『映画史』—映画的イマージュと歴史の痕跡
堀 潤之
ヌーヴェル・ヴァーグ誕生の風土を準備した映画批評家アンドレ・バザンは、論文「写真的イマージュの存在論」において、写真・映画のイマージュを「トリ ノの聖骸布」に譬えている。つまり、拷問のあげく磔刑に処されたイエスを埋葬のときに包んだ屍衣に、聖なる身体の全身像がそのまま刻印されたのとちょうど 同じように、写真や映画の非中枢的なイマージュには現実がそのままうつしとられる、と。
バザンによれば、遠近法が発明されたクワトロチェント以降、写実的なイリュージョン空間の構築への欲求に取り憑かれてきた西洋絵画は、人の手を介さずに 完全なリアリズムを実現する写真の登場によって、その欲求からいわば解放されたわけだが(バザンはこのことを同論文で「遠近法は西洋絵画の原罪だった。ニ エプスとリュミエールはその贖い主だった」とカトリック的な語彙を用いて言い表し、同じ箇所をゴダールも3B「新たな波」で引用している)、イマージュが 生み出されるときの無媒介性を表すその「人の手を介さずに【アケイロポイエートス】」という言葉こそ、様々な伝説で「聖骸布」や「ヴェロニカの布」(十字 架を背負わされてゴルゴタの丘に向かうイエスの血と汗を拭うべく一人の女が差し出し、聖なる顔がそのまま刻印されたとされる布)に対して用いられる常套句 にほかならない。
このようなイマージュへの現実の無媒介的な刻印というバザン的な認識に、ゴダールは、バザンとの精神的な父子関係で結ばれていたトリュフォー以上に忠実 である。例えば、全部で4×2章からなる『映画史』の1A「すべての歴史」でゴダールが、アリフレックスの「軽量カメラが(中略)捉えるものは/スクリー ン上にではなく/屍衣の上に/映し出されることだろう」と述べるとき、念頭に置かれているのは、聖骸布、およびそれをめぐるバザンの考察であろう。
また、1B「ただ一つの歴史」で、キング・ヴィダーの『白昼の決闘』(1948)のラストシーンとともに繰り返し画面に登場する「イマージュは復活の時 に到来するだろう」という聖パウロに由来する文句も、映画的イマージュ=聖骸布の等式を思い浮かべれば、イエスが復活し、屍衣から抜け出した後にはじめ て、そこに痕跡として残されたイマージュが流通する、と解釈することができる。
このような考えを、映画の表象システムによる「媒介【ミディアム】」の政治性を度外視した、荒唐無稽な「直接性」の神話だとして嗤うのは易しい。しか し、「刻印」や「型取り」によるポイエーシスには、見る主体と見られる客体との距離を前提にしたミメーシス的な創造とはまた別の可能性があるはずだ。
写真的イマージュが現実のある「瞬間」を定着するのに対して、映画的イマージュは現実のある「持続」を保存する。バザンが必ずしも峻別していないこの差 異を考慮に入れるなら、映画は、歴史の痕跡を貯蔵する特権的な場となるはずだ。そのことに意識的なゴダールは、4B「徴【しるし】は至る所に」で、「没落 した事物に対する陰鬱な忠誠」という言葉を皮切りに、ベル・エポック期の神秘主義的な詩人シャルル・ペギーが歴史の女神の口を借りて著した『クリオ』(山 崎庸一郎抄訳『歴史との対話』中央出版社、1977年)から幾つもの文章を引いている。
ペギーは、ベルクソニスムを知的背景に据えつつ、つくられつつある不可逆的な現実の「持続」を無視して、つくられたもの、現実の凝固した断片(=没落し た事物)を組み合わせることで歴史を再構成しうると考える歴史家の態度を批判する(ゴダールは例えば「一秒の歴史を作るのに/私には一日かかります/一分 の歴史を作るのに/私には一年かかります」という歴史の再構成の不可能性を簡潔に言い表した箇所を引いている)。言い換えれば、老いてしまったことに対し て老いつつあること、財産目録【アンヴァンテール】に対して創意【アンヴァンシオン】が上位に置かれている。しかし、歴史の女神たる老いたクリオは、「財 産目録」的な歴史の再構成に「陰鬱な忠誠」を誓うしかなかった。それに対して、クリオが遂に成し得なかったことにいともたやすく成功した神話的な女性とし てペギーが挙げるのは、誰あろうヴェロニカなのだ。バザンは映画的イマージュを聖骸布に譬え、ペギーは歴史の特権的な証人としてヴェロニカを挙げる。ゴ ダールは両者を繋ぎ合わせて、映画と歴史を認識論的に接合してみせるのだ(ゴダールと20世紀の歴史との出会い損ないについては、『キネマ旬報』2000年5月下旬号の拙稿を参照)。
ベルクソン的な「生の哲学」に依拠する『クリオ』のペギーにとって、現実が聖なるものだったのと同様、バザンにとっても、聖骸布たる映画的イマージュ は、神秘を孕むものだった。だからこそ、バザンはオーソン・ウェルズやウィリアム・ワイラーを評価する過程で、ディープ・フォーカスや長回しといった、神 秘を損なうことのない技法を、一画面内の情報量の増加によって観客の能動的な解釈を誘発する契機として顕揚し、同じ前提から、「ある出来事の本質が、二つ 以上の行為の要素の同時的な呈示に依存するときは、モンタージュは禁じられる」というヘブライズム的な厳格さのただよう禁忌のテーゼを打ち立てたのだ。
一方で、聖骸布としてのイマージュに神秘をみるバザン的傾向を継承するゴダールは、他方でバザンに反し、一貫してモンタージュの実験を続けてきた(ゴダールにとっての「美しき悩み」たるモンタージュ一般については、『スタジオ・ボイス』2000年5月号の拙稿を 参照)。『映画史』の4Bでゴダールは、「アンドレ・バザンによって/禁じられたモンタージュ」という文字を画面に呈示しつつ、神秘の分割を禁じるその掟 にことさらに挑むがごとく、自らの手が二つのフィルム片を結びつけるさまを映し出している。一方に、現実の抽象としてではなく、現実の直接的・物理的な刻 印としての映画=歴史というバザン=ペギー的な概念。けれどもその刻印は、実のところ、神秘を孕むどころか、左右とネガ/ポジが反転した虚像に過ぎないの かもしれない。そこで他方に、バザン的なイマージュ論からすれば涜神的と思えるほどに強調された「モンタージュ」の所作によって、擬餌に惑わされることな く、映像は映像でしかないことを知らしめる「手」。『映画史』における歴史の痕跡は、映画=歴史の滑らかで神秘的な持続への信仰と、同語反復によるその信 仰の否認という振幅の烈しさにうちに、煌めいているのである。
●『映画史』は5月13日よりユーロスペースで公開中。また、『映画史』からの引用は、劇場用プログラム『ゴダール 映画史 テクスト』(愛育社、2000年5月発行)所載の採録テクスト(堀潤之・橋本一径訳)による。
【付記】
初出媒体の『媒』は、デザイナーの東幸央氏が発行しているフリー・ペーパーである。ここにはテキスト・データのみ採録する。初出時には、東氏と編集者の郡淳一郎氏にお世話になった。記して感謝する。
