逃走の果てに

西部邁『国民の道徳』扶桑社

大きな話題になった「新しい歴史教科書」の影に隠れて、あまり話題にならなかったが、それと一緒に出された「公民」教科書をもとにした本。分厚いが、内容は単純で、要するに「お国」を大事にしろ、なぜならそれが日本の「伝統」だから、というものである。その「お国」が150年以上前には存在しなかったことを著者は知らないわけではあるまい。大事にする「伝統」がなぜ大日本帝国に限られなければならないのかも、ろくな説明がない。まさに中学生程度の知能の読者向けの本だが、著者の知能程度もそれに近いのではないかと疑わせる。

著者は、私の大学時代の恩師である。個人的には愛すべき人柄なのだが、如何せん学力がない。英語が読めないから、訳本だけを頼りに論じるので、とんでもない間違いがある*。昔レヴィ=ストロースのbricolageを「プリ(前)コラージュ」と誤読して、「コラージュ」と結びつける民間語源学を展開していたことがある。いまだに『神話学』を読まない(邦訳がないので読めない)でレヴィ=ストロースを語っているのは、いい度胸だ。『裸の人間』(神話学第4部)の話をしたら、「今度、日本語でサマリー作ってよ」といわれたことがある。そうやって本を読んだ顔をしているわけだ。

もとは、彼も経済学と社会学を接合した「ソシオ・エコノミックス」を志していたのだが挫折し、経済学界にいられなくなって東大をやめた。要するに、厳密な論証を要求される学問の世界のルールに耐えられなくて、逃げたのである。いま思えば、こういう「政治経済学」とか「社会経済学」の類いの、ただ既存の学問の間口を広げることが自己目的になったような学問には、もともと何の可能性もなかった。曲がりなりにもアカデミズムの中にいたときは、それなりに抑制があったのだが、このあと自民党の政治家と仲よくなって「保守主義」に染まり、右翼の取り巻きを従えて歩くようになった。私も、飲み屋で彼の取り巻きの右翼に殴られたことがある。

彼をだめにしたのは、マスコミである。特に「朝まで生テレビ」に出はじめてからおかしくなった。まじめに学問をやらなくてもテレビに出てさえいれば、地方から講演の依頼がたくさん来て、大学の授業なんかしているよりずっともうかることを発見したのである(「朝生に出るのをやめると、講演の依頼がてきめんに減るんだよ」とこぼしていたことがある)。講演では、大衆受けする政治の悪口をくり返していればいいから、次第にその調子が文章にも出てくるようになった。テレビのおかげで営業が成り立っているくせに、漫画家と一緒に陳腐な「マスコミ批判」をくり返す、かつての恩師の落ちぶれた姿を見るのは悲しい。

* この「反書評」を読んだ編集者から、「西部さんが語学ができないとは信じられない。よく語源の話をするじゃないですか」といわれたが、これは逆である。語源なんて英和辞典を見れば出ている。これは語学力も専門知識もなくてもペダントリーを開陳できる、お手軽な手段なのである。無内容な話をこういうレトリックで飾る技術だけは、弟子も見習ったようだが、その弟弟子はレトリックも貧弱で、底の浅さが露呈している。

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