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笹川種郎「金聖歎(續)」 『帝國文學』2-4 (1897年)

金聖歎(續)

笹川種郎

彼が小説に對し、將戯曲に對し抱懷するの大意見は之を見るに由なし。實際的傾向を有する支那人種の特性は彼をして小説戯曲を以て正史と其優劣を較さしめ、實用的文章と其巧拙を比せしめぬ。然れども彼が小説戯曲に於る妙所又秘訣を穿つに於ては眼炬の如きものあり。文章最妙是此一刻、被靈眼覷見便於此一刻放靈手捉住、蓋於略前一刻亦不見、畧後一刻便亦不見、恰々不知何故、却於此一刻、忽然覷見、若不捉住、便更尋不出と云へるは是れ其神來を説けるなり。夫文章之法豈一端而已乎、有先事而起波者、有事過而作波者、讀者於此則惡可混然以爲一事也、大文字在此、而眼光在後、則當知此文之起自爲後文、非爲此文也、文自在後而眼光在前、則當知此文者盡自爲前文、非爲此文也、必如此而後讀者之胸中有針有線、始信作者之腕下有經有緯と云へるは伏線の道を示すなり。彼か文章の變を説くや、即ち曰く、

夫れ天下の險能く妙を生ず。天下の妙能く險を生ずるに非ざるなり。險故に妙。險絶故に妙絶。險ならざれば妙なる能はず。險絶ならぎれば妙絶なる能はざるなり。山に遊ぶ亦是の如し。梯せずして上り 。縋せずして下る。未だ其能く山川の窈窕洞壑の隱秘を窮むるを見ざるなり。梯して上り縋して下る。而して吾の至る所乃ち飛鳥徘徊し、蛇虎躑躅の處に在り。而して吾のカ絶え、而して吾の氣盡き、而して吾の神色索然として猶死人の如く而して吾の耳目乃ち一變換し、而して吾の胸襟乃ち一蕩滌し、而して吾の識略乃ち高きもの愈高く深きもの愈深きを得。奮て文筆を爲せば亦愈高深の變を極むるを得るなり。文を行る亦是の如し。筆を閣かず、紙を捲かず、墨を停めざれは未だ變を盡くし、妙を出し、神に入るべきの文を窮むるあるを見ざるなり。筆下さんと欲するか。仍ち閣き。紙舒ベんと欲して仍ち捲き、墨磨かんと欲して仍ち停り、而して吾の才盡きて、吾の髯陰み、而して吾の目矐み、而して吾の腹痛み、而して鬼神來り助け、而して風雲忽ち通じ、而して後奇は則ち眞に奇、變は則ち眞に變、妙は則ち眞に妙、神は即ち眞に神。   ∥《   貫華庵  http://www003.upp.so-net.ne.jp/haoyi/guanhua/   ∥

脚色に尚ぶ所は變にあり。聖歎乃ち窮さしめて其變を見んとす。其大文章と平凡文辭を比するや、即ち曰く、

今夫れ文章の物たるや豈異ならずや。天に在ては雲霞をなすが如し。何ぞ其れ膚寸に起リ、漸く舒び、漸く卷き、倐忽萬變、爛然章を爲すや。地に在ては山川たり。何ぞ其れ迤逞にして八千轉し百合し、流を爭ひ、秀を競ひ、窅冥際なきや。草木に在ては花萼たり。何ぞ其れ枝に依りて葉を安じ、葉に依て蒂を安じ。蒂に依て英を安じ、英に依て瓣を安じ、瓣に依て鬚を安じ、眞に神鏤鬼簇香團玉削の如きあり。鳥獸に在ては翬尾たり、何ぞ其れ靑漸く碧に入り、碧漸く紫に入り、紫漸く金に入り、金漸く綠に入り、綠漸く黒に入り、黒又青に入る。内之を視れば彩を成し、外之を望めば耀を成し。一端を指すべからざるなり。凡そ此の如きもの豈其れ必ず、然らざるを得ざるものあらんや。夫れ雲霞をして必ずしも舒卷せずして慘烽煙の如くならしめば亦何ぞ天を恠まん。山川必ずしも窅冥せずして止に坑阜ならしめば亦何ぞ地を恠まん。花萼必ずしも英を分ち瓣を布かずして醜榾柮の如くならしめ、翬尾必ずしも間雜ならずして塊然木鳶たらしめば、亦何ぞ草木鳥獸を恠まん。然り而して終に亦必ず然るものは盖し必ず然らざるを得ざるものあるなり。文章に至て何ぞ獨り然らざらんや。世の鄙儒筆墨を惜しまざるより是に於て到る處塗抹し、自ら作者と命ず。乃ち吾れ其爲くる所を視るに實は則ち會ま所謂烽煙坑阜榾柮木鳶民異るなきなり。

聖歎二百年の古に歎息したるもの偶以て今日の時弊を指すが如きものあるに非ずや。烽煙坑阜榾柮木鳶何の時代にか存ぜざらん。  ∥《   貫華庵  http://www003.upp.so-net.ne.jp/haoyi/guanhua/   ∥

聖歎の評するや、自家見解を以て自家一流の書となすと雖其巨細剖柝し、隱微を指摘し、作者苦心の跡を示すの處洵に群を拔て卓然たるものあり。水滸傳中人の粗鹵を寫すの處に許多の寫法あるを示すが如き以て其一端を窺ふに足らんか。魯達の粗鹵は是れ性急、史進の粗鹵は是れ少年の任氣、李逵の粗鹵は是蠻、武松の粗鹵は是豪傑覊軛を受けず、阮小七の粗鹵は是悲憤説く无きの處、焦挺の粗鹵は是氣質不好と一々指示して讀者を首肯心服せしむ。其文章の妙所を評し、脚色の變化を批するの手腕に至ては前後殆ど絶せり。聖歎の價値此に於てか存す。   ∥《   貫華庵  http://www003.upp.so-net.ne.jp/haoyi/guanhua/   ∥

佛道に通じ、禪味を嗜みたるの果は批評をなすに際し屡佛語を引證し、禪理を應用し、其弊或は讀者をして茫焉自失たらしめ、眞意のある處を了解し得ざらしむること亦少しとせず。何故西廂記是此一無字、此一無字是一部西廂記故一の類の如き解し得て妙なりと雖其跡奇を衒ふに止まりて讀む者爲に五里霧中に彷徨するが如きあらん。水滸第四十四回の外書の如き、西廂哭宴の外書の如き、滔々佛理を説きて佛堂裏に説法を聽くの趣を存す。   ∥《   貫華庵  http://www003.upp.so-net.ne.jp/haoyi/guanhua/   ∥

獨り佛道のみならず彼又老壯の道を悦ぶ。莊子は彼の玩賞し喜べる處。故に彼が世界を觀たるは道家佛門の旨義に異らず。

今夫天地夢境也、衆生夢魂也、無始以來我不知其何年、齊入夢也、無終以後我不知其何年、同出夢也、夜夢哭泣且得飲食、夜夢飲食且得哭泣、我則安知其非夜則哭泣、故且夢飲食、夜得飲食、故且夢哭泣耶、何必夜之見夢而且之獨非夢耶、鄭之人夢得鹿置之於隍中、採蕉而覆之、彼以爲非夢、故採蕉而覆之也、不採蕉而覆之、則畏人之取之、彼以爲非夢故畏人之取之也、使鄭之人正於夢時而知夢之爲夢則彼豈惟不採蕉而覆之乃至不復畏人取之豈惟不復畏人取之、乃至不復置之隍中豈惟不復置之隍中、乃至不復以之爲鹿、傳曰至人無夢、至人無夢者非無夢也、同在夢中而隨夢自然我於其事蕭然焉耳、經曰一切有爲法應作如是觀、是以謂之無夢也、(中略)葢甚矣夢之難覺也、夢之中又有夢則於夢中自占之、及覺而後悟其猶夢焉、因又欲占夢中占夢之爲何祥乎、夫彼又烏知今日之占之猶未離于夢也耶、善牛、南華氏之言曰莊周夢爲蝴蝶柄々然蝴蝶也、自喻適志與不知周也、及其覺則蘧々然周也、不知莊周夢爲蝴蝶與不知蝴蝶夢爲莊周與、莊周與蝴蝶其必有分也、何謂分莊周則莊周也、蝴蝶則蝴蝶也、既已爲莊周何得爲蝴蝶、既已是蝴蝶,何得爲莊周、且蝴蝶既覺而爲莊周而猶憶其夢爲蝴蝶之時則眞不如莊公正夢蝴蝶之蝴蝶之曾不自憶爲莊周也、何也、夫夢爲蝴蝶誠夢也、今憶其夢爲蝴蝶是又夢也、若莊周不憶蝴蝶則莊周覺矣、若莊公幷不自憶莊周則莊周大覺矣、彼蝴蝶不然、初有自憶爲莊周遂幷不自憶爲蝴蝶、不自憶爲莊周則是蝴蝶覺也、因不自憶爲莊周遂幷不自憶爲蝴蝶則是蝴蝶大覺也、此之謂之物化也者我烏知今身非我之前身正夢爲蝴蝶耶、我烏知今身非我之前身已覺爲莊周耶、我幸不憶我之前身則是今身雖爲蝴蝶雖未發於阿耨多羅三藐三菩提心而已稱大覺也、我不幸猶憶我之今身則今身雖爲莊周雖至發於阿耨多羅三藐三菩提心而終然大夢也、經云、諸佛金身色百福古莊嚴、聞法爲人說、常有是好夢、我則謂夢之胡爲乎哉、又云又夢作國主捨宮殿眷屬及上妙五欲、行諸於道塲、我則又謂夢之何爲乎哉。   ∥《   貫華庵  http://www003.upp.so-net.ne.jp/haoyi/guanhua/   ∥

聖歎の佛を信ずるや篤し。此に於てか昔我先師仲尼氏釋迦之同流也との語あり。廖柴舟か傳して凡一切經史不集義疏訓詁與夫釋道内外諸典、以及稗官野史九彝八蠻之所記載無不供其齒頬、縱横顛倒一以貫之毫無剩義、座下緇白四衆頂體膜拜歎未曾有、先生則撫掌自豪雖向時講學者聞之、櫕眉浩歎不顧と云ふもの以て聖歎が學の博きを見るに足る。   ∥《   貫華庵  http://www003.upp.so-net.ne.jp/haoyi/guanhua/   ∥

聖歎文の妙所を評するに許多の文法を稱す。西廂に烘雲托月の法あり。移堂就樹の法あり。月度廻廊の法あり。羯鼓解穢の法あり。那輾の法あり。淺深恰好の法あり。起倒變動の法あり。水滸に倒坤法あり。挾敍法あり。草蛇灰線法あり。大落墨法あり。綿針泥刺法あり。皆面鋪敍法あり。弄引法あり。獺尾法あり。正犯法あり。畧犯法あり。極省法あり。欲合故縱法あり。鸞膠續絃法あり。此他。多々殆ど擧ぐるに煩し。   ∥《   貫華庵  http://www003.upp.so-net.ne.jp/haoyi/guanhua/   ∥

聖歎の文辭勁拔にして奇捷。句々活動し、讀むもの一服の清涼劑を喫するが如し。老手と謂ふべきなり。   ∥《   貫華庵  http://www003.upp.so-net.ne.jp/haoyi/guanhua/   ∥

鳴呼聖歎一世の奇才を抱て生きて空しく志を獲ず。其末路何ぞ一に悲しき。然も死して毀傷の紛々たるあり、或は董華亭をして其終に筆舌に禍を買ふや宜なる哉。乃ち此に胚胎するあり。而して盛名を得、厚利を獲るもの實に識者の鄙む所なりと極言せしめ、或は馬琴をして以て文學者の鑑戒となすべしと蔑視せしめたるもの豈又酷ならむや。幸に一人の知己者あり。『予れ先生の評する所の諸書を讀むに異を領し、新を標し、逈に意表に出づ。作者千百年來此に至て始めて生面を開くを覺ゆ。嗚呼何ぞ其れ賢なるや。慘禍に罹ると雖而も其罪に非ず。君子之を傷む。而して説く者謂ふ。文章の妙秘は即ち天地の妙秘。一旦發洩して餘すなし、鬼神の忌む所を犯す無きに非ず。則ち先生の禍其れ亦以て之を致すあるか。然れども畫龍睛を點じ、金針度に隨ふ。天下後學をして悉く作文筆墨用ゐるの法を悟らしむる者は先生の力なり。又焉ぞ少しとすべけんや。其禍一時に冤屈すと雖而も功實萬世を開拓す。顧るに偉ならずや』と然れども柴舟が這個讚辭亦以て好むものに阿ねると謂ふべし。   ∥《   貫華庵  http://www003.upp.so-net.ne.jp/haoyi/guanhua/   ∥

聖歎がカは能く群俗を排して小説戯曲の光彩を陸離たらしめたり。彼が批評は哲學的考察に非ずと雖文章の爲に秘薀を開闡したる所少しとせず。假令へ自家の爲に氣焔を吐きたりと雖啓蒙の功沒すべきに非ず。作者の爲に不實なりしと雖書價をして九鼎大呂より重からしめぬ。然も抽象的觀念に乏しく、想像力に薄く、儒教が躬行實殘の下に覊軛せられたる支那人種の間に在ては一たび聖歎に依て和氏の壁連城の價を致したる小説戯曲も再び其光を薀みて終に又大作名著を出すこと能はず。支那文壇は終に此産物に寂寥たるの歎を發せざるを得ざるなり。   ∥《   貫華庵  http://www003.upp.so-net.ne.jp/haoyi/guanhua/   ∥

聖歎死して二百載。僅に彼が小傳遺編に依て此片影を描ぐ。然も恐くは地下の彼が一笑を博さんか。彼曰く我今日而暫在斯、蜂蟻亦暫在、我倐忽而爲古人則是此蜂亦遂爲古蜂、此蟻亦遂爲古蟻也、我今日天清、日朗窓明、几淨、筆良、硯精、心撰、手寫、伏承蜂蟻來相證照此不世之奇縁難得之勝樂也、若後之人之讀我今日之文則眞未必知我今日之作此文時又有此蜂與此蟻也、夫後之人而不能知我今日之有此蜂與此蟻、然則後之人竟不能知我之今日之有此我也、後之人之讀我之文者、我則已知之耳、其亦無奈水逝雲卷風馳電掣、因不得已而取我之文、自作消遣云爾後之人之讀我之文、即使其心無所不得已、不用作消遣、然而我則終知之耳、是其終亦無奈水逝雲卷風馳電掣者耳と。讀み來て彼が當時を憶ふ。   ∥《   貫華庵  http://www003.upp.so-net.ne.jp/haoyi/guanhua/   ∥

( 終 )