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グラハム・ワインブレン「物語の流れの海の中で」 解題

堀 潤之

 この論文は、Grahame Weinbren, ‘In the Ocean of Streams of Story’, Millennium Film Journal, No. 28, Spring 1995, pp. 15-30を訳出したものである。一九七八年に創刊されたこの雑誌は、アヴァンギャルド系の実験映画やヴィデオ作品の批評・理論誌として出発し、エイ ミー・トービンのような映画批評家、ノエル・キャロル、トム・ガニング、アン・カプラン、ロバート・スタムといった映画研究者、さらにはスタン・ブラッ ケージ、ホリス・フランプトン、飯村隆彦、マルコム・レ・グライスらをはじめとする多くの実験映画作家の論考を掲載してきた。近年は、「インタラクティ ヴィティ」特集の組まれている本号のように、積極的にニュー・メディア関連の記事も載せるようになっている(なお、本論文も含めて、この雑誌の多くの記事 は、http://mfj-online.org/で読むことができる)。

 グラハム・ワインブレンは1947年生まれのイギリス人で、長らくニューヨークを活動拠点にしているアーティストである。二〇年以上にわたって Millennium Film Journalを編集してきたワ インブレンは、インタラクティヴな映像作品の分野では草分け的な存在である。1973年から実験的な短編映画作品を作って いたワインブレンは、本論文でも言及されている《エールキング》(ロベルタ・フリードマンとの共作、1983-86)、および《ソナタ》 (1991/93)で、インタラクティヴ映画のパイオニアの一人として知られるようになった。ワインブレンはその後、同じくインタラクティヴィティを軸に したインスタ レーションとして、《マーチI/II》(1995/97)、およびICCビエンナーレ’99にも出品された《フレームス》を制作している(これらの作品の 概 要は、アーティストのホームページhttp://www.grahameweinbren.net/で見ることができる)。

 本論文でのヒッチコックへの言及からも窺えるように、ワインブレンは平均的なメディア・アーティストと比べると、古典的な映画へのこだわりをより強く持っており、本人が言うとおり、「気質としては映画作家」であると言える(1)。映画というメディアの非インタラクティヴであるがゆえの魅惑を知悉したうえで、映画的な物語にインタラクティヴなインターフェースを接ぎ木するという、ある意味では矛盾した挙措にこそ、このアーティストのおもしろみがあるのではないだろうか。

 観客が作品に何らかの形で参加することを意味する「インタラクティヴィティ」の概念は、メディア・アートの文脈で、九〇年代初頭に一般に認知されるよう になったが、現在ではカテゴリーとしての有用性を失いつつあるようにみえる。一口に「インタラクティヴィティ」と言っても、それが包含するインターフェー スは、単純なクリック型やメニュー型から、タッチスクリーンを経て、観客の行動認識や音声認識まで、広範囲にわたっている。さらに、インタラクティヴなイ ンターフェースを用いた作品のコンセプトは、到底、一括りにすることができないほど多岐に渡っている。メディア・アートの多くの作品が、何らかの形でイン タラクティヴィティを採用するに至っている今となっては、ことさらに一つの技術的なインターフェースを作品分類・解釈の切り口にする必然性が薄れているの である。インターフェースの新しさがそれ自体で新たな作品概念を提示すると信じられていた時代はとうに過ぎ去っている。むしろ、現在では、インタラクティ ヴィティの使用・不使用にかかわらず、内容本位でメディア・アートを腑分けすることが求められている。

 また、ニュー・メディアによって可能になったことの一つとして、インタラクティヴィティを挙げることに反対する論者も多い。たとえば、レフ・マノヴィッ チによれば、「インタラクティヴィティ」は、アイヴァン・サザーランドの「スケッチパッド」(1963)以来のコンピュータのヒューマン・インターフェー スの文脈ではごく当たり前の基本的機能にすぎず、またより広い文化的コンテクストにおいても、とりわけモダン・アートの作品は観客の心的な関わり合いを要 請する「インタラクティヴ」なものだった。そのような高度で自由なインタラクションに比べると、ハイパーリンクを基礎とする現在のインタラクティヴ・メ ディアでは、「私たちはあらかじめプログラム化された、客観的に存在する諸々の連想をたどることを求められている」にすぎない(2)。 ドゥルーズの用語法にならって言い換えれば、観客は単に「可能的なものの実在化」を体験することしかできず、「潜在的なものの現実化」の領域には到底、達 することができないのである。それを部分的にではあれ実現するためには、マノヴィッチ自身が《ソフト・シネマ》(2002)で試みているように、インタラ クティヴィティが提供する選択肢の数を極限まで拡張した、一種の「データベース映画」を志向する必要があるだろう。ただし、「データベース映画」といえど も結局は作者の用意した広大な領域内を観客が自由にさまようだけで、インタラクティヴ映画とのあいだには本性の差異ではなく程度の差異しかないと言いうる のだが、それはまた別の話である。

 以上のような、「インタラクティヴィティ」という概念の諸限界にもかかわらず、ワインブレンの論考は、狭義の「インタラクティヴ映画」の美学的な可能性 を汲み尽くした一つの例として、現時点から振り返ってみても興味深い。1987年にMITで〈インタラクティヴ・シネマ・グループ〉を設立したグロリアン ナ・ダヴェンポートが、いわば工学的な観点から、産学連携をも視野に入れつつ、この芸術形態の薔薇色の可能性を世界的に唱道しているのに対して、ワインブ レンはそのような派手な未来予測を避けて、美学的な観点から、地味に、だが着実に、インタラクティヴな物語をめぐる啓発的な議論を展開している。特に、フ ロイトによる夢の解釈と、人間精神の活動の仕方から引き出された二つのモデルを、インタラクティヴな物語の理想型として捉え直す議論は、本論文の白眉であ ろう。

 ワインブレンの作品の最大の特徴は、それがあくまでも映画的な物語性(の残骸)を保ち続けているところにある。たとえば《ソナタ》は、嫉妬にかられて妻 を殺す『クロイツェル・ソナタ』の主人公の物語と、ホロフェルネスを斬首する寡婦ユデトの物語が同時並行し、それに〈狼男〉の悪夢が間歇的に登場する仕掛 けになっているが、物語の複数のプロットは、観客によるインタラクションの有無にかかわらず、ある程度自動的に進行する。ただ、それらの複数の〈物語の流 れ〉をどのように「モンタージュ」するかということ、言い換えれば、複数の流れを有する「物語空間」をどのようなルートで進んでいくかということが、タッ チスクリーンを介して観客の手に委ねられる。観客の意思とは無関係に否応なく時間が進行していく映画というメディアの不自由さゆえの魅力を保ちつつ、映画 にとって最重要の要素である「モンタージュ」を(不十分な形ではあれ)観客に明け渡すという、ハイブリッドな戦略が採られているのだ。この試みは、逆に言 えば、インタラクティヴ作品に映画的快楽を取り戻す試みとも言える。その点で、インタラクティヴ作品にありがちな、ゲームブック的な分岐構造とは、良くも 悪くも一線を画している。

 この戦略によって可能になるのが、ワインブレンの言う「仮定法的な精神状態」である。観客は今、ここで目前にしている物語の背後に、別の可能性が潜んで いることを知っている。だが、時間が否応なく流れていくため、観客はそれらの可能性をみすみす逃してしまうしかない。そこで、観客はあり得たかもしれない 潜在的な物語の進行をつねに意識させられるという「仮定法」的な状態に置かれることになる。一般的な映画(特にサスペンス映画)でも、〈体験される時間〉 はある程度、伸縮自在に操作できるかもしれないが、インタラクティヴ映画だけが、映像の叙法を、いわば直説法から仮定法に変えることができる。ワインブレ ンの目論見は、簡単に言えばそういうことだろう。実作品でそのヴィジョンが実現されているかどうかは疑問の余地なしとしないが、映像の叙法を変えるという 発想は、理論的可能性として興味深いものと言えよう。

 最後に、ワインブレンのもう一つの主要な論考「ランダム・アクセス・ルール」にも簡単に触れておこう(3)。 この論文で、ワインブレンは、いわゆる「デジタル革命」に対する態度を明らかにしている。彼によれば、映像製作過程のデジタル化は、確かに特殊効果の部門 で前代未聞の映像を生み出したが、それは程度の差異であって、本性の差異ではない。「デジタル革命」がもたらした最大の帰結は、むしろ観客をノンリニアか つノン・シークェンシャルな視聴に導くデータへのランダム・アクセスであるという。「デジタル革命」が目に見えて進行する十年以上前から、レーザー・ヴィ デオ・ディスクというアナログ媒体を駆使して、画像データベースのある地点から別の地点に瞬時にランダム・アクセスすることが必要不可欠なインタラクティ ヴ映画の実作に携わってきたワインブレンにとっては、当然の見解であると言えるだろう。

 なお、ワインブレンは2003年に自作《エール・キング》を、単独のコンピュータで作動するようにエミュレートしており、主にその過程から生まれた考察 を加筆した本論文の改訂版を書いている(Marsha Kinder and Tara McPherson (eds), Interactive Frictions, University of California Press, 2005に収録予定)。「アナログ時代」に作られた旧ヴァージョンでは、映像はいくつかのヴィデオディスクに保存されており、特殊なソフトウェアによっ て、切り替え装置を動かし、データにアクセスして、スクリーン上に動画を提示していたのに対して、新ヴァージョンでは、全画像データがエンコードされて ハードディスクに保存されており、JAVAで書かれたソフトウェアが、旧ソースコードを一行一行エミュレートして実行していく。旧ヴァージョンはプレイ ヤーの反応の「遅れ」をあらかじめ見込んで設計されていたため、皮肉なことに、実行速度が飛躍的に上がった新ヴァージョンでは動きが速すぎて、観客のイン タラクションによる部分と、元々自動的に展開する部分の区別が付かなくなってしまい、ソフトウェア的に「遅れ」を再導入する羽目になったという。オール ド・メディアの「きめ」や「アウラ」がニュー・メディアによってきれいに除去されてしまうことの是非を考えさせるようなエピソードである。



(1)Grahame Weinbren, ‘Random Access Rules’, in Thomas Elsaesser and Kay Hoffman (eds), Cinema Futures: Cain, Abel or Cable?, Amsterdam University Press, 1998, p. 234. BACK

(2)Lev Manovich, The Language of New Media, MIT Press, 2001, p. 61. BACK

(3)Weinbren, ‘Random Access Rules’, art.cit. BACK

(『InterCommunication』、NTT出版、51号、Winter 2005)

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