profile

いわな!H.N:Curtis(カーティス)
1969年(昭和44年)4月生
宮城県仙台市在住
家族;4人
職;フツーの会社員
趣味;フライフィッシング,他釣り全般,バイク,野球,コーヒー
性格;小心。人に影響されやすい。能書きたれ。雨男。
嗜好志向;
カレーライス>ラーメン,肉>魚介類,豚肉>牛肉,洋菓子>和菓子,コーヒー>紅茶&日本茶,理系>文系
THE BLUE HEARTS,↑THE HIGH LOWS↓,奥田民生,三国志,ハリーポッター,北方謙三,

おいたち

1969年4月、生まれたのは大阪府だそうです。

物心ついた幼稚園の頃には千葉県習志野市に住んでいて、以降幼少時代の大半を千葉で過しました。
元々「3歩 歩くと忘れる」程物忘れが多いので、この頃の記憶などあてにもなりませんが、
幼稚園の頃は自転車を乗り回すのが楽しかったと記憶しています。年中の頃…だから4歳ですか?…父親が仮面ライダーの自転車とヘルメットをセットで買ってくれました。ヘルメットにはちゃんと触覚が付いていた気がします。

小学校へ入学する前に隣りの船橋市へ引っ越し、その地の小学校へ入学しましたが、3年生の半ば、父親の仕事の都合で引越し。約3年程シンガポールへ住む事となりました。その頃はラジオや電子工作、またラジコン等に興味がありました。小学校のクラブ活動ではブラスバンドをやってました。
釣りにはまり始めたきっかけは、このシンガポールでの体験です。というと、当地で忘れられないような釣の体験をしたかのように聞けますが、実際はその全く逆なのでした。
元々、「ノウハウ本を読んで色々やって見る」事が好きだった私は、日本人学校の図書館や日本語書籍店で手に入れた数少ない釣りの教書を読み漁りました。小学校の図書館にあるような釣入門書の最初にあるのは…そう! 鮒釣りでした。
服装とか道具、仕掛けや釣り方などを熟読し、図書館へ返却するのが惜しくて一部を“写本”まで手がける(当時の私に「本を買う」という選択肢は無かった。ましてコピーするなどとは思いもよらなんざ。)ようになると、頭には“静粛な水面にちょこんと浮かぶ唐辛子浮が、今にもぴくぴくと反応する”光景が思い描かれてくるのです。
そんな文章だけの解説に色々な疑問を抱きつつ、
「まあ、まずはこのとおりやってみよう!」
と、釣具屋に足をのばします。
ところが…無いんです。本に書いてあるような道具・・・袖型の針とかタル型ヨリモドシとか・・・など皆無。そこに売っていたのは、人間の口に引っ掛けるような大形フックに、わかさぎ竿程の堅さはあるハリス?ががっちり結ばれたのの袋詰やら、ガイドのところが輪っかでは無くローラーがついているような物干し竿とか、首からぶら下げる鎖がつけられるようなずっしり重量のあるリールとか…そんなのがメインの世界なのでした。実際の釣りをやる前に、釣りにおける世界文化の違いを感じてしまいました。
苦悩の末、当地である最小スケールのタックル(今見るとシェークスピアのルアーロッドとダイワのスピニングでした)を入手。また、仕掛け小物等の一部は日本の親戚に頼んで送ってもらったりして、嬉々と海へ。ルアーロッドに玉浮きつけて、日本から取寄せたヨリモドシ小と細いハリスを、打寄せる砂浜の波に向かって健気に投げる少年でした。
この頃の私にとって状況を難しくした事の一つに、釣りに明るい親戚が居なかった事があります。がしかし、本と違う状況をいろいろな工夫で打破してゆく(それほどの事ではないでしょうけど)事の楽しさを十分に味わう事が出来たし、それこそ子供遊びの醍醐味を感じられた、幼少釣人期だったのではないかと今更ながら感じます。
また、この頃最もあこがれてたスタイルの釣りは、熱帯島国のシンガポールではおよそ遠い夢であろう、渓流の釣りでした。
何回目かの釣りで…その頃にはジェット天秤などで遠くに投げる知恵を得ており…今は空港に消えうせたチャンギーの砂浜で、白くて細長い魚(シロギスでした)を釣上げるに至ったのでした。

不忘山そんなシンガポール生活も、小学校一杯で終え、中学入学と同時に日本へ帰国。船橋の地元の中学校へ通い始めました。
小学校のクラブ活動でブラバンをやっていた流れでそのままオーケストラ部に入部。帰国して、教科書どおりの道具が手に入るのが嬉しくて、近所の池で鮒やクチボソを釣ってました。

釣りというのは悪い病気のようなもので、一度“ドキッ”と体験をしてしまうと、平常時までその体験が心身を蝕み、胸の中で想いがどんどん膨らみつつ次回の釣行を心待ちにしてしまいます。その想いは、たった一回だったとしても、釣れない釣りが何回続こうとも膨らみつづけ、平日の本業の最中でも居ても立っても居られない状態に陥れます。中学生の頃、その感染初期段階だったのだと思われますが、小学校から続けていたトランペットを放り出してしまいました…。
また、その頃より日本ではルアーフィッシングのブームがはじまります。今では信じられないようですが、当時はまだブラックバスは限られたフィールドにしか居らず、自転車が唯一の移動手段である中学生には遠い憧れでした。
日本に戻り、海も沼も自転車で行ける所で、大体において本からの知識の試行錯誤をやることができ、釣に対する興味がより深くなっていく中、千葉県在住だった当時ではやはり渓流だけが遠い存在で、清澄な流れで釣るイワナ・ヤマメに更なる憧れをつのらせる時期でもありました。

高校に入り、家からちょっと離れた千葉県佐倉市まで通う事になりました。通学は下り方向なので楽だし、佐倉にはなんと言っても印旛沼があります!!
高校では、それまでの文科系人生を蹴飛ばすべく、最も過酷な体育会系部活をやろうとラグビー部に入部。基礎体力も根性も無い私に続くわけも無く、1年の冬には右手首骨折、2年の夏には辞めちゃってました。
その頃、印旛沼でもようやくにブラックバスが確認されはじめ、巷に出始めた“バスプロ”なる職業に真剣にあこがれ、自転車での印旛沼通いをはじめました。遠かった〜。自転車だけではその行動範囲も限られ、流されやすい私は雑誌に載ってる富士五湖や奥多摩にあこがれ、行動範囲を広げる必要を痛切に感じ始めます。それで3年の時に原付の免許を取得。晴れて関東近辺のフィールドに行ける身分となったわけです。
ところが、ここで私はバイクに乗る事の楽しさに目覚めてしまいました…。仲間と、近所だった船橋港や房総の峠を攻めるのが楽しくなってしまいました。結局、
「卒業したら中型取るぞ!」
と、その方向にはまりつつ、高校を卒業するのでした。

乗った車の歴史
バイク HONDA MBX50,Kawasaki KMX200,SUZUKI RM125,SUZUKI Randy,
YAMAHA SRX6,YAMAHA TT250R(現在)
SUBARUサンバーLimited(軽バン),SUZUKI エブリー(軽バン),MITUBISHIミニキャブ(軽トラ),TOYOTAカローラセダン,NISSAN ADバン(ライトバン),SUZUKIジムニー(パノラミックルーフ),SUBARU インプレッサSTi,TOYOTAランドクルーザープラド(現在)

大学に入り、神奈川県で下宿暮らしをはじめました。まず中型免許を取得。購入したのが Kawasaki KMX200 。
釣りからは暫く離れる事となり、バイクのサークル活動と、オフロードレースに明け暮れました。車の免許をとって、軽トラックと型落ちモトクロッサーを購入。河原で朝練やって、当時はモトクロスレーサーとして生計を立てようと真剣に考えてた時期もありました。汗。
限定解除をしたのもこの頃で、ガソリン代で金が無く、米と納豆と卵というのが定番の飯でした。

大学の後半、車に乗るようになってから、思い出したようにまた釣りをやり始めました。近くの湘南海岸でシーバスを狙ってみたり(この時、シンガポールで入手したタックルに出番がきました)、いつもはコーナーを走り抜ける丹沢に、渓流竿を持って行ってみたり。
記憶にある限り、この頃やっと手にした初めてのヤマメが、丹沢奥でのキャンプ中だったと思います。確か10pくらいのヤマメだったような。

そんな流れで就職活動が開始され、水がらみのとこに勤めたいという希望もかない、そんな会社に勤める事ができました。
勤め始めて少々懐にも余裕ができ、昔からあった渓流への憧れと、疑似餌への志向が重なり、日々
「フライフィッシングやりたい!」
の想いが口に出るようになりました。それを耳にした当時の私の彼女…この半年後には結婚しちゃったわけですが…私の24歳の誕生日に、タックル一式をプレゼントしてくれました〜。今となってはどうにもなりませんが、このプレゼントが私の人生に多大な影響を与えたものとなり、しいては彼女の苦労を増大させる事になってしまうとは…いやいや私のライフワークとして、真っ当な家庭と両立させつつこなしつつ、これからの人生も歩んでいきたいと結ぶのであります。

ところで…
私がフライフィッシングをはじめてから、既に10年を過ぎました。
いまだに目に焼き付いてるのは、福島県浜通りの某河川で、初めてドライに魚がでた瞬間の絵です。もちろんその魚を手にする事は無かったですが、目の前で繰り広げられる渓魚の水面へのアタックに固まったのが鮮明です。
その半年後に、新婚旅行で行ったニュージーランドでのレインボーや、後に初めて釣った尺イワナ、そして現在の住処から遠征して、フィールドスケールの大きさに感じ入った岐阜の沢々等色々なドキドキを味わいました。が、結局私のフライフィッシングを支える最大のドキドキは、初めてドライに魚が出たあの瞬間なのだと感じています。