ルカによる福音書21章3節

 教会では献金をします。献金はまごころからの神への感謝と献身のしるしであると教団発行の信仰生活の指針に書いてあります。イエスは金持ちたちの献金する様子や貧しいやもめが献金する姿を注意深く見て語られました。
1.人の目
  この当時のユダヤでは、やもめが生計を立てることは非常に困難で、「やもめ」ということば自体が極貧を意味するほどでした。金持ちの献金は自分たちの誉れを求め、貧しいやもめの献金は感謝の心から犠牲と喜びを求めるものでした。しかし、人の目から見るとどちらが素晴らしく見えるでしょうか。
2.心の重要性
 イエスは金持ちたちの献金を「ありあまる中から献金を投げ入れた」と言われ、貧しいやもめの献金を「乏しい中から、持っている生活費全部を入れた」と言われました。重要なのは、献金の金額ではなく、そこに込められた愛と献身です。貧しいやもめは全財産をささげました。これは神への全き信頼がなければできないことです。豊かな時よりも乏しい時に神への信頼と信仰が試されます。愛をこめて自ら進んでささげるとき、神が喜んで受け入れてくださいます。心を尽くして献金するとき、神よりの報いがあります。人は外見を見ますが、神は心をご覧になります。

2019年3月10日

彼らにはモーセと預言者とがある。それに聞くがよかろう。
         ルカによる福音書16章29節

 ここにはある金持ちと貧しいラザロが対比されています。
1.地上での価値
 金持ちは紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていました。ラザロは全身でき物でおおわれて、金持ちの玄関の前で、人の施しをいただかなければ食べるものもないような生活をしていました。金持ちとラザロが死んでしまい、その姿を見るとラザロはアブラハムのふところ(天国)に行き、金持ちは黄泉(地獄)にいました。生きているときの外見では判断できないものがあります。
2.見出すべき価値
  この世のものに価値をおいてはいけません。なぜなら、お金持ちであっても死後の世界はどうにもならないからです。全ての人が天国へ行くのではありません。また、天国と地獄を行き来することはできないのです。死後に天国へ行くか地獄へ行くかは、今の生活によって決まります。私たちは何に価値を見出すべきでしょうか。私たちは真の神に目を止め、私の中にある罪を認め、十字架にかかって下さったイエスを信じることです。


2019年3月3日

求めよ、そうすれば、与えられるであろう。 
         ルカによる福音書11章9節

1.祈りの内容
 ここに記された祈りは「主の祈り」と言われています。祈りの順番に注目しましょう。まず、イエスは神をほめたたえ、次にお願いをしました。私たちの祈りはどのようなものになっているでしょうか。神様に対して会話をするというよりも、注文のようになっていませんか。
2.祈りの方法
 真夜中にパンを三つ貸してほしいと友人を訪ねた人がいます。迷惑な訪問に対してこの願いが受け入れられるかどうかが気になります。このたとえを通してイエスは熱心に求め続けることを語ります。
3.神の忠実さ
 父親は、自分の子どもには良いものしか与えません。イエスは祈りの答えとして天の父は「なおさら」(13節)良いものを与えてくださると語ります。神は最善しかお与えになりません。神が与えてくださる中で最も良いものが聖霊です。聖霊は神の御旨を教えてくれます。また、聖霊は力を与えてくださいます。私たちは神に必要ばかり求めず、まず神の栄光を求め、信仰と忍耐によって心のこもった祈りをささげましょう。

2019年2月24日

手をすきにかけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくないものである。
         ルカによる福音書9章62節

1.イエスを受け入れない人々に
 約3年間に渡って行われたガリラヤ伝道を終えたイエスが、エルサレムへ下って行こうとして、サマリヤへ使いを送りました。弟子たちはサマリヤに入ります。しかし、イエスにとってサマリヤは通過する村でしかありませんでした。サマリヤの人々はイエスたちを歓迎しませんでしたので、その態度に対して弟子たちは村を焼き滅ぼすことをイエスに提案します。イエスは報復は良くないと叱ります。私たちは裁く者では無く、救いを伝えるものでなければなりません。
2.弟子としての道
 イエスに従いたいと願った人に対して、イエスは今ある生活を捨てる覚悟があるかと問われます。イエスは十字架を目当てに前に向かって進んでおられます。ですから、ここに出てくるイエスについて行きたいと願う人たちに、弟子として生きるためには、神の国のために生きることに価値を見出さなければならないと戒められているのです。あなたはイエスに従いたいと願いながらも後ろを向いてはいませんか。

2019年2月17日

人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。
         マタイによる福音書5章16節

 

2019年2月10日

あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です。
         詩篇119篇105節

 神のみことばは私にとってどういうものでしょうか。
1.道しるべである「みことば」
 この119篇は主なる神への祈りであり、人が神のみことばに従って歩むべき信仰の道を説いています。私たちの人生は、毎日いろいろなことが起ります。その時々に応じて対処していると思います。しかし、不安や心配、迷いで心がいっぱいになった時はどうしていますか。神のみことばは私たちの力となって、行くべき道を示してくれます。
2.「みことば」は私の足のともしび
 みことばは足もとを完全に照らすともしびであり、進べき方角を示す光でもあります。聖書のみことばは遠くにあるものではなく、今、この世にいる私に与えられています。人生に苦難があり、途方に暮れるとき、みことばは神の願われる道へと私たちを導いてくれるのです。その道でつまずくことはありません。必ず、神が導いてくださるからです。神のみことばを夜も昼も思い、従っていくときに必ず勝利が与えられます(ヨシュア1:8)。

2019年2月3日

神はわれらの避け所また力である。 
         詩篇46篇1節

 苦難にあったクリスチャンがまず覚えなければならないのは、神が私たちの避け所となるということです。
1.神はわれらの避け所
 どんなことが起っても、神を信じる者は幸いです。それは神が守ってくださるからです。神は苦しむ者の近くにおられ、すぐそばで助ける備えをして下さっています。だから私たちは恐れなくてよいのです。地震や台風などの自然災害や苦難にあうときも神は避け所となってくださいます。
2.共におられる神
 川とは神の守りが豊かであることを表します。神の恵みは信じる者にいのちと慰めを与えます。そして、試練の時に最後まで耐えることができるようにと恵みをもって支えてくださるのです。
3.主のみわざを見よ
 神は平和をもたらすお方です。神が私たちと共におられるという信仰が私たちのとりでです。信仰の戦いは、平和の君である主なるイエスに従う戦いです。 神はいつも一番近くにおられ、私たちを知ったうえで私たちを助けてくださいます。その神を見上げて歩みましょう。

2019年1月27日

主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことはない。
         詩篇23篇1節

 詩篇23篇はダビデの晩年の歌と言われています。
1.牧者としての主(1~4節)
 ダビデは若い頃、羊飼いをしていました。神と自分の関係を牧者と羊にたとえて、神の恵みを賛美しています。羊にとって牧者がいるから乏しいことはありません。神は私たちに必要なものを与えてくださるというのです。そして主の臨在こそ、羊を迷わせず、敵から救い、勝利の道を歩ませてくださる恵みの原動力となるのです。そして、試練にあってもムチと杖を持った主がともにいてくださるから大丈夫という励ましがここにうたわれています。
2.恵みを与え続けてくださる主(5~6節)
 ダビデは敵の前であっても私の前に宴を設けるような、主人と客人の関係を描いて主との関係を深めます。神の守りは、敵の前で平然と食事ができるほど安全であり、その守りは確実であることを告白します。主の臨在される神の宮こそが私たちの永住の地で、生涯神の恵みが伴うとの確信を語ります。私たちにとっての羊飼いはイエス・キリストです。イエスを信じ、従っていくなら乏しいことはありません。豊かで安心のある人生を送ることができます。

2019年1月20日

わたしとわたしの家とは共に主に仕えます。
         ヨシュア記24章15節

 ヨシュアは、110年の生涯を終える前に最後の説教をして、民の指導者たちに、もう一度異郷の神々を除き去り、主を恐れ、まことと、まごころと、真実をもって主に仕えるようにと民に勧めました。
1.神の救いのみわざ
 ヨシュアはイスラエルの全部族をシケムに集めて、イスラエル民族の歴史と、さまざまな場面で神がどのように導いてくださったかを思い起こさせます。神の導きを思い起こし、再確認することは、信仰生活の上で私たちの信仰を保つためにも大切なことです。
2.主への信仰を誓うイスラエル
 ヨシュアはまことの神にだけ心から仕えなさいと勧めました。ヨシュアは自分が使えようと思うものを、今日選びなさい。わたしとわたしの家族は主に仕えると民に告げました。イスラエルの民はわたしたちはわたしたちの神、主に仕え、主の御声に聞き従いますと誓いました。

 信仰の歩みは、選択と決断の連続です。私たちは誠実に神を恐れ、仕えなければなりません。神を愛することに真実でなければなりません。今日、私たちは、主を信じ主に仕えることを決心しましょう。神は私たちに恵みをもって答えてくださいます。

2019年1月13日

ついに民はヨルダンを渡り終った。
         ヨシュア記3章17節

 ヨルダン渡河は、単に川を渡って進むことではありません。神ご自身が民を導いておられ、民には神への絶対的な信頼が求められました。
1.川を渡るための備え
 ヨシュアは朝早くシッテムを出発し、ヨルダン川の川岸に行き、泊まりました。人々は、神のみわざを体験するために身をきよめました。
2.神の奇跡
  ヨルダン川を渡るということはヨシュアの指示によって行われました。神のみわざがあらわされたことで、イスラエルの民は、神がヨシュアを指導者として立てられたことを確信します。神はヨシュアに川を渡る方法を示してくださり、民は、そのことばとおりにしました。契約の箱をかく祭司たちが先頭を歩き、その後に民が続きます。祭司が神のことばを信じて、岸から川へ足を踏み入れると神の不思議なみわざを体験したのです。イスラエルの民は乾いた地を通って、ヨルダン川を渡りきりました。

 契約の箱は神の臨在を現します。私たちの歩みを妨げる深刻な問題の前でも、神に信頼するなら、神の勝利が与えられます。

2019年1月6日

強く、また雄々しくあれ。 
         ヨシュア記1章6節

1.約束を信じる
 神はヨシュアに「あなたはこの民に、わたしが彼らに与えると、誓ったその地を獲させなければならない」(6節)と言われました。ヨシュアの役目は約束の地の獲得です。しかし、そこには先住民がおり、戦わなければなりません。ヨシュアはモーセと共に歩みながら、神の力がどのようなものか学んでいました。ですから人の目には勝てるはずのない敵でも神は約束してくださったことを必ず成し遂げてくださると信じていました。
2.みことばを信じる
 神はまた「わたしのしもべモーセがあなたに命じた律法をことごとく守って行い、これを離れて右にも左にも曲がってはならない」(7節)と言われます。ヨシュアはモーセと共に過ごす中にみことばに従うことが勝利の秘訣であることを学びました。
3.臨在を信じる
 さらに神は「あなたがたがどこへ行くにも、あなたの神、主が共におられるゆえ、恐れてはならない、おののいてはならない」(9節)と言われます。ヨシュアは神が共におられるなら敵を恐れる必要がないことを固く信じ、挑戦する人でした。

 神は私たちとも共にいて下さり、「強く、雄々しくあれ」と励ましてくださるお方です。

2019年1月1日

わたしは乏しいから、こう言うのではない。わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学)んだ。
         ピリピ人への手紙4章11節

2018年12月30日

すべての事について、感謝しなさい。
         テサロニケ人への第一の手紙5章18節

1.パウロの勧め
 パウロの生涯はどのようなものだったでしょうか。聖書を読むと患難にあい、苦しみを経験した姿を見ることができます。そのパウロが「喜んでいなさい」と勧めます。イエスを信じる者がなぜ喜ぶことができるのでしょう。神に祈ることによって、私たちは全てを神にゆだねることができるからです。そうするならば、神に感謝できるようになります。喜びと感謝は、祈りと密接に結びつけられています。
2.すべての事に感謝しよう
  神の御手があるならば、私たちは試練の中にあっても感謝することができます。なぜなら私たちが信じる聖書の神はすべてのことを益としてくださる(ローマ8:28)からです。神は私たちが喜び、祈り、感謝することを望んでおられます。自分自身に起こることで悲しむことや苦しむことがあるでしょう。しかし、神を見上げるなら、心のうちに喜びが与えられます。神に期待しましょう。また、今日までの歩みを導いてくださった神に感謝しましょう。祈りは私たちを喜びと感謝へと導いてくれます。

2018年12月23日

きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。
         ルカによる福音書2章11節

1.羊飼いへのみ告げ
 社会的に低い立場で、裁判の証人としても認められず、人々からさげすまれていた羊飼いに真っ先に救い主誕生の喜びの知らせが告げられました。救い主である赤ちゃんはどのようなお方でしょうか。救い主であり、主であり、キリストであるとみ使いは告げています。そして、その赤ちゃんは飼い葉おけに寝かされていると語られました。羊飼いはこのことが語られたとき素直に信じることができたのでしょうか。「急いでいく」とありますから、羊飼いはただ単純に主のことばを信じ、み使いの話が真実であることを確かめに行きました。
2.羊飼いの賛美
 20節の「神をあがめ、またさんび」は「神をほめたたえながらそして賛美しながら」というのがギリシャ語からの訳です。イエスさまの誕生でまず賛美したのは天のみ使いと軍勢でした。そして羊飼いが賛美します。社会的に低い立場の羊飼いが何の遠慮もなく近づくことができたのは、イエスが家畜小屋で生まれたからです。そしてそこに満ちあふれたのは喜びでした。神のことばを信じて聞き従うとき、主に出会う恵みを味わいます。 

2018年12月16日

客間には彼らのいる余地がなかったからである。
        ルカによる福音書2章7節

 クリスマスをお祝いする本当の意味を知っている人がどれくらいいるでしょうか?
1.ベツレヘムで誕生
 ミカ書5章2節に預言されていることが成就しました。救い主はベツレヘムでお生れになったのです。神の御手は神を信じていない人も用いられ、人口調査を行うことでヨセフとマリヤをベツレヘムへと導きました。
2.イエスが生まれたとき
 ヨセフとマリヤはナザレからベツレヘムまで140キロの道のりを旅し、宿泊する場所を探します。イエスがお生まれになった場所を客間には彼らのいる余地がなかったこと、そして布にくるんだイエスを飼い葉おけに寝かせたと聖書は記しています。この二人がメシヤの両親であると人々が知っていたら、きっと誰もが喜んで暖かい部屋に迎え入れたのではないでしょうか。しかし、イエスは馬小屋で生まれたのです。

 今の世の中を見ても、イエス・キリストが救い主であることを人々は受け入れることができずにいます。まるで宿屋の主人のようです。救い主イエスは確かにお生まれになりました。イエス・キリストは、真の王としてお生れなさいましたが、自分の権力を放棄し、私たちの痛みや苦しみを共感してくださいます。

2018年12月9日

わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救主なる神をたたえます。
        ルカによる福音書1章46~47節

 御使いガブリエルがマリヤの前に現れ、男の子を産むと告げます。御使いが去った後、マリヤはユダに住むエリサベツを尋ねました。
1.エリサベツの喜び
 子どもができなかったエリサベツは神の恵みを受け、男の子を身ごもりました。マリヤが訪ねてきたとき、エリサベツの胎内の子は喜びます。エリサベツは、神のことばが必ず成就すると信じたマリヤの信仰を祝福します。この祝福の言葉を聞いたマリヤは、感動と喜びの中で神をほめたたえます。
2.マリヤの喜び
 神の恵みを知った人は、自然にその恵みを賛美するようになります。マリヤの賛美は主への全き信頼を歌った賛歌です。自分がどんな存在であるかを知り、神が自分に行われたことが未来にどんな影響を及ぼすかを見通します。ナザレの村の平凡な一処女マリヤが、神の救いのみわざを果たすために用いられる器となったのです。私のようなものを神は心にかけてくださったと告白するマリヤ。神は私をも心にかけてくださって救いを与えてくださいました。

2018年12月2日

わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身になりますように。
        ルカによる福音書1章38節

 今日からアドベント(待降節)に入りました。イエスが生れた時代はローマ帝国の支配下にあり、ヘロデが王でした。また、この当時のユダヤの結婚は、婚約、許婚、結婚式の3段階で許婚の期間は1年間ありました。
1.マリアの信仰
 マリヤの前に天使ガブリエルが現われ、マリヤに声をかけます。神から恵みを受けたことを告げましたが、マリヤは当惑しました。「みごもって男の子を産む」と告げられたマリヤは驚いたことでしょう。しかし、主の御声に耳を傾け、「お言葉どおりに」としっかりその内容を受け止めます。神が言われたことは神が必ず実現してくださると信仰を持ってマリヤは受け止めたのです。
2.お言葉どおりに
 「神には、なんでもできないことはありません」この言葉にマリヤの信仰があらわれています。「お言葉どおりに」と神のみことばに従うマリヤの姿。身ごもる可能性のないエリサベツが身ごもったことを告げ、神は常識を超えて働かれるお方であることを教えられます。私たちは自分の常識や知識、今までの経験から考え、それを神に当てはめ神の力を小さくしてはいませんか。不可能を可能にする神に信頼し、従いましょう。そこに祝福があります。

2018年11月25日

そのうちのひとりは、自分がいやされたことを知り、…イエスの足もとにひれ伏して感謝した。
        ルカによる福音書17章15~16節

 私たちは日々恵まれたことを神様に感謝できているでしょうか。重い皮膚病を患ったユダヤ人とサマリヤ人がいました。この人々は神の恵みを体験し、どのような反応を示したのでしょうか。
1.皮膚病を患った人
 重い皮膚病を患った10人はイエスが病を癒す力を持っていると知っていたと思われます。この人々はイエスに病の癒しを願い出ます。イエスは病をいやされました。癒されたいと願うこの人々をイエスは癒されます。そこにはイエスの力を信じる信仰があり、お言葉に従う行動がありました。彼らが祭司の所へ行く途中に癒されたのです。
2.主への応答
 祭司の所へ行く途中に癒された人は10人でした。しかし、感謝の心をもってイエスの所へ戻ってきた人は、サマリヤ人ひとりでした。真の癒しは重い皮膚病の癒しとともに魂も健全になることです。このサマリヤ人はほかの9人が味わうことのできなかった祝福を味わいました。祈って与えられたものを当然と思うのではなく、与え続けてくださる神の恵みに感謝しましょう。

2018年11月18日

神様、罪人のわたしをおゆるしください。
        ルカによる福音書18章13節

 ふたりの人つまりパリサイ人と取税人が祈るために宮に上ったとあります。このふたりの祈りはどのような祈りだったのでしょうか。
1.パリサイ人の祈り
 パリサイ人は感謝の祈りを捧げましたが、自分の行いを誇っています(11節)。この祈りは神にささげられたものではありませんでした。自分に満足する祈りであり、高慢な祈りでした。自分の信仰ではなく、行いに重点を置いている祈りでした。
2.取税人の祈り
 パリサイ人の祈りと比べると違いがわかります。取税人が立っている位置を見ると「遠く離れて立ち」とあります。そして祈りの姿は、胸を打ちたたくという悲しみの表現をしながらでした。神の前に自分がどのような者か謙虚に認め、謙遜な祈りをささげました。
3.私たちの祈り
 神はどのような祈りを望んでおられるのでしょうか。神から義とされたのは取税人でした。神の前に高慢な者は退けられ、低くなって悔い改め、神の前に謙遜な者は義とされるのです。

 神の前に義とされるのは自分を罪人と認め、悔い改め、謙遜な祈りをする者です。そのような者が神の赦しの恵みを体験できるのです。

2018年11月11日

イエスは失望せずに常に祈るべきことを、人々に譬で教えられた。
        ルカによる福音書18章1節

 ここには「不義な裁判官」と言われる譬が語られています。
1.やもめの願い
 神を畏れず、人を人とも思わない裁判官がいました。この裁判官のもとにひとりのやもめがたびたび来て裁判をして欲しいと願い続けました。しかしこの時代、やもめは社会的に弱い立場でしたので、不義な裁判官はやもめが一生懸命に願ったにもかかわらず、やもめの問題を聞き入れまようとはしませんでした。
2.執拗な求めにこたえて
 このやもめは裁判官に聞き入れられなくても、執拗に願い求めました。決してあきらめませんでした。裁判官は「このやもめがわたしに面倒をかけるから、彼女のためになる裁判をしてやろう」(5節)と裁判をしてくれることになったのです。イエスはこの裁判官の言っていることを聞きなさいと言われます。
3.神はこたえられる
 不義な裁判官でも、やもめの執拗さに負けて彼女の願いを聞き入れました。神は、私たちの熱心な求めに対して動かされないはずはありません。神は私たちの祈りに耳を傾け聞いてくださるお方です。私たちは決して失望せず、祈り続けましょう。

2018年11月4日

このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。
        ルカによる福音書15章24節

 失くしたものを捜し出すたとえにおける最後のたとえが放蕩息子の話です。
1.父のもとを離れた息子
 二人の息子のうちの一人が、今の生活に嫌気がさしたのか父の財産を分けて欲しいという場面からこのたとえ話が始まります。父の財産を生きているうちに相続するということは、死んでからもらうよりもだいぶ少なくなります。それでも良かったこの息子は、そのお金をもって放蕩します。結局貧しくなり、豚を飼うようになりますが、そこで初めて自分の犯した罪に気づき、父のもとへ帰る決意をします。父の前に悔い改める息子の姿。真の悔い改めは神に対する罪の告白でなければなりません。
2.喜んで迎える父
 弟息子がいなくなってから、父はどのような生活をしていたのでしょうか。父は弟息子が帰ってくることを待っていたのです。父は遠くからでも息子を見分け、走り寄って抱き、口づけをしました。父は息子を捜しに行きませんでした。帰って来るのを待っていたのです。天の父なる神と同じです。罪を犯して神のもとを離れてしまった私たちを神はいつまでも戻ってくるのを待っているのです。神の前に罪を悔い改め、神のもとへ帰りましょう。

2018年10月28日

いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか。
        ルカによる福音書15章4節

 1節に「取税人や罪人」と書かれていますが、罪人とは特別な罪を犯した者という意味ではなく、パリサイびとたちが使う一種の専門用語です。ここでは、主として遊女などを指しましたが、広い意味では取税人や異邦人などの総称でした。
1.いなくなった一匹
 100匹の羊を持っている羊飼いが1匹のために99匹を置いて捜しに行きます。その1匹は自分から迷い出した羊です。羊飼いに追い出されたのではなく、牧草を食べながら群れから離れてしまった羊です。この羊は取税人や罪人です。
2.探し出す羊飼い
 羊飼いはいなくなった1匹の羊を一生懸命捜します。あちこち捜し回って羊の名を呼びます。しかし、残された99匹のことをどのように思っていたのでしょうか。羊飼いにとっては残っている99匹も迷い出た1匹も同じ価値あるものでした。羊を見つけた羊飼いの喜びはどれほど大きいでしょうか。
 羊を見つけた羊飼いの喜びは、私たちを捜しておられる神の思いと同じです。ひとりの魂に対する神の愛と尊さを思いましょう。

2018年10月21日

自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない。
        ルカによる福音書19章10節

 イエスは、群衆に、弟子となるための生き方を語られました。
1.自分の十字架を負って
 多くの人がイエスについて行きましたが、全ての人が弟子になったわけではありません。弟子となる者は父や母よりもイエスを愛する者でなければなりません。また、イエスと運命を共にする者を求めておられます。イエスに従うことに犠牲を払う価値があることを見出していますか。
2.お金よりも価値がある
 お金もないのに邸宅を建て始めて失敗することもあり、兵士もいないのに強大な敵を迎えて戦いを始め、取り返しのつかない敗北をすることがあります。イエスの弟子となることはお金よりも価値のあることです。
3.塩味をつける
 味を失った塩は何の役にもたちません。ルカは誰がイエスの弟子としてふさわしいかを語ります。塩が味を失うということは、弟子の生き方の本質を失うということです。イエスの弟子は、自分を犠牲にすることでこの世をきよめる塩とならなければなりません。自分でキリスト者だと言いながら、キリストの弟子でない者は、神の国の外に投げ捨てられます。
 あなたは主に従っていますか。

2018年10月14日

たといたくさんの物を持っていても、人のいのちは、持ち物にはよらないのである。
        ルカによる福音書12章15節

 12章13節から5つのたとえが語られます。それらに共通している主題は、終りの日の到来に対する備えです。この備えをしている者が賢い者、していない者が愚かなものです。
1.貪欲に警戒しなさい
 イエスが群衆に話していると「先生、わたしの兄弟に、遺産を分けてくれるようにおっしゃってください」と群衆の中から声がしました。この男は、遺産相続で兄弟ともめていたようです。イエスを信じて従うためではなく、イエスの権威を借りるために声をかけました。イエスを人生の主として受け入れず、自分のために仕えることは間違った態度です。イエスは私たちの価値観を正すようにと語られています。
2.愚かな金持ちのたとえ
 ある金持ちの畑が豊作でした。そこで大きな蔵を建て、財産や穀物をため込み、安心して生きることを自分の魂に言いました。この人は自分の人生について考えるだけで、人のことを考えません。神は「あなたの魂は今夜のうちに取り去られるであろう」と言われます。愚かな者とは神のことを考えず、うわべだけで内側を汚し、聖書を信じない者のことです。物質的な富を蓄えるよりも、神の前に富むことの方がはるかに大切なのです。

2018年10月7日

この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣人になったと思うか。
        ルカによる福音書10章36節

 私たちは神から愛を受けた者として、お互いを受け入れ合い、助け合わなければなりません。
1.私の隣人とは
 永遠のいのちを得ることは当時のイスラエルの人たちにとって強い関心事でした。律法学者はイエスを試みようとしてイエスに語りかけました。イエスは律法にはどのように書いてあるかと逆に質問すると神を愛することと隣人を愛することであると答えました。そして私の隣人は誰のことかとイエスに尋ねたのです。
2.良いサマリヤ人のたとえ
 あるユダヤ人が強盗に襲われ、半殺しの状態で道端に転がされていました。ユダヤ社会で尊敬されている祭司やレビ人が通りかかりましたが、助けることなく通り過ぎました。しかし、サマリヤ人は違いました。宗教的な理由でサマリヤ人を汚れた者として見下していたユダヤ人を助けたのです。この中で誰が隣人となったのでしょうか。
3.同じようにしなさい
 私たちはこのサマリヤ人のように助けることができるでしょうか。どんな犠牲を払っても苦しむ人のために何かをしようと願うでしょうか。イエスは私たちの隣人となってくださり、十字架にかかってくださいました。イエスが私たちを愛してくださったように、神の愛をいただいている私たちも進んで愛することのできる隣人となりましょう。

2018年9月30日

あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。
        伝道の書12章1節

 伝道者は、神を信じない人生がどれほどむなしいかを語ってきました。むなしさを解決する道はどのようなものなのでしょうか。
1.造り主を覚えよ
 まず、偉大なる万物の造り主を覚えなさいと言われます。そのお方が私を造ってくださいました。だからこそ、このお方つまり神を心に留めなさいと語っておられます。人生の段階ごとにするべきことがあります。若さはいつまでも続きません。いつかは誰もが死を迎えます。だからこそいのちの源である神を覚え、神と共に歩むことがむなしくない歩みとなるのです。
2.知恵ある者は
 9節にある「知恵がある」とはどういうことでしょうか。これは神を知るということです。神を知り、神と交わり、神の霊に満たされて、真の知恵を得たのです。そして、神のことば、真理のみことばを記しました。神のことばは正しい道を歩むよう導きます。私たちはこの真理のみことばに従わなければなりません。神のことばは私たちのからだと心とたましいを生かします。私の人生が後悔や嘆きではなく、感謝と賛美になるように、主のみことばに従う心が与えられ、すべてを知っておられる主によって勝利の人生を歩ませていただきましょう。

2018年9月23日

主が与え、主が取られるのだ。主のみ名はほむべきかな。
        ヨブ記1章21節

 ある書物に「神が愛なら、どうして苦しみがあるのでしょうか?」という問いが書かれていました。誰よりも神を信じ、神に従っていたヨブの信仰からこの問いの答えを見出したいと思います。
1.神に謙遜なヨブ
 ヨブがすばらしいと言われたのは莫大な財産を持っていたにもかかわらず、神の前に謙遜だったからです。ヨブは、神の前で聖潔であることを忘れませんでした。
2.サタンに疑われるヨブ
 信仰は純粋であると同時に、強くなければなりません。サタンはヨブの信仰を疑い、理由もなく神を畏れる人間はいないので、神にヨブを試みるように提案します。神は同意され、ヨブの財産を取り上げました。手に負えない試みの前では、人間は無力な存在にすぎません。
3.ヨブの信仰
 試みに打ち勝つには神に寄り頼む信仰が必要です。ヨブの告白は彼の信仰をはっきりと示しています。失った苦しみが大きくても、神が与えてくださった幸せがもっと大きいとというのです。私たちは神が与えてくださったものよりも、失ったものに心が向いてしまいます。人生のどのような苦しみの中でも、神のみこころに信頼し、信仰によって勝利しましょう。

2018年9月16日

人の子がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである。
        ルカによる福音書19章10節

 エリコは、エルサレムへの入り口であり、ヨルダンへ抜ける重要な位置にありました。
1.ザアカイ
 ザアカイは取税人のかしらであり、金持ちでした。また、背が低い人でもありました。ザアカイは不正な取り立てによって私腹を肥やしていたので、人々からは嫌われ、軽蔑されていました。ザアカイの心はどのような状態だったでしょうか。心に渇きを覚えていたのかイエスに会いたいと思ったのです。ザアカイの思いは切実でした。
2.イエスの招き
 イエスはザアカイの心をご存知で、ザアカイを個人的に招かれました。初めて会った人から名を呼ばれ、家に行くと言われたザアカイの思いはどのようなものだったでしょうか。また、イエスのザアカイに対して抱いていた思いはどのようなものだったのでしょうか。
3.救いをもたらすイエス
 人々はザアカイの家に入るイエスに対して非難します。しかし、イエスはひとりのために愛とあわれみを注ぎます。その愛によってザアカイの心はとかれ、信仰の告白と悔い改めに導かれました。イエスは私たちひとりひとりと出会ってくださるお方です。イエスの招きに素直に応じましょう。
   

2018年9月9日

わたしに何をしてほしいのか。
        ルカによる福音書18章41節

①盲人バルテマイ
道端で物乞いをしていたバルテマイ(マルコ10:46)は盲人でした。この当時の盲人は他人の慈善にすがって生きるしか生活のすべはありませんでした。ある日、バルテマイの前をイエスが通られました。目で見ることはできませんから、人に聞いてイエスの名を叫びます。周りの人たちは、彼をたしなめ黙らせようとしますが、バルテマイはこの機会を逃すことはできないと考え、ますます激しく叫び続けました。イエスの力を信じていたのです。
②理解してくださるイエス
 イエスは立ち止まり、バルテマイを連れてくるように言います。イエスはバルテマイに何をしてほしいのかと聞きます。すると、バルテマイは見えるようにしてほしいと自分の思いをイエスに訴えました。正直に思いを訴えたバルテマイに神の力が働いて、バルテマイは見えるようになりました。
③神への祈り
 私たちはバルテマイのように失望しないで訴え続けることが大切です。失望せずに祈り続けるのです。そして、私たちの願いを明確に訴えることも大切です。だれでも信仰をもって主の御名を呼び求める者は救われます。 

2018年9月2日

無くてはならぬものは多くはない。いや一つだけである。
        ルカによる福音書10章42節

 マルタは旅をつづけるイエスたちを自らすすんで家に迎え入れます。
1.マルタのいらだち
 イエスが来られると、マルタは接待で忙しくしていました。心に余裕があるうちは良かったのですが、手が回らなくなると心を取り乱し、いらだちました。このいらだちの矛先がイエスに向かいます。思い煩いがあると、みことばが心に届かないことがあります。
2.マリヤの選び
 妹のマリヤはイエスの足元にひざまずき、イエスが語られることを聞いていました。マリヤはイエスのみことばを聞き、それに信頼することを最優先しました。その態度がイエスを喜ばせたのです。最善はいつもひとつです。
3.イエスの教え
 接待をすることも大切ですが、「無くてはならぬものは多くはない。いや一つだけである」。それは主のみことばに聞き従うことです。他にもなすべき良いことはたくさんあるでしょう。しかし、そのことのゆえに思い煩ってしまっては何にもなりません。本当に必要なものは神との正しい関係です。主イエスとの深い交わりです。マリヤはその良いほうを選んだのです。私たちにとって最善はどうすることでしょうか。

2018年8月26日

娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。
         ルカによる福音書8章48節

 会堂司ヤイロが死にかけている12歳の娘のところへ来てくださいとイエスに頼み、そこへ向かっている途中に起こった出来事です。
1.長血の女の信仰
  この女は12年間、長血という一種の婦人病に苦しんでいました。その治療のために、自分の持ち物を使い果たしてしまいましたが、病状は悪化するばかりでした。どうしたらよいかわからない状況だったであろう女にとって、イエスは最後の望みだったのではないでしょうか。女は道を行くイエスのみ衣のふさに触ると、たちどころに出血が止まったのです。女は律法を破ってまでも、イエスのみ衣に手を伸ばしました。どれほどの勇気と信仰が必要だったでしょうか。
2.イエスのもとへ行こう
 イエスは女が触れた時、自分の力が出て行ったのを感じました。イエスは女を責めることなく、「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。」とほめられます。最後の望みとしてすがる者を、主は決して見捨てられません。切実な信仰が救いへと導きます。私たちはどのような思いで主のみ前に祈っているでしょうか。私たちが信仰をもってイエスのもとへ行くとき、イエスは力をあらわし、助けて下さるおかたなの

2018年8月19日

家へ帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったか、語り聞かせなさい。
        ルカによる福音書8章39節

 ここに出てくる悪霊は、人間にとりつき、人間を操って、本来あるべきでない状態に陥れる力を持っています。
1.悪霊につかれた人
 ゲラサに住む悪霊につかれた人は、長い間、服を着ず、家もなく、お墓に住んでいました。その上、鎖と足かせでつながれていますが、超人的な力で鎖を断ち切り、荒野へと追いやられていました。この人の人生はこの人自身が考えても、人から見ても悲惨なものです。イエスはこの人に会うためにガリラヤからゲラサに来ました。自由に働く悪霊もイエスの存在を知っていました。その悪霊をイエスは追い出しました。
2.神の子へ
 豚を飼っていた人は、イエスがされたことを見て逃げ出し、町や村にふれまわります。悪霊につかれた人はどうだったのでしょう。正気に戻り、着物を着て座っていました。人々はその様子を見て恐ろしくなり、自分の財産も失ってしまうのではないかと恐れ、イエスにここから立ち去るように言います。しかし、悪霊につかれていて正気に戻った人はイエスについて行くことを望みます。イエスはこの人にここに残り、証しするように勧めます。財産とたましいの救いのどちらを大切に考えますか。

2018年8月12日

この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである。
        ルカによる福音書7章47節

1.女の信仰
 この食事会は公のもので、誰もがそこに入り、会話を聞くことができました。しかし、この女は招かれざる客でした。この女はおそらく娼婦であっただろうと言われています。この女は涙を流し、イエスの足を洗います。そしてその涙を髪の毛でぬぐい、イエスの足に口づけをして、香油をぬりました。女の行為には深い悲しみと罪の悔い改めがあらわれています。イエスのために高価な香油をささげました。これほどまで主を愛し、感謝をささげていますか。
2.シモンの信仰
 シモンはどのような理由でイエスを招いたのでしょうか。シモンは本当の意味でイエスを信じていなかったのです。そしてシモンは罪の自覚がありませんでした。
3.イエスの態度
 シモンは罪ある女の過去しか見ていませんでした。イエスは新しくなった女を見ていました。神の恵みを受け取ることができるのは信仰です。イエスを信じる者は新しく造りかえられます。イエスは女に罪の赦しを宣言されました。罪を赦す権威と権限を持っておられるのは、イエスただお一人です。行いによるのではありません。ただ主を信じ、主に信頼することによって、私たちは罪赦されたものとなります。

2018年8月5日

時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ。
        マルコによる福音書1章15節

 イエスはバプテスマのヨハネから洗礼を受け、その後、聖霊の導きによって荒野で悪魔の誘惑に会いました。その誘惑に対してイエスはみことばによって勝利し、宣教へと遣わされて行きました。
1.時は満ちた
 旧約聖書の成就を意味しています。イエスは時がきたことを悟り、ガリラヤに戻って宣教を開始されます。ガラテヤ人への手紙4章4節には、「しかし、時が満ちるに及んで、神は御子を女から生れさせ、律法の下に生れさせて、おつかわしになった。」と書いてあります。
2.神の国
 神の義と愛に満ちた、神のみこころが実現した国です。また、神の支配と祝福があります。
3.悔い改めの信仰
 「悔い改めて福音を信ぜよ」とイエスは言われます。神の国に入るためには悔い改めることと信じることが重要なのです。誰でも悔い改めて主イエスを心に迎えるなら、その人の人生は新しくなります。罪によってサタンの支配下にいる私たちに永遠の自由といのちを与えるために来てくださったイエスは信じる対象です。イエスの招きを受けたなら、私たちはイエスの弟子たちのようにすぐに信じて従うことができますか。

2018年7月29日

キリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと…三日目によみがえったこと。
        コリント人への第一の手紙15章3、4節

 コリント人への手紙を書いたパウロは使徒行伝にイエスと直接出会い、信仰へと導かれたと書かれています。そして新約聖書の三分の一を書いたパウロは、イエスの十字架と復活が最も大切な教えだと語っています。
1.キリストの死
  パウロが最も重要なこととして教会に伝えたことは、パウロ自身が考えだしたり、思いついたことを語ったのではなく、パウロ自身が受けたもので、主イエスの弟子たちから伝えられたことでした。その内容は聖書に書いてある通りなのです。イエスが十字架で死なれたことは事実で、この十字架の死によって救いの道が開かれました。そして、イエスはお墓に葬られたのです。お墓に葬られたということは確かに死んだということを示しています。
2.キリストの復活
 また、イエスの復活も事実です。死人がよみがえることはとても信じられることではありません。しかし、復活されたイエスは十二弟子と多くの人にご自身を現されました。私たちの罪を背負って十字架におかかりになられたイエスが、罪としに打ち勝ったのが復活です。ですから、イエスを信じる者は永遠のいのちを持つことができるのです。見ないで信じるものとなりましょう。

2018年7月22日

これらの悪はすべて内部から出てきて、人をけがすのである。
        マルコによる福音書7章23節

 当時、ユダヤの国には、旧約聖書を解釈し、人々に教え、生活の指導をする律法学者たちがいました。ところが、だんだんとまことの神の教えを説く指導者ではなく、表面的な生活スタイルを問題にし、人々の生活を縛りつける指導者へと変質してしまいました。
①人間の本質
イエスは、何が人を汚すのかということを具体的に説明されます。ユダヤ人たちは食事の前に手を洗うきよめの定めに執着していました。人を汚すのは、外側から入ってくるものではなく、人の内側から出てくるものであると言われました。
②福音的な生き方
 イエスは、人の内側から出てくるものが人を汚すと言われました。それは悪い思いであってすなわち、不品行、盗みなど(21~22節)をひとつひとつあげられました。私たちが罪の恐ろしい本質を悟らない限り福音のすばらしさを悟ることができません。手を洗うことより心をきれいにすることのほうがはるかに重要であるということを悟らなければなりません。心が重要だと気づいて、神に喜ばれる心を持とうと努力することは無駄な努力です。私たちがするべきことは心にイエスをお迎えすることです。イエスの十字架の血潮によってきよめられるのです。

2018年7月15日

わたしがもし死なねばならないのなら、死にます。
        エステル記4章16節

 エステルが王妃になって5年目、モルデカイがハマンにひれ伏さなかったということですべてのユダヤ人を根絶やしにせよとの命令が出されました。
1.モルデカイの信仰
 モルデカイはおじの娘であるエステルを養い育てました。ハマンによるユダヤ人虐殺の命令が出るとモルデカイは悲しみ、衣を裂き、荒布をまとい、灰をかぶり、町の中で大声を上げ、王の門の入り口まで行きました。モルデカイには祈りがありました。モルデカイはこの時のためにエステルが王女へと導かれたと確信し、神のみ手の中で行われていることとして受け止めました。
2.エステルの献身
 「わたしがもし死なねばならないのなら、死にます。」(16節)のみことばはエステルの信仰の現れです。ユダヤ人であることを隠していたエステル。祈り(断食)をもって死の危険がありましたが、アハシュエロス王に嘆願しました。エステルの背後にはユダヤ人の祈りがあったことを忘れてはなりません。私たちにも何らかの神のご計画があります。ですから、謙遜に自分に対する神のご計画を受け入れ、神に仕えましょう。エステルはそのように生き、神はご自身の民を救われました。

2018年7月8日

われわれと共におる者は彼らと共におる者よりも大いなる者だからである。
        歴代志下32章7節

 南王国ユダの王ヒゼキヤは神の目にかなった敬虔な王でした。ヒゼキヤは父アハズのもとで行われていた偶像礼拝を、徹底的に排除しました。そしてこの行為はアッスリヤに対して反旗を翻す行為となりました(列王下18章)。
1.心揺るがす声(9~19節)
 アッスリヤの王セナケリブは家来をイスラエルに遣わしてユダの人に、いろいろな国がいろいろな神々を信じてきたが、どの国も、どの神々もアッスリヤには勝つことができなかっただろうとイスラエルが信じる神に対して不信と疑いを抱かせようとしました。そればかりかヒゼキヤ王に対しても民が信頼しないようにしむけました。また、手紙も書き送り、民が戦う意欲をなくすようにしむけました。
2.神の助け(20~22節)
 ヒゼキヤは神に祈りました。預言者イザヤにも一緒に祈ってくれるように要請しました。そして神はその祈りにこたえてくださいました。ひとりのみ使いを送り、アッスリヤ王の陣営にいるすべての大勇士と将官、軍長ら18万5千人の敵を滅ぼしました。この世界で本当に力のあるお方は、天地を造られたまことの神だけです。試練の時にこそ、いつも私たちとともにいてくださる全能の神を心から信頼しましょう。私たちは神の大いなる御手の中にいる者です。祈る時、神は必ずそこから救い出してくださることを信じましょう。

2018年7月1日

怒りをおそくする者は大いなる悟りがあり、気の短い者は愚かさをあらわす。
        箴言14章29節

 列王紀12章にはソロモンの死後、王国の分裂について記されています。
1.レハベアムの決断
  レハベアムは自分が王となることを期待し、当然選ばれると思っていました。しかし、ソロモンの統治下で奴隷のように苦しい労働をしていた民が、不満をぶつけます。そして王と認めるための条件を出しました。レハベアムはその条件をのむかどうかは3日後に答えると言います。最初レハベアムはソロモン時代の長老に相談すると、答えは軽くするべきだと言い、若い家臣に相談するともっと重くするべきだと言います。若い家臣の意見を取り上げたことに対して10部族の長老たちは反発して王国から分裂し、ヤラベアムを王として立てることにしました。
2.神を信じる者の心がけ
  レハベアムが若い家臣に従ったのは、神が預言者アヒヤによってヤラベアムに語られたことが成就するためでした。神を信じる者は神の視点に立つべきです。そしてイエスをお手本とするべきです。神のみこころにかなった知恵ある決定をすることができますように。

2018年6月24日

神の知恵が彼のうちにあって、さばきをするのを見たからである。
        列王紀上3章28節

1.王の姿勢
 ソロモンが神にささげものをしたその夜に、神がソロモンに現れて、何が欲しいか尋ねられました。ソロモンは王として、主の民を正しくさばき、守るために必要な知恵を願いました。そこにソロモンの知恵が明らかになる出来事が起こります。夫がなく、同じ家に住んでいたふたりの遊女が、3日違いでそれぞれ子供を産みますが、ひとりが眠っている間に自分の子を死なせてしまい、もうひとりの子が自分の子であると言い張ります。目撃者もいない、意見の違うこの出来事に正しいさばきをくだすことは難しいことです。ソロモンは遊女たちのさばきをいとわず、彼女たちの話に耳を傾けました。
2.ソロモンの判断
 ソロモンは、ふたりの訴えを十分に聞いて、生きている子どもを半分に切断し、ふたりで分けるように言います。するとひとりの母親が殺さないでと申し出て、その女性が母であることがわかりました。神からいただいた知恵を用いてソロモンは正しいさばきをすることができました。人は知識や経験を積むことによって、神の知恵よりも人の知恵やずる賢さに頼ることがあります。慣れと高慢さのゆえに失敗することがないよう、私たちは常に神の前に謙遜でありたいと願いわされます。神の知恵によって問題を解決できるよう祈り求めましょう。

2018年6月17日

天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。
        マタイによる福音書7章11節

  今日は父の日です。母の日同様、アメリカの教会で始まりました。父の日の今日は父なる神に信仰をもって祈ることを覚えましょう。
1.大胆に求めなさい
 ひとり子イエスさえ惜しまずに与えてくださった天の父は、大きな愛で私たちを顧みてくださいます。その天の父は私たちが求める前から私たちの必要を知っておられ、信仰をもって求め、捜し、たたくなら、いつも良いものを与えてくださるのです。イエスはここで積極的な探求心を持つべきであると言われます。求めても与えられないからと言って、あきらめてはいけません。求め続け、捜し続け、たたき続け、もっと大胆に、そして積極的に求めましょう。
2.神は良いものをくださる
 イエスは親が子供に対する態度(11節)を例に出しつつ、父なる神が自分の子どもの求めに対して良いものを与えないはずはないと語られます。神は私たちを自分の子どものように愛してくださいます。それゆえに、求める者に対して、良いものを惜しまず与えてくださるのです。
 神をどのように信じていますか。信頼していますか。良いものをくださる神を信じ、大胆に祈り求めましょう。

2018年6月10日

野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。
         マタイによる福音書6章28節

  花の日は1856年にアメリカのマサチューセッツ州にある教会のレオナルド牧師の提案で始まりました。レオナルド牧師は神さまへの感謝と奉仕の心を育ててほしいと願い、子どもたちと一緒に礼拝堂に花を飾る礼拝を計画し、礼拝後にその花をもって近隣の施設や病気の方々を訪問しました。
1.神の備え
 私たちは日々の必要について心配するよりも神がそれらのものを備えてくださることを信じなければなりません。神は鳥や花のように、小さな被造物すらも毎日養ってくださることを教えられました。私たちは神の子どもです。神の子である私たちの必要を父である神が満たしてくださらないはずはありません。思い煩いは信仰の問題です。神を信頼していますか。
2.神の国と神の義を求める
 自分自身の力、知恵、勤勉さにのみ頼る者たちは、心配せざるをえません。なぜならそれは限界があるからです。私たちの信じる神は、無尽蔵の富を持ち、全知全能の神です。思い煩いとは終始不安に思ったり、心配することです。神は着物や食物が大切ではないと言っているのではありません。必要なものを与えてくださる神に信頼して、神のことをまず第1にしていきましょう。そうすればこれらのものはすべて添えて与えられます。思い煩いは必要ありません。御国と義を求め、神に信頼しましょう。

2018年6月3日

人は外の顔かたちを見、主は心を見る。
        サムエル記上16章7節

1.エッサイの息子たち
  サウルを王として任命したことに対して複雑な思いを抱いているサムエルに、神はイスラエルの王を新しくすると語られます。ベツレヘムに住むエッサイの息子を新しい王とする神の御計画に、サムエルはベツレヘムへと出かけて行きます。
2.ダビデへの油注ぎ
  サムエルは神からエッサイの息子たちの中に新しい王となる者がいると聞きました。長男エリアブの外見を見て、サムエルはこの人こそ神から油を注がれる人だと思います。しかし神は「人は外の顔かたちを見、主は心を見る」と語られ、エリアブではないことを教えられます。預言者サムエルでさえ、王を選ぶという大切な時に人をうわべで判断してしまったのです。神が選んだ者は末の子のダビデだったのです。ダビデとほかの兄弟たちとは何が違ったのでしょうか。ダビデの心に、王としてふさわしいもの、主に忠実な心があったのです(18節)。神が見られたのは外見ではなく、心であり、そこにある忠実な信仰でした。神は私の心を見ておられます。

2018年5月27日

しもべは聞きます。主よ、お話しください。
        サムエル記上3章9節

 ある牧師は祈りには2つあると言われます。一つは「しもべは話します。主よ、お聞きください」と人間が主格であり、もうひとつは「しもべは聞きます。主よ、お話しください」と神が主格の場合です。私たちの祈りは、神との関係はどのようにあるべきでしょうか。
1.エリの姿
 エリは40年間、祭司として忠実に主に仕えてきました。しかし、人の目にもわかる罪を祭司である息子たちが犯していたのです。それを戒めることができなかったエリ。エリは年を取り、指導力と霊的な鋭さを失っていたのかもしれません。神はエリではなく、12歳の少年サムエルに語りかけました。
2.サムエルの姿
 サムエルは神にも人にも愛されました(2:26)。そのサムエルは宮でエリに仕えていました。しかし、この当時、神からの語りかけはまれにしかなく、サムエルに神が語られても、サムエルはエリの声と思いました。サムエルはエリに忠実に仕えていたのでしょう、3度の呼びかけに3度ともエリのもとへ行きました。エリの指導を受け、4度目は神の御声として、神の預言のことばを聞きました。今の時代、神は私たちにどのような方法で語っておられるでしょうか。みことばを聞いて行う者を神は祝福してくださいます。

2018年5月20日 ペンテコステ礼拝

ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、
…わたしの証人となるであろう。
        使徒行伝1章8節

 ルカは、ルカによる福音書に続いて、使徒行伝をテオピロなる人物に献上しています。ルカによる福音書はイエスの昇天の記事で終わり、使徒行伝の最初にはイエスの復活から昇天までの40日間に起こったことを記しています。
1.復活された主の教え(3~5節)
 復活されたイエスは、多くの弟子たちや人々の前に現れて、ご自身が復活されたことを示されました。死人が生き返るという信じがたいできごとであるからこそ、イエスは数々の確かな証拠をもって、ご自身の復活を弟子たちに示されたのです。そして復活されたイエスは、40日間、神の国のことを語り、神の統治と主権を教えられます。「父の約束(4節)とは、イエスによって語られた、父なる神の約束である聖霊降臨のことです。
2.聖霊が臨まれるとき(6~8節)
 私たちが地の果てまでイエスの証人となるためには、まず条件が満たされなければなりません。これは、聖霊が私たちの上に臨まれなければならないということです。聖霊が注がれることにより、弟子たちは主の復活の証人となりました。そして、私たちにもその恵みが与えられています。

2018年5月13日

それからイエスは両親と一緒にナザレに下って行き、彼らにお仕えになった。
        ルカによる福音書2章51節

 今日は母の日です。母の日はアメリカの教会から始まりました。
1.ナザレでの成長(40~41節)
 イエスは聖霊によってマリヤに宿ったこと以外は、ごく普通の子どもとして成長し、強くなりました(ルカ2:40)。人として生まれたイエスが神の子としてどれくらい自覚していたかはわかりません。信仰深い両親は、ユダヤ人の慣習に従い、13歳で受ける儀式の予習をさせるためにエルサレムに行きました。
2.宮で語るイエス(42~50節)
 イエスは知恵に満ち、神の恵みその上にありました。宮で律法の教師たちと問答をし、御名を驚かせました。イエスの両親は、イエスが宮で教えておられることを知らずにいたので、いなくなったと思い探します。イエスは神の子として宮で語っていたのです。
3.両親に仕える(51~52節)
 マリヤは、時とともに、イエスがどのようなお方であるか学んでいきました。人としてお生まれになったイエスは神の子でありましたが、両親に仕えられました。「彼らにお仕えになった」は「ずっと従い続けていた」という意味です。大工のせがれとしての責任を果たされ、ご自分の兄弟たちの面倒も見てこられたのでしょう。イエスの公生涯は30歳から3年間でしたが、その10倍の年月を両親に仕えられたのです。私たちも神に仕え、人に仕える者となりましょう。

2018年5月6日

わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招いて悔改めさせるためである。
        ルカによる福音書5章32節

1.レビの決心
 レビはこの時、初めてイエスに出会ったのかそれはわかりませんが、イエスによって招かれ、直ちに仕事をおいてイエスに従いました。レビの仕事である取税人はお金は持っていましたが、人からは憎まれ、軽蔑されていました。そのレビがイエスの招きに答えて弟子となりました。レビはイエスのために宴会を催します。
2.イエスの招き
  この宴会の様子を見ていたパリサイ人や律法学者は、イエスの弟子たちに対してつぶやきます。この人たちは律法を守ることにより自分は正しい人間だと考えていたのです。取税人であるレビのような罪人と食事を共にすることに対して非難したのです。しかし、イエスはそれに答えるように言います。医者を必要とするのは、健康な人ではなく、病人です。それと同じように、救い主を必要とするのは、心が汚れている人です。イエスの優先順位は罪人にありました。イエスは、罪人を見下げたり、遠ざけることなく、むしろ友となって歩んでくださり、悔い改めに導いてくださる救い主なのです。

2018年4月29日

そこで彼らは舟を陸に引き上げ、いっさいを捨ててイエスに従った。
        ルカによる福音書5章11節

 荒野の誘惑を受けたイエスは、いよいよ宣教の働きを始めます。
1.ペテロの姿
 イエスはすでに親しくなっていたペテロの舟の上から、ガリラヤ湖岸にいる群衆に向かって神のことばを語っていました。話し終えた後、イエスはペテロに舟をこぎださせ、網を下すように言われます。夜通し漁をしても1匹も魚が獲れなかったペテロ。イエスのことばに「お言葉ですから」と答えたペテロの思いはどのようなものっだったのでしょうか。言われたとおりに行うとおびただしい魚が網にかかりました。従順の結果は驚くべき奇跡でした。 
2.イエスについて行こう
 網が破れそうになるほど多くの魚が獲れる奇跡を体験したペテロは、奇跡に視線を向けるのではなく、奇跡を行われたイエスに視線を向けます。ペテロにとってイエスは「先生」ではなく「主」となりました。ペテロの人生が変わりました。信仰生活には、人知を超えた神の力、働きに触れることがなくてはなりません。そこから信仰生活が始まってくるのです。人生の主人であるイエスが私を召してくださるとき、その主に従っていきましょう。そこには私たちが考える以上の大きな恵みがあるのです。

2018年4月22日

人はパンだけで生きるものではない。
        ルカによる福音書4章4節

 私たちはいろいろな試みや誘惑にあいます。その時に対処できる方法を身につけていると私たちの人生において失敗することは少なくなるのではないでしょうか。
1.第1の試み(1~4節)
 イエスは聖霊の導きにより、荒野に行かれました。40日40夜の断食後、激しい空腹を覚えるイエスに悪魔がささやきます。「あなたが神の子であるなら」と悪魔はイエスを神の子と認めたうえで揺さぶりをかけてきます。石をパンにせよという誘惑に対してみことばによって勝利しました。
2.第2の試み(5~8節)
 幻によって世界の国々を見せ、国々の権威と栄華とを悪魔の前にひざまずくという条件のもとに与えようというものです。この誘惑は政治的支配と権力による主権の確立を約束するものでした。この時もみことばによってイエスは勝利します。
3.第3の試み(9~13節)
 悪魔は聖書に精通しており、みことばによって誘惑してきます。しかしみことばを正しく用いず、本来の意味を曲げていました。
 イエスはどの誘惑に対しても神を信じ、神に従うべきことを強調していました。誘惑に対して勝利する方法はみことば正しく理解し、みことばを土台として生きることです。

2018年4月15日

あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。
        ルカによる福音書3章22節

 イエスが洗礼を受ける場面から学びます。
1.本当の救い主
 ヨハネの説教を聞いた人々は、救い主が来られることを待ち望んでいたので、もしかするとこのヨハネがキリストではないかと考えるようになりました。人々の思いを知ったヨハネは自分は救い主ではないと宣言します。そして、やがて来られる救い主イエスのことを力あるお方であり、私はそのかたのくつのひもをとく値うちがなく、その人は聖霊と火によってバプテスマを授けるおかたであり、また農夫のように箕によって自分の打ち場で麦と殻をわけられると言われました。ヨハネはメシヤであるイエスの道を備えるものでした。
2.イエスの洗礼
 罪のないイエスが洗礼を受けられたのは、メシヤとしての働きを始められるしるしでした。御霊がイエスの上に下り、天から声がしました。三位一体の神が一か所に現れた場面です。イエスは神の御子であるにもかかわらず人となり、神のみこころに従いました。神の宣教の働きが始まったのです。私の救いのために十字架におかかりになり、よみがえられたイエスを信じますか。神を信じ、神に従う者として、私たちは何をするべきでしょうか。

2018年4月8日

見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである。
        マタイによる福音書28章20節

 イエスが復活されたとき、弟子たちにガリラヤで会うと約束されました。そのガリラヤでの出来事です。
1.イエスの宣教命令
 その命令とは、「行って、すべての国民を弟子と」することでした。そして「父と子と聖霊の名によって、彼らにバプテスマを施し」、「命じておいたいっさいのことを守るように教え」ることでした。地の果てにまで福音が伝えられるように伝道をすること。そして神との霊的な交わりに入るためのバプテスマを神を信じる者に授け、またイエスの教えが正しく教えられ、生活の中で生かされるように導くようにとの命令です。
2.共におられる主
 イエスは命令を出すだけではなく、そこに「いつもあなたがたとともにいる」との約束を与えてくださいました。「いつも」とは「すべての日々において」という言葉が使われています。そしてこの約束は今だけの約束ではなく永遠の約束です。イエスが十字架にかけられたとき、弟子たちは隠れていましたが、その弟子に命令をし、約束を与えられたのです。しかし、その弟子の中にイエスの復活を疑う者がいたことを覚えなければいけません。人は自分の限界と罪を認めない限り、どこまでも疑い深い存在なのです。その弟子たちにイエスは命令と約束を与えておられます。私たちは主の命令に対してともにいてくださる主と共に、神のために忠実に励むことが求められています。 

2018年4月1日

もうここにはおられない。かねて言われたとおりに、よみがえられたのである。
        マタイによる福音書28章6節

 イエス・キリストの誕生はクリスマスとして祝われ、十字架にかけられよみがえられた日はイースターとしてお祝いされています。
1.よみがえりの朝
  十字架にかけられてから3日目の週の初めの明け方、イエスの墓にマグダラのマリヤをはじめとする女たちが行きました。地震によって墓の入り口が開き、石の上に座っていた主の使いに会います。使いはイエスがここにはいないことを告げます。預言どおりイエスはよみがえられたのです。女たちは恐れながらも喜びに満たされていました。
2.よみがえられたイエス
  イエスはよみがえられました。女たちに会った復活の主は、「平安あれ(喜びなさい)」とあいさつされたのです。イエスの復活はイエスが神であったことを示し、救いが確実なことを保証する出来事となります。そして、この復活はわたしたちに希望を与えてくれます。なぜなら、イエスを信じる者にとって、死が最後ではないことをイエスの復活によって証明してくださったのです。イエスの死を前にして逃げだした弟子たちをイエスは「兄弟たち」と呼びます。イエスの深い愛がここにあります。

2018年3月25日

わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。
        マタイによる福音書27章46節

 今日から受難週が始まります。受難週が始まる日曜日は棕櫚の主日(エルサレム入城)、月曜日に宮きよめをし、木曜日に洗足、最後の晩餐、ゲッセマネの祈りがあり、金曜日に十字架につかれます。
1.十字架の死
 12時ごろになると辺りが暗くなり、3時まで続きました。十字架につけられたイエスは「どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれます。十字架に釘で打ちつけられた体の痛み以上にイエスが苦しまれたのは、人間の罪を受けて、神から見捨てられたことでした。見張りの兵士が棒の先についている綿にぶどう酒をしみこませて、イエスに飲ませようとします。そのあとイエスは大声で叫び、息を引き取られました。
2.百卒長の告白
 イエスが息を引き取られたとき神殿の幕が上から下まで裂けました。罪の贖いが完成したことを意味しています。多くの死に立ち会ったであろう百卒長が、イエスの死を見ていて「この人は神の子であった」と告白します。異邦人であっても、十字架につけられたイエスを見て、最も大切なことに気づいたのです。イエスは神の子であると信じていますか。またイエスの十字架はわたしのためと信じていますか。

2018年3月18日

わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい。
        マタイによる福音書26章39節

 イエスと弟子たちはオリーブ山のふもとにあるゲッセマネという所に来ました。そして、弟子の中からペテロとゼベダイの子ヤコブとヨハネを連れて行かれました。
1.みこころを求める祈り
  イエスはわたしたちと同じ肉体をもってこの世に生れました。ですから、私たちと同じように弱さや恐れを経験してくださいましたが、十字架はわたしたちが死を考えるときに覚える恐れや不安とは異なります。イエスは悲しみのあまり死ぬほどであると心の葛藤をことばにしています。十字架の死は、私たちの代わりに神のさばきを受けることです。その死を神のみこころとして受け入れるためにイエスは祈ったのです。イエスは常に祈りによって神と交わり、御心を確認し、歩みを進めていかれました。
2.神のみこころに従う
 イエスは祈り終わった後、自分の心が神に従うことに決まったので「立て、さあ行こう」と十字架への歩みを進められました。弟子たちは祈られるイエスを見ていながらも、眠りこけていました。主に従うと言いながら眠りこけていることはありませんか。イエスにならい、人生のいろいろな局面において私の願いではなく、あなたのみこころがなりますようにと祈り従おう。

2018年3月11日

これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である。
        マタイによる福音書26章28節

1.最後の晩餐
 弟子たちに過越の祭りの食事の用意をさせたイエスは、弟子たちと最後の晩餐をします。その席でイエスがユダの裏切りについて語ると弟子たちは非常に悲しみました。過越は、イスラエルの民が羊の血によって神のさばきから守られ、エジプトから解放されたことを記念する祭りです。イエスは、過越の羊として来られ、今、人々を救うために十字架にかけられようとしています。
2.罪のゆるしを得させるために
 イエスは最後の晩餐の意味を説明されます。羊の血によって結ばれた古い契約は、キリストの血によって結ばれる新しい契約を、あらかじめ示したものでした。まことの救いは、羊の血によってではなく、イエスの十字架の血潮によってなされます。動物の血は、罪をきよめる象徴で、人の罪をきよめることはできません。 私たちは聖餐式にあずかるたびに、イエスの血による新しい契約にあずかることができたことを感謝しましょう。私たちの罪のゆるしはイエスの十字架と復活によって完成されたのです。その背後には父なる神の愛とイエスの従順と愛があることを覚えましょう。

2018年3月4日

心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ。
        マタイによる福音書22章37節

 この当時、律法の613の条項の中でたいせつなものとそうでないものを分ける問題は、ユダヤ教の指導者たちにとって重要な論争の種でした。サドカイ人(復活を否定)たちがイエスとの論争にたちうちできなかったと聞いたパリサイ人(律法を厳格に守る)はイエスのもとにやってきてイエスを試しました。
1.神を愛する
 神が与えられた戒めの核心は愛です。まず、イエスは申命記6章5節を引用して神を愛することを言われます。この聖句は全身全霊で神を愛することを教えています。しかし、私たちは律法があるから神を愛するのではなく、私たちの中から出てくる愛によって神を信じ、礼拝し、戒めを守るのです。
2.人を愛する
 続いて、イエスはレビ記19章18節を引用して人を愛することを説かれます。隣り人とは自分以外の人を指す言葉です。神を愛することにより、私たちは神の訓練と信仰によって、隣人を愛することができるようになるのです。
 イエスは以上の2つの戒めが旧約聖書の中心と言われます。私たちの全存在を尽くして神を愛し、隣人を愛することが神を信じる者の生き方なのです。

2018年2月25日

見よ、あなたの王がおいでになる、柔和なおかたで、ろばに乗って。
        マタイによる福音書21章5節

 マタイ21章から、イエスのエルサレムにおける最後の1週間の記事が始まります。
1.預言の成就(1~5節)
 神は前もって計画された人の救いを成就されます。イエスは、オリーブ山のふもとのベテパゲに着くと、弟子を使いに出し、町からロバを連れてくるように命じます。ここまで歩いてこられたイエスが、エルサレムまで残りわずかという状況で、ろばの子に乗ってエルサレムに入城します。これはゼカリヤ書9章9節に預言されていることですが、イエスは柔和な平和をもたらす王として来られると書かれています。
2.エルサレム入城(6~11節)
 ろばの子に乗ったイエスがエルサレムに入られると、大勢の人が上着や木の枝を道に敷き、イエスを歓迎します。イエスが歩まれる道は王としての道ではなく、十字架の苦難を受けるための道でした。「これは、いったい、どなただろう」と群衆は騒ぎます。人々の理解は預言者でした。
聖書のお話を聞いて、素晴らしい内容だ、また聞きたいと思う人もいます。しかし、感動は一時的なものでイエスを信じるとなると拒否する人もいます。あなたにとってイエス・キリストはどのようなお方ですか?私の救い主としてイエスを心にお迎えしていますか。

2018年2月18日

人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである。
        マタイによる福音書20章28節

 2月14日から受難節が始まりました。イエスの十字架の死を思いつつ、祈りをもって過ごしたいと願います。
1.弟子の姿
  ゼベダイの子ヤコブとヨハネの母親がイエスに、やがて王となったとき、ひとりは右に、ひとりは左に座れるようにとお願いしています。左右の席はメシヤに次ぐ最高の位を意味しています。この時、弟子の中に野心を燃やすものがあったということです。弟子たちはイエスの受難の告知を真剣に受け止めることができず、自分の欲望を優先させたのです。
2.キリストの姿
  イエスは神の子であって、本来ならば仕えられる立場のお方です。しかし、「主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられた」(Ⅱコリ8:9)とあります。私たちのために神の子であるイエスがとられた姿です。イエスは弟子の足を洗い、十字架で命を捨ててくださいました。その根源は弟子を愛する愛であり、人々を愛する愛です。仕えられるよりも、仕えるためにご自分のいのちまで差し出して下さったイエスにならい、私たちも愛をもって互いに仕えあいましょう。仕えて奉仕する人が御国では一番です。

2018年2月11日

人にはそれはできないが、神にはなんでもできない事はない。
        マタイによる福音書19章26節

1.富める青年の悲しみ
 子どもたちを祝福してからイエスが道に出て行かれると、一人の青年が走り寄ってきました。聖書にはこの青年をある程度の地位が与えられ、たくさんの資産を持ち、いましめをきちんと守っていると書いてあります。周囲の人はこの青年を見るときに、幸せな暮らしをしていると思ったのではないでしょうか。しかし、この青年は胸の内に問題を抱えていました。それは「どうすれば永遠の命を得られるか」ということでした。永遠の命を得るためにイエスは持っているものをみな売り払って貧しい人に施すように言われますが、この青年はイエスのことばに従うことができませんでした。律法を守っていると言いながら、救いについてはわかっていませんでした。
2.神にはできる
 永遠の命を得るために必要なものは何でしょうか。この青年を見る限り、お金や地位、いましめを守ることではないことがわかります。この青年が悲しんで去っていったとき、イエスは金持ちが御国に入ることは難しいと言われました。イエスは救いは人間ではなく、神によることを強調したのです。心の中心にイエスを迎えて、救いをいただきましょう。 

2018年2月4日

心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。
        マタイによる福音書18章3節

 天の御国では、自分を低くする謙遜な人が尊ばれます。イエスが十字架にかかられる時が近づいているこの時、弟子たちは誰が一番偉いかという議論をしていました。
1.天の御国で偉い人
 イエスは誰が偉いかと議論する弟子たちの間に小さい子どもをおかれ、この子どもが天の御国で偉い人の模範であり、「心をいれかえて、幼な子のようになりなさい」と話されました。「心をいれかえて」とは高慢な姿勢を改め、子供のようになることを示しています。子どものように、神の前でも人の前でも自分を低くする人が、御国では一番偉いと認められます。
2.小さい者でも軽んじてはならない
 弱い人や幼な子に対する態度を見ると、その人の人となりを知るきっかけになります。弱い者や幼な子を愛で受け入れることをイエスはご自分を受け入れたこととみなされます。イエスは神の子でありながら、自分を低くし、私たちと同じ人間の姿をとり、仕えるものとなられました。これこそが謙遜の模範です。子どものように素直で、謙遜なものでありたい。

2018年1月28日

これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け。
        マタイによる福音書17章5節

 イエスはペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子だけを連れて、高い山に登りました。そこで起こった出来事を弟子たちはどのように感じたのでしょうか。
1.栄光に輝くイエス
 ペテロがイエスのことを「あなたこそ、生ける神の子キリストです」と告白してから、ペテロの目の前で栄光の御姿に変りました。その時、ともにいたのはモーセとエリヤです。キリストの御顔が太陽のように輝き、御衣は光のようにしろくなりました。
2.十字架への道
 聖書で偉大な人物とされているモーセとエリヤがイエスと対話します。その内容は、十字架の道は失敗の道ではなく、勝利の道であり、栄光に向かう道であることを示されます。
3.神の御声
 光り輝く雲の中から神の御声が聞こえます。イエスをどのようなお方と見るか。弟子たちはイエスの真の姿を悟ります。イエスがバプテスマを受けた時と同じことばが語られました。

 神の愛するひとり子であるイエスはわたしたちのために人間の罪を救うために十字架にかかって死なれました。人として歩まれたイエスのことを深く思いましょう。

2018年1月21日

娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心していきなさい。
         マルコによる福音書5章34節


2018年1月14日

あなたこそ、生ける神の子キリストです。
      マタイによる福音書16章16節

 イエスと同じ時代に生きていて、実際にイエスと出会っていても、イエスがどういうお方か正しく理解し、受け止めている人は少なかったようです。
1.イエスの質問
 イエスはまず人々はイエスについてどのように言っているか尋ねます。しかし正しく答える者はなく、宗教的に優れた人物と理解しながらも、一人の人間にすぎないと考えていました。
2.ペテロの答え
 ペテロは「わたしをだれと言うか」と問われて「あなたこそ、生ける神の子キリストです」と答えます。2000年の間キリスト教を支えてきたものは何でしょうか。イエスをキリストであると告白する信仰以外には何もありません。信じることは同時に従うことを意味します。時に信じられない、わからないという理由の中に従うことへの迷いや不安が隠れていることがあります。
3.イエスの祝福
 ペテロのイエスに対する理解が不完全なものであっても、イエスはペテロの信仰告白を喜ばれました。真の信仰は自分の考えや人の意見によって作り出すものではなく、神によって示されます。ペテロの信仰告白はペテロの努力の結果ではありません。私たちはイエスのことをどう告白しますか。

2018年1月7日

だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。
      コリント人への第2の手紙5章17節

 新しい年の最初の主日を迎えました。パウロはコリントに住む信徒たちに、キリストを救い主として信じた者はどのような生活をすべきかを教えています。
1.神のために生きる
 パウロは人が自分のことを他人がどのように見ようとも、すべては「神のため」に行っていることを主張しています。「キリストの愛がわたしたちに強く迫っているから」と自分の働きの源は、すべての人のために十字架におかかりくださったイエスの愛であり、その愛を伝えることを喜びとしているのです。パウロは、神と聖徒たちだけを心から愛し、仕えました。主の死と復活に結びあわされたクリスチャンは、イエス・キリストのために生きるようになります。
2.新しく造られた者の務め
 イエスの犠牲によって、私たちは神と和解させられました。だれでもキリストのうちにあるなら、以前とは違う新しい存在となります。そして神との和解した者は、周りの人にこの和解の福音を伝える者となるのです。苦難や逆境が続いたとしても、クリスチャンとして生きることによって、新しい自分となることができるのです。

2017年12月31日

感謝して心から神をほめたたえなさい。
              コロサイ人への手紙3章16節

 キリスト者の特権の一つに、どんなことがあっても最後には感謝できること、があると言えます。2017年が皆さんにとってどのような年であったか振り返りつつ父なる神に感謝したいと願います。
1.キリストの平和
 キリスト者はどのような中でも平和つまり平安を味わうことができます。これは誰にも奪われない平安です。イエスの持っておられる平安を私たちもいただくことができるのです。ですからどのような中にあっても私たちは慌てることはありません。「キリストの平和が心を支配するようにしなさい」とありますが、心が平安であると感謝が与えられます。
2.キリストのことば
 この平安はどこからくるのでしょうか。それはキリストのことばを豊かに宿らせることによって与えられます。そのためには、神に祈ることが大切です。みことばを味わいましょう。そうすることで、普段の生活の中に与えられるささいな恵みにも感謝できるようになるのです。
3.主イエスの名によって
 パウロは私たちが行うすべてのことが主イエスの名によってなされるようにと勧めます。そしてそこには神への感謝が伴うべきであるというのです。イエスを救い主として受け入れ信じた者として、イエスにならって、主イエスの御名によって、感謝しつつ行動することが、キリスト者の新しい生き方なのです。

2017年12月24日

ユダヤ人の王としてお生れになったかたは、どこにおられますか。
           マタイによる福音書2章2節

 クリスマスの本来の目的は私たちの罪の贖いのためにこの世に生まれてくださったイエス・キリストの誕生をお祝いすることです。
1.イエスを捜し求めて
 東方の博士たちは何千キロも離れた遠いところからやって来た異邦人で、ユダヤ人の王として生まれたイエス・キリストを探しに来たのです。ヘロデ王はこのことを知らなかったので不安に感じます。博士たちは王に呼ばれて会います。ヘロデ王の心は自己中心的で殺意に満ちていました(16節)。神は、心を尽くして求める者たちにご自身を表されますが、悪意を持って求める者たちにはその目を固く閉ざされます。私たちは純粋な心で神を求めたいものです。
2.博士たちの贈り物
 博士たちは人に言われてイエスを捜し求めたのではなく、自分の意志で行動しました。そして、イエスに出会ったのです。博士たちはイエスの前にひれ伏して拝みました。天地創造の神を知らずに歩んできた博士たちです。幼子イエスを見て何を感じたのでしょうか。イエスを礼拝した博士たちは贈り物をします。博士たちは喜びにあふれていました。王として生まれたイエスを私たちはどのように礼拝しているでしょうか。

2017年12月17日

彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである。
        マタイによる福音書1章21節

 アドベント第3週を迎えました。イエスはダビデの家系に生まれると預言されていました。
1.ヨセフの正しさ
 ヨセフはマリヤと婚約していました。婚約を解消するには離婚の手続きが必要でしたので、マリヤが妊娠していることが知れると石打ちの刑に処せられました。神の前に正しくあろうとするヨセフはマリヤの妊娠を知り苦悩します。
2.み使いのみ告げ
 ヨセフの苦悩を知っている神はヨセフのもとにみ使いを送ります。そして生まれてくる子どもの使命を告げます。イエスは「主は救い」という意味です。マリヤから生まれる子の父となることを決心します。ヨセフにとって信じがたいことであったでしょう。自分の考えを神に当てはめるとできないと考えますが、神は全知全能のお方です。神が行おうとされるならばできないことはないのです。
3.神の約束の成就
 ヨセフは眠りから覚め、み使いが言われたとおりに行います。ヨセフの信仰の従順により、イエスはヨセフとマリヤの子になりました。ダビデの家系に属する者となったのです。それだけではなくイエスは人々を罪から救うために生まれると言われた通り、やがて人々の罪を背負い十字架におかかりになられます。神の子の誕生は私たちを罪から救うため、天国への道を開くためにこの地上にお生まれくださったのです。

2017年12月10日

ひとりのみどりごがわれわれのために生れた。ひとりの男の子がわれわれに与えられた。
          イザヤ書9章6節

 キリストが生まれる750年前にイザヤがイエスの誕生を預言しました。
1.イザヤの時代
 北イスラエルの滅亡が近づき、南ユダにも存亡の危機が迫っているような不安定な社会状況の中で、何の希望もない民の上にイザヤを通して希望のメッセージが語られます。
2.キリスト誕生の預言
 民に与えられた希望は救い主である男の子が与えられることです。この男の子は「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」という名がつけられます(6節)。
 霊妙なる議士とはすばらしい私たちの相談者のことです。大能の神は天地を造り支配しておられる創造者。とこしえの父はいつでもどこでもどんな時でも、どういう問題に関しても信頼して来る者に対しては父となってくださり、平和の君は苦しみの中にあってもその苦しみを乗り越えていくことのできる心の安らかさを与えて下さるお方であることを語っています。そして神の熱心がこれをなさるのです。
 世界の状況やそこに住む人々が変わっても私たちを救うという神の約束は変わらず、必ず救いを与えてくださるのです。このお方が私たちといつもともにいてくださる(インマヌエル)のです。

2017年12月3日

見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる。
        イザヤ書7章14節

 この個所はイエスの処女降誕の預言です。この預言がされたのはユダの王ヨタムが死に、アハズが即位して間もなくのことでした。
1.信仰が試されるアハズ王
 神の民が最も大きな困難の中に置かれている時代、アラムは敵国アッスリヤに対抗するために北王国イスラると同盟を結びます。そして南ユダに支援を求めますが断られたので南ユダは攻撃を受けることになります。ユダの王と民は動揺しました(2節)。アハズ王は神により頼まず強大国に頼ったのです。
2.イザヤを通して与えられた約束
 人がたてた計画や企ては、神の許しがなければ成就しません。神は預言者イザヤを遣わして恐れてはならないとアハズ王に伝えさせます。神は、北イスラエルが滅びると預言します。
3.インマヌエル誕生の預言
 主は不信仰で揺れ動くアハズに「主に一つのしるしを求めよ」(10節)と語ります。アハズは主を試みることはしないと拒否します。主に信頼する信仰がないアハズ。危機的状況の中、苦しんでいる民に神は希望を与えます。神がインマヌエルというしるしを与えてくださいます。今も神が私たちと共におられると信頼することが、あらゆる状況において勝利する力となります。

2017年11月27日

あなたは時にしたがって彼らに食物を与えられます。
                詩篇145篇15節

 収穫感謝礼拝は、ピューリタン入植者が先住民の援助によってはじめて収穫を得たことを感謝し、先住民を招いて共にお祝いしたことに由来します。
1.偉大でいつくしみ深い主
 日々神を賛美し、御名をほめたたえることは、クリスチャンとして大切なことです。神を賛美するのは神の偉大さをほめたたえることです。ここではすべての者が神を賛美すると語っています。そして賛美されるお方は偉大で慈しみ深くすべてを創造された神です。私たちは日々神を賛美し感謝をささげているでしょうか。
2.与えてくださる神
 主は倒れるものを支え、待ち望む者に時にかなって食物を与えられます。私たちは毎週、主の祈りを通して日ごとの糧を与えてくださるようにと祈ります。神がその日に必要なものを必ず与えてくださるとの祈りです。ですから、明日のことを思いわずらわなくても良いのです。神は私たちのために必要を満たしてくださるお方なのです。いつも私に必要なものを与えてくださる神に感謝しましょう。

2017年11月19日

良い忠実な僕よ、よくやった。
        マタイによる福音書25章21節

 ある人が旅に出るとき僕に財産を預けます。財産はそれぞれの能力に応じて5タラント、2タラント、1タラントを与えられました。この人たちはどのような姿勢で預かったタラントを活用したでしょうか。
1.良い忠実な僕
 すべてのクリスチャンには、各自の賜物に応じて使命が与えられています。5タラント、2タラントを与えられた人は、最善を尽くして商売をし、それぞれ元金の2倍を残します。主人がいなくても自分に与えられた賜物を生かして活用し、すぐれた成果を残しました。神が任せてくださったとおりに感謝して忠実に働くとき、期待したよりもはるかに大きい喜びを得ることができます。
2.悪い怠惰な僕
 1タラントを預かった僕は主人をとても冷酷でひどい人間であると評価して、お金を土に埋めて隠しました。この僕は主人から悪い怠惰な僕という評価を受けました。任されたことに忠実でない人は、与えられたものまでも取り上げられてしまいます。

 神はその人の能力に応じて賜物を与えられました。そして与えられた賜物は神のための奉仕に用います。そして与えられた賜物を用いる人はますます豊かになるのです。あなたの賜物は何ですか?それを用いていますか?

2017年11月12日

あなたはあなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地のおもてのすべての民のうちからあなたを選んで、自分の宝の民とされた。
              申命記7章6節

 今日の聖書箇所の背景はイスラエルの民がカナンに入っていくにあたり、土着のカナン人の宗教が多神教であり、彼らの罪悪が絶頂だったことで神は全てを滅ぼすように言われます。この命令を守るなら神はイスラエルの民を選びの民として祝福するとすばらしい約束をしてくださったのです。
1、あなたの神
 聖書の神は真実であり、私たちを愛してくださり、神の命令を守る者には契約を守り、恵みを千代にまで施してくださいます。神は私たちの神であり、私個人の神です。神は「あなたの神」なのです。
2、主の選び
 神が私を選んでくださいました。選びの条件は何でしょう。条件はないのです。聖書を見ると「ただ、主があなたがたを愛して」と書いてあります。神はあるがままの私を愛してくださって選んでくださいました。
3、主の宝の民
 「聖なる民」とは神がご自分のものとして特別に取り分けられたものを言います。「宝の民」とは神が特別に愛し、大切にされる民のことです。

2017年11月5日

招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない。
           マタイによる福音書22章14節

 イエスが話されたこのたとえ話の聞き手は祭司長やパリサイびとです。神が用意してくださった救いの場に入ることができる人はどのような人でしょうか。
1.宴会に招かれた人々(1~10節)
 この時代、王子の結婚披露宴に招待されること以上に光栄なことはありませんでした。王なる神が食事を用意して披露宴を催したのですが、招かれた人は何の反応も示さず、無視しました。招待を無視した人とはユダヤ人のことを指し、優先的に救われる特権があるにもかかわらず、旧約時代は預言者の言うことを無視し、そればかりでなく預言者を迫害したり殺したりしました。王は町の大通りに使者を遣わし、良い人でも悪い人でも出会った者を婚宴に招くよう言います。福音は何の資格もない取税人や遊女、異邦人に伝えられ先に救われることを語っています。
2.礼服を着ていない人(11~14節)
 王は招待客の中に礼服を着ていない人を見つけます。礼服はイエス・キリストを信じることによって与えられる「義」を象徴します。神は御国の扉をすべてに人に対して開かれましたが、来る人はすべて謙遜と悔い改め、キリストが与えてくださる義を身に着けてなければなりません。神の国に入るためには義の衣を身に着けることが必要なのです。

2017年10月29日

わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい。
                     マタイによる福音書18章22節

 ペテロの質問(21節)に対してイエスが語られた1万タラント借金がある者のたとえから、赦された者として人を赦すことが書かれています。
1.ゆるされたしもべ
 借りていた1万タラントを返すことができない僕を主人が持ち物をすべて売りはらって返すように命じました。しかし、主人はあわれに思い赦してやります。1万タラントとは仮に1デナリを1万円で換算すると6千億円という金額になります。この主人の寛大さを思います。神はこの主人のような人です。私たちには想像もできない、圧倒的な大きな愛をもって、罪を赦してくださいます。
2.ゆるさなかったしもべ
 しかし、この赦された僕は帰り道、百デナリを貸していた仲間に会います。そして借金を返すように命じ、できないとわかると獄に入れます。多く赦された者が仲間を赦すことができなかったのです。
3.互いに赦しあう
 イエスは「七たびを七十倍するまでゆるしなさい」と言います。何度までならと数えて赦すのではなく、無限に赦し続けなさいと教えています。受けた恵みが大きいほど、心から赦しを求め、赦しを与える者となるべきです。そうでなければ、大きな借金を免除されても、恵みを知らない悪い者と同じなのです。

2017年10月22日

ほかの種は良い地に落ちて実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。
               マタイによる福音書13章8節

 マタイ13章には7つの天国に関するたとえが語られています。その最初のたとえ話が種まきのたとえです。
1.たねまきのたとえ
 ここのは4つの種の状況が描かれています。一つ目は道ばたに落ちた種です。畑と畑の間のあぜ道にでも落ちたのでしょうか。そこは踏み固められた土地で雑草さえも育たず、実を結ぶことは全く考えられません。二つ目は土の薄い石地です。石灰岩の岩の上で土が薄く、太陽の熱で種はすぐに発芽しますが、根を張って水分を吸収することができません。三つ目はいばらの中です。とげのある植物で成長が早いので穀物との共存ができなかったようです。最後に良い地に落ちました。その種は豊かに実を結びます。
2.たとえの意味
 命ある種が、落ちた場所によって成育の具合が変わっていることがわかります。命ある神のみことばをどのような心で受け入れるかで実り具合が違ってくるのです。私たちは語られるみことばをどのように受け入れているでしょうか。神のことばを聞いても悟らない、受け入れるがすぐにつまずいてしまう、この世の誘惑に負けてしまう、聞いて素直に受け入れる、というみことばにどのように対応するかが問われています。農夫は種をまくだけです。育ててくださるのは神です。

2017年10月15日

わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。
               マタイによる福音書7章24節

 イエスが生活されたパレスチナという砂漠地帯で家を建てるときは将来のことまで考えて建てなければなりませんでした。イエスは山上の説教の最後にこのたとえ話をされました。
1.砂の土台

 想像してもわかるように、砂の上に家を建てるということはおろかな考えだと誰もが思うでしょう。雨が降ったらどうなるのか、考えればすぐに結論は出るように思います。イエスは砂の上に家を建てた人をみことばを聞いても聞き流し、行わない者として語られました。
2.岩の土台

 岩を土台として建てようと思うと大変な労苦があるでしょう。しかし、苦労があった分、土台はしっかりとし、少しのことで倒れることはありません。この人は、土台の大切さがよくわかっていたので、手間をかけて地面を掘り、きちんとした土台の上に家を建てたのです。
3.人生の土台

 イエスはこのたとえを通して私たちに何を語っておられるのでしょうか。みことばを聞いて行う者と行わない者とを比較していることです。嵐が来て倒れたのは砂の上に建てた家でした。岩の上の家は土台がしっかりとしているので倒れることはありませんでした。私たちの人生にも嵐はやってきます。イエス・キリストを土台とする人はぐらついたり倒れることはありません。あなたは何を人生の土台としていますか。

2017年10月8日

わたしは生れた時から神にささげられたナジルびとだからです。
                       士師記16章17節

 神はイスラエルの民の背信の罪のゆえにペリシテびとの力を強くし、彼らの手に渡されます。イスラエルが祈り求めると神はサムソンを士師として選びたてられます。
1.サムソンの弱さ
 サムソンの弱さは、主の者として聖別されたナジルびととしての自覚がなかったことです。ナジルびととは「主のものとして聖別された者」を意味します。サムソンは、デリラの求めに応じて、力の秘密を打ち明けます。人は誰でも弱さを持っています。失敗もします。しかし、肉の欲に従わず、聖霊の導きに従わなければなりません。主への誓約を軽んじたサムソンから、主は去られました。
2.サムソンの悔い改め
  自らの罪の結果、招いた苦しみの中で、サムソンは自分がナジルびととして聖別された者であることを思い出し、悔い改めます。サムソンの力は髪の毛にあるのではなく、神がともにいて下さることによって発揮できました。サムソンは神に与えられた自分の使命を覚え、主の前に祈るとき、神はもう一度サムソンに力を与えられました。悔い改めた罪人に、神のあわれみと赦しが与えられたのです。神は選ばれた者を見捨てず、離すことはありません。

2017年10月1日

大勇士よ、主はあなたと共におられます。
                  士師記6章12節

 神の前に悪を行うイスラエルの民に対して神はミデアン人の手にわたされました。苦しみに合うイスラエルの民は神に助けを求めます。
1.自分の弱さを知る
 ミデアン人はしばしばカナンの地に侵入して収穫物を略奪していました。ギデオンは彼らに見つからないように酒ぶねの中で麦束を打っていました。ギデオンは勇敢な人ではなく臆病だったのです。神は語りかけます「大勇士よ」と。ミデアン人からイスラエルの民を救い出すように言われますが、ギデオンは弱い者だからできないと断ろうとしました。神は自分の弱さを認めるものを用いられます。
2.神が強くして下さる
 ギデオンは17節で神であるしるしを求めます。これは神を試みたのではなく、心から従うために従うべき方を確認したのです。神がともにいると確信したギデオンは士師として大胆に立ち上がることができました。ミデアンとの戦いにおいて、ギデオンは神のことばに従い勝利を得ました。
 私たちが神の召しに従い、信仰をもって立ち上がるなら、人間の弱さは神にとって妨げにならないばかりか、神の力によってその人が用いられて働きが進められることを覚えましょう。

2017年9月24日

そうすれば、町の周囲の石がきは、くずれ落ち、民はみなただちに進んで、攻め上ることができる。
                            ヨシュア記6章5節

1.戦いの方法
 有名なエリコの戦いは、神が語られた「見よ、わたしはエリコと、その王および大勇士を、あなたの手にわたしている。」という神の勝利の約束とこれから戦うための具体的な方法が示されています。エリコは堅固な城壁に囲まれた町でしたから、神のことばはヨシュアたちにとっては心強かったと思われます。しかし、その方法を見るならば全く予想もしなかったものです。戦うことなく、どうして堅固な城壁がくずれ落ちるというのでしょうか。しかし、人間の浅はかな考えで神の力を制限してはなりません。
2.全き従順
 正しい信仰をもって従い続けるなら、やがてすべてを理解できるようになります。ヨシュアは神の方法に対して異議を唱えたり、文句をつけたりしませんでした。戦いの勝敗が神の御手にあることを信じていたからです。理解できないことでも従うとき、神の奇跡を経験するのです。信仰による勝利です。

2017年9月17日

信仰によって、モーセの生れたとき、両親は、三か月のあいだ彼を隠した。
                      へブル人への手紙11章23節

 エジプトの王はイスラエル人に強制労働をさせ、彼らを苦しめて支配しようとしました。しかし、イスラエル人はエジプト全土に広がりました。王はついにイスラエル人に男の子が生まれたら殺すようにとの命令を出します。
1.信仰をもって行動する
 このような時に一人の男の子が生まれました。やがて「モーセ」と名付けられる子です。神はモーセを用いてエジプトからイスラエル人を救い出す計画を持っていました。両親は3か月の間、隠してモーセを育てましたが、隠しきれなくなりナイルの岸辺にモーセを置きます。そこにエジプトの王パロの娘が現われ、モーセを育てることになります。たとえ絶望的な状況にあっても、神は背後でご自分の計画を進めておられ、人の心の奥深くにまで触れて、人の思いをも変えることがおできになるのです。
2.モーセを守られた神
 神はモーセの母、姉、パロの娘を用いて、モーセの命を守られました。幼子の姉の機転で、幼少期を実の母のもとで育てられたモーセは神を畏れる信仰が与えられました。そのうえ、エジプトの最高の教育を受けることができ、やがてイスラエルを開放する神の器として用いられます。危機的な状況の中で私たちは誰に助けを求めるべきでしょうか。神を信頼しましょう。

2017年9月10日

しっかりするのだ、わたしである。恐れることはない。
               マタイによる福音書14章27節

イエスは5つのパンと2匹の魚の奇跡の後、弟子たちを舟に乗せて行かせ、山に登って祈られました。
1.恐れから信仰に
 イエスが祈っておられる間、弟子たちは逆風に悩まされていました。イエスは祈り終わられると、水の上を歩いて弟子たちが乗っている舟に近づかれます。その姿を見て弟子たちは幽霊だと恐れました。しかし、イエスのことば(27節)に信仰を取り戻し、ペテロは水の上を歩きたいとイエスに言います。私たちは、日ごろ力強いように見えても、突然に思いがけない異変が起こると力を失い、ただ慌てふためいて混乱することがあります。イエスのことばをその通りに受け入れるならば、恐れの代わりに信仰が芽生え、不可能に思えることもできるようになります。
2.イエスから目を離さないで
 ペテロはイエスだけを見ていた時、水の上をうまく歩くことができました。しかし、風を見て恐れを感じおぼれかけます。イエスは、すぐにペテロに向かって手を伸ばし、救い出されました。疑いのない信仰は水の上を歩かせます。しかし、疑ってしまうとおぼれてしまいます。私たちが置かれている状況ばかりに目を向けると、私たちもペテロのようにおぼれてしまいます。しかし、絶えずイエスに目を向けるならば、奇跡と思えるようなことが起こるのです。イエスから目を離さないでいましょう。

2017年9月3日

パンくずの残りを集めると、十二のかごにいっぱいになった。
             マタイによる福音書14章20節

イエスが行われた奇跡の中でも有名な5000人の給食と言われる記事ですが、同じ内容がマルコ6:30~44、ルカ9:10~17、ヨハネ6:1~14に書かれています。
1.イエスについていった人々
 バプテスマのヨハネの死をいたんでか、それともヘロデが自分の命を狙っているという危険のためか、イエスはひとり寂しい所に行かれました。しかし群衆はイエスの必要などおかまいなしにどこまでもついて行きました。その群衆をご覧になったイエスは邪魔者として扱うのではなく、深いあわれみ人々の病気をいやされました。恵み深いイエスの姿を見ます。
2.5千人の給食
 夕方になると人々を解散させて食物を買わせるようにとイエスに言います。ところがイエスはあなたがたの手で食物を与えるように言われました。手元には5つのパンと2匹の魚しかありません。数々の奇跡を目撃した弟子でしたが、不可能を可能にすることができるイエスの力を信じてなかったのです。イエスはわずかなように思えるものを増やし人々に与えられました。私たちは、あまりにもささげすぎるとなくなってしまうと考えるかもしれません。しかし、食べ残ったものを集めると12のかごいっぱいに余るほどにしてくださるのです。すべての必要を満たして下さる神を信じていますか。

2017年8月27日

子よ、しっかりしなさい。あなたの罪はゆるされたのだ。
                   マタイによる福音書9章2節

イエスの関心は、病の癒し以上に、罪の赦しと魂の救いにあります。
1.中風の人の癒し
 中風で何年、苦しんでいたのでしょうか。仲間がイエスのうわさを聞き、床の上に寝かせたままイエスのみもとに連れて行きました。病もその人にとっては苦しみでしょう。しかしそれ以上に問題なのは罪を持っているということです。当時のユダヤ人たちは、病気は罪の結果であると考えていたのです。
2.罪を赦す権威
 イエスは罪を赦す権威を持っておられます。イエスが罪の赦しを宣言されたとき、律法学者たちはおそれおののきました。罪を赦すと言われたイエスに対して神を冒涜していると告発したのです。永遠を考えたとき、罪の赦しと病の癒しはどちらが重要でしょうか。中風の人は仲間の愛により、体の癒しが与えられただけでなく、魂の救いも得ることができました。イエスとの出会いを通して人生が大きく変わったのです。

2017年8月20日

神はそれを良きに変らせて、今日のように多くの民の命を救おうと計らわれました。
                              創世記50章20節

1.ヨセフの生涯
 ヨセフはヤコブの11番目の息子で、最愛の妻ラケルから生まれました。ヤコブはヨセフを息子たちの中で誰よりも愛していました。そのためかヨセフは高慢で兄たちに憎まれていたのです。その上、ヨセフが見た夢の意味が、ヨセフが彼の父母、兄弟たちを治める者になるということでしたので、兄たちはヨセフをますます憎み、ねたむようになります。そしてその結果、ヨセフは奴隷として売られ、そこから波乱の人生が始まります。しかし、このことはやがてヨセフが神に用いられる器となるための訓練でした。
2.神の御手の中で
 飢饉があり、食物を調達するためにヤコブの息子たちはエジプトに行きます。そこにいたのは奴隷として売ったヨセフ。兄たちは恐れを感じます。しかし、ヨセフはまことの神を信じて生きているので、神の行われるすばらしい力の御業を知り、報復や憎しみの代わりに赦しと慰めの力を与えます。神はもつれた兄弟関係を用いて、ヨセフを一足先にエジプトに導き、そこで共に生きながらえるよう計画されたのです。

2017年8月13日

まことに主がこの所におられるに、わたしは知らなかった。
                    創世記28章16節

ヤコブは長子の権利を得るために兄エサウをあざむき、エサウから命を狙われることになりました。しかし、母リベカの機転にヤコブは伯父ラバンのもとへ逃れます。神はヤコブを選びましたが、そのままのヤコブで用いることをしませんでした。
1.立ち上がらせてくださる神(10~15節)
 最も困難な時にこそ、神の恵みを体験することができます。ヤコブはベエルシバを出てハランに向かいます。途中、日が暮れたので石を枕にして寝ることになりました。そんなヤコブに神が会ってくださいます。私たちには、正しいと思えないヤコブに神は直接会い、祝福の約束をくださいました。ひとりぼっちと思えるヤコブにも神はともにいてくださいます。
2.そこに神がおられる(16~22節)
 ヤコブは神のお言葉に信仰をもって反応しました。その場所をべテル(神の家)と名付け、記憶にとどめるために枕にしていた石を立てて柱とし、祈りました。私たちが失望落胆するときにこそ、神は私たちに現れ、励ましのみことばを与えてくださいます。しかし、それで終わってはいけません。そのみことばに応答し、祈り、感謝しましょう。

2017年8月6日

柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。
                    マタイによる福音書5章5節

1. ねたみと嫉妬
 飢饉が起こった時、イサクは父アブラハムをまねてエジプトに行こうとゲラルまで来ました。しかし、この時、主が現れてエジプトに行くことをとどめられ、この地にとどまるなら祝福を与えると約束されたのです。イサクは主のことばに従ってゲラルにとどまったので、その年に百倍の収穫が与えられました。すると、外国人が豊かになることをねたんだペリシテびとは、イサクをねたむようになり、イサクが掘った井戸をふさいだのです。それでも、イサクは揺らぐことなく、争いませんでした。イサクは神の祝福を味わって満ち足りた者だったからです。
2.平和をつくる者
 神から祝福された者は、どこに行っても神の平和をつくります。イサクに対するペリシテびとのねたみはとまりません。イサクは必要なものは、神が与えてくださると信じていたのです。神を信頼する者に、神は平安と勝利と祝福を与えてくださいます。

2017年7月30日

あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、私が示す地に行きなさい。
                 創世記12章1節

アブラムは今から4000年ほど前に生きた人物です。
1.神の命令に従ったアブラム
 族長アブラムの物語は、ハランでアブラムが神の命令を聞いたことに始まります。アブラムは安定した生活を捨て、神が示す見知らぬ地へ旅立つように命じられたのです。これからの生活は放浪生活です。神の命令であるにしても、すぐに応じられるほど容易なことではなかったでしょう。旅立つこととハランに留まることはどちらが難しいでしょうか。アブラムは一大決心をしました。
2.命令に伴う約束
 神の命令にはかならっず約束が伴います。このときは、「わたしはあなたを大いなる国民とし、…祝福される」というものでした。偶像礼拝に満ちた土地から、アブラムを導き出し、神を信じる者として祝福の基となると神は言われたのです。神の祝福の約束は、神の命令に従うアブラムの信仰と従順によって実現します。
 信仰とは何よりもまず、神のことばを聞いてそれに従うことである。

2017年7月23日

信仰によって、ノアはまだ見ていない事がらについて御告げを受け、恐れかしこみつつ、その家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世の罪をさばき、そして、信仰による義を受け継ぐ者となった。
                      へブル11章7節

2017年7月16日

愛さない者は、神を知りません。神は愛です。
                ヨハネへの第一の手紙4章8節

1.神の愛
 神の愛は私たちの理解をはるかに超えたものです。7節に「愛は、神から出たものなのである。・・・神を知っている。」とありますが、この「知る」という言葉は「真偽を区別する」という意味があります。ですから、「知る」とは知識よりも、「信じる、愛する、光の中にとどまる」といった神と人間の人格的関係を表します。神の愛は自発的です。ご自分のひとり子であるイエスを十字架にかけるほどの愛です。人間の愛には限界がありますが、神の愛は私たちに現れる愛であり、行動に移される愛であり、自己犠牲の愛です。
2.互いに愛し合おう
 クリスチャンの愛の行為は、神の愛に応答した結果、生まれてくるものです。目に見えない神の存在を証明する方法は、私たちがお互いに愛し合うことです。私たちが神の愛に応答して、愛し合うとき、神の愛が私たちの中で完全に働かれます。そして、イエスの十字架によって罪赦された経験をした者は隣人を心から愛することができます。「ことばや口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。」(新共同訳3:18)

2017年7月9日

聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主、その栄光は全地に満つ。
                    イザヤ書6章3節

6章の初めにウジヤ王の死んだ年とあります。ウジヤ王は霊的にも実際的にも祝福された人生を始めましたが、高ぶりと不信の罪により神に打たれ病にかかり、紀元前740年頃に死にました。ユダ王国は不信仰と不道徳な生活を送っていました。
1.神を見る
 イザヤはそのような時代に神に召されます。神殿で礼拝をしているとき、主が高く挙げられたみくらに座しておられる幻を見てのです。主の栄光に触れたとき、イザヤは自分の罪深さを認識し、自分だけではなくユダの罪も告白しました。イザヤは神の前に自分の無力さと滅びしかないことを思い、滅びるばかりだと告白するしかなかったのです。 
2.罪の赦し
 神と直接会ったイザヤは、神の聖さの前に自分が罪人であるということをいやというほど思い知らされました。セラピムは、祭壇から燃え盛る炭を持ち、イザヤの口に触れました。火は汚れを取り除くものであり、神の聖さを示します。罪深い私たちをつくりかえることのできるお方は神以外にはありません。神の前に自分が罪人であることを自覚し、主の救いにあずかり、贖の恵みの確証を得たイザヤは、主に対して全き信頼の道を歩むようにと励ます者として神に召されました。私たちもイザヤのように人々を神の愛によって励ます者となりましょう。

2017年7月2日

目を高くあげて、だれが、これらのものを創造したかを見よ。
                                イザヤ書40章26節

聖書の神はイザヤ書40章を見ると、小羊一匹一匹に目を止めてくださる慈愛深いお方であると書かれています。そして、その神は全地宇宙を創造された大能者であり、創造者であると記されています。
1.創造者なる神
 「わたしをだれにくらべ」と言われる神は、偶像礼拝の愚かさを説かれます。手で作った偶像など拝んでいないといわれる方も、もしかしたら神より大切にしているものがあり、そのために神が見えなくなってはいないでしょうか。聖書の神は天地を作られた全知全能の神です。また、歴史を支配する神でもあります。
2.創造者の慰め
 神は「目を高く上げて」と言われます。バビロン捕囚から解放してくださったお方は偶像ではなく、全地宇宙を造られた創造者です。その神こそが私たちを励ましてくださいます。真の神の力強さを認め、信頼しましょう。わたしたちが信じる神は天地宇宙を創造された偉大な神です。

2017年6月25日

人をさばくな。自分がさばかれないためである。
             マタイによる福音書7章1節

「何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ」(12節)ジョン・ウェスレーが「黄金律」という説教して以来、このみことばが「黄金律」と呼ばれるようになりました。このみことばを心に留めつつ学びたいと願わされます。
1.さばいていはいけません
 「さばく」とは「見下げる」とか「批判する」という意味で、その相手はクリスチャンです。自分の多くの欠けた部分に目を閉じながら、他人の欠けた部分は目につき、善意を装いながら忠告するのは偽善者です。まず、自分が何者であるのかを考えましょう。
2.あなたは何者ですか
 イエスが禁止するのは、自己を正当化するあら捜しや優越感を伴った批判です。そのような高慢は神によっていずれ懲らしめられます。Ⅱコリント5:10には自分の行ったことに応じて報いを受けなばならないと書いてあります。私たち誰もが、神の前では罪人であり、欠けだらけの者です。ほかの人の欠けた部分が見えるとき、その人の欠けをすぐに指摘するのではなく、まず自分はどうなのか省みましょう。

2017年6月18日

御国が来ますように。御心が天に行われるとおり、地にも行われますように。
         マタイによる福音書6章10節

この当時のユダヤ人は、午前9時と正午、午後3時にはどこにいても祈らなければなりませんでした。パリサイ人たちは、わざとその時刻に会堂や大通りのつじに立って祈っていたのです。その姿を見ていたイエスは父の御心にかなった祈りをするように教えました。
1.祈りの姿勢
 イエスは祈るときにはくどくど祈らないようにと言われます。祈りとは上手に祈ったから神が聞かれるのではありません。なぜなら、私たちが祈る前から神は私たちに必要なものをご存じだからです。自分のことばで、自分の気持ちを、単純に語りかければよいのです。
2.わたしたちの祈り
イエスが教えてくださった祈りは、主が祈られた祈りとして私たちが受け取るのではなく、わたしたちの祈りとして祈るべきです。まず、神に対する呼びかけがあり、神に関する3つの願い、そして私たちの必要に関する願いがあり、最後に神をほめたたえて終わります。

 明日のこともわからない私たちが自分の願いがかなうことが一番の幸せだとどうして言えるでしょうか。ですから神の御心がなるようにと祈るのです。主の祈りを私の祈りとして祈りましょう。

2017年6月11日

天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。            マタイ福音書5章45節

イエスの語った福音は、当時のユダヤ人にとっては新鮮で意表を突くものでした。ユダヤ人の根拠は旧約聖書です。律法を重んじ、律法に従うことを大切だと考えていたのです。
1.聖書が教える教え
 神は、隣人を愛しなさいと言われましたが、敵を憎みなさいと言われたことはありません。ユダヤ人が勝手に付け加えたのです。「目には目を、歯には歯を」とモーセの律法で教えていたことが誤解され、間違って用いられたのです。イエスは「敵を愛さなければならない」と教えました。常識では考えられないことです。しかし、私たちの基準は神ご自身です。神は、すべての人を愛され、恵みをほどこされます。神は私たちが神に背いていた時から私たちを愛してくださいました。
2.完全な者となりなさい
「完全」は 旧約聖書では道徳的に落ち度のないことを言い、この個所の「完全」は人を差別することなく愛することを意味します。神は恵みをすべての人に同じように与えられることにおいて完全です。私たちは自己満足の生き方を捨て、イエスに従って神の国の民とされる生き方を選び取りましょう。

2017年6月4日

御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。                     ガラテヤ人への手紙5章22~23節

ペンテコステを迎えました。弟子たちは、イエスが言われた「見よ、わたしの父が約束されたものを、…都にとどまっていなさい。」という命令を信じて祈りつつ待っていました。そして、弟子たちに聖霊がのぞみました。
1.肉の働き
 肉の働きとは生まれながらに持っているものです。それは自己中心的な生き方のことです。肉の働きとして記されているものは、教会の交わり、人間関係を破壊します。そして自分自身も破壊していくのです。
2.御霊の実
 これは神が結ばせてくださるものです。神の御霊が働かれると、生まれつきの能力や生まれつきの性格のよさによってではなく、「実」が自然に結ばれて行きます。
3.キリストに属する者
 イエスの所有とされた私たちですが、だからといって肉の働きがなくなったわけではありません。ですから日々、イエスの十字架とともに私の肉と情も十字架につけられたと信じて歩みましょう。そして御霊の実を結ぶ者となりましょう。

2017年5月28日

あなたがたは、世の光である。           マタイによる福音書5章14節

「人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」(16節)このみことばは私に何を教えてくださっているのでしょうか。
1.地の塩として生きる(13節) 
 イエスはご自身に従う弟子たちに「あなた方は、地の塩である」と言われました。塩の役割とは何でしょうか。味付けすること、腐敗防止です。塩の加減は微妙です。そのように、私たちもクリスチャンとして主の助けにより頼みつつ、正しさを追い求めましょう。主に従い、正しい者として生きるとき、私たちの生き方は周りに必ず影響を与えているのです。
2.世の光として生きる(14~16節)
 私たちはイエスによって世の光として召されました。光は輝くために存在するように、クリスチャンの使命は世に光を与えることです。神はみことばを通して神の光を受けて、私たちも光であることを教えてくださっています。
 イエスに従う者たちは、主から与えられた命の光を輝かせ、恵みと愛に満ちた神があがめられるように生きましょう。


2016年12月25日クリスマス礼拝

神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。    ヨハネによる福音書3章16節

①神の愛の真実 
 「神は・・・この世を愛して下さった。」とありますが、「この世」とは神によって造られながら、神を無視し、神に逆らい、神を信じようとしない世界のことです。そんな世であっても神は変わらない愛で愛して下さるのです。神のわたしたちに対する愛の大きさはどれほど大きなものでしょうか。
②神の愛の大きさ 
 「神はひとり子を賜ったほどに」とあります。ひとり子とは、父なる神にとってただひとりで、他に代わりのない、愛する子イエスのことです。「賜る」とは「お捨てになった」というギリシャ語が使われています。ひとり子を捨てるほどにこの世を愛してくださったのが、聖書の神です。そして、そのひとり子イエスは十字架でわたしたちの身代わりとなってくださいます。
③神の愛の目的 
 「それは御子を信じる者が・・・永遠の命を得るため」にイエスはこの地上に生まれ、十字架にかかって下さいました。 神の愛はイエスを信じる者にも信じない者にも注がれていますが、永遠の命はイエスと無関係には与えられません。
 罪の裁きに苦しむよりも、神からの贈り物としてこの地上にお生まれくださったイエスを信じ、永遠の命に生きる者されましょう。

2016年12月18日待降節(アドベント)第4主日

イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行い、その栄光を現された。
                                ヨハネによる福音書2章11節

1.主イエスの母(1~3節) 
 イエスは母マリヤや弟子たちと共に、結婚式に招かれました。ユダヤの結婚式行事は長期間続きます。途中で婚宴用のぶどう酒が切れたことを知ったマリヤは、問題の解決をイエスに求めました。生まれた時の経緯からイエスに対して特別な尊敬と信頼を抱いていたのでしょう。イエスにこの問題を解決して欲しいと願います。
2.主イエスの時(4~6節) 
 母マリヤの依頼に対して、イエスの言葉は冷たい感じがする答えでした。しかし、マリヤにとってはそうではなく、僕たちにイエスの言うことに従うように言います。この時はまだ、イエスが働かれる時ではなかったのです。
3.主イエスの栄光(7~11節) 
 イエスは僕たちに水をくんでくるように命じます。僕たちはその命令に従います。イエスの言葉に従った結果、水がめの水はよいぶどう酒に変わっていたのです。それまで出していたぶどう酒よりも優れたものでした。しるしの目的はイエスの栄光を現すことです。そしてこの栄光をみた者が、イエスを信じる(11節)ことができるのです。イエスのしるしは私たちの心を変えます。イエスの力を信じ、罪の赦しを信じることができるなら喜びに満ちた人生を送ることができます。

2016年12月11日待降節(アドベント)第3主日

わたしたちはメシヤ(訳せば、キリスト)にいま出会った。      ヨハネによる福音書1章41節

 私たちの人生は人との出会いが大きく影響することがあります。「あなたこそ神の小羊キリストです」とバプテスマのヨハネによって紹介されたイエス・キリストと出会ったアンデレは生き方が変わりました。イエスの弟子となり、共に生活する者となりました。それだけではなく、自分の兄弟シモンとイエスが出会うきっかけを作ります。ここから、シモンの人生も大きく変わっていくばかりでなく、名前までがイエスによって変えられました。私たちはどうでしょうか。私の人生を大きく変えた出会いを経験された方はおられるでしょうか?イエスを救い主と信じるなら、私たちの人生は今までとは違うものになります。その人生は災いを与えようというのではなく、平安を与え、将来を与え、希望を与えようとするもの(エレミヤ29:11)です。