
2000年4月22日「良心の自由は守られたか?」ホットラインまとめ・交流集会にて
| ファシズムを宣伝し、助長する石原発言 まずはじめに、現在の状況として最も特徴的なのが極右の台頭です。ヨーロッパでは、4,5年前から手を焼いていましたし、オーストリアではとうとう政権にまで入ってしましました。ドイツでもフランスでもオーストリアでもそうですが、失業が慢性化している状況の中で、カルト集団による特異な事件や社会の病巣を表すようないろんな事件がでてきています。日本においても、失業が長く続く中で、とうとう石原知事がでてきました。知事になった段階では、まだおとなしくしていたのですが、いよいよ扇動的な行動に入ってきています。この石原知事を批判した女性への脅迫などが約300件起こっています。あるいは、それに対する支持集会をやる、その中で自民党の都議だけでなく、民主党の都議もでています。マスコミ的には産経や文春が、地域においては草の根右翼がかなり活発になっています。 石原発言は、明らかな民族差別の扇動であります。民族エゴイズムの扇動です。これは扇動が目的ですから、発言は彼がやめるまでやめません。批判されても、弁明の記者会見の場でまた、スタンドプレーをやります。そのようにして同じ扇動を繰り返すに違いない。ヒットラーが「100回嘘を言えば真実になる 」「小さな嘘ではなく大きな嘘をつけ」といった方法を、彼はそのままやっています。ナチスも彼も政権についた段階で、最初に大きな人気取りをやっています。ナチスも土地改革を掲げて合法的な形で政権に参加しました。当初この政権には大きな人気がありました。そこから、ファシズムの扇動に走っていきました。石原も同じことをやっています。外形課税で人気を取って、それを基礎にして発言を繰り返す。彼の目的は扇動ですから、どこまで行ってもやめない。それが特徴であります。 これは理論的には、ファシズムの宣伝です。ファシズムを図式化すると、小さなエゴイズを大きなエゴイズムが統合する形で進みます。出発点としての個人の問題は、失業や生活の苦しみなどで、それ自体はエゴイズムではありません。生活を改善したいと望んでいる人々の気持ちを、どこかに敵を見つけて「惨めな生活をしているのはこいつらのせいだ」といって、抽象的な言葉で差別を固定化していく。そこには具体的な話はない。石原の話でも具体的な話はない。各個人の深刻な生活の話を、抽象的で巨大なエゴイズムに統合して、集中していくのがファシズムの常套手段です。ナチスにおいてユダヤ人がそうであったように、戦前・戦後を通じて、日本では朝鮮人への差別が強いわけです。またしてもそれを持ち込んだ訳です。非常に危険な動きです。発言をすることによって、日本に残る様々な右翼勢力を鼓舞し、元気にさせていく。これが彼の目的であろうと思います。石原発言について、野坂昭如さんが「石原文学は幼児性が根本だ」書いています。幼児性という単純な図式で宣伝をしていくことです。オウムもものすごく単純な図式を作っています。ファシズムの宣伝は、このような単純な図式から巨大な抽象的なものへ統合していく方法をとっています。 市民を主権者として尊重するか、支配者の単なる操作の対象におとしめるか −−−「日の丸・君が代」の根本問題 そこで「日の丸・君が代」の二つの根本問題について申し上げなければなりません。飯沼先生は日の丸訴訟の記録の序文の中で「『日の丸・君が代』問題の根本は、唯一日本国の主権者が誰かと言うことである」と書かれています。これがまずもって根本問題であることは、申すまでもありません。つまりこれは、天皇制の問題です。これが第一点。 もう一つは、国民一人一人が人格的自立の能力のある主体であって、主権者として尊重するのか、それとも支配者による操作の単なる客体としての地位におとしめられるのか、これが第二の根本問題です。私達のパンフレット「『日の丸・君が代』強制反対 良心の自由を支える法解釈一問一答」で書いたことは、この第二の問題に関わってきます。第一の問題がなくなったとか、それがどうでもいい問題だとかということは絶対ありません。第一の問題が最も根本でありますが、わたしたちはもう一つ、この第二の問題について、取り組んでいく必要があると考えています。 第一の天皇制の問題は、日本の政治体制全体の問題ですし、「日の丸・君が代」の問題についても、これが根本問題であることはその通りです。ただ強制されようとしている状況の中で、これを放っておけばどうなるのか。今の天皇制の問題とは別に、我々主権者が単なる操作をされる対象として、主権者の能力をなくしてしまいます。この問題があります。これもファシズムと一致する問題で、根本的には全体主義をとるのか、民主主義的な政治体制をとるのかという問題です。この問題について西原さんが「ジュリスト」に「これまで反対勢力も象徴を用いた非理性的な統合様式が民主制と緊張関係に立つことを理由にしての反対運動はなかった」と書いておられます。これは確かにそうです。私たちも今回、闘える方法は何かということで探してきたのが「良心の自由」です。個人として抵抗できる方法は何か、ということの中から見つけだしてきました。これがことの経過からすれば事実です。西原さんがおっしゃているように、これまでの反対勢力がこのようなシンボル操作を用いて統合されていくこと自体についての反対をしてこなかったじゃないかと言われればその通りです。私たちの闘いのやり方というのは、日が浅い。あまり経験がない。今回いろんなところから話を聞くと、「良心の自由」を武器に発言すると校長がとまどっていたというのがありました。 そこで、民主制というのもの前提を確認しておきたいと思います。民主制の前提は、まず第一に国家との関係を自由に選べる個人、です。そのためには、個人の自由の保障、理性的な選択、自立ができなければなりません。そのためには、根本的な基本的人権としての思想・良心の自由が必要で、民主制が機能するかどうかの大前提となります。この自由なる選択、自由なる理性的な判断にもとずく自立的な選択を排除して「君が代」を歌わせることになると、それはまさに信仰告白行為をさせることになります。国家の側から言えば、歌わせることで、信仰告白行為と自らの内心における意識の相互作用の中から愛国心という非常に抽象的なものを植え付け、国家に対する特定の関係を構築していくことをねらっています。これが、強制の中身であろうと思います。基準を作り、その基準からはずれるものに対して、異常なる少数者、異端として排除していく、その識別としてこの法制化がありました。私たちのパンフレットの中では、法制化したって何も義務は規定されていませんと言うことはちゃんと言ってあります。しかし、異常なる少数者というレッテルを張る標識を作り上げてしまったことは、認識しておかないといけないと思います。 これまでの過程の中で「国民的合意」の名のもとに、法制化しようと言う勢力がありました。しかし、国家と個人との関係は、もともと多数決による合意の問題ではなく、個人の問題であったはずだ、と西原さんも言われています。そもそも法制化が、けしからんことであるとおっしゃっています。 天皇を通じた強力なシンボル操作と民主主義の蹂躙 そこでシンボル操作と基本的人権という問題について述べてみたいと思います。国家は、国家である限りシンボルを持ちます。国家が何も矛盾なく成立しているとは考えていなくて、いろんな勢力の対立の中で、それらが合体したものとしてあるわけです。その対立した勢力を一つの国家に統合するわけで、統合する側から言えば統合を何とかして守りたいと言うことから、シンボルを作り上げていきます。これは、どこの国家でもそうであります。国家は、シンボルを利用して式典や儀式に利用していく。ここまでは、国家としての属性だと思います。問題は、さらにシンボル操作としてどこまで国家としてやれるのか、そこで我々の基本的な人権との関係で、国家は何をしてはいけないか、という制限線をどこに求めるのかということです。国家の側から国民を非合理的なシンボル操作を通じて統合していくこと自体が民主主義に反するんだ、ということを西原さんは一生懸命書いておられます。 日本の場合は、単にそれだけではありません。天皇という強力なシンボルを我々はもっています。天皇というのは外国ではエンペラーと訳すのですが、やっぱり中国の皇帝とはちょっと違います。われわれ日本人としては、天皇制をどうするかという問題が最後までついて回ります。 天皇というシンボルが日本人の心の中に及ぼしている影響という問題に触れておきたいと思います。ベネディクトの「菊と刀」があります。敗戦前からアメリカ政府は日本について調査をさせて、あとでベネディクトがまとめて出版しました。その中では日本人を称して「恐ろしく礼儀正しい国民である。と同時に、恐ろしく不遜であって極めて独善的である。この二つの性格が混在している」と書いてあります。アメリカ政府は、それを参考にして日本における占領政策で天皇を残すことを決定したのです。マッカーサーはそれを歓迎して「天皇は100万の軍隊に相当する」という談話を残しています。この中でアメリカ政府が考えたシンボル操作の形は、天皇制のもとで作られた上下関係(日本人は上に対しての服従、尊敬、「お上」に対してはものすごく礼儀正しい、しかし下に対しては不遜であって傲慢である。)です。アメリカは日本の占領政策をやるときに、シンボル操作として天皇の中に日本人の気持ちを押し込めていけば、天皇を通じる形で安泰な支配ができるとにらんだわけです。実際もそうなったわけです。そのような歴史を私たちはもっていて、憲法の中にも天皇はある。それだけしっぽを引きずっているわけです。そういう中で私たちは闘いをやっていくわけです。 思想・良心の自由を侵害する「日の丸・君が代」 「日の丸・君が代」については、戦前のまさに地獄のごとき歴史を知ってる者にとって、とてもじゃないけど歌えるものでもなければ、見ることのできない代物です。そういう「日の丸・君が代」が天皇制と結びつき、その天皇制における地獄のような歴史がくっついて、その前提で「日の丸・君が代」が強制されています。これが、どういう意味なのか考えなければいけません。 まず「君が代」を歌うということであります。これを歌うと言うことは、少なくとも地獄のごとき天皇制を許すんだという気持ちがなければ歌えません。もしくは賛同がなければ歌うことはできません。歌ったとすれば、それは信仰告白であります。そのことと自らのよってたつ思想や信条と相容れない者にとって、その強制は思想・良心を直接に侵害することになります。どうしても歌いたくないことを歌わされることがものすごい苦痛になることは、すでにみなさんも経験されておられることでしょう。それを裏切って歌ったとすれば、その段階で自らの思想・良心にたいして裏切りを迫ることになり、その意味で人格的自立の基礎を失うことになります。 「日の丸」でも同様であります。ドイツに判例があります。ドイツのある学校でキリストが張り付けにされている十字架を飾った教室で、そのシンボルのもとで学ぶことを強制することが信教の自由を侵害するというものです。だから、式場に入って、壇上の真正面に、見たくないと思っても見える格好で、「日の丸」がでかでかと掲示されています。この場合は、まさに「囚われの聴衆」であります。選択の余地がないわけです。 個人の自由権を保障する欧米の優れた判例 これを拒否する権利が、アメリカやドイツの中では発展してきました。私も、「日の丸・君が代」や天皇制について、関心を持っていたが、アメリカにたくさんの優れた判例があるとは知りませんでした。その中のいくつかは、すでにこのパンフレットの中に出ています。 一番重要なものとしてのアメリカのバーネット事件は、古典的なものであり非常に優れています。判決が出たのは1943年だということです。第二次大戦は終わっていません。ちょうどこのころ日本でこんなことが起こればどうなっていたことか。アメリカの公立学校では、国旗に敬礼し、儀式へ参加を義務づけられ、そこで「私はアメリカ合衆国の国旗とそれが象徴する共和国、すなわちすべての人々に自由と正義をもたらす国家にに対して忠誠を誓います」と忠誠文を読まされます。ジャクソン裁判官は法廷意見の中では、愛国心がいらないと言うことではなく、愛国心が作られていくというのは、非常に複雑な長い経過を経て、個人が作っていくものだということです。それを教育という時間のかかる、よく無視されやすいやり方で敬礼とスローガンだけで愛国心を強制するのが合憲かどうか、という問題をだしました。「国家の象徴は、宗教上の象徴の神学上の思想を伝えるのと同様に、しばしば政治上の思想を伝えるものである。こういう象徴に対応しているのが、これらを受容し敬意を示す意味での、敬礼、お辞儀、脱帽、ひざまづくなどの身ぶりである。」最後に、「我が憲法という星座に不動の星があるとすれば、高級官僚であれ下級官僚であれ、いかなる役人も、政治、国家、宗教その他、意見に関わる事柄について何が正当であるかを決めることはできないし、また、強制的に市民に対してそれらに関しての信念を言葉や行動で表現させることはできない」という最高裁での判決をだしました。 この判決がもとになって、他の裁判所での判決もあります。その中で、連邦最高裁に出ている判決を紹介しておきます。これもパンフレットに載せておきましたが、1992年、公立学校に通う生徒の親が、非宗教的ではあるが聖職者を前にして卒業式をおこなう慣行に反対し、その差し止めをもとめました。連邦政府は、生徒には欠席するという選択肢があるので卒業式自体の誘導性あるいは強制は許されると反論しました。それに対して判決では、「法律は形式主義はとらない、十代の生徒が高校の卒業式に欠席する選択肢を実質的に有するということは、極端な形式主義である。」「われわれの社会、文化では、卒業式は人生の中で特に重要な行事であることは誰もが知っている」「生徒には真の意味で『自発的に』卒業式に欠席する自由はない。欠席するには少年時代、そして高校時代を通じて楽しみにしていた無形の恩恵を放棄しなければならないからである。」「否定しがたい事実は、学校区(日本では教育委員会)による高校卒業式の監督とコントロールのため、出席した生徒が、祈とうの間、起立しあるいは敬意をもって沈黙を守るよう、仲間から、また公的にも、圧力を受けたことである。」ということを認定しています。この判決を読むと、思想・良心の自由をになう個人の自由権に対する伝統が日本とはまったく違うという思いをもたざるを得ません。判決も、日本の判決みたいに法律用語を並べてたてているのとは違い、普通の人たちを普通の言葉で一生懸命説得しています。これがアメリカの判決の最も優れたところだと思います。 私たちは、パンフレットの中で良心の自由権だけを述べていますが、アメリカの判決の中では、表現の自由と関連させて出ている判決があります。フロリダ州の南部地区連邦地方裁判所で1970年に出ています。フロリダ州の高校生が国旗敬礼に異議をもって起立を拒否しました。教育委員会も、参加しない権利を認めながらも静かに立っていることを求めました。生徒は起立を拒否し、退学処分になりました。判決は、「起立そのものが受容と尊敬を表す表現行為に他ならない。起立拒否は、異議を唱え自らの意見を表現する権利として憲法上保障される。」とあります。ここでは明確に表現の自由も問題にされています。これはパンフレットの中でも引用していますが、アメリカの判例の中で根拠にしているのが修正第1条という有名な条項であります。修正第1条の中には、表現の自由も入っています。日本の場合は、憲法19条が良心の自由、21条が表現の自由であります。私たちは、今のところ良心の自由、つまり19条で書いています。だからかなり消極的な行為にとどめるように書いています。これは、後で戦術と絡めてお話しします。 教員の問題では、メリーランド州の控訴裁判所で1971年に判例が出ています。これは、公務員たる教員が自分自身が国旗の敬礼、忠誠、宣誓の儀式に参加することと生徒に指導する立場で参加することとを同様に拒否した。この判決は、「憲法上の諸権利の中で最も重要であるので、個人的に非難を受けやすい言論であっても、言論の自由は保障されなければならない、強制される忠節が忠節とは正反対のものであるのと同様に、強制される愛国心は偽りの愛国心である。・・・胸中内部の表現を人に強要することは、米国の長年の基礎であった寛容と理解という規範に反する。」と明確に述べています。 それからもう一つドイツの問題です。ドイツでは「良心の抗弁」、これは民事上の権利として出てきたようです。薬局に勤めていて、「私はカトリックだから避妊薬は売れない」と言ったために解雇されました。しかし、解雇は無効になりました。契約上の義務ではあるが良心に反するとの抗弁によって拒否できるとの判決によってであります。他にあるのは、印刷会社の植字工が上司からファシズムの宣伝をするような書物を作ることを命ぜられて、これを断りました。そのこととによって解雇されたのが裁判で撤回されたこともあります。だからドイツの場合は、ナチスファシズムに対して徹底したつめ方をしました。政府とは違う個人にとって冒すことのできない権利がどういう政治体制であっても存在するというふうに、厳格に良心の自由を認めていきました。歴史的には「良心的徴兵拒否」から起こってきました。 このようにしてドイツやアメリカでは、国家権力による承認がされてきています。日本の場合は、極めてお寒い状態です。ただつい最近、青森県弘前市の私立柴田女子高校で、2年前の入学式で「日の丸」に礼をしなかった等として4日間の出勤停止などの処分を受けた教員が、懲戒処分の無効を裁判で勝ち取ると言うことがありました。 個人の良心にもとづく、継続した抵抗を 少数者の立場、少数者の権利、少数者の良心に基づく行動をその一つの職場、一つの世界の中で認めさせる、これが一番大事なことです。最低限、そのような立場を認めさせた上で、かつ表現の自由からも、自ら思想はこうであると言わせろとまで私は言いたい。しかし、最低限、良心の自由権に基づく消極的な抵抗、つまり「日の丸・君が代」に対して向こうから命ぜられたことをやらない。そこまでは認めさせることです。子どもたちにとっても、小・中学校の時にその深い意味は分からなくても、「うちの先生はあのとき立たなかった」というのは、子どもたちが育っていく上で必ず役にたっていくと思います。それがなんにもないのとあったというのでは、全然違います。どこの教育現場であっても、この少数者の存在・行動を相手に認めさせる、そのようにするために長く継続した闘いが必要であると思います。以前であれば組合が全面的にバックアップして闘争し、首になってもその間の給料分を何とかしながら闘争態勢をとっていました。今は、そういう状況がない。だから、首にならないような戦術を取りながら、継続して、継続して、なくならないように闘ってほしいと思います。 我々の闘いは、天皇制がある限り続くわけです。1発2発ということではなく、長く継続していく必要があります。最初は憲法19条で個人の闘いとして、主体は個人になりますが、その個人が増えてきて、たくさんになるような、闘い方をせざるを得ないのではないでしょうか。 質疑応答 (質問)「一問一答集」は、外国の判例ばかりが出ている。日本の判例はない。外国の判例が、日本の裁判の中でいかされるのか。 (冠木) 確かに、日本の判例はない。私たちのパンフレットは、理論の問題として外国の判例を引用しています。理論の問題としては、外国の判例も論理として成り立つし、法理論としても成立すると考えています。日本の法律は、歴史的にはヨーロッパ大陸法が基本となってできており、アメリカ法的な考え方は戦後に入ってきているのですが、憲法自体がアメリカ法に影響を受けていること、それと戦後にどっと入ってきている英米法的な考え方からすれば、決して良心の自由権を論拠としての論理の建て方が日本の法体系と矛盾するということではありません。それは、十分成り立ちえます。 |