「マクベス」(William Shakespeare)   東京グローブ座(28Mar/08Apr00) RSC

演出:Gregory Doran

出演:Antony Sher, Harriet Walter, Ken Bones, Nigel Cooke, Joseph O'Conor, John Dougall

review:

なんとも骨太でかっこよい舞台だ。

セットはごくごくシンプル。張り出し舞台の左右に黒い階段があり、それぞれ袖へ抜ける扉がある。背景は四角い金属板(でない部分もあり。実は一部が伸びる布で出来ていて、魔女の呼び出す霊たちがここからにゅーっと出てくる)を組み合わせたもので、一ヶ所たてに長い跳ね橋状の扉がある(ここは常に『ロイヤル・エントランス』となる。内側は鏡になっており、光が反射して神秘的な効果を生んでいる)。そして頭上には国を覆う暗雲にも似た、金属のチュール状の網が吊られている。

衣装はモダンなミリタリー調。これは79年、トレヴァー・ナン演出版(イアン・マッケラン&ジュディ・デンチ。USビデオあり)と同じなのだが、両者が醸し出すムードは全く違っている。魔女の妖術(?)が前編に影を落として妖しいムードのナン版と違って、ドランの演出はあくまで男性的でスピーディ。時折はさまれる男声コーラスの荒々しさ、バーナムの森を掲げた兵士たちがドラムのリズムと共に行進し、しだいにマクベスを取り込む森そのものとなって行く終盤のテンポはすばらしい。

とても印象的なのが光と闇の使い方。ほとんどカラヴァッジョレスクでさえあるかも(言い過ぎ?)。始めの魔女のシーンは全くの暗闇の中で彼女たちのささやきだけが聞こえるだけ、狂ったマクベス夫人の徘徊はろうそくの光で闇に浮かび上がる。そして闇の中にぱあっと光の射し込む中から登場する(上記ロイヤル・エントランス)王の神々しさの演出の美。

シャーは、くせのあるイメージからは打って変わった実直なマクベスだ。たたき上げの真面目で有能な軍人が、権力に血迷ってしまったという趣である(実際はマクベスはとうぜん王族なんだけれども)。発声、リズムともに素晴らしい。対するウォルターの夫人は、これも決して魔女めいた悪女ではなく、気丈で立派な軍人の妻である(しかもショートカットの美人)。ドランがインタビューで言っていたのだが、溝がうまれてきてしまった夫婦が、悪事によって再びお互いを必要とし、絆を確認するという痛々しく哀れな悲劇がかんじられる。何しろ、帰還したマクベスを夫人は抱きしめもしないのだ。それが次第にことが進んでゆくにつれてふたりの中はかつてないほど緊密な共犯関係となるー悪事が破綻していくにつれて、それもまた破綻してしまうのだけれども。

いつもの事ながら子役も素晴らしく上手い。特に印象的だったのは、大団円でマルコムを囲む人垣の前にふっと現れるフリーアンス(バンクォーの息子)だ。一団の背後にはバンクォーの亡霊があらわれ、喜びの中、親子にだけスポットがあ たる。これからふたたびくりかえされるであろう悲劇の暗示。

4/8公演:やはり一階で見ると、上からでは見えなかったこまかい部分が見えてくる。そしてますますこの演出の緻密さに驚く次第。はじめてマクベス夫妻がダンカンの殺害を計画する下り、それまで触れあわなかった二人が寄り添い、マクベスが夫人の胸から下腹部までをゆっくり撫でてゆく。もっともエロティックな瞬間。「共犯関係」が成立する瞬間だ。

"Tomorrow"の独白のあいだ、『影に過ぎぬ』ということばに呼応するように、マクベスの巨大な影法師が背後に投影される。それは三階からも見えてはいたのだが、そのインパクトは真正面から見るのとでは大違い。マクベスが自らの影法師に押しつぶされようとしている重圧感がひしひしと伝わってくる。

三人の魔女が実に付けていた護符(キーホルダーのようにじゃらじゃら音をたてる)を、初めの出会いの後でバンクォーが拾い上げる。彼はその後も、予言を確かめるかのように何度もそれを取り出しては眺めている。ナン版では魔女が残したまじない道具をマクベスが持ち帰り、最期までそれ=彼らの予言にすがるようにしていたが、ここではバンクォーも、マクベスとひとしく予言に縛られている。そして最後の場面では、フリーアンスがその護符を手にしているのだ!ちゃりーんという音がした時、やられた!と思った。見事。


ポストパフォーマンストーク report :

26日のマチネの後、シャー、ウォルター、ドランの三名を迎えてトークが行われた。司会は翻訳者の松岡和子氏、はじめに「『マクベス』って作品名を言ってもいいですか?」と断りを入れて笑いを取る(注:舞台関係者の迷信として、マクベスは不吉な芝居とされており、『スコットランドの芝居』などの婉曲な呼び方をしなければいけないと言われている)。ちなみに素のシャーは眼鏡にチェックのシャツ、フリースというフツウないでたち。人柄の良さと真面目さが滲み出ていた。ドランはシャツの上から片方の肩にストールをかけ、結構おしゃれさんな模様。

トークは主に松岡氏が質問を出す形で進められた。 いくつかの新しい解釈について。通奏低音的に用いられる「洗う」ことのモチーフ(マクベスは戦いから戻ってまず手と顔を洗うし、マクダフ夫人は襲われる時洗濯中だ)。また、ラストの、マクベスが戦いの最中に再び「短剣」を見てしまい、気を取られる間にマクダフの持つ現実の「短剣」に刺されて倒れる、という演出について。これはシャーがえうれか的発想を得たのか、「風呂から出てきて」言い出したらしい(ドラン談。ごちそうさまである・笑)。「マクベスはとても想像力が豊かな男だ。だから彼が自分のイマジネーションによって滅びるという形にしたかった」(シャー)。Imaginationの力、ということはシェイクスピア全作品に通じる(その捉え方は作品によって否定的であったり肯定的であったりするが)重要なモチーフであり、とても的を得た解釈だと思う。

ドランの演出は徹底的に読み合わせをすることから始まるそうだ。それによってテキストとイメージを全員が共有し、また役を取り替えて読み合わせる事で客観的に役を見、周囲の解釈と自分の解釈を擦りあわせることができる。役者との゛Chemistry"を大事にしたいとドランは言う。

マクベスは沙翁の作品中、もっとも「Fear」という言葉が多く登場し、「Love」という言葉が少ない作品だということだ。だから自分たちの「恐怖」を再認識することも徹底した。自分にとっての恐怖は「この役をやることだった(笑)」 とシャー。 彼は徹底したリサーチで知られるが、実際に殺人を犯した男に会って話を聞いたという。

最後に一問だけ、会場から質問。私の前の研究者か好事家っぽいおじいちゃんが鋭い質問を?「Tomorrow, and Tomorrow, and Tomorrow」のスピーチにおける「時間」の解釈について。ここで語られている「時間」の捉えかたは、遅いのかそれとも早いのか?映画祭のティーチインで繰り返される能無しの質問にいつもうんざりしていたがこれは素晴らしい。答えとしては、シャーのイメージする「時」は、ここでは「大勢の人が、ずうっと一列に並んで行進しているような」ものだったという。だから、Punctuationとしては異例ではあるけれども「AND」にストレスをおいて語ったと。ドランが横からまとめて「つまりとってもゆっくりした流れだと解釈したし、それが正しいと思う」。

夜の公演があるため、トークはきっかり五時に終了したが、とても内容の濃いものだったと思う。こういうのは、やる気のある解答者と適切なインタビュアーがそろわないと成立しないのである。


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