夜郎自大の散文詩

吉本隆明『共同幻想論』角川文庫

著者は、60年安保のころから学生運動の教祖的存在だったが、今や「ばななの父」といったほうが通りがよいだろう。一部の人々にはいまだに「戦後最大の思想家」と崇拝されているが、コムデ・ギャルソンを着て資本主義を礼賛している最近の著者を見ると、人間あまり長生きするのも考えものだなと思ってしまう。

著者はもともと詩人であり、哲学を系統的に学んだわけではないが、それが魅力ともなっている。文章はきわめて洗練されており、「難解」だといわれるが大したことはない。書いた本人もわかっていないことをレトリックで飾っているだけだから、一種の散文詩だと思えばよいのである。本書も「マルクスの経済決定論を否定する独創的な国家論」として評価されたが、国家が「共同幻想」だというのは、まさにマルクスが『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』で論じたテーマである。まあマルクスと同じことを独力で思いついたとすれば大したものだが、学問的な意味はない。

こういう基本的な文献も読まないで、自分の独創と信じて書くところに、著者の不思議な説得力の原因がある。『言語にとって美とは何か』は、ソシュールの言語論を評価した先駆だが、読み方がむちゃくちゃで、理解できていない。「海という言葉は、だれかが昔、海を見て『う』といったからできたのだろう」などという記述がソシュール論と並んで出てくるのは信じがたいが、しゃれと思えば笑える。安原顕氏がフーコーとの往復書簡を企画したら、著者の手紙を読んだフーコーから「何をいっているのかわからない。吉本はヘーゲルをちゃんと読んだのか」という返事がきたそうである。

著者は、ある意味で本居宣長以来の日本の「思想家」の典型である。日本では、学問としての哲学が育たなかったために、文芸評論家や作家と哲学者が未分化で、小林秀雄や亀井勝一郎のような美文家が大思想家と勘違いされるが、学問的な独創性は詩や小説とは違い、考えているだけでは生まれない。これまでの研究を知らないで「独創性」を誇るのは、ただの夜郎自大である。

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