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DVDの可能性と現状をめぐって

堀 潤之

映画批評とテクノロジー

 ヴィデオ・テクノロジーの出現と普及が、一群の映画作家たちに不可逆的な断絶を刻んだだけでなく、映画をめぐる言説のあり方をも変貌させたことは、今や 旧聞に属すると言ってよい。ヴィデオが可能にする反復的な視聴の可能性は、映画館の暗闇における作品との一回的な遭遇の不自由さが逆説的にもたらしていた 強度を著しく減じさせた一方で、記憶の遺漏や細部の不完全さを原理的には生じ得ない事態とした(今なおそれがしばしば生じていることは、別の問題系——映 画批評の倫理?——に属する)。新たなテクノロジーの効用はそれにとどまらない。フィルムの配給網が必然的に抱え込まざるを得ない地理的・時代的な制約を いとも簡単に乗り越えるヴィデオ・カセットによる作品流通は、マルローをもじれば「想像の映画館」とでも呼ぶべき事態を生じさせ、ヴィデオ化されている限 り、あらゆる地域、あらゆる時代の映画作品の受容を原理的には可能ならしめた。以上のような視聴環境の変化が、細部の詳細な読解に基づく訓詁学的なフィル ム・スタディーズや、世界映画史の網羅的な踏破への夢想を呼び寄せるのは、当然の帰結であると言える。

 DVDというメディアは、ヴィデオが拓いた可能性を引き継ぐとともに、全く新たな作品視聴を実現させうる潜在性に充ちている。ヴィデオが依然として時間 継起的な視聴に基礎を置かざるを得ず、往々にして映画館での体験を縮小再生産するに過ぎない貧弱なメディアであるのに対して、単線的な時間の流れから映画 作品を解き放ち、ランダム・アクセスとしての視聴を技術的に可能にするDVDは、新たな角度からの作品の読解を誘発する装置として機能する。たとえば、パ ターン認識や映像検索の技術がさらに向上すれば、ある登場人物やある形象の出現するショットやシーンの断片化・カタログ化が自動化されるかもしれない。そ うなれば、かつてヴィデオの普及に伴ってスクリーンの体験を単に追体験させるだけの語り部が不必要になったのと同様、安易なテーマ批評は変容を被らざるを 得ないだろう。現在流通しているDVDソフトでは、予告編やメイキングが収録されていたり、チャプター化が施されていたりするにとどまり、単にヴィデオの 「劣化しない代替品」に過ぎない場合がほとんどであるにしても、メディアとしてのDVDの潜在性は、映画批評のあり方にさらなる変質を促しているのであ る。

DV時代のゴダール

 九八年に全8章が完成したゴダールのヴィデオ作品『映画史』は、用いられている技法と、引用されるあらゆるジャンルの芸術作品の選択の両者において、む しろ伝統的で古典的な印象さえ与える。サイレント期の画面処理を思い起こさせるディゾルヴやアイリス、ごく基本的なものにとどまるヴィデオ技法——スー パーインポーズ、合成、キャプション、スポッティングなど——によって、ヌーヴェル・ヴァーグ以前の西洋の映画、偉大なヨーロッパ文学、十九世紀までの絵 画、クラシック音楽とその正統的な後継者たちを無限に積み上げるこの作品は、二十一世紀に開かれているとはとても思えぬ時代錯誤性に貫かれている。

 しかし、ゴダールが批評家時代から、芸術作品の受容に際して、その作品の全体ではなく、あくまでも強度に充ちた断片的な細部の瞬間的な理解に拘泥してい たことを思い出そう。この批評的身振りの延長線上に、六〇年代の彼のフィルムにおける、円滑な物語進行を妨げる断片化、さらにはそれを作品構成の根幹に据 えた『映画史』が位置する。直線的な連関をなるべく感知させず、逆に素材の断片性を際だたせるような仕方で無数の断片群を配置する『映画史』は、観客一人 一人をそれらの断片群の新たなアレンジメントの形成に誘っているという点で、その旧態依然とした主題と技法にもかかわらず、DV時代のランダム・アクセス 的な視聴を要求しているのである。『映画史』DVD版は、数千におよぶ引用の断片を注釈とともにインデックス化し、それが容易ならしめる断片的な視聴を ユーザーに促すことで、元の作品の潜在性を引き出すことに成功しているように思われる。膨大なメタテクストを内包するこのソフトは、現時点において技術 的・予算的に実現可能な範囲内でDVDの潜在力をフルに活用することで、ありうるべきDVDの姿を素描してもいる。

映画の延命とDVD

 映画は今や齢百年を越え、全盛期を過ぎて久しい。ハリウッド映画が大仕掛けで一過性のアトラクションという要素をますます強めている一方で、「映画は死 んだ」という意識とともに、古典的フィルムの正典化にこの芸術の延命策が見出されてもいる。フィルムの収集・保存意識の高まりや、名作とされるフィルムの 校訂・修復(たとえば、最近では独仏共同のテレビ局アルテによる『メトロポリス』などのサイレント映画の修復)は、映画を文化遺産たらしめて延命させよう とする考えを、意識的であれ無意識的であれ、背景にしている。古典的な、あるいは将来的に古典となりうる現代のフィルムをDVD化することも、このような 延命策の一つに数えられよう。その時、映画作品は必然的に、大衆娯楽産業に属する取り替え可能な消耗品(日本ではこの通念が今なお支配的であるように思わ れる)ではなく、オーセンティックで高級な文化商品として位置づけられることになる。

 DVDがそのような商品として成立するためには、いくつかクリアーしておくべき唯物論的・倫理的なハードルがある。まず、テレシネの素材としてどのよう なプリントを使うのかという原盤の選択の問題がある。オリジナルネガに由来しないキズが目立つ劣化した素材や、監督の意図に反するトリミング版などを排除 して、オリジナルに最も近いプリントを用意する——見たところ単純なこの課題は、実は「オリジナルとは何か?」という厄介な問題系を浮上させる。元々集団 的で越境的な製作物であったフィルムは、同タイトルで複数のヴァージョン(別編集版や他言語版)が存在するケースが少なくない。その場合、何がオリジナル かを認定するためには、単に「作者の意図」といった仮構に頼るだけでなく、より総合的な観点からの考証・校訂が必要であろう。また、復元作業もそれが目指 しているよりよい状態(オリジナル?)をめぐる実証的かつ原理的な考察なしには、フィルムの恣意的な改変、場合によっては改竄になりかねない。劣化するこ とが映画芸術の原理的な存在条件であるならば、復元すべきでないという意見すらありうるだろう。小規模な復元作業とも言えるDVD化の際のキズ取りは、そ のようなデリケートな問題に触れる。プリントの選択からテレシネの過程を経て色味の調整やキズ取りの程度まで、オーサリングの技術的かつ芸術的側面を統括 する責任者を置くべきである。

 次に、DVD化する映画作品をめぐるパラテクストを充実させる必要がある。実際、オリジナル予告編やフィルム製作に付随する短篇(メイキングなど)、監 督インタヴューや映画学者による解説などを収録する方針は、たとえば米クライテリオンや独仏のアルテがリリースするDVDに積極的に取り入れられている。 パラテクスト群の充実は、反復的・断片的な視聴が可能なDVDの特性と相俟って、作品をより詳細に、より綿密に読解することを容易にする。こうした試み が、死せる芸術の死体解剖にも似た身振りに陥るか、作品の新たな側面を明らかにすることに寄与するかは、もっぱらパラテクスト群の質によることは言うまで もない。

 「作家主義」的な路線のDVDを次々とリリースしている紀伊國屋書店は、以上の二つの基準を満たす数少ない良心的なメーカーの一つである。ゴダール (『映画史』、『新ドイツ零年』、『ヌーヴェルヴァーグ』)、ジャン・ユスターシュ(『ママと娼婦』、『僕の小さな恋人たち』)、エリック・ロメール (「四季の物語」シリーズ)、ストローブ=ユイレ(『アンナ・マグダレーナ・バッハの年代記』)、ブレッソン(『ラルジャン』)などの世界初DVD化タイ トルを多く含む紀伊國屋のラインナップは、丁寧なディスク化とパラテクストの充実によっても特筆すべきものがある。パラテクストの点では、たとえば『バッ ハ』は映画評論家(細川晋・梅園房良)のみならず音楽評論家(磯山雅・渡邊順生)による詳細な解説を、『ラルジャン』は本邦初訳の監督インタヴューを、 『ヌーヴェルヴァーグ』は細川晋による詳細な解説と、ゴダールと村上龍の対談(ディスクに収録)を、『新ドイツ零年』は詳細な注釈付きの採録シナリオ(拙 訳による)を小冊子の形で含んでいる。それ以上に貴重なのは、ディスク化に際して払われている念入りな注意である。『ラルジャン』、『新ドイツ零年』、 『ヌーヴェルヴァーグ』などは配給会社提供の原盤ではなくニュープリントが用いられ、可能な限りキズの除去がなされているため、画像のクオリティはきわめ て高い。また、『バッハ』は完全フレームでテレシネされているため、四方のフレームが切れていた旧LD版では見えなかった部分が見える。このような人目に 触れにくいところでの丁寧な仕事ぶりにわれわれはより敏感になるべきではないか? そのような丹念な作業抜きには、映画はもはや生き延びることができない ところまで来ているのである。

(『図書新聞』2611号、2002年10月12日)

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