HORI Junji's Site
サイト内全文検索


HOME

TEXTS

OTHERS


『息づかい』:抑圧された女性たちの声

堀 潤之

 戦時中に日本軍の性奴隷にさせられていた韓国人女性の「現在」を追ったビョン・ヨンジュ監督による記録映画三部作が完結した。前二作の『ナヌムの家』 (九五年)および『ナヌムの家・』(九七年)は、元「慰安婦」のハルモニ(おばあさん)たちの「分かち合い【ナヌム】の家」での共同生活をとらえていた。 今回の『息づかい』は「ナヌムの家」を離れて、各地で暮らしているハルモニたちの証言を収めている。

 映画の後半部分では監督自身が聞き役を務めているが、『息づかい』の新しい視点は、自身も元「慰安婦」であるイ・ヨンスが、各地でひっそりと暮らしてい る元「慰安婦」たちを訪ねて話を聞く前半部分だ。ビョン・ヨンジュ監督の控え目で親密なカメラがそれを眼差す。そして、それを日本人が見る。『息づかい』 を見るときには、こうした経路を無視することはできない。

 まず、証言の内容は、発話の状況と切り離しては考えられない。法廷での証言と、親密な場での証言では、おのずと語り出される言葉の質が違ってくる。そも そも、性奴隷のようなトラウマ的な体験を言語化するのは、それだけで苦痛を伴う困難なことだ。映画でもキム・ブンソンが、山菜を採っているときに、ゴム工 場で働けると言う日本人に騙されて送られた台湾の慰安所での話を語りながら、「あんまり酷い体験だから、言葉では言えないよ」ともらす。やっと言葉にでき たとしても、今度は社会的な偏見という壁が待ち受けている。映画の後半でキム・ユンシムは、生活の資を得るためにミシンで縫い物をしながら、周囲の偏見が 怖くて、長いこととても自分の体験を公にすることなどできなかった、と言う。このような隘路をくぐって、犠牲者の声を公の空間に響かせるためには、まず もって、声になるかならぬかの証言をしっかりと聴き取る耳が必要なのであり、そのためにこそ『息づかい』では、性暴力の犠牲者自身が他の犠牲者たちの声に 耳を傾けているのだ。ビョン・ヨンジュ自身が言うように、この映画には「ハルモニ自らが書いた歴史書」という側面がある。

 しかも、その様子を見守るカメラの視線が、限りなく優しく、力強い。カメラを向けることは、場合によってはそれ自体で、すさまじい暴力をはらむ。とりわ け、カメラが「真実」を「透明」に伝えるという中立性を装いながら、その実、社会的な偏見にどっぷりと浸されているときに、その無意識であるがゆえの暴力 は最大限に達する。言い換えれば、あたかも自らの立場性を問わないでいることができ、あまつさえ自分は安全な場所から傍観しているだけですむという態度 が、結局のところ暴力の容認につながるのだ。ビョン・ヨンジュは、例えば後半でキム・ユンシムに自分たちの運動の意義を問い尋ねていることからも分かるよ うに、戦後生まれの自分とは絶対的な懸隔があるハルモニたちの言語に絶する体験に、どうすれば漸近できるかを、絶えず考えている。そのような真摯な態度に 裏打ちされたカメラの視線によって、何重にも抑圧された女性たちの声が送り届けられるのだ。

 そのとき、彼女たちの声が、日本政府に、そして日本人に向けられていることを閑却することは許されないだろう。確かに『息づかい』は声高に日本を告発し ているわけでもないし、「慰安婦」問題が普遍的な性暴力の問題につながっていることもまた確かだ。しかし、韓国語でなされる彼女たちの証言に、「このやろ う」といった類の乱暴な日本語が不意に現れるとき、半世紀以上前の日本軍による暴力が、まさしく痕跡として彼女たちの言語に刻み込まれていることを、私た ちはこの上ない明瞭さで知らされる。ビョン・ヨンジュは前二作を制作中に、五人のハルモニの死に立ち会ったという。『息づかい』は、ハルモニの一人カン・ ミョランの葬儀のシーンで終わる。また一人、公式謝罪も個人補償もないまま、逝ってしまった。犠牲者たちの呼びかけに、これ以上応答しないままでいること は許されない。

『週刊金曜日』、311号、2000年4月14日)

BACK