『春秋』5月号

ハイエクとインターネット――自律分散の思想

『個人主義と経済秩序』(ハイエク全集1-3)春秋社

偶然のスーパーハイウェイ

1990年代前半、光ファイバーなどの通信技術の発達によって「マルチメディア」が実現するという機運が高まった。アメリカ政府は「情報スーパーハイウェイ」の計画を提唱し、各国の政府も電話会社も競って大規模プロジェクトを立ち上げた。同じころ、イリノイ大学のスーパーコンピュータ・センター(NCSA)で「NCSAモザイク」という無料のソフトウェアが開発され、1993年にインターネットで公開された。これは当時始まったホームページを見る「ブラウザ」と呼ばれるソフトウェアだった。  

世界を変えたのは、巨費を投じて行なわれたマルチメディアではなく、大学生マーク・アンドリーセンが時給6ドルのアルバイトで書いたモザイクだった。なぜインターネットは成功し、マルチメディアは失敗したのか――それはインターネットをつくった技術者にもよくわからない「偶然のスーパーハイウェイ」だったのだ。  1992年に死去したフリードリヒ・フォン・ハイエクは、おそらくインターネットを見なかっただろう。しかし彼の有名な1945年の論文「社会における知識の利用」には、インターネットが成功した原因が書かれている。

合理的な経済秩序のもつ独特な性格は、まさに次の事実によって決定される。すなわち我々が利用しなければならない状況についての知識は、集中され、もしくは統合された形で存在することは決してない。[中略]従って社会にとっての経済的な問題は、単に「与えられた」資源をいかに配分するかという問題であるのはない。社会の経済問題はむしろ、社会の構成員の誰かが、個人としてその相対的な重要性を知っている諸目的に対して、彼が知っている資源の最良の利用法をいかにして確保するかということなのである。(本書108ページ)

この文章は、インターネットの「自律分散」の思想をもっとも早い時期に提唱したものだ。社会主義のような集権的な経済システムでは、必要な知識を官僚に集中するので、変化の激しい社会ではその全体像を知ることができない。社会全体に分散した膨大な情報を分散したまま利用するには、情報をもつ個人が自由に意思決定を行うしかないのだ。

知識の分業

これはハイエクが、社会主義をめぐる論争の中で得た確信だった。その中でも、彼自身が「最大の転機」だったと語っているのが、『個人主義と経済秩序』に収められた1937年の論文「経済学と知識」である。  

経済学では、均衡という概念をいろいろな場面で使う。しかし個人や企業の主観的均衡という概念には意味があるが、それは社会全体には適用できない。人々が経験からどのように学んで行動を修正するか、彼らが新しい知識をどうやって得るか、といった具体的なしくみがわかっていなければ、その見通しが一致するかどうかは何ともいえない。完全な知識があれば完全な市場が実現するという同語反復的な「選択の純粋理論」は、こうした条件について何も教えてくれない。  

結局、そういう理想的な状態が実現するかどうかは、社会の中で知識がどう分布し、どう流通するかという「知識の分業」(division of knowledge)に依存する。これはアダム・スミスが発見した分業(division of labor)に劣らず重要である。個人は断片的な知識しかもっていないので、それが市場での相互作用によってどう伝わり、コーディネートされるかが経済効率を決める。この問題をハイエクは、比喩的に「社会の知性」と呼ぶ。

この場合の知識は、価格や数量などの「客観的知識」だけではない。それは市場が整備されれば、ある程度は入手可能だ。問題は、個々の企業がどういう材料とどういう労働者を使ってどういう品質の商品を作っているか、といった(マイケル・ポラニーのいう)「個人的知識」である。  

あまり知られていないことだが、ハイエクは最近、『感覚秩序』(1952)でニューラルネット(神経をモデルにしたコンピュータ)の原理を初めて提唱した科学者として「再発見」されている。脳も社会も、特定の中央集権的な計画なしに進化した自生的秩序だというのが彼の哲学だった。それは単に「与えられた」資源を効率的に配分するといった目標を最大化するのではなく、変化する環境に柔軟に適応できる自由度に最大の特徴があるのだ。この意味で「社会の知性」といういのは、単なる比喩ではなかった。

無知と自由

ハイエクが自由の重要性を強調する背景にあるのは、1930年代から社会主義との闘いの中で得た「設計主義」の危険への確信と、その基礎になっている人間の「無知」から出発して社会を考える思想だ。どうすれば人々の福祉が最大になるか、あるいは自分が幸福になるかさえ、人々はよく知らないからだ。  

もし全知全能の計画当局が永遠の未来を合理的に予想し、世界を正しく導くことができるとすれば、自由は必要ない。この仮定は荒唐無稽にみえるかもしれないが、現代の「合理的期待理論」と呼ばれるマクロ経済学では、明示的にそう仮定するのである。この学派のリーダーであるトマス・サージェントは、あるインタビューで「典型的な合理的期待モデルは、一種の共産主義です。このモデルでは、すべての人々は計量経済学者であり、神と同じモデルを共有しているのです」と語っている。  

パレートやワルラスが社会主義者だったことからもわかるように、新古典派経済学は計画経済の理論なのである。ここでは現実を単純な数学モデルに還元するために、市場経済のもっとも重要な「不完全な知識でも動く」という特長が捨象されている。自由に価値があるのは、新古典派経済学のいうように、それによって「効率的な資源配分」が実現するからではない。人々が神ではない以上、合理的な社会的意思決定を行なうことは不可能だからである。  

自由の意味は、無知な人々が最大の選択肢をもち、いろいろな可能性を試すことができることにある。このようにオプションを広げることによって効率が高まることが多いが、それは目的ではない(社会に目的なんかありえない)。こうした試行錯誤による進化の結果、生き残るのは、環境に適応した個体であって、絶対的な基準でみると「最適」な個体とは限らない。

自生的秩序

インターネットのルールは、法律のように議会で決められるものではなく、違反した場合に処罰する司法権力があるわけでもない。それは世界中に分散する技術者が電子メールを交換する中で生まれる「自生的秩序」だ。  

インターネットをつくったデヴィッド・クラークの「われわれは王も大統領も投票も拒否する。信じるのはラフな合意と動くコードだ」という有名な言葉は、インターネットの「ベスト・エフォート」(最善の努力はするが責任はもたない)の思想をよく表わしている。それは不完全な知識しかないユーザーでもそれなりに動くし、問題があれば後から直すという「進化的」な発想でできている。  

インターネットのルールはRFC(request for comment)と呼ばれる。最終的な決定が「コメントしてください」という名前で出されるのだ。そこには、ルールはつねに未完成で、多くの人々に修正されて発展するという、ハイエクが『法と立法と自由』で主張した慣習法に似た発想がある。  

ハイエクは、実定法的な「テシス」(人工的秩序)よりも、慣習法のような「ノモス」(自生的秩序)として法秩序を構成し、問題があれば徐々に改めればよいとしたが、インターネットの「いい加減」なルールは、ノモスの一種である。これに対して、初期にはテシスの代表である電話会社は強く抵抗したが、インターネットの急速な成長に圧倒され、次世代ネットワーク(NGN)ではインターネット・プロトコルによってネットワークを構成する。

新しい秩序は可能か

インターネットの「無政府性」が、さまざまな問題を引き起こしていることも事実である。膨大な違法情報・有害情報が国境を超えて飛び交い、ウイルスや迷惑メールがネットワークの安全性を脅かしている。また情報の価格は限りなくゼロに近づき、既存の電話会社、新聞社、放送局などのビジネスの見直しを迫っている。これに抵抗して「知的財産権」を強化して既得権を守ろうとする勢力も強い。しかしハイエクは、

これらの分野[特許や著作権など]に対して物質的な物を対象としてきた財産の概念をそのまま機械的に適用することは、独占の伸展に非常に大きな力を貸している。競争を機能させるには、根本的な改革が必要かもしれない。(本書155ページ)
と述べている。財産権は国家権力が恣意的に財産を奪うことを防ぎ、個人の行動の自由を守るための自由権の一種だが、著作権は他人が自分の著作を利用して新しい表現を行なう自由を侵害する権利である。これは表現の自由を保証した近代国家の憲法に反するばかりでなく、知識の利用や発展を妨げることによって、結果的には社会全体の利益も損なうおそれが強い。  

インターネットは著作権を侵害する「巨大なコピーマシン」だが、そのない世界に戻ることは、もはや不可能だ。遅かれ早かれ、すべてのメディアはインターネットに飲み込まれるだろう。世界最大の検索エンジン、グーグルのCEO(最高経営責任者)エリック・シュミットがいうように、ビジネスの世界では「インターネットが負けるほうに賭けるな」というのが鉄則だ。したがって法制度がインターネットに合わせなければならないのであって、その逆ではない。  

インターネットは、かつてトクヴィルがアメリカに発見した、すべての人々が対等な個人としてコミュニケーションを行なう社会をグローバルに拡大した「電子デモクラシー」だ。人々がグローバルに直接むすびつくインターネットは、ハイエクの想像さえ超えた巨大なノモスである。そこからどのような新しい秩序が立ち上がってくるのか、あるいは混沌に陥ってしまうのか、それは彼の思想を検証する壮大な社会実験ともいえよう。

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