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剣を捨てた日




「いてて……」
「…なんだ、もう降参か?フランツ」
エフラムは地面に尻餅をついたまま立ち上がってこないフランツに、いささか拍子抜けしたような声で問うた。
「は…はい…。参りました、エフラム様」
今しがた槍の訓練用の棒で突かれた胸を手で押さえながら、よろよろと立ち上がるとフランツはエフラムに頭を下げる。
フレリア城の一角に設けられた騎士専用の習練場。そこでエフラムとフランツは向かい合っていた。傍らにはゼトやフォルデ、カイルといったルネスの騎士達が控えている。
レンバール城で妹エイリークらと合流を果たしたエフラムは一行と共にフレリアを訪れていた。フレリアから大陸西部を通ってグラド帝都へ向けて進撃することを決めたエフラムは、出立の準備が整うまでの間も寸暇を惜しんで鍛錬に明け暮れているのであった。
「なんだ、だらしのない奴だな。ようやく調子が上がってきたところなのに…」
「まあまあ、そうおっしゃらずに今日はこの辺で勘弁してやってくださいよ、エフラム様」
いかにも物足りないといった風に口を尖らせるエフラムに対し、仲裁に入ったのはフランツの兄、フォルデだった。
「弟はついこの間ようやく実戦に出たばかりのヒヨッコなんですから」
「だからこそ実戦を経験してどれだけ腕を上げたか確かめてやろうと思ったんじゃないか。…まだまだだな、フランツ」
「はい…おっしゃる通りです。僕じゃまだまだエフラム様の槍の腕に敵いそうもありません」
「そりゃそうだろ。そもそもお前とエフラム様じゃ年季が違う。何たってエフラム様は十二の頃からずっと槍一筋なんだからな」
うな垂れるフランツの肩をそう言ってフォルデが叩く。その後ろでカイルも頷いている。
「まあな。ここ五年というもの槍以外の武器を握ったことがない」
「…本当にエフラム様の頑固さときたら…普通の剣はおろか、護身用の懐剣ですら決して手にされないのだからな」
フォルデの言葉に胸を張ってみせるエフラムにゼトは渋い顔で嘆息する。その言葉にフランツは思わず耳を疑った。
「本当…ですか…?」
「本当だ。俺は槍を極めるまで他の武器は使わないと決めたからな」
「ですが…槍は剣などよりも長い分かさばりますし、常時携帯するには不向きです。もし槍をお持ちでない時、刺客に襲われたりしたら―――」
「その時は素手で戦うさ」
至極もっともなフランツの意見に対し、エフラムは事も無げにそう言ってのけた。
「例えそれでやられてしまったとしても悔いは無い。男が一度決めたことを破るよりは、ずっといい」
「…諦めろフランツ。我々が何度申し上げても一事が万事この調子で、全く聞き入れて下さらんのだ」
「……」
フランツは思わず絶句した。彼の横では兄フォルデが「そうそう、男なら一度決めたことは守らないといけませんよね」などと言って能天気に笑っているが、そんな単純な問題ではない。本来なら何よりも己の身の安全を第一に考えるべきである王族の台詞とは到底思えない。事と次第によっては王家の存続に関わる、由々しき問題なのだ。
「どうして…どうしてそこまでエフラム様は槍にこだわるんですか?」
剣が全く扱えないというのならまだ分かる。だがしかし、幼少の頃にはエフラムも剣を嗜んでいたと聞く。不得手などころか周囲も舌を巻く程の腕前だった、とも。
ルネスの騎士の大半は剣と槍、両者を嗜み必要に応じて使い分けている者が殆どだ。何故そこまで頑なに槍のみに固執するのか、フランツには分からなかった。
「ん?…ああ、そうか。フランツ、お前にはまだ話したことは無かったか」
フランツのいささか不躾な、臣下としての分をわきまえていないとも言える率直な質問に、しかしエフラムは気を悪くするどころか目を輝かせると、実に嬉しそうな顔をして語り始めた。

「そうか、じゃあ話してやろう。
 俺が剣を捨てた、あの日のことを―――」



今から五年前。
その日ルネスでは王子エフラムの十二歳の誕生日を祝し、国を挙げて大規模な武術大会が催されていた。
武勇を尊ぶルネスでは日頃から騎士達が互いの腕を競い合う大会が、規模の大小を問わず頻繁に開かれており、また勇王の誉高く自身も優れた使い手でもある国王ファードは、予ねてから親交篤いグラドやフレリアとの間で交流試合を積極的に行っていたが、この大会は例年のものとは違い更に大がかりなものだった。
グラド、フレリアは勿論のこと、隣国ジャハナや聖教国ロストン、果てはカルチノからも出場者を招き、各国選りすぐりの代表達の中から文字通り『大陸一の強者』を決めようというのである。
剣、槍、斧、そして魔道―――剣士に重騎士、天翔ける天馬騎士に竜騎士まで、多岐にわたる職種の者が一堂に集い、自身の名誉と自国の威信を懸けて戦う。この趣向に日頃は取り立てて愛国心が篤いというわけでもない者といえど、熱くならない者はそういない。
かくして闘技場内はルネスの民のみならず他国から観戦に訪れた観光客で賑わい、場内は試合開始を目前に控え、むせ返るような熱気に包まれていた。
「いよいよだな…」
エフラムもそうした熱狂的な観客の一人だった。
「これからどんな戦いが見られるのか…楽しみだと思わないか?エイリーク」
王侯貴族や招待客用に、観客席の中で最も見晴らしのいい場所にしつらえられた貴賓席の中央最前列で、そわそわと落ち着かない様子で座りながら、横に座る双子の妹エイリークに熱っぽく語りかける。
「はい。きっと素晴らしい試合が見られるのでしょうね。私も楽しみです。…ただ……」
「?」
そんな兄の様子を微笑ましく見守っていたエイリークだったが、ふとわずかにその表情を曇らせた。
「ひどい怪我をされる方が、いなければいいのですが…それだけが気がかりです…」
「…やれやれ。また始まったな、お前の心配癖が」
エイリークの言葉にエフラムは肩を竦めた。
「そりゃ真剣勝負だからな、怪我の一つや二つは皆、代表として出場する以上は覚悟の上だろう。…優しいのはいいが、そんな事までいちいち気にしていたらキリがないぞ」
「…それもそうですね。すみません、兄上…」
楽しんでいる兄の気分に水を差してしまったと思ったのだろう。しゅんと俯いてしまったエイリークにエフラムは微苦笑を浮かべると
「別に謝ることじゃない。なあに、大丈夫。万一に備えて腕利きの医者や司祭も控えてるそうだし、お前の心配するような事にはならないさ。安心しろ」
そう言って妹の頭をやや荒っぽく撫で回す。これにはエイリークも慌てた。
「あ…兄上!子供扱いはやめてくださいと、あれほど言ったはずです!それも、人前でこんな…」
「…お、見ろよ。始まるみたいだぞ」
おかげですっかり乱れてしまった髪を懸命に手櫛で梳きながらエイリークは抗議したが、エフラムは笑って取り合おうとしない。それどころかようやく場内に姿を現した出場者を見て目を輝かせ、期待に胸膨らませている。エイリークもそんな兄の様子を見て怒る気もすっかり失せてしまった。視線を闘技場内に戻すと、そこには二人の男が向かい合って立っていた。
一人は背の高い、魔道士風の男である。そしてもう一人は―――
「…あの方、見覚えがあります。確か……」
「――デュッセル。グラドの将軍だ」
「そう、デュッセル将軍と仰いました。何度かお会いした記憶があります」
グラド帝国のデュッセル将軍。『黒曜石』の通り名で知られる彼は槍だけでなく剣や斧の扱いにも精通しており、グラド一の騎士であるともっぱら有名だった。
「あの方も今日は出られるんですね」
「そのようだな…珍しいこともあるもんだ」
皇帝ヴィガルドの信任も厚いデュッセルは今までも度々国使としてルネスを訪れており、エフラムやエイリークとも面識があった。しかし彼はこういったグラド国外での交流試合などに出場することは滅多に無く、従ってエフラム始めルネスの人間の大半がデュッセルの戦う姿を見るのは初めての事であった。
「噂じゃかなりの腕前らしいが…うちの騎士団長とどっちが強いか、楽しみだな?」
「兄上…またそのような、不謹慎な…!」
「わかってるさ、エイリーク。ルネスが勝つに決まってる。そうだろ?」
眉を顰め小声で諫めるエイリークにエフラムはそう笑って断言してみせた。
「なんたって我らがルネス騎士団は最強なんだからな」
父王からの受け売り文句を口にしつつ、自信たっぷりに言い切るその顔は自国の勝利を信じて疑わない様子だった。
エフラムには武勇の国ルネスの第一王子であるという誇りと自負があった。それだけではない。同年代の少年らの中では群を抜いた剣の腕の持ち主であると言う事実もまた、そうした彼の言動に拍車を掛けていた。
「ああ、それにしても悔しいな。十年…いやあと五年早く生まれていれば俺も出てやるのに―――」
「…兄上、始まるみたいですよ」
拳を握り、心底悔しそうに熱弁を振るい続けるエフラムの袖を引き、エイリークが注意を促す。見れば所定の位置に付いた両者の名と出身国を審判役の騎士が読み上げた所のようだった。
「…随分と離れた所から始めるんですね」
その様子を見たエイリークが率直な感想を洩らす。両者の間は距離にして四〇ヤード弱。これが騎馬同士の一騎打ちであればもっと距離を取るのだが、デュッセルもその対戦相手の男も馬に乗っておらず、エイリークが疑問に感じるのも無理からぬ事であった。エフラムは妹にしたり顔で解説してやる事にした。
「おそらくハンデだろう。魔法の類は呪文の詠唱に時間がかかる分どうしても接近戦は不利だからな。公平を期する為に充分な距離を取って始めるんだろう。他流試合ならではの配慮といった所だな」
「なるほど…」
エフラムの説明にエイリークはすっかり感服しきった様子で、しきりに何度も頷く。妹から向けられる尊敬の眼差しに、日頃から兄としてもっと敬われたいと思っていたエフラムは得意満面であった。
エフラムは大の勉強嫌いで有名だったが武芸に関してだけは別であった。もっとも例えそれが武術指南書であろうと本と名の付く物に目を通すことは嫌いだったので、もっぱら口頭で人から教わるのが常ではあったが。
――このような組み合わせの対戦の場合、勝敗の鍵を握るのは間合いである。
いくら槍の間合いが剣のそれと比べて倍以上の長さを持つとはいえ、魔道の射程とは比べ物にならない程の差がある。また逆に魔道の使い手にとっては懐に入られることは致命的だ。
従っていかに間合いを詰めるか、いかに相手を牽制し距離を保つか――間合いを掌握した方が主導権を握ることは明白であった。
魔道士を相手にする場合、一般的に最初の一発は様子を見ながら回避に専念するのが定石とされている。そして二発目の呪文を唱えている間の隙を狙って一気に接近するという算段だ。無論対戦相手もその事は重々承知の上だろう。相手はジャハナの傭兵であると聞いたから、場数も相当踏んでいるはずだ。そう易々とデュッセルの接近を許すとは思えない。おそらくは長期戦になるだろう――エフラムはそう予想していた。
「―――始め!」
審判が鋭い一声を放つ。こうして以後長きに渡って人々の間で語り草となった戦いの火蓋が切って落とされた。
開始の号令と同時に両者は一斉に動き出す。片方は前へ、片方は後ろへ。
槍を構え一直線に駆けるデュッセルはその全身を紅い鎧で覆っているとは思えない速さで見る見る内に距離を詰めていく。だがそれでも呪文が完成する方が早かった。
慎重な足取りで後じさりながら印を結び終えた術者の周囲に煌めく炎の粒子が出現、一点に収束し、やがて人の頭ほどの大きさの火球となって頭上を舞う。そして火球は術者の意のままにデュッセル目がけて飛んでいく。このままだとデュッセルは間合いまであと数歩という所で迎撃されるのは目に見えていた。おそらく左右いずれかに跳んで躱すだろう――その場に居合わせた誰もがそう思った。
だがデュッセルは避けなかった。それどころか一切速度を緩めず、そのまま直進していったのである。これには対戦相手も肝を冷やしたようだったが、間合いに入られるより前に火球がデュッセルの足元に着弾したのを確認し、安堵の表情を浮かべる。
しかし次の瞬間、男の表情が凍りついた。
「―――――っ?!」
驚愕に大きく見開かれたその目には燃えさかる炎を背に立ち、男の喉元に槍の切っ先を突き付けるデュッセルの姿が映っていた。
――それは試合開始からわずか十秒余りの出来事だった。
おかしい、そんなはずは無い、確かに火球は直撃したはずだ―――目の前で起きた信じがたい光景に当事者のみならず、見守っていた観衆も皆一様に目を疑い、言葉を失っていた。場内が急速に静まり返る。
「―――それまで!勝者、デュッセル!」
だがそれもほんの一瞬のことであった。静寂を打ち破り、試合終了を告げる審判の声が高らかに響く。たちまち場内は静寂から一転、怒涛のような拍手と歓声が観客席から沸き起こっていった。
男はがっくりとその場に膝を着く。デュッセルは槍を下ろすと対戦相手に向かって一礼する。その背後では未だ魔道の炎が石畳を焼き、立ち昇る火柱は虚しく空を焦がし続けている。デュッセルの完全勝利であった。
「…すっげえ……」
エフラムの口からも驚愕と感嘆の呟きが洩れる。瞬きすることさえ忘れ食い入るようにその姿を見つめる瞳は、やがて感動と興奮に爛々とその輝きを増していく。
「…おい、見たか今の!凄かったな…!」
「はい…凄い試合でしたね…!」
「ばか、あれは凄いなんてもんじゃないぞ!凄い、凄すぎる…!」
横に座る妹に話しかけていながらエフラムの意識はそこにはなく、しきりとうわ言のように凄い凄いと繰り返している。彼の頭の中は先程の戦いの光景でいっぱいであった。
対戦相手の魔道士が使っていたのはおそらくエルファイアーの呪文にであろう。ファイアーの上級魔法で、その灼熱の炎は高位の術者のなら触れたものの骨まで焼き尽くすという。
エルファイアーの最大の特徴は天まで高く昇る巨大な火柱だ。炎を凝縮した火球は対象者の手前に着弾し、そこからぐるりと地を這うように円を描いて対象を取り囲んだ後、一斉に炎を噴き上げる。一旦炎の壁に囲まれてしまえば最後、脱出はほぼ不可能のはずだった。
だがデュッセルは無傷で突破してみせた。火球が彼の足元で炸裂してから包囲網が完成するまでの、わずかな一瞬の隙をついてそのまま突っ切ったのである。
一見簡単そうに聞こえるが、実行するのは並大抵の事ではない。隙と言ってもそれこそ瞬きするほどの間でしかないのだ。わずかでも躊躇していたならば踏み込みが遅れ、炎に巻かれ無事では済まなかったに違いない。一瞬の間にそれを見切る眼力、咄嗟の判断力、そして何より踏み込みを躊躇わない勇気―――いずれを取っても見事と言う他なかった。
そしてそんなデュッセルの雄姿にエフラムは一目で心奪われてしまっていた。
以降もデュッセルの快進撃は続いた。フレリアの重騎士やロストンの聖騎士、果ては槍使いにとって不利な相手とされる斧使いと言えど彼の敵ではなかった。四十を少し過ぎた、まさに壮年真っ盛りであるデュッセルは二十代から三十代が大多数を占める出場者の中では最年長であったが、体力的な衰えなど微塵も感じさせないどころか豊富な経験に裏打ちされた熟練の技で鮮やかに勝利を決めていく。観衆は皆その槍さばきに酔いしれ熱狂した。
「…よしっ、いけっ、そこだ!」
エフラムもその例外ではなかった。それどころかデュッセルが出て来る度に身を乗り出し、一挙一動を少しでも見逃すまいと必死になって目を凝らし、試合中は拳を振り上げ誰よりも大きな声で声援を送った。もはや熱中どころの騒ぎではない。仮にも王子でありながら明らかに自国の代表らに対してより熱の入った応援ぶりに、周りの席に座るルネスの王侯貴族や重臣らの中には渋い顔をする者も少なくなかったが、そんな事はお構い無しである。途中何度もエイリークに小声でたしなめられていたがエフラムは聞く耳を持とうともせず、ただ夢中で観戦に没頭し続けた。
そうして順調に大会は進行していき、ついに残るは決勝の一試合のみとなった。
決勝に残ったのは下馬評でも優勝の最有力候補とされていたルネス騎士団長ステファンと、グラド帝国将軍デュッセルであった。
緒戦はまさに向かうところ敵無しであったデュッセルだったが、それは相手も同じことだった。伊達に武勇を誇るルネスの騎士団長を務めてはいない。槍さばきも馬の扱いも、決してデュッセルに引けを取ってはいなかった。実力の伯仲した者同士の白熱した戦いにエフラムは声援を送ることも忘れ手に汗握り、固唾を飲んで勝負の行方を見守るだけだった。
激しい攻防が続いた。何度突撃を繰り返し、何十合と打ち合ったか知れない。このまま永遠に勝負がつかないかに思えたが、不意にその均衡が破られることとなる。
激しい打ち合いの中、ステファンの槍が穂先から折れてしまったのである。これまでの戦いによる疲弊が蓄積していたのかもしれない。ステファンは咄嗟に槍を捨て腰に差した剣に手を伸ばした。だがその隙を見逃すデュッセルではない。そのまま槍を回転させると相手が抜剣したところを狙って石突で右手を強打する。たまらず剣を取り落とすステファン。ガランガラン…と大きな音を立て石畳の上を剣が転がる。
武器を失ったステファンは潔く両手を上げる。――それは降参の証だった。
「…よっしゃあ!勝った――――!!」
審判がデュッセルの勝利を宣告するより前にこう叫んだ者がいた。エフラムである。
「勝った!勝ったぞ!やっぱりあいつが勝った、勝ったんだ!」
自国の騎士団長が負けたというのにそれを悔しがるどころか飛び上がって喜ぶエフラムに、周囲はもはや呆れて何も言えない様子であった。さしもの父王ファードも「しょうのない奴だ」と苦笑している。だがどれだけ顰蹙を買っていようが非難の目を向けられていようがエフラムは一向に気にかける様子がない。自分の立場も今いる場所も横に妹がいる事すらも忘れ、ただ一人の観客として熱狂する少年の姿がそこにあった。
そうして会場中が決勝戦の熱気と興奮の余韻も冷めやらぬ中、出場者に向けて褒賞の授与式が行われた。一人一人の名が呼ばれ、敗者にはその健闘を称え、勝者には惜しみない称賛を込めて観衆から盛大な拍手が送られる。そして決勝で熱戦を繰り広げた、この大会の立役者とも言える二人には一際大きな拍手と歓声が沸き起こり、それは授与式が終わり出場者らが退場し終えた後もしばらく鳴り止むことはなかった。
――こうして武術大会は大盛況の内に幕を閉じたのであった。
「…兄上、終わりましたよ、兄上…」
場内は席を立ち外へ出ようとする人々でごった返し、雑然とした空気が漂っていた。それは貴賓席と言えど変わらず、皆口々に今日の感想を連れと語らいながら、次々と席を後にしていく。だがそんな中エフラムだけは一人動こうとしなかった。エイリークが呼びかけても返事一つしない。褒賞の授与式からずっとこの調子である。一言も口を聞こうとせず、ただ茫然と空を見つめる瞳はその目に映る何物も映してはおらず、まるで夢の世界を漂っているようだった。
「エフラム様…申し訳ありませんがそろそろ席をお立ちになって下さいませんと…」
お付きの侍従らもほとほと困り果てた様子である。侍従らに縋るような目を向けられエイリークは内心溜め息をつくと、気を取り直して再び兄に呼びかけを開始する。
「兄上、皆さんもうお帰りですよ。私たちももう行かないと…この後すぐに晩餐会の支度をしないといけませんし―――」
そう言って肩を軽く揺すろうと兄の肩に手を伸ばす。だが次の瞬間
「きゃ…?!」
いきなりエフラムが勢いよく立ち上がった。エイリークは反射的に手を引っ込めてしまう。
「…兄上…?」
始めはようやくこちらの呼びかけに応えたのかと思ったが、立ち上がりこそしたものの依然として黙りこくったままの所を見るとどうも違うらしい。エイリークは恐る恐る兄の顔を覗きこんだ。すると先程までの放心状態とは打って変わり、その瞳にも一文字に引き結ばれた口元にも、はっきりとした意志の力が見て取れた。…問題はその内容である。エイリークはひどく嫌な予感がしていた。
エフラムは突然身を翻すと走り出そうとした。だがその時腰に差していた剣の鞘が座席の角に当たってガシャンと耳障りな音を立てた。鞘や柄に華美ではないものの見事な装飾の施された幾分小ぶりなその剣は、まだ少年であるエフラムの為に父が一流の刀匠に打たせた品で、どこへ行くにも必ず腰に帯びて歩いていた程の、エフラムご自慢の剣であった。
「……」
しかしエフラムはまるで忌々しい物でも見るような目でちらりとそちらを見やると、ベルトに手を掛け剣を外そうとしたのである。だが焦っているせいか、なかなか留め具が外れない。エフラムは苛立ちも露わに小さく舌打ちすると、両手でベルトを掴んで力任せに引っ張り出した。やがて根負けしたのは留め金の方だった。いびつに歪んだ金属の輪が小さな悲鳴を上げて床を転がる。
「あ…兄上…?」
そんな兄の様子にただならないものを感じ、声をかけようとするエイリークの眼前にエフラムは右手で掴んだ剣を突きつけ、短くこう言った。
「…やる」
「え?」
言い終えるなり手を放すエフラム。思わず咄嗟に手を伸ばし、剣を受け止めるエイリーク。
「ちょ…ちょっと、兄上…?」
次いで顔を上げた時にはもう遅かった。エフラムは既にこちらに背を向け駆け出していた。
「どちらへ行かれるのですか、兄上!」
「―――すぐ戻る!」
引き止める暇もあらばこそ、そうとだけ短く言い残してエフラムは人込みの間を縫うように走り抜けていき、たちまちその姿は見えなくなってしまう。
エイリークは兄から押し付けられた手の中の剣と、兄の走り去った方角を交互に見ては呆然とする他なかったのだった。