フェルハドとシリン

ナーズム・ヒクメット著/石井啓一郎訳
慧文社、2002年9月



「妹御が死なぬための条件じゃ。そなたの美貌を差し出すのじゃ。」

 女王メフメネ・バヌが、瀕死の妹シリンを助けるために自分の「顔」を与える場面から、物語は始まる。本書は20世紀初頭、オスマン・トルコ帝国領サロニカに生まれたナーズム・ヒクメット(1902-63)による戯曲作品、Ferhad ile Şirinの全訳である。題名から見て察しがつくように、本作品はニザーミーの『ホスローとシーリーン』(平凡社東洋文庫に岡田恵美子氏による邦訳がある)によって有名になったペルシアの伝説、ファルハードとシーリーンの物語を土台としている。しかし、舞台設定、登場人物、展開など、どれをとっても、ニザーミーの作品とは大きく異なる。

 姉の美貌の力のおかげで妹の生命が甦る。美しい顔を持った妹シリン。彼女を助けるために顔は枯れ果ててしまったが、異教の神像のように美しい身体と「権力」を持ち続ける姉メフメネ・バヌ。このふたりは共に絵師のフェルハドに恋をする。

 イスラーム世界の文学の邦訳は近年増えてきたとはいうものの、まだまだ少なく、とくに戯曲は片手で数えられるほどしか訳出されていない。近代トルコの戯曲の一つとして、イスラーム文学の新たな一冊として、本書が美しい表紙絵とともに日本で紹介されることは、それ自体大変意義深いことである。しかし、本書は決して単なるファンタジーや古い伝説の焼き直しに終始するものではないことも、強調しておきたい。普遍的な人間性の葛藤やスーフィズムに繋がる「愛」の表現、ファルハードの伝説がヒクメットによってどのように変えられ、どのようなメッセージが込められたのか。いろいろな見方ができると思うが、ここではとくに関心をひいた二つの点について触れておきたい。

 ひとつは、冒頭に書いたあらすじからもわかるように、「顔」というものが本書のキーワードとなっている点である。ヴェールに包まれ、深い闇をたたえたメフメネ・バヌの顔、絵師フェルハドをして「人の顔とは絵よりも美しかったのだ」と言わせたシリンの顔、そして、皆が遠くの地から目指すものは「フェルハドさまのお顔」である。

 「忘れるのとは違う。これだけ強いているのに、できないんだ。浮かばない…僕の頭の中にシリンの顔は白く輝く光として在る。」

 フェルハドの意識の中でシリンの存在の記憶は「顔」に凝縮されていく。この作品の中に描かれている「顔」の氾濫する世界は、「東も西もアッラーのもの。それゆえに、汝らいずこに顔を向けようとも、必ずそこにアッラーの御顔がある」(2:109)という章句を持つ、クルアーンの世界に重なるようである。「その日、はればれと輝いて、嬉しげにうち笑う顔、また顔。かと思えば、埃にまみれ、黒々と影に隠れた顔また顔」(80:38-41)。クルアーンの中で人間たちの個は、「顔」という言葉を使って表現される。「顔」に人格が集中し、「顔」に意思が宿る。本書を読みながら、イスラーム特有の「顔」観、身体観というものがあるのではないか、という疑問に再び捉えられた。メフメネ・バヌの美しい身体も、その権力もフェルハドの目にはまったく入らない。彼が向かうのはシリンの美しい「顔」のみである。そして、この「顔」観・身体観というものは、訳者の石井氏も後書きで指摘しておられるように、ムスリム女性の顔の秘匿、ヴェールの問題を考える際にも重要なヒントとなるであろう。


 
もうひとつは、本書が現代人(とくに研究者諸氏)の心を捉えて離さない、「心のアルバム」的な価値を持っているという点である。石井氏の注と後書きによると、革命主義的思想の持ち主として知られるヒクメットの人生は、投獄と釈放の繰り返しであったという。1936年に結婚した妻ピライェとの幸福を味わう間もなく、2年後の38年に彼は逮捕され、懲役20年の判決を受ける。そこで入れられたブルサの獄中で、彼は本作品を執筆した。

 …10年経ってもフェルハドの使命は終わらない。そのうちに愛する人の「顔」が記憶から薄れていく。「忘れるのではない、浮かばないだけ。」そして再会のとき、シリンの顔を指で確かめながら、フェルハドは彼女の額の真ん中に一本の皺を見つける。愛を語る台詞のひとつひとつや、そのト書きに表れる行為のひとつひとつが、説得力をもって読者の記憶の琴線を揺さぶるのは、それが真実から発されたものだからであろう。使命と愛との葛藤、そしてフェルハドが選んだ結末…。

 留学や就職のために遠距離恋愛を強いられることが多いのが、研究者の世界である。大切なひとに辿りつくことができた人に、あるいは失うことになってしまった人に、そして、今まさに「顔」を触る日を夢見ている人に、フェルハドが打ち続ける槌矛の音はどのように響くのであろうか。

(2002/11)





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