数年前まで、「マス・コミュニケーション学会」というのに所属していたことがある。たまに学会に出ると、「カルチュラル・スタディーズ」と銘打った発表がやたらに多いので、何かと思ってのぞいてみると、内容は映画や漫画に小むずかしい理屈をつけただけだった。これは発表者の頭が悪いだけなのかと思って解説書を読んでみたが、何のことはない、全部その手の「文化的雑談」なのだ。
この中心となっているのが、著者も所属する東大の社会情報研究所である。もとは占領軍によって新聞研究所として作られたが、斜陽産業の新聞ばかり評論していても先が見えているので、「社会情報」という意味不明の名前がついた。もとは文学部の3類(社会学・心理学)と一緒になって「社会情報学部」を作ろうと画策したが、文学部に断られたそうだ。それはそうだろう。社会学や心理学には一応、系統的な理論があるが、この種の「マスコミ論」は、だれでも見ているテレビや新聞を評論するだけで、理論も体系もないからだ。
マスコミ学会も、実態はマスコミをやめた老人の同窓会のようなもので、テーマは「知る権利」とか「プライバシー」とか「メディア規制」とか十年一日だ。自分たちは「文化」を担う特別な存在だと思っているらしいが、インターネットの普及でその存在意義もあやしくなってきた。こんな話ばかりでは学問として格好がつかないので、「脱構築」とか「ポスト・コロニアル」とか「ジェンダー」とかいうもっともらしい理屈をつけたのがカルスタだ。しかし、その内容は古くさい左翼の発想で、「テキストにはこう書いてあるが、本当は女性差別をしている」とか「民族差別をしている」とかを「読み解く」だけだ。
こういう「研究」には需要はないが、供給は多い。どこの大学でもリストラの対象になっている語学教師や、学問として先のない社会学など、文学部の落ちこぼれの失業対策である。内容も1970年代にジャック・デリダが米国に輸入されて「脱構築批評」として流行したものの焼き直しで、手口さえ習えばだれでも簡単に論文が書け、テキストを引用すれば分量はいくらでも増やせるところが味噌だ。柄谷行人氏は「頭の悪い奴の論文量産装置」と評していた。