ふいめいと旅する  ヘラート観光ノススメ





旅の一口メモ

旅の道連れ:

なし


旅の目的:

アフガニスタンの町、ヘラートを知ること


旅の経費:
航空券(カイロ→トルコ→カーブル) 800ドル
(カーブル→ヘラート) 50ドル
宿泊費(ホテル一泊) 20ドル



1.ホームスティ in ヘラートの巻



2003年11月6日

カーブル滞在も一週間を過ぎた頃、ふと思い立ってヘラートまで行ってみることにした。


ヘラートは紀元前からホラーサーン地方の主要都市であり、ティームール朝後期(15世紀)には首都となった場所である。歴史に疎いふいめいではあるが、ペルシアの芸術文化が栄えた都、ヘラートにはいつか行ってみたいと思っていた。また、現在、アフガニスタンの中でもヘラートの女性はとくに厳しい状況に置かれている、と聞いた。この噂の真相を自分の目で確かめてみたいと思った私はさっそくカーブルにあるアリアナ航空のオフィスに向かった。



オフィスでチケットを買おうと並んでいると、突然、目がくりくりとした小柄な男の子が英語で話しかけてきた。彼の名はサブール、16歳、ヘラート出身で、「海外渡航の政府面接」を受けるため、一人カーブルに来たという。姉夫婦に同行して、ドイツにいる親戚を訪ねるつもりだそうである。若くして国際派であるサブールは、外国人と話すことが大好きらしい。私たちはちょうど同じ日にヘラートに行くことがわかり、じゃあ、もしかしたら、空港で会えるね、とその場は別れたのだった。
当日、サブールは空港で私を待っていた。ガイドブックなど当然なく、Nancy Hatch DupreeのAn Historical Guide to Afghanistanだけが頼りだった者としては、頼れる道連れができて、少なからず安心したのだった。


結局、迎えに来ていたサブールの姉夫婦の車に乗って、彼の家にお邪魔することとなった。閑静な住宅街にあるその家はヘラートでも裕福な方らしい。土造りの高い塀をくぐると、中には平屋の家屋と中庭があった。家の中にはきれいな絨毯が敷き詰められている。家具は少ないが、衛星放送の見れる大画面テレビがあった。






私たちを迎えてくれたのは、裁判官であるサブールの父親と主婦の母親、教師をしていて、最近嫁いだばかりの上の姉(26歳)、高校を卒業した姉(21歳)と中学生の妹(14歳)である。父親は、息子がカーブルから10歳も年の違いそうな外人娘を連れて来たことに、やや不満顔であったが、お母さんや姉妹たちはこの珍客を手放しで歓迎してくれた。私たちは日本やアフガニスタンの生活、学校、結婚などについていろいろな話をした。姉の結婚式で撮影したビデオなどを見ているうちに夜が更け、結局その夜は泊めてもらうことになった。



次の日、お母さんと下の姉マフブーバが「ハンマームに行こう」と私に声をかけた。11月のヘラートはすでに肌寒い。しかも、お湯シャワーのある家などほとんどないらしい。彼らは近くにある公衆浴場に定期的に行くのである。


出掛けに、お母さんとマフブーバは、玄関に吊るしてあった「ブルカ(ヘラートでは「ボクレ」呼ばれている)」をおもむろにかぶった。私もかぶるべきかどうか迷っていると、マフブーバが「あなたは慣れてないから、転んでしまうでしょ、だからスカーフでいいと思うわ」と言ってくれた。私はいつものようにカーブルで購入した大判のスカーフで頭を覆って外に出た。




ハンマームキット


お母さんは通りを走っている馬車と値段交渉をし、私たちをそれに乗せた。

ヘラートでは9割以上の女性が、青い「ブルカ(ボクレ)」で顔を覆っているようであった。学生や一部の女性の中には、イラン式のチャードルを着用し、顔を出している者もいたが、それもほんの少数である。「ブルカ」着用が3割以下になったと言われるカーブルの状況とはずいぶん違う。

馬車に乗りながら、露出した私の顔にあちこちから視線が突き刺さるような気がした。怖くなった私はほとんど顔が見えないくらいスカーフを目深に下ろさなければならなかった。




(左二枚)今でも繁盛しているブルカ屋さん。男性客の方が多いらしい。  (右)馬車に乗る女性。



ハンマームは10m四方くらいの広さで、二つの壁面にシャワー室がいくつかあり、残りの二つに水道の蛇口がついているだけである。水道からバケツにお湯を取り、それぞれの場所まで持っていく。持参した垢すり、石鹸、シャンプーを用いて、丁寧に洗う。


朝の11時頃であったが、それほど広くないハンマームは女性たちで溢れかえっていた。身動きすると近くの女性にぶつかってしまう(それなのに、帰り際にお母さんが「今日はあまり混んでなかったわね」と言っていて、びっくりした)。また、その日はお湯の出があまりよくないようだった。皆、怒ったように「冷たいわ!なぜ?」と言い合っていた。








ハンマームを出ると、私たちは上のお姉さんショクーフェの家へと向かった。


彼女は一ヶ月ほど前に結婚したばかりである。ヘラートでは未婚の男女が出会ったり、直接話をする機会はほとんどないらしい。ショクーフェの結婚も、周囲が決めたものであった。家柄のよいショクーフェのもとには何人もの求婚者がやってきたという。彼らは彼女の顔を見ることができないが、彼女はカーテンの「穴」から彼らを見ることができたという。


こうした男たちを散々はねつけた末、「この人なら」と決めたのが今の夫である。彼はショクーフェよりも一回り上で、バーザールに店を持っている。外国に親戚もいる。外見も、ハリソン・フォードを楽しげにした感じの、すてきな人である。


私たちは、ここで彼女の手料理をご馳走になった。


親切なサブール家でのホームスティは楽しく、しかもヘラートに住む人々の生活について知るよい機会であったが、厄介者になるのでは、という危惧と、自由に町を歩き回りたいという勝手な願望から、次の日の夕方に市内のホテルに移動することにした。


宗教的に厳格な町。女性に対する差別がとくに激しい町。そんなヘラートの前評判と、前日、ハンマームに行くときに感じたなんとも言えない恐怖感が頭から離れず、最初にホテルから一人で外出しようとしたときには、今までになく緊張した。カーブルに比べると、外国人もずいぶん少ないようである。



しかし、ヘラートの町は明らかに彼らの社会規範に反する「一人歩きの女性」をさほど問題とはしないようであった。どうやら、外人女性は彼らの考えるところの「女性」にはあてはまらないらしい。


私は大通りに沿って西へ向かい、途中にある洋品店でマグナエ式のニカーブ(映画『アフガン・アルファベット』に出てきた顔を覆う黒いヴェール)や、トルコ製の質のいいスカーフを購入した。






2.ヘラート観光ノススメ


だんだんと町歩きが楽しくなってきたので、ヘラート観光を開始することにし、まずはバーザールの裏に位置するシタデル(城跡)である。


ヘラートの西部に位置する城塞、カラエ・イフティヤールッディーンは1305年に建てられた。父ティムールの死後、シャー・ルフ(在位1409-47)はヘラートを首都とし、この城塞をその中心地とした。この城塞の栄華は100年足らずしか続かず、その後、外敵の攻撃を受けたり、軍の駐屯地となったりしてさびれていった。しかし、土造りの城跡は、現在でも驚くほどしっかりと残っている。







文藝の地としても有名なヘラートには、二人の偉大なペルシア詩人の墓がある。一つは11世紀にこの地で活躍した神秘主義詩人、アンサーリー(1005-89)の墓である。


神秘主義のシャイフであったアンサーリーは、神学に反対する立場を貫いたために、何度も命を狙われ、追放の憂き目を見た苦難の人である。


市内からバスで30分ほどのガーズルガーフというところにある彼の廟は、現在でも参詣者が絶えない。
もう一つの墓は、やはり神秘主義者として名高い15世紀の詩人、ジャーミー(1414-92)のものである。


ジャーミーはヘラートやサマルカンドで学問を修めた後、ヘラートのスルタンらの庇護を受けつつ、数多くの作品を残した著名なペルシア詩人である。とくに有名なのは『ユースフとズライハー』などを含む七部作、『七つの玉座』である。


交通の便があまりよくない場所に、ぽつんとある彼の墓の前で、強い日差しなどまったく気にしないで必死に祈る男性の姿があった。墓の上にはピスタチオの木が覆い被さるように繁っていた。








ヘラートの町に来て本当に良かったと思ったのは、町の西部に位置する集会モスクを訪れたときのことである。


異教徒であることを意識してしまうためか、モスクへ入るときは、いつでも少なからず緊張する。しかも、「宗教的に厳格な町」ヘラートのモスクである。門番をしていたおじいさんに、「入ってもいいですか」と尋ねて、私はおそるおそる門をくぐった。


モスクの内部には驚くほどの美しさがあった。広い石畳の床はきれいに磨かれ、まぶしく太陽を反射していた。壁面には一面、精緻な青い模様がほどこされていた。だだっ広い中庭で、イーワーンに向かって数人の男性が祈ったり、コーランを朗誦しながら歩き回ったりしていた。


土茶色の町、どこもかしこも「工事中」のような町。そのまっただなかに突然出現した青と白の完全な美。完全に平和な空間。アフガニスタンでこんな場所に出会うとは予想していなかった。私は壁面にもたれながら、しばらくの間その光景に目を奪われた。


時折、ターバンを巻いて口髭を蓄えた男性たちが、うさんくさそうに私の方を眺めながら通り過ぎた。私が「サラーム・アレイコム」と声をかけると、彼らは警戒心を一気に解いたように微笑んで挨拶を返してくれた。







私は今まで、アフガニスタンのことも、この土地に住む人々のことも、まったく理解していなかった、と思った。




ふいめいと旅する