著者は、山形浩生氏と私の論争(?)に割り込んで、「平均賃金は平均生産性で決まる」という当たり前のことを一生懸命「論証」していた。こんな頭の悪いやつがよく助教授なんかやってるなと思ったら、何とマル経だった。本書も「同志」のつもりで山形氏に献本したら、ボロクソにけなされている。この批判は基本的には当たっているが、もっと致命的な間違いがある。タイトルになっている「はだかの王様」というのは、もちろんアンデルセンの有名な童話のことだが、これはマルクスの意味での疎外の例ではありえないのだ。彼の王についての言及としては、『資本論』の次の言葉が有名だ:
この人が王であるのは、ただ他人が彼に対して臣下としてふるまうからでしかない。ところが、彼らは反対に、彼が王だから自分たちは臣下なのだと思うのである。(『資本論』第1巻第1章 注21)マルクスは公刊された著作では「疎外」というヘーゲルの言葉を使っていないが、かりにこれを疎外とよぶとすると、ここで疎外される本源的な主体=実体は臣下であり、王が彼らの従属意識の客体=疎外態である。この王は、もちろん裸ではない。彼は王位という疎外された属性をまとっているが、子供が「彼は王様ではない」と言ったところで、彼の王位は剥奪されない。軍事的に王朝を倒さない限り、王は王であり続ける。つまり日本語で「人間疎外」などというときの通俗的な用語法とは違って、疎外(Entfremdung)という言葉には「偽物」という意味はないのだ。マルクスはこの点に自覚的だったから、初期の草稿にあった(非本来的なというニュアンスを含む)疎外や外化といった言葉をやめ、疎外論の図式そのものを破棄したのである。
ところが最近、「格差社会」とやらで、また通俗的な疎外論が流行し始めている。本書もその流行に乗ろうとしているのだろうが、この手の話はマルクス主義の中でさえ30年以上前に終わった話である。本質と見誤られているものは、実際には人々の願望を投影した幻想にすぎない。それをマルクスは「亡霊的」と表現したのである。もちろんデリダも批判するように、マルクスも人間の本質を労働に求め、疎外の解消される透明な「自由人のアソシエーション」として共産主義のユートピアを描いた。この点でマルクスは本質的にはヘーゲリアンであり、疎外論的な発想を脱却できなかったのだ。
本書は21世紀にもなって、こんな基本的な知識もなしに、60年代の全共闘なみの幼稚な疎外論を振り回すバカ本だ。「みんなの意見」が本来の姿で、それが政府という形で疎外されるというが、その「みんな」って誰のことかね。そういう集計が不可能だという経済学の理論を知らないのだろう。「『資本論』では疎外のことを物象化と呼んでいる」って? 資本論のどこに、物象化という言葉が出てくるのか言ってみろ。Verdinglichungというのはルカーチの造語なのだ。
後半で、疎外論をゲーム理論のcoordination failureにたとえるところまで来ると、バカバカしいのを通り越してお笑いだ。前衛党だけが「パレート優位」な真理を知っていると信じる独善が、社会主義の悲劇を生んだのだ。マル経もここまで落ちたのか、という寒い現実を世に知らしめるネタとしては笑わせてくれる。おまけに、経済学を何も知らない著者が、マル経崩れの「インタゲ論者」と共著で本を書いているのだから爆笑だ。
追記:本書が各方面から酷評されている中で、天下り学者だけが「名著」などとほめている。著者も「濱口先生」のパターナリズムに共感しているようだ。社会主義と官僚機構は相性がいいのだろう。