蓮實重彦『ゴダール革命』(筑摩書房、2005年)書評
堀 潤之
ゴダールをめぐる饒舌は相変わらずとどまるところを知らない。とりわけ『映画史』完成以後の英仏におけるゴダール論の活況は、「ゴダール産業」と 揶揄したくなるほどだ。数多の論者が、たとえばブルデュー風の社会学やら(エスクナジ)、文化史・思想史的な背景やら(マッケイブ)、美学全般にわたる該 博な知識やら(オーモン)を駆使して、人騒がせで孤独なゴダールの映画を何とか馴致し、しかつめらしく、あるいはしたり顔で、ゴダールへの連帯や擁護の合 図を送ろうとしているのに対して、『ゴダール革命』の著者は、擁護でも連帯でも、かといって否定でも敵視でもなく、第二、第三のゴダールを現出させるため にこそ、「映画はもはやゴダールなど必要としていないと断言する勇気」を持つという「革命」の身振りを志向しなければならないと説く(「ゴダール革命に向 けて」)。
しかし、その途方もない企ての「失敗に成功」することを目論む著者は、きわめて直截にゴダールの核心に迫る。85年に書かれた記念碑的な「破局的スロー モーション」(長らく入手しがたかったこの文章が手軽に読めるようになったことは喜ばしい)は、処女作『勝手にしやがれ』から第二の処女作『勝手に逃げろ /人生』以降までの作品群が、安易な時代区分を超えたところで、ほとんど同語反復に近い断言命題とその組み合わせによって成り立っているさまを、まさにそ の断言命題とその変奏によって軽やかに暴き出す。
これと双璧をなす批評と言ってよい2002年の「ゴダールの「孤独」」は、「間に合わないこと」、「待てないこと」、「与えないこと」という三つの命題 を軸に、ゴダールの、とりわけ『映画史』の根本的な発想法を鋭利に剔出する。なかでも、「性急さ」の擁護と顕揚として撮られているこの作品がゴダール自身 による無責任な「断定」で溢れかえっているなかで、1Aの末尾に登場する「アウシュヴィッツ」と「エリザベス・テイラー」をめぐる物議を醸した断章が例外 的に念入りな条件法構文で語られている点に、スピルバーグに対抗するためのジャーナリスティックな戯れを見て取る主張は、生半可な論理性を超越しているが ゆえに、いわばゴダール的な「強度」を孕んでいる。人はここで、蓮実重彦その人もまた、断言の人だったことを思い出さずにはいない。
この二つの批評がゴダールの発想を大摑みにとらえているのに対して、作品論は、『勝手に逃げろ/人生』冒頭付近の二頭の馬や、『新ドイツ零年』で疾走す る二匹のイヌといった、人が見過ごしてしまったかもしれない細部に拘泥する。むろん、その細部が些末なものであるどころか、その周囲にすぐれて核心的な問 いが旋回する突起点であることは、たとえば『フォーエヴァー・モーツァルト』でパリに戻った主人公の映画作家がひとりビールを飲む短いカットに、ゴダール らしからぬ「説話論的な配慮」が働いていることを指摘し、そこに彼の「変貌」を見出していることからも明らかだろう。
ともあれ、特段の理論的道具立てを敢えて持たず、素手でゴダールの核心に迫る著者の批評は、ゴダールについて何かを明らかにするというよりも、彼の作品 そのものにも似た獰猛さでもって読者を襲う。『ゴダール革命』を読み終えるとき、われわれはゴダールの作品を前にしたときと同様、「どうすればよいのか」 という焦燥を伴った問いをおのれに発さざるを得なくなるに違いない。
