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GODARD


『ヒア&ゼア・こことよそ』、『うまくいってる?』、『勝手に逃げろ/人生』、『右側に気をつけろ』評

堀 潤之

「政治的に政治映画を作る」ことを信条としたジガ・ヴェルトフ集団の解消の後、ゴダールは新たな同志アンヌ=マリ・ミエヴィルとソニマージュ工房を 立ち上げる。今回上映される4作品は、ソニマージュの方法論の発展を見渡すためには必見の作品だ。ゴダール/ミエヴィルは70年代後半から80年代末まで のこの時期に、少しずつテーマをずらしながら、つねに映画製作の新たなフロンティアを切り開いてきた。政治色の濃い作品から、広い意味での「情報伝達」を めぐる省察へ、さらに劇映画への鮮烈な復帰を経て、映像と音の分離・接合をめぐるより洗練された形式的な実験へ。この十余年には、絶え間なく変貌を繰り返 す映画作家の最もダイナミックな企ての数々が凝縮されているのである。

『ヒア&ゼア・こことよそ』(1975)

 パレスチナ革命の闘士たちを写した映像素材が、ミエヴィルとの共同作業によって、「情報伝達」をめぐる省察に生まれ変わる。本作の焦点は、まさにその過 程にある。ゴダールとジャン=ピエール・ゴランを中核とするジガ・ヴェルトフ集団による映画製作が、世界各地の階級闘争の分析に基づく政治参加を目指して いたとするなら、数年間の試行錯誤を経てようやく出来上がったこの作品は、「ここ」(TVを見るフランスの家族)と「よそ」(パレスチナ革命の映像)のあ いだに広がる溝、言い換えれば接続詞の「と」を思考する。映像による情報伝達の回路そのものを考察の対象とすることで、ジガ・ヴェルトフ集団期の手法が反 省され、80年代以降につながる「映像」をめぐる探究が開始されるのである。

 この路線変更には、ミエヴィルの貢献が欠かせなかったはずだ。実際、映画の後半で、撮影時を回顧するゴダールのコメントに対して、彼女は鋭い批判を投げ かける。少女に抵抗詩を朗読させるとき、なぜその演劇的形態について語らないのか? また、若くて美しい女性を選ぶとき、なぜその選択について一言も語ら ないのか? このようにミエヴィルは、映像に写されているものをナイーブに受け取るのではなく、映像を作る側の無意識的なイデオロギーに注意を促す。「見 るすべを学ぶこと」とはそのことだ。マスメディアの映像を受容する際、この認識は今なお重要である。

『うまくいってる?』(1976)

 日本初公開となる本作では、『ヒア&ゼア』で着手された問題系がさらなる展開を見せる。舞台は、ある共産党系の新聞社。そこで労働者の教化のために、組 合活動家のジャーナリストが、新聞製作についてのヴィデオ・ルポルタージュを製作しようとしている。しかし、彼のやり方は、ミエヴィル演じる女性秘書オ デットによって、徹底的に批判にさらされる。『ヒア&ゼア』でゴダールのコメントに潜むイデオロギーが暴き出されたように、ここでも主にルポルタージュ製 作者がみずからの立場性を問い直さないことのイデオロギー性が批判される。さらに、ポルトガル革命とフランスの労働争議の報道写真が詳細に分析されること で、メディアにおける情報伝達の問題がより一般的に考察されることになる。

 もう一つ見逃せないのは、純然たるエッセー映画だった前作とは異なり、本作がゆるやかな物語を再び語っていることだ。しかも、60年代のような、逸脱に 充ちた単線的な物語ではなく、二つの系列が並行して語られる。紛糾するヴィデオ製作の顛末に加えて、情報化社会を自堕落に生きる製作者の息子とその恋人の 生活が断片的に提示されるのだ。本作ではまだ試行錯誤の段階にとどまるこの語りの手法は、80年代を通じて洗練され、究極的には『映画史』における無数の 断片の万華鏡的な反響にまで至る。以前の路線を引き継ぎながら、後年の展開の萌芽を含む、過渡期的な作品である。

『勝手に逃げろ/人生』(1979)

 70年代の過激な実験を経て、ゴダールは本作とともに鮮やかに劇映画に復帰する。唐突に挿入される痙攣的なスローモーション、乱暴に断ち切られる音楽、 映像と音楽の微妙なズレ。80年代のソニマージュの実践を予告するこれらの手法は、驚きと快楽に充ちた視聴覚体験を約束してくれる。

 三人の主要登場人物の運動が四つの「楽章」で展開される物語は、きわめて単純だ。《想像界》では、TVの仕事をやめたドゥニーズが、都会から田舎へ移り 住む。《恐れ》では、TV演出家ポール・ゴダールが、ドゥニーズを失うことを、また都会を離れることを恐れている。彼は80年代のゴダール作品に頻出する 軟弱な男の原型だ。《商売》では、田舎から都会へ出てきたイザベルが売春に身を投じる。それぞれリズムの異なるこれら三つの系列は、《音楽》で結び合わさ れる。ドゥニーズと分かれたポールは、イザベルの妹の売春婦が乗る車にひかれて(スローモーションで)死に、たまたま居合わせた彼の元妻子は無関心を装っ て平然とその場を通り過ぎるのだ。

 この死は、ゴダールの処女長篇『勝手にしやがれ』のラストで、女に密告されて背中に銃弾を受け、瀕死の疾走をするジャン=ポール・ベルモンドを否応なく 思い起こさせる。時に「第二の処女作」とも呼ばれる本作は、実際、処女作にしかあり得ないはずのあの繊細な瑞々しさに溢れた奇蹟的な作品である。

『右側に気をつけろ』(1989)

 十余年を経てスクリーンに甦る本作は、80年代のソニマージュの実験の到達点であると同時に、90年代の展開を先取りしている作品だ。『勝手に逃げろ/ 人生』の語りの手法がさらに洗練されて、互いに関連の薄い三つの物語の系列が断片化されて提示される。ゴダールの演じる「白痴」と呼ばれる映画監督(『軽 蔑』から『JLG/自画像』まで頻出するテーマ)、ロックバンド〈レ・リタ・ミツコ〉の録音風景(『ワン・プラス・ワン』の反復)、自分を異星人ではない かと疑う「個人」(ゴダールの一連の奇怪な登場人物に連なるキャラクター)。こうした要素は、それまでのゴダール作品でおなじみのものだ。にもかかわら ず、それらがシャッフルされて、圧倒的な速度で展開されるとき、今まさに新しい何かが生み出されつつあるかのような錯覚に陥らざるを得ないのだ。

 とはいえ、新しい要素もある。「人間」と呼ばれる人物に全編にわたってかぶせらるナレーションがそれだ。実は、生や死、創造をめぐるその断章は、ほとん どすべてオーストリアの作家ヘルマン・ブロッホの『ウェルギリウスの死』からの抜粋であり(ちなみに、『映画史』の2Bでも長く引用される)、90年代に 再び顕著になるゴダールの引用癖がすでに始まっているのだ。自らを、そして映画史を反復しながら、つねに変貌してやまないこの映画作家の歩みを、ぜひ映画 館で追体験したい。(堀潤之)

(『プレミア日本版』、2003年4月号)

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