2013年 ギャラリー・トーク「イッキ描きの完成へ」概要

於:ギャラリー・ウーゴス南青山

 

私の絵は新しいものではないし、珍しいところもない。

ただ、私自身は絵描きのなかでは珍しい存在である。なぜなら、美はない、だから美術もない、と思っているから。

 

NHKの朝の連続ドラマ『あまちゃん』で、1カ月ぐらい前、震災後の海に夏ばっぱ(あまちゃんの祖母)が潜っている場面で、あまちゃんが「なんで潜ってんだ?」と訊くと、

海からあがりながら、夏ばっぱは言う。

「おもしれぇからに決まってんだろ」

記憶で書いているから正確ではない。

でもそんなような感じ。

 

私の絵もまったく夏ばっぱのおっしゃるとおり。面白いから描いている。

私は裸婦を描くために生きている、と言ってもいい。

特に、裸婦の動きを描きたい。

動きというのは、走っているところとか踊っているところなどもそうなのだけど、それも含めて、私の思う動きというのは、人形ではない生きている人間という意味だ。血の通っている人間。じっとしていても血が動いている。肺も息をしている。心臓も動いている。頭は何か考えている。そういう生身の人間だ。それは骨格と筋肉に連動している。そういう人体を描きたい。若い女性に期待する。恋をして子を産む可能性を秘めた肉体だ。人類の存続を願い、リアルに実行できる可能性に満ちた肢体である。その積極的で現実的な美しさを描きたい。まさにギリシア彫刻である。ギリシア彫刻はそういう意味でも動きをとらえている。私はギリシア彫刻をそのように理解している。

パルテノンの彫刻 大英博物館 高さ135144p

海に行く。バラ園に行く。富士山の麓まで行く。絵を描きに行く。なぜ行くか?

気持ちいいからだ。絵なんてどうでもいい。もちろん絵を描く。3時間も頑張る。

バラ園に3時間もいる人は滅多にいない。いくらバラ好きの人でも3時間はいない。私は行けばいつも3時間ぐらい居座る。だって絵を何枚も描くから知らないうちに時間が経ってしまう。海も富士山も同じ。3時間もいい空気を吸って、ついでに絵も描くのだ。夏の海だったら泳いじゃう。

で、海は広い、富士山はでかい、バラは限りなく美しい。私の暮らしは豊かで富んでいるかも。金は全然ないけどね。

 

美もないし、美術という分野さえ認められません。そんな分野は初めからないのです。

詳しく言うと、もともと美術は宗教の宣伝部だった。宗教を人々にわかりやすく説明するための道具だった。だけど、そういう美術は美術史上もっとも素晴らしい。すなわち、ギリシア彫刻、中国・日本などの仏像、禅宗美術である水墨画、キリスト教美術であるルネサンス絵画。これらは世界最高だ。他にインドの古代彫刻や壁画、アンコールワットの彫刻など世界中の最高美術は宗教に密接に繋がっている。

牧谿(中国南宋時代の禅僧)「遠浦帰帆図」横約100p

           モネ「藤」油彩 キャンバス 横200p 7780歳ぐらい

  ティツィアーノ(ルネサンス油彩画の巨人)「ニンフと牧童」150×187cm 80歳〜88

 

その宗教美術から美だけを抽出して、その美を再現しようとしたって、ちゃちなお遊びになってしまう。

萬鉄五郎も『鉄人アヴァンギャルド』(二玄社)のなかで

「美、美術などという言葉はあまい気がして好かない。定義のしようでどんな意味にもなるにはなるが言葉そのものから来る感じは僕の口には合わない」(p20)

「人間が美を作る考えで出発するなら、つまりそれはセンチメンタルな遊戯だ」(p20)と言っている。

 

では、宗教とは何か?

生きる術である。

 

人は誰でも苦しい。人生は過酷だ。何度も死にたいと思う。

ニーチェの言葉「人間は深淵に架け渡された一条の綱である。渡るも危険、途上にあるも危険、うしろを顧みるも危険。身ぶるいして立ちどまるのも危険。人間において偉大な点は、それが橋であって目的ではないことだ。人間において愛されうる点は、それが過渡であり、没落であることだ」

パスカルの言葉「われわれは渺々(びょうびょう)たる中間の波間に漂い、常に定めなく浮動しつつ、一方の端から他方の端へ押し流されている。われわれはいずれかの端にわが身を繋ぎとめ、安定を得たいと思っても、それは揺らめいて、われわれを離れる。われわれが追いすがろうとしても、それはわれわれの手をのがれ、滑り落ち、永遠に逃げ去る。何ものもわれわれのためにとどまってはくれない。これはわれわれにとっては自然な状態であるが、しかしわれわれの願うところとはまったく反対の状態である。われわれは、固い地盤と、究極の揺るぎない根柢を得て、その上に、無限に高くそびえ立つ一つの塔を築きたいと熱望している。だが、われわれのすべての基礎はひび割れ、大地は裂けて深淵となる」(パンセL199

仏教では四苦八苦と言って、人間の悲惨さを教えている。

まったく死にたくなるよ。

正解である。死ぬのが一番手っ取り早い。気が楽だ。

 

だけど、われわれは生きる宿命を背負っている。理屈なんかじゃない。とにかく生きなければならない。それが生物の本能だ。自然の摂理だ。

何が何でも生きる。

そこで、絵や彫刻や音楽が欲しくなる。

ニーチェには以下のような言葉もある。

「芸術━芸術こそ至上である。それは生きることを可能ならしめる偉大なもの、生への偉大な誘惑者、生への大きな刺激である」

また、かのドガもこう言っている。

「イタリアからスペインまで、ギリシアから日本まで、絵の描き方にそれほど違ったところがあるわけではない。どこでも、大切なことは生命をその本質的な特殊性において要約することだ」

       ドガ「髪を拭く女」横53p 5458

生きる以上は元気に生きよう、ということだと思う。

で、はじめ否定した美も捨てたもんじゃない、という結論に達する。ま、「美」なんていう抽象概念より、「絵」とはっきり言っちゃう。

では、どういう絵が望ましいのか?

絵は結局造形である。100年前にモーリスドニが言った「一枚の絵は、戦う馬であるとか、裸の女であるとか、あるいはこれらのエピソードである以前に、何よりもまず、ある秩序のもとに集められた色彩によっておおわれた一つの平らな面であることを想起せよ」なのである。

で、その絵具を塗り込めた平面がどんなだったらいいのかという問題になってくる。

その答えを模索して世界中の筆達者が血道をあげて研鑽した。100年間格闘した。ピカソなんかその最先鋒かもしれない。

 

ピカソの晩年の油彩画は短時間に仕上げた大巨匠の叫びだ。「大巨匠」というのは、描きに描いた人生ということ。その人生のうえにさらに筆を重ね、思いを込め、もっと自在に伸び伸びと、修練を重ねた90歳でなければ到達しえない筆の跡のことである。

もちろんそれはピカソの行動だ。「行(ぎょう)」だ。理屈ではない。どんな思索を重ねた哲人でもグゥの音もでない、筆の人のパンチである。

          

ピカソ「大きな顔」194.5×129cm 88歳  富岡鉄斎「梅華書屋図」縦146p87

 

こういう筆の伝統はわが東洋には何千年も続いている。

 

        遺偈(禅僧が死ぬ間際に心境を書する):左、癡兀大慧/右、圓爾

               白隠「七福神寿船」横116p 80歳近くの作(83歳で逝去)

そういう造形の厚み、深み、苦しみながらも喜びをともなった修練の先の先にある絵具の叫びをたっぷりと味わいたい。

できれば、私もその域に達したい。

まだまだである。とても完成には及ばない。ただ、そのレールは見えている。迷いはない。今までのやり方でいい。あとは苦しみ楽しみながら継続するだけである。

 

最終結論。

絵の出来なんてどうだっていい。

美術なんてない。

わざとらしく作る絵は最悪。

絵は、描きたい物を描きたいようにじゃんじゃん描けばいい。

じゃんじゃん描いていればましな絵もできる。

われわれの目的は作品ではなく描く行為そのものである。

描く行為そのもののなかに喜びがある。集中して描いているときは時間も空間も飛んでいる。それが永遠てことだと思う。「幸福のとき」ということだ。

 

もっとも重大なことは行動である。もちろん、他人に迷惑をかけない、一人の行動。思索ではない。やらなければ始まらない、のだ。ここに掲載した図版のほとんどは80歳を超えて90歳になろうという人たちの作品だ。

私はまだ63歳だ。今レールは見えたということ。これからこの路線を突っ走る(予定)。「イッキ描きの完成へ」は「イッキ描きの出発点」だったかもしれない。

この美術の迷路からの開放は昨年の南フランス経験がとてもプラスになっている、と思う。