経済学に「革命」を起こした数学者の天才と狂気
シルビア・ナサー『ビューティフル・マインド』新潮社
2002
映画「ビューティフル・マインド」は、今年のアカデミー作品賞を受賞した。数学者の人生が映画になるというのも珍しいが、それがアカデミー賞を取るというのは空前絶後だろう。ただ映画は、ラッセル・クロウの名演技によって、いかにもハリウッド的な人間ドラマに仕立てられており、ほとんどフィクションと思ったほうがよい。映画では、主人公ジョン・ナッシュがなぜ「天才」と呼ばれたのかがよくわからないが、原作である本書を読めば、真に興味深い部分は人間ドラマではなく、ナッシュの引き起こした経済学の「革命」であることがわかるだろう。著者はニューヨーク・タイムズの経済学担当の記者で、本書は昨年の全米批評家協会賞(伝記部門)を受賞した。
一九四九年、ナッシュが二一歳のとき最初に発表した「非協力ゲーム理論」は、それまで市場の中に限定されていた経済学を人間行動一般に拡張し、「戦略」や「制度」を厳密に分析することを可能にした。その意味は、当初は十分理解されず、ナッシュもゲーム理論の研究は博士課程の数年でやめてしまった。その後、純粋数学の分野でも重要な業績をあげたが、次第に精神分裂病(最近は統合失調症と呼ぶ)に冒され、大学での地位も失った。天才の例にたがわず、ナッシュの人格的な評価は高くない。才能を鼻にかけて凡人を露骨に見下し、最初に交際した女性を妊娠させながら子供を認知せず、彼女を捨てて美貌で聡明なアリシアと結婚する。しかし次第に病魔が彼らの生活を侵食し、離婚に至る。しかしナッシュは、二十年余りの「暗黒時代」をへて奇蹟的に分裂病から回復し、一九九四年にノーベル賞を受賞する。
しかしナッシュの数学者としての短いキャリアの中でも、ゲーム理論を研究したのは博士課程の数年間にすぎない。フォン・ノイマンは、ナッシュの論文を「くだらん。そんなのは不動点定理の問題にすぎない」と否定したという。この評価は、ある意味では正しい。ナッシュの証明は、本質的にはゼロ和二人ゲームについて角谷が証明した定理(不動点定理)をn人ゲームに拡張したにすぎないからだ。ナッシュの数学者としての声価を高めたのは、後年の多様体についての業績である。そんな数学的には二級の業績が、経済学では最高の名誉を授かるというのは皮肉である。ノーベル賞に数学がないのは、ノーベルが数学ぎらいだったからだというが、それなら「応用数学」にすぎない経済学賞(正確にはノーベル記念賞)も廃止したほうがよいのかもしれない。
ただナッシュ均衡の価値は、数学的な洗練ではなく「合理的行動」の必要十分条件を見事に定式化した点にある。ナッシュ均衡は、従来の経済学の均衡概念を拡張して市場以外の人間行動を分析する上で重要な役割を果たし、一九七〇年代になって生物の進化にも応用できることがわかった。「経済学は市場万能主義だ」という類の批判は、ゲーム理論を知らない人々のいうことで、いま経済学では市場を特殊な場合として含む「制度」の理論が発展している。しかしゲーム理論の予想は、実際の人間の行動とは必ずしも一致しない。本書では、周波数オークションが「ゲーム理論の勝利」として賞賛されているが、二〇〇〇年に欧州で行われた第三世代携帯電話のオークションでは、過大な価格で落札した電話会社が多額の負債を抱え、経営危機に瀕している。こうした「不合理」な行動を合理的に説明することが今後のゲーム理論の課題だろう。
本書は入念に取材され、学問的な内容もよく理解して書かれており、映画ではナッシュの理論の学問的な価値がよくわからなかった人も、これを読めば彼の天才たる所以が理解できよう。ただ訳文がよくないせいもあって、ゲーム理論の説明はわかりにくく、ナッシュ均衡の説明は不正確だ。本書でゲーム理論に興味を持った読者には、マクミラン『経営戦略のゲーム理論』(有斐閣)などの入門書で勉強しなおすことをおすすめしたい。
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