ジャン=リュック・ナンシー『映画の明らかさ』書評(上田和彦訳、松籟社、2004年)
堀 潤之
九〇年代初頭にアッバス・キアロスタミが登場したとき、新しいイラン映画という枠を超えて、単純に映画という次元で何かただならぬ事態が起こっているこ とに驚愕した人は少なくなかったはずだ。八〇年代に二巻本の大著『シネマ』を著したジル・ドゥルーズや、九〇年代以降、精力的に映画を論じているジャッ ク・ランシエールと違って、これまであまり映画を論じてこなかったジャン=リュック・ナンシーも、『そして人生は続く』(九二)をはじめとするキアロスタ ミの映画に自らの哲学と共振する思想を見出し、「彼とともに、ひとつの世界、世界の一文化(…)が様子を変える」とさえ断じている。
本書はキアロスタミを論じた二つの文章と、キアロスタミとの対談で構成されている。執筆時期が一番早い、『そして人生は続く』についての短いテクスト は、作品の具体的なディテールに言及しながら、本書の基本的概念を提示している。『そして人生は続く』は、旧作『友だちのうちはどこ?』(八八)の撮影場 所が、九〇年にイラン北部を襲った大地震の被災地となったため、映画に出演した子供たちの安否を尋ねて、地震の五日後に監督がかつてのロケ地を訪れたとい う実話を、地震の何ヶ月も後にフィクション的要素を織り交ぜつつ再構成した作品だが、ナンシーは、よく指摘されるドキュメンタリー/フィクションの境界の 撹乱とはむしろ別の部分に着目する。
彼によれば、この作品は二つの境域のうえで同時に展開している。第一の「運動の境域」は、「動性をそなえた表象」ではなく「現前の本質としての動性」の ことであり、本作品では具体的には、被災地で主人公の車や登場人物たちが絶え間なく道路を切り開いていく動きと結びつけられる。もう一つの「イメージへと 移行する境域」は、とくに「視線」一般のことであり、しかも本作品では同一化することのできる「視点」がない、すなわち映像が何らかの主体の投影でもファ ンタスムでもないことが指摘される。逆に言えば、イメージは完成した状態で与えられているのではなく、存在するものが自らのイメージを呈示するその「正し い距離」に近づかねばならないとされる(ナンシーにおけるハイデガー経由の「イメージ」論については、訳者による明晰な解説が参考になる)。
五年後に書かれたもう一つの文章は、他のキアロスタミ作品も含めて、より包括的な議論を展開している。ここでも、「運動」および「視線」や「イメージ」 の問題系が掘り下げられているが、それ以外の論点も多岐に渡っており、たとえばキアロスタミの映像を、成熟した具象芸術というペルシア的な極と、一神教に おける形象化の禁止というイスラム的な極が、ユダヤ・ギリシア的極性と交差したところに位置づけるなどの指摘も興味深い。全体的に哲学としても、映画論と しても、キアロスタミ論としても、記述が断片的に過ぎ、中途半端な印象は拭いきれないが、重要なアイデアの萌芽が散りばめられていることは確かである。
他方、ナンシーとキアロスタミの対話は、ペルシアの細密画やコーランからワイエスの絵画まであらゆる芸術が縦横無尽に論じられる非常に密度の濃いものに なっており、キアロスタミがきっちり構築された物語映画から離れて、観客の介入が可能であるような「未完成で不完全な映画」を企て、そのために「イメージ が持つ呼びかける力」に訴えているという思考過程がよく見て取れる。
