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『スペシャリスト』評 凡庸な官僚の犯罪

堀 潤之

 このドキュメンタリー作品は、1961年にエルサレムで行われたアイヒマン裁判の350時間にわたる貴重な記録映像を、2時間に再構成したものである。 「主役」アドルフ・アイヒマンは、ナチスによるユダヤ人大虐殺(ホロコースト)で、収容所へのユダヤ人の強制移送を担当していた「移送の専門家」。戦後、 アルゼンチンに潜伏していたこの戦犯は、61年4月から、エルサレムの国内法廷で4ヶ月にわたって裁かれ、翌年、死刑に処された。

 専ら法廷に舞台を限定した『スペシャリスト』は、12の場面で構成され、子供の移送、ヴァンゼー会議、ユダヤ人評議会などの主題が一つずつ、概ね歴史の 継起順に取り上げられている。しかし、ロニー・ブローマンとエイアル・シヴァンによる再構成の焦点は、歴史の伝達にあるのではなく、「加害者」アイヒマン の姿を浮き彫りにすることにある。

 実際の裁判では、原告側証人(主に大虐殺の生還者)の証言に最初の2ヶ月が費やされ、それからようやく被告人アイヒマンの供述が始まった。しかし、2人の監督はそうした審理の順序を度外視して、特に前半では証人と被告人の言葉を意図的に対置している。

 例えば、フランスからの子供の強制移送について、アウシュヴィッツの生還者ジョルジュ・ヴェレールが、言葉に詰まりながら悲惨きわまる移送の情景を語 る。それに対してアイヒマンは官僚的な口調で、子供の「輸送」を許可するために11日間もかかったのは、上官に問い合わせる必要があったことを示し、だか ら自分は「伝達係」に過ぎず責任はない、それに決定に時間がかかるのは「管轄」が明確に決められていない証拠だ、と言い張るのだ。

 この対比から鮮やかに浮かび上がってくるのは、官僚的な隠語の繭に守られるあまり、「輸送」がそれ自体いかに悲惨な状況を作り出すか、また「輸送」の先に何が待ち受けているかについて、思慮と想像力をまるで欠いたアイヒマンの姿である。

 裁判の一部を傍聴していたユダヤ系の哲学者ハンナ・アーレントは、こうした事態を「悪の凡庸さ」と名付けた。彼女は、アイヒマンが残忍な怪物じみた相貌 をいささかも持っておらず、むしろ逆に規律・命令に盲従する小役人でしかないことに注目した。そして、個人が思慮と良心と想像力を欠いたまま「歯」とし て官僚組織に組み入れられることで、巨悪に加担してしまうことが問題だ、と考えた(だから「悪の凡庸さ」とは、悪が凡庸だという意味ではなく、悪への通路 が至る所にあるという事態を指す)。実は、『スペシャリスト』の監督たちは、こうしたアーレントの考えを軸に、映画を構成している。彼らの考えは『不服従 を讃えて−「スペシャリスト」アイヒマンと現代』(高橋哲哉・堀潤之訳、産業図書、2000年)に詳しい。

 ところで、「加害者」アイヒマンの姿を前面に出すことには、別の意味も含まれている。例えば、映画の中盤で、生還者の断片的な証言を繋ぎ合わせた場面がある。個々の証言の具体的な内容はほとんど分からず、証人の数の多さだけが際立つ。この再構成は何を意味するのか?

 イスラエルでは50年代に東洋系ユダヤ人(彼らはヨーロッパのユダヤ人大虐殺とは直接のつながりがない)が増加し、そのため国民が分断されていた。イス ラエル国家は61年のアイヒマン裁判を、アウシュヴィッツの犠牲者の体験を思い出させることで、分裂した国民を再統合する絶好の機会と考えた。裁判以前は むしろ社会の隅に追いやられていた生還者は、そうしたシオニスト的な政治的演出のために召喚されたという側面を持つ。だから、裁判の記録映像とは、いわば 「国策映画」なのである。こうした事情を考慮に入れるなら、『スペシャリスト』は加害者に焦点を当てることで、かつての権力の映像を逆方向に用いているわ けで、当局が最も力を入れたはずの生還者の証言を、パッチワーク的に繋ぎ合わせた件の場面は、当局の意図をアイロニカルに相対化しているのである。

『週刊金曜日』、303号、2000年2月18日)

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