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GODARD


ゴダール Short Biography

堀 潤之

二つの国を往復して過ごした
恵まれた少年時代

 1930年12月3日、開業医の父ポール=ジャンと母オディールの第二子としてパリの裕福なプロテスタント家庭に生まれたジャン=リュック・ゴダール は、何ひとつ不自由のない幸福な少年時代を過ごした。母方の祖父ジュリアン・モノーはパリ=オランダ銀行の設立者で、詩人ポール・ヴァレリーと付きあいの ある人物であり、レマン湖のフランス側に広大な地所を持っていた。ジャン=リュックの誕生後ほどなくして一家はレマン湖畔のスイス側にある町ニヨンに移 り、彼はスイスとフランスを行き来しながら、母からは読書全般への興味を、父からはドイツ・ロマン派への関心を植え付けられる。世間の荒波から守られてい た彼にとっては、第二次世界大戦もさほど重大な出来事ではなかった。家族はどちらかといえば親ヴィシー派であり、ゴダールの唯一の「レジスタンス」は、ブ ルターニュ地方にヴァカンスに行ったとき、棒つきキャンディーを舐めながら司令部を守るドイツ兵にときおり舌を出してみせることだったからだ。'90年代 以降の作品は、少年時代の想い出と強く結びついたレマン湖畔をしばしば舞台とし、彼が同時代には遭遇しそこなったホロコーストやレジスタンスのモチーフが 頻出する。

批評家、ボヘミアン時代を経て
センセーショナルにデビュー

 ゴダールが映画に興味を抱くのは、パリでの高等教育を終え、ソルボンヌで民俗学を学びながらアンリ・ラングロワの主催するシネマテークに通い出した '40年代末のことだ。それまではエンジニアか幾何学者になろうと思っていたという。同じ頃、のちに「ヌーヴェル・ヴァーグ」の主要な監督になるトリュ フォー、リヴェット、ロメール、シャブロルらに出会い、『カイエ・デュ・シネマ』などに映画批評を書き始める。しかしその間、仕送りを断たれて時には盗み に頼るボヘミアン的生活を強いられ、両親は離婚、母親にスイスのTV局の仕事を斡旋されるが再び盗みを働いて監獄に入れられ、さらに父親によって精神病院 にさえ送られてしまう。だがその後、ダム工事現場で稼いだお金で製作した処女短篇『コンクリート作戦』('54)で監督デビューし、続けて『コケティッ シュな女』('55)を撮り、翌年には二十世紀フォックスの宣伝係として働きながら、数年にわたって中断していた批評活動を再開する。そして『男の子の名 前はみんなパトリックっていうの』('57)、『水の話』(1958)といった軽妙洒脱な短篇を経て、アメリカのギャング映画を換骨奪胎した型破りな『勝 手にしやがれ』('59)で衝撃的な長篇デビューを飾る。

栄光のカリーナ時代
そして政治の季節

 '60年代のゴダールは矢継ぎ早に刺激的な作品を世に送り出し、ヌーヴェル・ヴァーグの一員としての名声を確立する。第2作『小さな兵隊』('60)は アルジェリア戦争を批判したという理由で3年間の上映禁止処分を受けるものの、主演女優のアンナ・カリーナとは翌年に結婚することになった('64年に離 婚)。グリフィスとリリアン・ギッシュ以来、映画史にあまた存在した監督と女優のカップルの例に漏れず、このカップルも多くの傑作を生みだした。幸福感あ ふれるミュージカル・コメディ『女は女である』(1961)をはじめとして、『女と男のいる舗道』('62)、『はなればなれに』('64)、『アルファ ヴィル』('65)、『気狂いピエロ('65)などはいずれも忘れがたい傑作である。同時期に作られた寓話的な戦争映画『カラビニエ』('62)、ブリ ジッド・バルドー主演の国際大作『軽蔑』('63)、マーシャ・メリル主演の『恋人のいる時間』('64)なども劣らず興味深い作品だ。

 ところで、確固たる作風を築き上げてそれを彫琢していく芸術家と、みずからが積み重ねてきたものを惜しげもなく破棄しながら新たな段階に進んでいく芸術 家がいるとすれば、ゴダールはまぎれもなく後者の類型に属している。ジャン=ピエール・レオ主演の『男性・女性』('66)や、マリラ・ヴラディ主演の 『彼女について私が知っている二、三の事柄』('66)を経て、68年5月革命を予告したと言われるアンヌ・ヴィアゼムスキー(同年にゴダールの妻とな る)主演の『中国女』('67)や、『ウィークエンド』('67)あたりから、ゴダールは物語性の解体と政治性の導入への傾斜を強めていく。そして、みず からが確立した「ゴダール」という作家のブランドと資本家の帝国主義的支配に奉仕する商業映画を捨て去り、5月革命のさなかには匿名のアジビラ映画を作 り、新左翼の活動家ジャン=ピエール・ゴランらとジガ・ヴェルトフ集団を結成し、『東風』('69)、『イタリアにおける闘争』('69)といった急進的 な作品を世界各地で集団製作する。68年を挟んだ数年のあいだに進行したゴダールの変貌ぶりは、今なお、驚嘆に値する。

隠遁生活の'70年代から
商業映画へのカムバックまで

 しかしゴダールの過激な実験が大衆的な理解を得られるはずもなく、交通事故での入院を経て久々に作った商業映画『万事快調』(1972)も、イヴ・モン タンとジェーン・フォンダという大スターを起用したにもかかわらず、興行的には失敗に終わる。以後、'79年まで、ゴダールは新たな同志アンヌ=マリー・ ミエヴィルとグルノーブルに設立した工房ソニマージュで半ば隠遁生活を送る。とはいえ、2人は非生産的だったわけではなく、パレスチナを取り上げた『ヒア &ゼア・こことよそ』('75)をはじめ、『勝手にしやがれ』のリメイクとも言われた『パート2』('75)、『うまくいってる?』('76)、テレビ作 品『6×2』('76)、『二人の子供のフランス漫遊記』('77-78)などの重要な実験作を生み出している。その間、グルノーブルからスイスのレマン 湖畔の町ロールに自宅兼工房を移し、2人は現在もそこに住んでいる。

 79年、ゴダールは「第二の処女作」とも言われる『勝手に逃げろ/人生』で商業映画にカムバックするとともに、前年にモントリオールで行なった映画史を めぐる連続講義(邦訳『ゴダール/映画史』筑摩書房刊)を皮切りに、のちに4時間半におよぶヴィデオ大作『映画史』('88-98)に結実する思考を深め 始める。

'80〜'90年代の傑作群と
究極の大作『映画史』以後

 '80年代のゴダールは、『パッション』('82)、『カルメンという名の女』('83)、『右側に気をつけろ』('86)、『リア王』('87)など の前人未踏の映像表現に達した映画作品と並行して、『フレディ・ビュアシュへの手紙』('81)、『ソフト&ハード』('85)などのヴィデオ作品を撮り 続け、映画とヴィデオという2つのメディアを自在に往復する。『ヌーヴェルヴァーグ』('90)以降の作品では、ますます精緻を極めた音響設計がなされる とともに、文学や絵画からの引用が目立ち、失われた文化的・個人的記憶へのノスタルジーとメランコリーが強く押し出されるようになる。『新ドイツ零年』 ('91)はドイツをめぐるゴダールの記憶をコラージュしたものだし、『ゴダールの決別』('93)、『JLG/自画像』('94)、ヴィデオ作品『フラ ンス映画の2×50年』('95)、『フォーエヴァー・モーツァルト』('96)などの多くの台詞は、彼が子供のころから親しんできた文学作品の引用であ る。その行き着く果てが映画のみならず、文学、絵画、写真、音楽からの無数の引用からなる『映画史』であることは言うまでもない。20世紀の歴史と映画 は、この大作とともに終わりを告げたと言える。『愛の世紀』(2001)から始まるゴダールの21世紀は、私たちを映像表現のさらなる極致にまで導くもの になるに違いない。

『エル・ジャポン』、2002年5月号)

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