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レフ・マノヴィッチ「リアリティ・メディア──DV、特殊効果、ウェブカム」 解題

堀 潤之

 この論文は、Lev Manovich, ‘Old Media as New Media: Cinema’, in Dan Harries (ed.), The New Media Book, London: British Film Institute, 2002, p.209-218を訳出したものである。表題については、著者からの要請に従い、「リアリティ・メディア:DV、特殊効果、ウェブカム」とした。

 レフ・マノヴィッチは、ニューメディアの理論家・批評家・アーティストであり、現在、カリフォルニア大学サンディエゴ校の視覚芸術学科の准教授として ニューメディアの芸術と理論を講じている。彼の名を一躍高らしめたのは、2001年に出版された約四百頁に及ぶ大著『ニューメディアの言語』であろう。い わゆる「ニューメディア」の新しさを無闇に言祝いだり、芸術におけるデジタル化のもたらす諸帰結の一部だけを喧伝したりするのではなく、コンピュータをは じめとする各種デジタル機器やインターネットがすでに大衆レベルで一般化していた2001年の時点から、「ニューメディア」の美学的な諸相を冷静に、また 体系的に論じた本書は、理論家・実作者双方の激賞でもって迎えられ、すでにイタリア語、韓国語、中国語に翻訳されている。

 マノヴィッチは、大まかに言って従来の芸術とコンピュータが交叉する地点を指し示す概念である「ニューメディア」を論じるのに相応しい履歴の持ち主である(1)。 モスクワ生まれのマノヴィッチは、すでに一九七五年から、古典的なデッサンのレッスンを受けると同時に(彼は画家を目指していた)、高校でコンピュータ・ サイエンスを学んでいた。二年間の課程で一度もコンピュータを目にすることなく、ノートにALGOLでプログラムを書き、教師の添削を受けるという授業 だったらしい。ともあれ、七〇年代のコンピュータ・サイエンスが、滑らかな影の付いた3Dオブジェクトをいかに描画するかという課題に取り組んでいたこと を考え合わせると、マノヴィッチが期せずして選択したコンピュータとデッサンの組み合わせは、いかにも徴候的である。

 マノヴィッチは1981年にニューヨークに移り、1984年からコンピュータ・グラフィックスの分野で、アニメーター、デザイナー、プログラマーとして 仕事を始める。彼が働いていた会社は、映画やテレビのために3Dアニメーションを制作する会社で、CGを使った先駆的な映画『トロン』(1982)にも関 わっていたという。マノヴィッチは、メインフレーム上で原始的な幾何学的形態を組み合わせて3D映像を描画していく過程で、まだ十分に発展していないコン ピュータの可能性に対する確信を深めたに違いない。なお、彼はその頃から、アーティストとしてもCG作品を作り始めていたようである。

 その後、マノヴィッチは1988年にニューヨーク大学で認知科学の修士号を取り、続いてロチェスター大学で美術史、文学理論、映画理論、カルチュラル・ スタディーズを学び、1993年にコンピュータ・メディアの起源を二〇年代の前衛芸術と関連づけた「構成主義から仮想現実に至る視覚の工学」で同大学から 博士号を取得する。こうして、コンピュータによるCG制作の実践的な経験に加えて広範な学術的知識を身につけたマノヴィッチは、以後、優れた着想に基づく 論文を次々に発表し、それらを基にして2001年に『ニューメディアの言語』を上梓することになる。

 『ニューメディアの言語』は、ニューメディアを扱った文章にありがちのいたずらな未来予測を避けて、徹底して「現在の理論」たらんとしている書物であ る。マノヴィッチは、文化のあらゆる局面でコンピュータ化が目に見えて進行し、ニューメディアの揺籃期と位置づけられる1990年代を、ちょうど百年前の 「ニューメディア」たる映画が誕生したばかりの1890年代(あるいは、古典的な話法が成立しつつあった1910年代)に類似した状況にあると考える。独 立したメディアとしてのアイデンティティを確立する以前の映画が、先行する十九世紀のさまざまな文化形態(各種の視覚装置や、ミュージック・ホールなど) とのキマイラ的な混淆状態にあったのと同様に、1990年代のニューメディアは依然として、先行するさまざまな文化形態と渾然一体になっている。その状況 は、十数年たってニューメディアが独自のアイデンティティを持ち始める頃には、忘れ去られてしまうかもしれない。そこで、過去とのつながりがまだ明瞭に見 て取れる現在の地点から、「ニューメディアの言語」をより広範な視覚文化の歴史に位置づけることで、その系譜学を試みてみよう、というのがマノヴィッチの 大まかな目論見である。

 この浩瀚な書物の全貌を紹介するのは到底不可能なので、ここではいくつかの重要なポイントを指摘するにとどめたい。まず、「ニューメディア」とは何か(2)?  一般的には、「ニューメディア」は、インターネット、ウェブサイト、マルチメディア、コンピュータ・ゲーム、CD‐ROM、DVD、仮想現実など、流通 や展示の局面でコンピュータを用いる文化的産物の総称とされている。それに対して、マノヴィッチは「ニューメディア」を、十九世紀前半以来のコンピュータ 計算と各種メディア・テクノロジー(写真、映画、レコードなど)の二つの歴史が収斂する場とみなす。その地点において、既存のメディアの情報は、デジタル データとしてコンピュータで操作可能なものとなる。そのとき、各種メディアは「ニューメディア」になるのである。逆に言えば、「ニューメディア」とは、従 来の諸メディアがコンピュータ化を経た段階を指す、一種のメタ的な概念であるということになる。

 そのように捉えられた「ニューメディア」の原理を、マノヴィッチは五点に要約している。
(1)まず、数字による表象(numerical representation)。最初からコンピュータで作られようと、アナログデータから変換されようと、ニューメディアの産物はデジタルデータから 成っている。
(2)モジュール性(modularity)。ニューメディアの産物は、それぞれに独立した小規模なモジュールの組み合わせによって成り立ってい る。これはたとえば、ウェブサイトが小さなパーツの集合体であることを考えれば分かりやすい。
(3)この二つから、ニューメディアにおける多くの操作の自動化 (automation)が可能になる。フォトショップなどにおける映像制作の過程では、すでに多くの操作が自動化されているし、貯蔵されているデータの 検索過程における自動化もさまざまに試みられている。
(4)最初の二つの原理から生じるもう一つの帰結は、可変性(variability)である。ニューメ ディアの産物においては、モジュールを入れ替えることによって、多くの別ヴァージョンを容易に生成できる。カスタマイズ化されたウェブサイト、ウェブサイ トのアップデート、バナー広告、スケールの変更(地図の縮尺の選択、アイコンの自動生成、文書の自動要約)、インタラクティヴ性による選択的な物語生成な ど、広い意味での可変性を利用した例は枚挙にいとまがない。
(5)最後に、マノヴィッチがトランスコーディング(transcoding)と呼ぶ事態がある。 コンピュータ化されたメディアは、一方で人間に了解可能な表象を提示している。しかし、他方でそれらはすべてコンピュータのデータであり、コンピュータ特 有のデータ構造に従っている。この「文化の層」と「コンピュータの層」は互いに影響しあう。一例を挙げれば、データベースは元々、コンピュータにおける データ処理の方式だったが、今では新たな文化形態になっているという。

 以上のような原理的な定義を提示するマノヴィッチは、一般にニューメディア独自のものとされているいくつかの特性が、必ずしも新しいものではないことを 指摘する。たとえば、マルチメディアに関して言えば、映画もすでに映像と音と文章を組み合わせたメディアだったし、他にも歴史的な先行物は多くあった。ラ ンダム・アクセスは、十九世紀の前‐映画的な視覚装置の一般的な特性だった。インタラクティヴ性に関しても、多くのモダニズムの芸術作品は、作品との心理 的なインタラクションを要請していた。したがって、それらは、ニューメディアにおいて特に顕著に観察される特性ではあれ、以前のメディアと断絶を画するよ うな原理的な特性ではない、と結論づけられる。

 今回訳出した論文は、一方にデジタル特殊効果をふんだんに用いたハリウッド大作があり、他方にドグマ95などによるデジタルヴィデオを用いたドキュメン タリー・タッチの作品があるという近年の映画における二つの大きな流れを、メリエスとリュミエール兄弟にまで遡って整理して、それらが映画史において必ず しも新しくないとした上で、記憶メディアに貯蔵された莫大な量の情報と、それにアクセスするためのソフトウェアから成る「データベース映画」の可能性を示 唆している。徒に新しさを喧伝するのではなく、映画史の豊かな歴史において何がすでに行われていたかを確認した上で、真の新しさを示唆するマノヴィッチの 系譜学的な手つきは、本論文でも明瞭に見て取れるだろう。

 マノヴィッチは、『ニューメディアの言語』においても、コンピュータ時代の新たな「象徴形式」であるデータベースを詳細に論じている(3)。 彼によれば、一般にニューメディアの産物は、CD‐ROMにせよウェブサイトにせよ、データベースとそれにアクセスするためのインターフェースから構成さ れている。その観点からすれば、古典的な小説や映画は、インターフェースが一つしか提供されず、決まった仕方でしかデータベースにアクセスできないよう な、ある特殊な形態であることになる。記号学の用語を用いて言い換えれば、古典的なナラティヴ映画が範列的要素(パラディグム)を抑圧して一通りの連辞的 要素(サンタグム)だけを観客に提示していたとするなら、ニューメディアの作品ではむしろ範列的要素がユーザに提供されて、ユーザはそこから好きなように 連辞的要素を紡ぐことができるようになる。本文中で触れられているような、巨大なデータベースからリアルタイムでショットが生成されていく「データベース 映画」はいまだ完全な形では存在していないが、ジガ・ヴェルトフ、ピーター・グリーナウェイ、ジャン=リュック・ゴダールなどの映像作品にはそれに繋がる 理念的要素が潜在しているという。

 最後に、アーティストでもあるマノヴィッチが、ICCの展覧会「FUTURE CINEMA——来るべき時代の映像表現に向けて」(2003年12月12日〜2004年2月29日)にも出品した《ソフト・シネマ》(2002)に触れておく必要があるだろう(4)。 これは、ベルリンや東京であらかじめ撮影された膨大なヴィデオ・クリップ(映像のデータベース)を、映像の内容(場所、人物の存在など)や形式的な属性 (コントラスト、カラー、カメラの動きなど)をパラメータとするアルゴリズムに従って、スクリーン内の複数のウィンドウに半自動的に展開するソフトウェア である(ただし、ICCには、より物語的要素の濃い別ヴァージョン《地球特派員——ソフト・シネマ最新版》が出品された)。必ずしも魅力的であるとは言い がたい作品ではあるが、データベースとインターフェースの二層構造から成る「データベース映画」のありうべき姿を示した作品として、興味深い試みと言える だろう。



(1)以下の伝記的な事実については、マノヴィッチのホームページ(http://www.manovich.net)、およびLev Manovich, The Language of New Media, MIT Press, 2001, p.3-4を参照。 BACK

(2)以下の記述に関しては、第一章「ニューメディアとは何か?」(Ibid., p.18-61)を参照。 BACK

(3)「データベース」の節(Ibid., p.218-243)を参照。 BACK
(4)《ソフト・シネマ》に関しては、ZKMに出品されたときに作られた小冊子(Soft Cinema, ZKM, 2002)を参照。 BACK

(『InterCommunication』、NTT出版、50号、Autumn 2004)

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