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幸田露伴 『金聖歎』 『文藝春秋』昭和二年六月号
『露伴全集』第九巻 巻岩波書店(一九三○年)
『露伴全集』第十五巻 岩波書店(一九五二年)所収 

金聖歎

幸田露伴

 水滸傳や三國史演義や西廂記等を批評した者に金聖歎といふのが有ることは誰しも知つてゐることである。水滸傳は聖歎の評のほかの本は、今は殆ど手に入れ難いほど希有なものになつてゐて、李卓吾評と云傳へられたり、鐘伯敬評と云はれたりしてゐる本は、寓目してゐる人も少い、隨つて水滸傳と云へば直に聖歎の名を思い出すやうになつてゐて、聖歎を水滸傳の忠僕の如く思つてゐる人も有り、又近頃の支那の人などは、何でも古に反對して新しいことを言ひたい心から、聖歎を大批評家などと掲げてゐる者もある。しかしそれは飛んでも無い事で、聖歎は水滸傳を腰斬にして、百二十囘有つたものを七十囘で打切つて、そして辻褄を好い程に合せて、これが古本である、普通の俗本は蛇足を添へたものだなぞと、勝手なことを云つたもので、本來の水滸傳から云へば、けしからぬ不埒なことをしたものである。忠僕どころでは無い、欺罔横暴、何とも云ひやうの無い不埒な奴である。又聖歎の批評といふのは、如何にも微細に入つた批評のやうであるが、實は自分の勝手に本書の精神も情懷も何も關はずに、自分の言ひたい三昧をならべたもので、一向本來の意味合も氣分も關はぬどころか卻つて反對の方向へ無理やりに漕ぎつけたものである。勿論原書を半分に裁斷して澄ましてゐる程に人を食つた男であるから、其位の事は何でも無いのである。であるから、聖歎を良い批評家だと思つたり、聖歎本で水滸傳を論じたりなんぞしてゐるのは、餘りおめでたい談で、イヤハヤ情無いことであるのだ。けれども聖歎は口も八丁手も八丁で、兔に角に世間のお坊ッちゃん達を瞞着し得ただけの技倆は持合せてゐたのだから、感心な小僧には相違ない。聖歎の遣り口は、他人の酒を飮み肴をあらして、そして自分の太平樂を喋り立てたのであるから、割の宜い仕事をしたのである。しかも聖歎本の大に行はれたのは亦聖歎の批評の技倆の爲ばかりでは無いので、元來水滸傳が面白いものにせよ、百二十囘では餘り長過ぎて、讀者も些し倦きもすれば、出版者も手間や資金がかゝり過ぎる傾がある。そこで七十囘位にすると丁度商賣上商品として頃合のものになるのである。物の行はれる行はれぬといふことには、其物の眞價からのみでは無くて、世間に向く頃合といふことが大切な條件の一になつてゐることは言ふまでも無い。其の大切な「頃合」といふことから、七十囘本が歡迎されたことは疑ふべくも無い。それから又、原本水滸傳では末の方になると讀者の贔屓の深い人物が頻りに殺されたりなんぞする。關羽が死ぬと三國史演義を抛り出してしまふ御見物心理で、大抵の人には贔屓役者が殺されてしまふのなぞは嬉しくない。で、其樣なところが全然無いことにしたのは、多數の御見物には恰も良い本である。これらの理屈から出版社が百二十囘本を捨てゝ七十囘本を發刊して流行させたのは道理な情勢である。特に水滸傳は清朝では禁止本で有つたから、ビク/\もので祕密出版をするのであつた。其の場合に見つけられて燬板や罪を得るおそれの有るのに、長々しい百二十囘本の方を取つて、手間や資金が忽然としてフイになるか知れぬものに少しでも餘計の元手を入れやう譯が無い。そこで水滸傳といえば聖歎本となつてしまつたのである。何も聖歎の評が面白いから水滸傳が流行つたのでは無く、聖歎が生れない前から水滸傳は流行つてゐたのである。それこれの事情を考へると、ひよつとすると最初は本屋の注文から聖歎が七十囘本をこしらへ、それから清朝の禁止書となるに及んで、愈々七十囘本の流行といふことになつたのかも知れない。そして其の流行のおかげで、聖歎は偉そうな批評家に見えるやうになつたのかも知れない。
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 聖歎といふのは一體何ういふ人だつたらう。何にせよ技倆も有つたのには相違ないのであるから、聖歎に對して一顧を吝むにも當るまい。然し雜書の批評以外には何も大した仕事を仕た人で無いから、名家小傳といふやうなものにも、學案といふやうなものにも出て來る人では無い。聖歎より前に水滸傳を評したと云はれてゐる李卓吾の其評は聖歎のやうに力を入れたものでは無いが、其人は變な人では有るが兔に角に一種の思想家で、反時代的、反道學的、孔子の是非をもつて乃公を是非されてはイヤだと云つただけの男で有り、清朝末の人々は其の思想にかぶれてゐるかのやうに見えるだけの男だから、種々の事も傳はつてゐるが、聖歎はたゞ雜書の批評で名を留める位で有るから餘り何にも其の人となりなどが傳えられていない。
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 聖歎は金人瑞、字は若采といつて、聖歎は其號である。少い時諸生となつたが、試驗に應じて官員にならうと勉強する風でも無かつた。王東淑の柳南隨筆に依ると、「諸生を以て遊戲の具と爲し、得て而してまた棄て、棄てゝ而してまた得」と記してある。勝手傍題に日を消してゐたのだつたらう。それで中々穎敏だつたから、とう/\魔に憑かれた、とある。魔に憑かれたといふのはをかしいが、それは卟といふことを聖歎がやつたのである。卟といふのは支那の文藝には甚だ多く交渉のあることだから、自分が嘗て「思想」に「飛鸞の術」と題して論じたことがあるが、手早く云へば「神おろし」のやうなことをするので、さうすると何の某といふものの靈魂が其人に降つて、其の靈魂の有してゐる智識才能感情等を此世に現はし出すのである。天臺泐法師靈異記といふものを作つた人がある。その中に出て來る慈月宮陳夫人、天啓丁卯五月を以て金氏の卟に降るといふのは、即ち聖歎のことで、聖歎に慈月宮陳夫人といふものが乘移つたのであるといふことである。泐法師靈異記といふものをまだ見ないが、天啓丁卯といへば明の末で熹宗の時、清の初で太宗の時、我が寛永七年に當る。一體此の卟といふもので、若し素張らしい詩人や文人の靈などが降ると、假令其の乘移られた者が無學の下男や下女であつても、急に立派な詩を作つたり文を草したり書畫が出來るやうになつたりするので、支那の著述には卟によつて成立つてゐるものも澤山あるし、又意外な書物に意外な人の序、例を云へば後世の書に關羽の序の附いてゐるのなどは、皆卟から生じたものである。尤西堂は相當立派な雜劇を遺した一時の才子だが、卟が好きで、其集中には卟の示した文字さへ載つてゐる。こんな譯だから何も然程怪しがるべきことでは無いが、聖歎は卟の憑るところとなつてから、筆を下す益々機辨瀾飜、常に神助有るに至つたと云はれてゐる。それから水滸傳西廂記などを批評しはじめたといふのである。して見ると聖歎の所謂水滸傳古本も聖歎が卟の状態の裡から見出したのかも知れない。ハハヽ。聖歎の水滸傳を見て、歸元恭莊は、此の調子ではたまらない、倡亂の書だ、と云つたといふ。然し一時の人々には大に聖歎の書を愛して、非常に世に行はれたといふことである。そこで聖歎も自負しだして、益々勝手に言論して忌まなかつたが、遂に誅せられるに至つたのである。
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 聖歎が殺されるに至つた事情は詳細には知れないが、世廟の遺詔が難に至つた時の事である。天啓よりはずつと後になる。當時巡撫以下、官に在る者は皆式に從つて臨(なげ)いたのである。巡撫は縣令などを監視するに當たる大官であるから、今や皇帝の不幸に際して大臨の事あるを機として、かねてから呉縣の令の不法の事あつたのを府の諸生等は訐き巡撫に對つて申立てた。少し折が惡かつた、大臨の時になど其樣なことをせねば好かつたのである。巡撫が生憎と令とは懇意であつたから、諸生共此場合に不埒であるといふので、先に立つた者五人は縛られ、其翌日復十三人縛られ、大不敬の罪に擬された。其の縛られた諸生の中に聖歎も與つてゐた。此時分少し前に海寇(蓋し鄭成功一派)が入つて江南を犯し、清朝に從つてゐた官員共で賊に陷つた者も澤山あつた。それら賊に陷つた者は反逆したことになつて、大獄が興つてゐた。で、清の廷議で大臣が出張して、其獄を決し、且つ諸生の非違を正すことになつた。何にせよ明清爭亂交代の時で、萬事ドシ/\片づけねばならぬ時だつたから、書生共の小面倒な奴原も前の反逆罪に傅會されて、死罪と定められて終わつた。そこで聖歎も牧場の草が牛の舌で嘗められて終ふやうに、譯も無く殺されることになつた。判決が下ると聖歎は不思議にも思ひ歎息もして、頭を斷たるゝは至痛なり、而も聖歎は無意を以て之を得たり、大奇々々と云つて刑を受けて終わつたといふのであるが、亦復如是といふものには、聖歎刑に臨んで、頭を斷られるのは痛事である、然し此世の埒を明けるのは快事である、痛快々々と云つて斬られたとある。どちらが眞實か知らない。いづれにしても太平の世だつたら斬られずとも濟むことだつたらうに、大奇々々でも痛快痛快でも痩我慢の響が有つて少し憫然である。水滸傳を腰斬した報で身體を全くは死ねなかつたなどといふのは些酷評だ。誰か卟を試みて聖歎を冥土から喚出したらをかしからう。

(昭和二年六月)