マルクスは、社会主義の崩壊とともに葬られたと常識的には考えられているが、実は「社会主義」諸国の政治経済体制は、マルクス自身の思想とはほとんど関係がない。たとえばマルクスは「科学的社会主義」を唱えたこともなければ「生産手段の国有化」を主張したこともない。マルクス主義は崩壊しても、思想としてのマルクスの影響は今なお強い。しかし、そこにも「崩壊」は皮肉な形で影響を及ぼしている。「彼らが崩壊したとき、私は自身が逆説的に彼らに依存していたことに気づいた」(本書十一ページ)。体制批判の武器だったマルクスの言説が、批判の対象を失ったとき「ポストモダン」の言語遊戯に流れてゆくのは不可避だった。本書は、こうした流れに抗してマルクスの再評価を試みるもので、カントを論じる第一部とマルクスを論じる第二部からなるが、質的にも量的にも後者が中心である。著者は、世間では難解な思想家と思われているようだが、文芸誌の連載をもとにした本書の記述は平易で、ビジネスマンにも読める。
マルクスの現代的な価値は、一部のマルクス派経済学者が主張する「反グローバリズム」や「弱者救済」の温情主義にあるのではない。マルクスは、あらゆる価値を「商品化」してグローバルに交換可能にする「資本の文明化作用」を肯定したし、その先に彼が展望したのは、平等な社会ではなく「自由な個人のアソシエーション」だった。しかし「価値形態」の等価交換のメカニズムは、不等価交換によって利潤を追求する「資本」の論理と矛盾する。最近の「ドットコム企業」の崩壊にも見られるように、「摩擦のない資本主義」では利潤はすぐ消滅するからである。この矛盾を克服するために、資本主義はつねに「外部」を作り出し、それとの「差異」によって利潤を得るしくみを持っている。しかし資本主義が全世界をおおったとき、もはや地理的な外部には利潤機会はなくなり、むしろ周辺諸国を従属化することによって利潤を維持する構造が生まれる。
ただ、こうした著者の議論は「従属理論」や「ポストコロニアリズム」でおなじみの話で、『資本論』の冒頭の価値形態論への「言語学的アプローチ」も一昔前の流行だ。資本主義が、その内部に差異を作り出してゆくメカニズムは、価値形態論で解くことはできない。資本=ネーション=ステートの複合体に対抗する力を労働運動や党派ではなく、消費者の自律的なアソシエーション(協同組合)に求める議論は興味深いが、その限界は地域通貨でアソシエーションを実現しようとする著者の運動、NAM(New
Associationist Movement)に露呈している。この種の運動が「お遊び」の域を出ないのは、資本の意味を理解していないからだ。
利子のつかない地域通貨では投資ができないため、単純再生産しかできない。旧ユーゴの「労働者自主管理」は、資本の浪費によって自壊した。「日本的経営」は一種の労働者自主管理だといわれるが、いま日本企業が悩んでいるのも資本効率の低さだ。全世界的な消費者のアソシエーションであるインターネットも、非営利の「協同組合」ではブロードバンドのための莫大な投資がまかなえないという問題に逢着している。資本は単なる搾取の道具ではなく、プロジェクトの価値の尺度だ。資本主義は、企業の経営権と利潤の請求権を「所有権」として資本家が独占することによって責任を明確にし、効率的な投資を実現しているのである。こうした問題は、著者の軽蔑する「近代経済学」が分析してきた。著者の依拠するのは、基本的には宇野弘蔵や廣松渉などの「日本型マルクス主義」だが、こういう古い道具で二一世紀の資本主義を分析するのは無理だ。著者が新しいツールを使って、あらためて資本主義の本質に迫ることを期待したい。