「グローバル資本主義」と国家の二百年戦争

加藤尚武『ヘーゲルの「法」哲学』青土社 1999

ひところ「グローバル・スタンダード」という和製英語が流行したが、アジア経済危機の後は「グローバル資本主義は妄想だ」「国家が市場に介入すべきだ」という類の議論が流行しているようだ。しかし、こうした論争は今に始まったことではない。アダム・スミス以来、覇権を握った国が自国のルールを「スタンダード」として世界に押しつけ、周辺の国々が反発するという図式は、二百年以上にわたって繰り返されてきたのである。

中でも近代社会の本質的な問題を市民社会(市場メカニズム)の矛盾に求め、それを克服する国家の役割を論じたのがヘーゲルの『法哲学』である。彼の市民社会批判は、マルクスなどに圧倒的な影響を与えた。今日の「グローバリズム批判」は、ほとんどこの亜流だといってもよい。ヘーゲルの本というと、「即自」「人倫」といった独特の用語がたくさん出てきて投げ出した読者も多いだろうが、本書(一九九三年刊の本の増補新版)は、平易な言葉でヘーゲル哲学の現代的な意義を論じている。

まずタイトルで「法」がカッコでくくられているのがポイントである。これまで「法」と訳されてきたRechtは、第一義的には「権利」という意味だ。つまり『法(権利)の哲学』は、権利という概念を通してとらえた近代社会論なのである。ヘーゲルは権利の概念の中核に所有権を置き、その原型を「私の身体は私のものだ」という自己意識に求める。著者は、この議論を男女関係にもかかわる「心身関係論」として読み解く。

市民社会は、エゴイズムを肯定して欲望を解放する「欲望の体系」だが、社会から切り離された原子的な個人が欲望を無制限に追求すると、貧富の格差や犯罪などが生じる。これに対して秩序を守るしくみを、ヘーゲルは「倫理」に求める。これは主観的な「道徳」とは区別される社会的な制度である。市場メカニズムは、どんな社会でも普遍的に機能するシステムではない。旧社会主義国の「市場経済化」の失敗からもわかるように、互いの所有権を尊重する市民社会の倫理が共有されていなければ、法律があっても機能しないのである。

そしてヘーゲルは、「有機的な全体」としての国家によって市民社会における個人と社会の分裂は最終的に克服されるとする。しかし著者も指摘するように、「全体」が個別の国家だという結論は奇妙である。これがプロイセン国家を絶対化する「御用哲学」として利用されたことも否定できない。それを批判したマルクスは、矛盾の原因である私的所有権を廃棄することによって国家を廃止しようとした。しかし、それがロシアに移植されて市民社会の全面否定となったとき、逆に国家の際限ない膨張が始まったのである。

この点では、近代社会のあらゆる制度を個人の権利を支えるシステムととらえるヘーゲルの思想は、著者によれば、むしろ市民社会に立脚する「スミス主義」に近い。グローバル資本主義は、国家を超えた存在となりつつある。問題は、この地球規模の市民社会をコントロールする制度が確立されていないことだ。しかし、それを観念的に「批判」してナショナリズムをあおっても、何の解決にもならない。

新しい秩序の基盤となるのは、もはや「地方政府」でしかない国民国家ではなく、インターネットに代表される国際的な非営利組織だろう。ヘーゲルが市民社会の秩序を守るシステムとして非営利の「職業団体」をあげていることは示唆的だ。その意味で、ヘーゲルの限界を超える手がかりを「ガイア」(生態系としての地球)に見出す著者の指摘は興味深い。ただし「ガイアを救え」とする結論は「人間中心主義」的な倒錯である。環境破壊によって滅びるのは人類であって、地球ではないからである。

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