『はなればなれに』/『東風』:ゴダール幻の二作品
堀 潤之
偉大な芸術家の二つの類型として、確固たる作風を築きあげてそれを彫琢していく芸術家と、みずからが積み重ねてきたものを惜しげもなく破棄し ながら新たな段階に進んでいく芸術家がいるとすれば、ジャン=リュック・ゴダールはまぎれもなく後者の類型に属している。ヌーヴェル・ヴァーグ最盛期の一 九六四年に撮られたゴダールの長篇第七作『はなればなれに』と、六九年の『東風』を並べてみると、わずか五年の間にゴダールが遂げた変貌の大きさにあらた めて驚かされる。
『はなればなれに』の土台になっているのは、ゴダールの好むアメリカ犯罪小説の風土である。二人のちぐはぐな親友、貴公子然としたフランツ (サミー・フレイ)と粗暴で短気なアルチュール(クロード・ブラッスール)は、北欧出身の少女オディール(アンナ・カリーナ)と英語学校で知り合い、彼女 が身を寄せているパリ郊外の叔母の屋敷に眠っているらしい大金を強奪するかなりいい加減な計画を練り、実行に移す(ちなみに当然、失敗する)。その間に、 オディールの恋の対象は、一目惚れの相手アルチュールから心優しいフランツに移っていく。
ところで、その本筋とは半ば無関係に、三人はカフェで一分間の沈黙ゲームをしたり、ダンスを踊ったり、ルーヴル美術館を駆け抜けたりといった 他愛のない遊戯を繰り広げるのだが、それが何という生の輝きを放っていることだろう! この悲喜劇の真価は、肌にじかに突き刺さるような痛ましさを感じさ せもするそうした無償の運動感にこそある。
ゴダールは生々しい運動感をフィルムに定着するすべをこれほどまでに身につけていたが、六八年の五月革命で頂点に達する新左翼運動の影響も受 けつつ急速に政治化していく過程で、しだいに物語や映像への批判的態度を強め、それまでの路線をあっさり棄ててしまう。何よりも、かつてハリウッドのスタ ジオで半ば流れ作業的に作られていた映画作品に「作家」の刻印を見出す批評を展開し、みずからも個性的な作家として世に認められていたゴダールが、「作 家」の概念自体をブルジョワ的で反動的だとして棄ててしまうのだ。そして、新左翼の活動家であるジャン=ピエール・ゴランらと組んで、二十年代ソ連の記録 映画作家の名から採った「ジガ・ヴェルトフ集団」を作り、『東風』をはじめとするきわめて過激な政治映画を撮るのである。
『東風』には通常の意味での物語はない。しかも、映像と音声はほとんど非同期的に進行する。映像では、帝国主義者やスターリン主義に立脚する 修正主義的な共産党に反旗を翻す急進派の毛沢東主義者(東風)の姿が、騎兵隊の将官やインディアンなど西部劇の登場人物を借りて寓話的に語られる。そこに は、アメリカが他の国々に押しつける西部劇の紋切り型の映像への批判も含まれている。音声では、ブルジョワジー、スターリン主義者、毛沢東主義者らが、延 々と政治論議を繰り広げる。
とはいえ、『東風』の重要性は毛沢東主義を喧伝したところにあるのではなく、映像と音そのものが政治的に組織されているところにある。つま り、ある映像や音、およびそれらの連合関係がどういうイデオロギー的出自を持っているか、どういう立場によって可能になっているかを常に再審に付してい る。だからこそ『東風』は、現実的な分析を捨象して世界的に連帯するというような革命的ロマン主義とは無縁の地点で、映像と音を真に唯物論的に分析しえて いるのである。
ジガ・ヴェルトフ集団は七三年に自然消滅する。その後のゴダールがさらにどのような変貌を遂げたかは、また別の話である。
●『はなればなれに』は東京・銀座「銀座テアト ルシネマ」にてロードショー上映中。『東風』は東 京・渋谷「シネセゾン渋谷」にて2月17日からレイトショー。
