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『キンスキー、我が最愛の敵』:誇大妄想狂、怪優を撮る

堀 潤之

 一度見たら忘れがたい常軌を逸した男ばかりを演じる不世出の怪優クラウス・キンスキー。物静かながら内なる狂気を秘めたニュー・ジャーマン・シネマの監督ヴェルナー・ヘルツォーク。あまりに強烈な個性と個性が火花を散らすとき、一体、何が起こるのか?

 このコンビはこれまで、『アギーレ・神の怒り』(72年)や『フィッツカラルド』(82年)など五本の気狂いじみた怪作を生み出してきた。新作『キンス キー、我が最愛の敵』では、ヘルツォークが自らその軌跡を振り返り、九一年に没したキンスキーに愛憎半ばするオマージュを捧げている。

 ヘルツォーク自身や共演者・スタッフが語る挿話【エピソード】は、若き日のキンスキーの変人ぶりや、未遂に終わったキンスキー殺人計画から、カメラマン の語る技術的な細部に至るまで、興味深いことこのうえない。作品の映像も要所要所で引用されている。とりわけ、主演俳優が三度も変わった『フィッツカラル ド』の、ジェイソン・ロバーズ演ずる別バージョンは、キンスキー演ずる現行版と著しい違いを見せていて、貴重な比較の材料を提供してくれる。

 キンスキーとはどんな人物なのか? 作品は両義的な像を呈示している。一方で、『アギーレ』の?B影現場で、ある端役【エキストラ】はキンスキーのぶっ 放した弾丸で指を失い、別の端役は剣で頭をかち割られたなどと聞かされると、あの怒り狂えるアギーレの役はキンスキーの地そのものだったと確信させられそ うになる。他方、『ヴォイツェック』(79年)で共演したエーファ・マッテスや、『フィッツカラルド』で共演したクラウディア・カルディナーレが語るキン スキーは、意外に繊細でやさしい一面を見せている。また、見たところ凶暴な野生児のようなキンスキーが、実は原生林に足を踏み入れようとさえしなかったと いう証言は、この俳優が、傲慢・豪胆・破壊的などの過度に神話化された側面以外に、繊細・神経質、いやむしろ臆病な一面を持っていたことを窺わせる。事 実、彼は食事の前にはアルコールで全ての食器を拭かなければ気が済まなかったらしい。ともあれ、何とも不思議な幸福感に包まれた最後の場面で蝶と戯れる姿 を見ていると、クラウス・キンスキーは確かに特異な才能に恵まれた俳優であったには違いないと納得させられるのである。

 しかし、この作品が伝えるキンスキー像に、一抹の胡散臭さが漂うことも事実である。というのも、ヘルツォークという監督はとかく誇大妄想的であるから だ。この監督は、これまで「人類未到の奥地」(この概念自体がきわめて西洋中心主義的であることは言うまでもない)に神話的世界を求めてきた。『アギー レ』は一六世紀末のスペインの征服者たちによる「布教」を、『フィッツカラルド』は帝国主義時代のオペラ狂による未開の地域の「啓蒙」を、それぞれ背景に していた。とはいえ、作品で追究されるのは、現実の時代背景とは無縁な、無謀な冒険者たちの?人的な峻烈さばかりである。他のニュー・ジャーマン・シネマ の監督たちが、多かれ少なかれ、歴史(特にドイツの)と向き合わざるを得なかったのに対して、一人ヘルツォークだけは非歴史的な神話にこだわってきたので ある。

 そう考えると、『キンスキー』でヘルツォークが語る挿話が、どこまで自己神話化を免れているか、誰にも分からない。もとより彼には、現実のキンスキーの あるがままの姿を浮き彫りにすることなど、不可能であるはずだ。彼とキンスキーは、互いに罵りあい、互いに虚構化しあう関係、どこまでが真実で、どこまで が虚構かという問いが意味をなさないような関係を生きていたのだから。相互に神話化を図るという、常人にはうかがい知れないような二人の関係を、一方の当 事者であるヘルツォーク自身が他方亡き後、実に淡々と、あたかもこれぞ客観的な真実だといいたげに語る−−つまり、語ることで当の関係自体に影響が及ぶこ とをまるで考慮に入れずに。そこにこそ、この映画で最も恐ろしい暴力が潜んでいる。

●東京・東中野「BOX東中野」にて12月16日からロードショー。続けてヘルツォークの『小人の饗宴』、『アギーレ・神の怒り』、『フィッツカラルド』も同劇場で公開予定。

『週刊金曜日』、344号、2000年12月15日)

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