ロバート・スタム/ロバート・バーゴイン/サンディ・フリッタマン=ルイス『映画記号論入門』(丸山修/エグリントンみか/深谷公宣/森野聡子訳、松柏社、2006年)書評
堀 潤之
いわゆる「フィルム・スタディーズ」が欧米の大学に定着してから数十年を経た現在、人文科学の諸潮流と絡み合いながら複雑な展開を遂げてきた映画 理論の全貌を見渡すのは容易なことではない。そんな中、本書は「記号論」導入以降の映画理論の流れを手際よく概説することに成功している。原書が刊行され たのが1992年ということもあり、90年以降のアカデミズムを席巻したカルチュラル・スタディーズやポストコロニアル・スタディーズにはまったく触れら れていないが(後者に関しては、編者のスタムがエラ・ショハットと執筆した良書『無思慮なヨーロッパ中心主義』の邦訳が待たれる)、逆に言えば、両者の ベースにもなっている映画理論のハードコアが詳しく紹介されている。
第1章でソシュールとロシア・フォルマリズムという二大源流を中心に「記号論の諸起源」を振り返った後、第2章は映画研究に記号論を導 入した最大の功績者と言えるクリスチャン・メッツを中心に「映画記号論」の展開をたどっている。メッツの提起する概念がどのようなコンテクストで生み出さ れ、また後続する論者たちからどのような生産的な批判を受けてきたかということにも目配りがなされているため、すでに何冊も邦訳があるメッツの著作になじ んでいる読者にとっても一読の価値がある。
共著者のバーゴインによる続く第3章「映画物語論」は、ロシア・フォルマリズムからプロップのプロット分析を経てジュネットのナラトロ ジーに至る物語理論がどのように映画の分析に応用されてきたか、そしてその際に、とりわけ「語り手」の地位をめぐって「映画的語り」に固有の難問がどう提 起されてきたのかを、簡潔かつ精密にまとめている。特に、映画的語り手の概念を退け、物語理解を認知的・知覚的プロセスに遡って考察するボードウェルらの 立場と、語り手の概念が不可欠であるとして、この理論的装置を映画に合わせて精緻に鍛え上げていくシーモア・チャットマンやバーゴイン自身の立場を対比さ せながら初期の物語論以降の展開をまとめた箇所は、アカデミックなジャーゴンの散りばめられたある意味では些末な研究領域への最良のサーヴェイであると言 える。
他方、フロイトとラカンによる精神分析という土壌から発展した映画理論、具体的には映画装置論、欲望の主体としての観客論、フェミニズ ム理論などを紹介する第4章(フリッタマン=ルイスによる)は、緻密ではあれ、細かな議論に立ち入りすぎており、この領域での理論的展開の主軸を描き出せ ているとは言い難い。
スタムの独自性が存分に発揮されているのは、「リアリズムから間テクスト性」と題された第5章である。ここでスタムはバザン流の素朴な リアリズムからテクスト(バルト)へ、さらには間テクスト性(バフチン=クリステヴァ)へという流れをたどりつつ、自著『映画と文学における反省性』の議 論を引き継いで、ブレヒト的な「反省性の政治学」の展開と限界を指摘している。さらに、ポストモダニズムがともすれば陥りがちな「中身のないフォルマリズ ム」と、その反動としての「決定論的社会学主義」をともに乗り越える手だてとして、バフチンの「超言語学」を導入するスタムならではの視点は、今なお有効 性を保っていると言えるだろう。
なお、本書は充実した索引によりキーワード集としても利用価値が高い。映画研究の基礎文献として充実した一冊である。
