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ロニー・ブローマン『人道援助、そのジレンマ』書評(高橋武智訳、産業図書、2000年)
 人道援助活動と「悪の凡庸さ」

堀 潤之

 拷問室から連れ出された怪我人がいるとしよう。医者がその人に十分な治療をほどこし、再び歩けるようにするのは、道理にかなったことのようにみえる。だ が、もしそれが拷問を再開するための治療だとしたら? 医者は時分の職務を忠実に果たしたのだから、何ら問題はないのだろうか? いや、医者の行為は、技 術的に何ら問題がないにしても、またかりに事情を知らされていなかったとしても、自分の行為がどのような環境に組み込まれているかを問いたださなかったが ために、倫理的に過ちを犯し、結果的に悪に加担してしまったとのそしりを免れないだろう。ある本への序文でこの例を取り上げているフランスの哲学者ポー ル・リクールは、「心遣いの倫理」と切り離された医者の技術的行為がどれほど危険なものになりうるかに注意を促している。

 人道援助活動のジレンマも、まさにそのようなかたちで提起される。そう主張するのは、1999年度にノーベル平和賞を受賞したNGO「国境なき医師団」 (以下、MSFと略記)の前理事長(1982-94)として長らく人道援助の実践と理論的考察を続けてきた本書の著者ロニー・ブローマンだ。たとえば、 1984年に飢饉に襲われたエチオピアで起こったことは何か? 飢える人々への食糧供給は、一般的には人道援助の理念にかなった行為である。しかし、エチ オピア政府はそれを住民をおびきよせるための餌として利用し、かねてからの懸案だった南部の過疎地域への住民の強制移住を遂行した。つまり、苦痛を和らげ るはずの人道援助活動が、政治的な隠れ蓑として利用されてしまったあげく、逆に抑圧に加担してしまったのだ。この枠組みの中で行動しているかぎり、中立で あることは為政者の思惑に屈することでしかないし、そういう状態で援助を続けてもそれは自己陶酔にしかなるまい。MSFはそう考えて人口移動に抗議し、国 外に追放されることになる。「人道援助が多くの犠牲を生み出す政策に奉仕することがあり、したがって、人道援助活動の結果は必ずしも犠牲者の利益につなが るわけではないという考え方こそ、エチオピアからの基本的な教訓」であるとブローマンは語っている。

 それ自体としては中立的な後方支援活動が、巨大な犯罪的行為の歯車となる──それをユダヤ系思想家のハンナ・アーレントは「悪の凡庸さ」と呼んだ(1)。 第二次大戦中に絶滅収容所へのユダヤ人の移送を管理していたナチス高官のアドルフ・アイヒマンが、61年にエルサレムで行なわれた裁判で「私は命令 に従っただけ」との弁明に汲々とするばかりで、自分の行為がどこに行き着くかを省みない姿を見て、アーレントは思慮と良心と想像力を欠いているかぎり、悪 への通路はいたるところに出現すると考えた。アイヒマンがしたような凡庸な官僚的行為の積み重ねによってこそ、ホロコーストは引き起こされたのだ。レイモ ン・アロンと並んでアーレントに最も影響を受けたと語るブローマンは、このテーゼをエチオピアにおけるMSFの体験にじつに容赦なく結びつけるのである。

 凡庸ならぬ悪を可能にするのは、凡庸な行為だけでなく、ときには非行為でさえある。ブローマンが人道援助の歴史の汚点として度々引き合いに出すのは、国 際赤十字委員会のホロコーストへの「沈黙」である。国際赤十字は中立性を遵守するあまり、なしくずし的にドイツの赤十字からのユダヤ人追放を認め、収容所 内の残虐行為にも目をつぶった。ヴァチカンやユダヤ人組織さえ、進行しつつある集団虐殺に抗議の声をあげなかったのだから、国際赤十字の盲目ぶりも無理は ない。とはいえ、ナチスが最も強力であるときに、あらゆる国家への中立性を標榜することは、ナチスに奉仕する結果にしかならない。ブローマンはそう考え て、人道援助組織の「中立性」という概念の欺瞞を指摘し、悪への消極的協力を拒否し、声をあげるべきだと主張する。

 ブローマンによれば、そのためには「人道援助活動の空間」をつねに確保すべく努めなければならない。すなわち、援助される側の人々と絶え間なく対話を交 わし、他方では政治的なプロパガンダの道具にならないように援助の真の必要性をきちんと測定し、最後に救援物資がしかるべき場所に分配されたか確認し、も し援助が道具化・非人間化されていたら公然と批判の声をあげる──そのような行動ができる自由を獲得することが必要だと言うのである。ただ、言うまでもな く、これは行動の指針であって、実践への応用が可能な理論的原則ではない。声をあげることでかえって事態が悪化してしまう場合などは、あえて沈黙を守らざ るをえないという苦渋の選択を迫られることになる。

 人道援助活動には、活動を広く人々に知らしめて資金を集めるためにも、また批判の声をあげるためにも、メディア(とくに映像メディア)を利用する必要が ある。しかし、大抵のテレビ番組は事前に拵えられた紋切り型の表現の追認に終始し、現地におもむくジャーナリストの大群は、そのこと自体によって出来事の 産出に関与している当事者であるにもかかわらず、第三者的な傍観者の位置に身を隠そうとする。こうしたメディア批判を通じて、ブローマンは、19世紀半ば にほぼ時を同じくして生まれた「メディアと人道援助」(彼にはこのタイトルの共著がある)を合わせ鏡にしながら、いわば「映像の倫理」を問うていると言っ てよい。

 本書には本稿で触れたもの以外にも、開発援助との違い、コソヴォの問題、国家を越えた介入の問題など、多くの論点が扱われている。NGOなどで人道援助の実践に携わっている人に示唆を与えるとともに、非軍事的な国際貢献のあり方を模索するためにも有益な一冊である。



(1)『イェルサレムのアイヒマン』(大久保和郎訳、みすず書房、1969年)を参照。ブローマンは、ア イヒマン裁判を再構成したエイアル・シヴァンのドキュメンタリー『スペシャリスト』の共同制作者でもある。この映画、および人道援助活動と「悪の凡庸さ」 について詳しくはブローマンとシヴァンの『不服従を讃えて』(高橋哲哉・堀潤之訳、産業図書、2000年)を参照。 BACK

『週刊金曜日』、352号、2001年2月23日)

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