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イスラエルにおける市民的不服従/エイアル・シヴァン監督インタヴュー

堀 潤之

 『スペシャリスト』の監督エイアル・シヴァンは、1964年イスラエルのハイファ生まれ。82年には兵役を拒否し、85年にフランスに移住。87年に ジェリコ郊外のパレスチナ難民キャンプを取材した処女作『アカバット・ジャベル:通過の生』で、ドキュメンタリー映画作家として出発する。同作品では政治 性は前面には押し出されず、ひたすら帰郷の願望を語る難民たちの姿が収められている。シヴァンは、インティファーダとパレスチナ暫定自治合意を経た94年 に難民キャンプを再訪し、第6作『アカバット・ジャベル:帰還なき平和?』(94年)を撮っている。情勢の変化に伴い、著しく表情を変えた難民キャンプの 姿が収められている。

 第2作『イズコール:記憶の奴隷たち』(91年)は、出エジプトに由来する過越しの祝いから、ショアー記念日と戦没者記念日を経て、イスラエル独立記念 日に至る、4月から5月にかけての1ヶ月に集中する4つの記念日に際しての、露骨にナショナリスティックな学校教育を、批判的に紹介している。同時に、国 民的な正史の刷り込みを通じて、絶対的な服従を誓うイスラエル国防軍の兵士が形成されてゆく過程もとらえられている。

 シヴァンはイスラエルの哲学者イェシャヤフ・レイボヴィッチに強い影響を受けている。法が不正でありうることを訴え、不正な命令への不服従を促すこの哲 学者に彼がインタヴューした第4作『イットガベル:自らに打ち勝つ』(93年)では、とりわけ第2部「国家と法について」において、「服従のシンボル」ア イヒマンがたびたび言及されている。その意味で、レイボヴィッチの考えは『スペシャリスト』の源泉であると言えるだろう。

 今回、エイアル・シヴァンの来日に際して、彼の過去の作品、特に『スペシャリスト』と関連が深い『イズコール』と『イットガベル』について聞いた。

 他作品には、テーマパークの工事現場で働くチュニジア系ユダヤ人やパレスチナ人にインタヴューした第3作『イスラランド』(91年)、監督自身が育った エルサレムを舞台にした第5作『エルサレム:境界線症候群』(94年)、ルワンダやブルンジでの虐殺に取材した短篇などがある。

エイアル・シヴァン フィルモグラフィー

Aqabat jaber: Vie de passage (1987)
Izkor: Les esclaves de la mémoire (1991)
Israland (1991)
Itgaber: Le triomphe sur soi (1993)
Jerusalems: Le syndrome borderline (1994)
Aqabat jaber: Paix sans retour? (1994)
Burundi: Under Terror (with Alexis Cordesse, 1996)
Itsembatsemba: Rwanda One Genocide Later (with Alexis Cordesse, 1996)
Un spécialiste(1999)

現在の政治的立場の背景

——あなたは映画『スペシャリスト』とブローマンとの共著『不服従を讃えて』(産業図書)で、神聖な「ホロコースト」の購いとしてイスラエルを正当化する ことに、いいかえれば「ショアー」の政治的道具化に、異議をとなえています。こうした立場の個人的背景は、どういうものでしょうか? あなたは一九七八年 にすでに、東洋系ユダヤ人への差別に反対する運動に参加していたそうですが、あなたは幼いころから、イスラエル社会に内在する諸矛盾に感づいていたので しょうか? また、あなたのご両親はいつイスラエルにやってきたのですか?

エイアル・シヴァン(以下ES)——私の両親は一九六三年にイスラエルに来ました。ラテン・アメリカのウル グアイ出身で、私はどちらかといえばシオニスト的な家庭に生まれました。ですから、イスラエル国家に内在する矛盾として何を見出したかという質問ですが、 二つの逆説的な事柄があったのです。一方には、いわゆる〔ホロコーストの〕「犠牲者」が採っている「道徳的な立場」、議論の余地のないヒューマニズムを標 榜する立場があります。これが支配的な言説でした。多くの人と同じく私も、確かに犠牲者は苦しんだのだから、その結果として犯罪から守られているのだ、と 考える論理のなかにいました。これはばかげています。今では私はこれがばかげた立場だったということを知っています。そして同時に、このむしろ単純な立場 にいると、通常、盲目の場にいることになるわけですが、私の場合、逆でした。つまり逆に、一部にみられる収奪、差別、絶対的にコロニアルな立場というもの が、ある種の道徳を主張する人々がそれを行なう場合、もっとずっと恐ろしいものに思えたし、今でもそう思えます。そこから出発して、支配的な言説を解体 し、さらに「道徳的な立場」の政治的道具化こそが問題なのだということを示す作業をはじめたのです。

——レバノン戦争(一九八二年)への徴兵を忌避したときに考えていたことを教えてください。その選択には、イスラエル軍とレバノン右派民兵によるサブラ・シャティーラ難民キャンプの虐殺事件に対する批判という意図もこめられていたのでしょうか?

ES——私は一九八二年にレバノン戦争への徴兵を忌避したのではなく、イスラエル軍への徴兵を拒否したので す。つまり、私は良心的兵役拒否者ではなく、私の立場にはヒロイズムはありません。勇気ともヒロイズムとも言いません。むしろ、エゴイズムの立場です。エ ゴイズムは必ずしも欠点ではなく、ときには美徳を取り戻しもするわけですが。それから私の場合、一九八二年一一月一七日に軍に徴兵されました。サブラ・ シャティーラの虐殺がはじまった日の、ちょうど二ヶ月後です〔虐殺は九月一六日にはじまった〕。しかし、入隊拒否の過程は、それ以前にはじまりました。と いうのも、八二年には私は一八歳でしたが、一六歳のときから手続きをはじめるために軍に呼ばれるのです。ですから、レバノン戦争以前からすでに、自分はイ スラエル軍には行かないということが分かっていました。私の立場は、政治と公民精神の混じったもので、軍事奉仕は国民的奉仕の唯一の形態ではなく、別の形 態の市民的な奉仕があると思っていました。

——一九八五年以来、あなたはフランスのイスラエル人として活躍しておられます。なぜフランスに移住したのですか? イスラエルから離れていることは、作品の主題とどのように関連していますか? また、現在の法的な身分を教えて下さい。

ES——八五年にフランスに来たのは、身を落ちつけるためではなく、イスラエルを去るためでした。第一に私 はイスラエルを去りたかったのです。では、なぜフランスへ行ったのか? イスラエル人は普通、イスラエルを去る場合、アメリカに向かうわけですが、私は ヨーロッパに関心があったので、ある期間だけ、出かけました。それは違う空気を吸うためで、イスラエルのシステムの内部では息苦しかった。イスラエル的な 民主主義は——私はイスラエルにおける民主主義ではなく、イスラエル的な民主主義と言っているのですが——、特殊な形態をしていて、闘いに近い民主主義だ と思っていたし、今でもそう思っています。民族的な民主主義であって、息苦しいものなのです。私自身は白人で、イスラエルにおいて何の束縛もない集団に属 しているにもかかわらずそうなのです。良い集団に属している者にとっては完全な行動と表現の自由があるとされている「民主主義」国家に、どうしたら対抗で きるのか? 唯一の解法は、「民主主義的」なシステムのなかにのみこまれないように、引きさがって抜けだすことです。

 フランスに行ったことが、作品の主題に影響したかということですが、おそらくそうでしょう。確かなのは、 そのことが私にあるパースペクティヴを与えたことです。つまり、作品がイスラエルで作られ、そこに閉じこめられ、民族的な特徴を持つかわりに、私はいつも 自分の仕事に普遍的な特徴を与えようとしています。つまり、イスラエルを題材にした作品であっても、類推による共鳴効果によって、フランスやアメリカのこ とについても語れる、というように。必ずしもイスラエルについてのある見方にとどまるのではなく、各々に自分の社会のなかの何らかの問題を喚起するので す。映画のこうした類推の要素に、私は興味があります。

 私の現在の法的な身分は、フランスに永住するイスラエル国民です。十年の滞在許可証を持っています。実 は、私の次の作品の主題は、「国籍」なのです。個人的な日記のような映画です。というのも、私は自分自身を演じ、フランス人に帰化することに決め、フラン ス国籍を要求し、つまりフランス共和国に完全に加入するのです。フランスは、共和国という興味深い政治形態を採っていて、多文化的・多人種的な共和国で す。現在は私は労働許可証と滞在許可証を持った在留者ですが、フランス国籍を要求し、一年半かかる帰化の過程を日記風につづるその作品の最後で、私はフラ ンス国籍とイスラエル国籍の両方を持つことになります。私自身が主役を演じ、撮影はイスラエルとフランスで行ないますが、フランスで初めて撮影することに なります。

——『アカバット・ジャベル』を撮る前は、あなたは写真家でした。どのようにして、写真に興味を抱くに至ったのですか? 現在は、表現手段として、写真より映画を好んでいますか?

ES——正確にいつから写真に興味を持ちはじめたのか覚えていませんが、父にもらった写真機が発端でした。 一一歳か一二歳のときから、写真を撮りはじめ、自分で現像をはじめ、その後、私はとても若いときに、青少年の雑誌のためのフォト・ジャーナリストをしてい た期間があります。青少年によって作られた、イスラエルのテレビのための、雑誌の番組にも参加しました。ですから、一一歳半から一四歳のあいだに、オー ディオヴィジュアルに触れ、ヴィジュアルに興味を抱き、後に生計を稼ぐために、ファッションの写真家になったのです。

 現在、表現手段として、写真よりも映画を好んでいるかどうかについてですが、私は表現手段としての映画に おける言説の分節(articulation)を好みますが、同時に写真も再開し、撮り続けていて、映画に行くよりは写真を見ることの方が多い。映画より も、写真や、写真集や、写真家の仕事とともに生きています。映画において興味深いのは、「省略」の概念です。そこから、映像によって言説を分節する可能性 が出てきます。それに、私はルワンダでの虐殺の写真に基づく映画を作っています。『イッツェンバツェンバ:ルワンダ、ワン・ジェノサイド・レイター』(一 九九六年)[アレクシス・コルデスの写真に基づく一三分の作品]です。

——影響を受けた写真家や、映画監督はいらっしゃいますか?

ES——写真家ではカルチエ=ブレッソンや、レイモン・ドパルドン〔『アフリカ、痛みはいかがですか?』な どの映画監督・写真家〕などですが、映画監督に関しては私はだれかの弟子というわけではありません。問題なのは、個々の映画であって、ある映画監督の全作 品ではない。私は一方でマルセル・オフュルスの映画について語り、他方でコッポラについて語るので、不均衡があるわけです。レイモン・ドパルドンの仕事 は、写真でも映画でも、とても好きで、大変興味深いのですが、私の仕事への影響というふうには語りにくい。この質問には、むしろ観客の批判的な立場から答 えるべきだという印象を持っています。影響は断片的なものなのです。

『イズコール:記憶の奴隷たち』をめぐって

——四つの祝日を題材に、教育システムのナショナリズムへの従属を批判的に描いた『イズコール』は、教育が 命令に服従するアイヒマンのような人物を作るかもしれない可能性を垣間見せているという点で、『スペシャリスト』と相補的であるように思えます。二つの作 品はどういうところで関連するのでしょうか?

ES——教育システムのナショナリズムへの従属というよりも、ナショナリズムが教育システムを通じてできあ がってゆくさまと言えるでしょう。記憶の道具化という要素です。どのように記憶を使用するか、どのようにある行為をのちに正当化することに奉仕するように なる公的な記憶を作り出すか。そのような、しまいには私たちの別の記憶を消去するための、映画の最後で「無条件に従います」と言う兵士たちにつながるよう な、ある記憶の言説でもってそれを置き換えるための、公的な記憶の構築が問題なのです。ここには服従の問題があり、動員とは何か、服従をどのように作るか という問題があります。その点で〔『スペシャリスト』と〕関連します。

 しかし、『イズコール』のなかには全く現れないが、『スペシャリスト』と直接関係することがあって、それ はアイヒマン裁判がイスラエルの記憶の政治のまさしく基礎となるような出来事だったという事実です。『イズコール』では、私は分析をしようとし、わりと平 凡な映画的分節化で——というのも、この映画は反プロパガンダですが、反プロパガンダのためにプロパガンダという考えを流用することでは、同じプロパガン ダのシステムのもとにあるわけです——、どのように記憶が服従のために国家によって道具化されるかを示しました。それに対して、『スペシャリスト』にはい ささかアイロニックな観点があり、私はアイヒマン裁判というイスラエルの記憶の基礎となる出来事を取りあげて、それをイスラエル当局が望んだようにではな く、まさに服従の言説を告発するために用いたわけで、一種の戯れがあるのです。以上が『イズコール』と『スペシャリスト』のあいだの関係です。レイボ ヴィッチというきわめて重要な人物、私にアイヒマンへの興味を抱かせた人物についてはのちほどお話しましょう。

——『スペシャリスト』では法廷という場所が問題であるとすれば、『イズコール』では主に学校という場所が問題になっています。なぜ、学校という場所を主題に選んだのですか? また、あなた自身、ここで描かれているような教育を受けたのですか?

ES——その通りです。私は『イズコール』で描かれているような教育を受けたし、さらに『イズコール』に出 てくる学校の一つは、私が一年間いた高校(リセ)で、先生も登場します。私のいた幼稚園では撮影させてくれませんでしたが、ともかく私は全く同じような教 育を受けたのです。

 学校を選んだのは、それが伝達システムの基礎にあるからですが、同じ要素をイスラエル企業に見出すことも できたろうし、イスラエル軍での教育についての映画を撮ることもできたでしょう。学校を選んだのは、連続性を示す可能性があると思ったからです。映画とい うジャンルで興味深いのは、カメラで追跡し、つねに同じ高さにいて、つまり子供の立場に身をおけるということです。私の仕事にくりかえし出てくることとし て、映画に対する観客の能動的な役割を規定しようとしていることがあります。観客はそうしばしば映画に対峙しているわけではなく、観客もまた役者なので す。私の映画は、観客のおかげで存在する。私が興味を持っている部分は、観客こそが映画の言説を完全に閉じることになる、ということです。『アカバット・ ジャベル』にはリズムがあり、そのリズムを通じて、観客は、通過の生とは何か、難民の時間のリズムとは何かを理解する。〔『イズコール』では〕子供を通じ て、視点が変わっていく。観客はある時間、子供になり、学校教育をいわば「被る」のです。『スペシャリスト』では、観客は法廷の内部にいる。そういうわけ で、内部という状況に興味があるわけです。

——『イズコール』では、モロッコ系ユダヤ人の家族が登場するところが興味深いと思います。どうして彼らを登場させたのですか?

ES——『イズコール』では、教えられ、伝達される出来事と直接の関係を持つ人物をいっさい出さないことに 決めていたのです。主観的な記憶を持つ人物——お望みならば客観的と言ってもいいですが——、家族にホロコースト、つまりジェノサイドの生還者や、戦没し た兵士がいるような子供を出さないつもりでした。ですから、その観点から、モロッコ系ユダヤ人を選びました。イラク系を選ぶこともできたが、ともかく東洋 系ユダヤ人を選んだのです。そこでまず、彼らの歴史にはなじみのない何事かの伝達が問題になるわけで、これが第一点です。

 第二に、国家による公的な記憶、公的な歴史の配置を見せ、それが白紙の上にやってこなければならないこ と、別のことを消去しなければならないこと、記憶が一般に、消去の過程であることを見せるためです。ですから、イスラエル国家において為されていること は、東洋系ユダヤ人の記憶を消去することで、モロッコ系ユダヤ人家族のお祭りのシーンでは、彼らは公的な歴史が主張するようなユダヤ人とアラブ人の関係と は全く異なったモロッコの現実を語ってくれる。モロッコの方が良かった、皆で一緒に暮らしていて、と言ってね。モロッコ系ユダヤ人はイスラエルの東洋系ユ ダヤ人の大部分を占めますが、彼らの記憶は消去され、マイノリティーとしての記憶が公的な歴史の真ん中におかれるのです。

——教室のシーンでは、特に低学年の生徒に向けての、合唱や詩の朗読による「教育」に印象を受けました。 「サイレンが犠牲者の悲鳴に聞こえる」というケレンのコメントも印象的です。そうした感覚への訴えかけを通じた「教育」については、どうお考えですか。ま た、イスラエル国歌「ハティクバ」(希望)は、教育現場で利用されているのでしょうか?

ES——「ハティクバ」は『イズコール』で歌われています。収容所の名前を朗唱する儀式のシーンの後で、中庭のシーンになり、そこでアコーディオンを弾きながら「ハティクバ」を歌っている子供が出てきます。うまく歌っていないので分かりにくいのですが。

 感覚に訴えかける教育は、教育ではなく、儀式的なイニシエーションです。日本にもあるでしょう。イスラエ ルの教育の場合には、単に「我らは奴隷だった」と歌うだけでなく、体を屈め、そして「我らは自由だ」と歌って立ち上がる。身体的なわけです。同様に、ジェ ノサイドについてのシーンで、黄色い星を切っている少女が出てくる。黄色い星を切るという身体的な行為をするわけです。何を感じるかと訊くと、彼女は自分 があたかもその人々「だった」かのように感じると言います。このように、儀式的なイニシエーションの次元に属する何かがあるのです。

『イットガベル:自らに打ち勝つ』をめぐって

——イスラエルの哲学者イェシャヤフ・レイボヴィッチについてのインタヴュー映画『イットガベル』で印象的なのは、机上におかれたモニターの中で自分が喋っているのを眺めるレイボヴィッチの姿です。彼はなぜ、自分で自分を眺めているのでしょうか?

ES——レイボヴィッチの映画における装置は、二つの考えに基づいています。一つは演劇風の演し物を作ろう としたということです。レイボヴィッチは疑いなく、非常な名優です。登場人物が一人で、物語も一つというような劇場的状況の中で芝居を作ろうとしたので す。また、レイボヴィッチは円環的な過程に思考を閉ざす哲学者・思想家です。つまり、宗教でも政治でも、レイボヴィッチの思考のどの点をとっても、円を描 くことができます。つまり、レイボヴィッチは対話の哲学者・思想家ではなく、独話者なのです。ただし、彼は自分を演じることを断り、台本を書くことを認め なかったものですから、一人の人物、一つの物語による劇場的空間を作り出すには、レイボヴィッチを撮影し、それを再構成し、モンタージュし、モニターに写 す手法しかなかったのです。身体を持つレイボヴィッチがいて、それがモニターの内部の彼に引き継がれる。ですからこれは、現実の外部に訴えかけずに一つの 場景のなかにとどまる可能性なのです。劇場の内部にとどまる可能性です。このことは、レイボヴィッチの独話についての問いに対する答えにもなっています。 レイボヴィッチは、自分自身と対話するのです。

——市民的不服従をテーマにした『イットガベル』第二部では、占領地への兵役を拒否する運動が扱われています。まず、この運動の概略を教えて下さい。

ES——その運動は「イェッシュ・グブール」という名で、「限度がある」という意味です。一九八二年のレバ ノン戦争のときにあらわれた運動です。レバノンでの戦闘へ参加することや、ベイルートに入ることを拒否した最初の兵士たちによるもので、レイボヴィッチの 考えに多大な影響を受けた運動です。レイボヴィッチは、合法的な命令への服従が犯罪でありうる、合法的な命令は犯罪でありうると言います——その点でもち ろん、すぐさまアーレントとアイヒマンの問題に直結するでしょう。「イェッシュ・グブール」運動は、ごく少数派の運動です。拒否した兵士は全部で一五〇人 くらいだったでしょう。イスラエル軍への不服従によって投獄された人は二、三〇人くらいでしょう。ごく少数派の運動ですが、ベイルートに入るべきだったの にそれを拒否した司令官もいました。

——レイボヴィッチは、アイヒマンを、従うべきではない法律を盲目的に遵守した人物として、挙げています。『スペシャリスト』の源泉は、ここにあるのでしょうか? また、アイヒマンはイスラエルでは忘れられた人物だったのでしょうか?

ES——『スペシャリスト』の源泉はもちろん、二つの意味でレイボヴィッチです。一つは、彼がアイヒマンの ことを絶対的服従の人物として語っていたからです。もう一つは、レイボヴィッチの紹介のためのアーカイヴを捜していた最中に、アイヒマンのアーカイヴを見 つけたからです。ですから、アイヒマンには二重のレイボヴィッチがあります。そんなわけでロニー・ブローマンと『イェルサレムのアイヒマン』について語っ たりしました。ですから、アイデアはレイボヴィッチから来ています。

 アイヒマンがイスラエルで忘れられていたかということについては、大いなる逆説があります。アイヒマンは 忘れられていたわけではありません。彼の裁判が道具化されたのです。というのも、アイヒマンはイスラエルにとっても服従の象徴で、いつも単に服従した男だ と言われるだけで、アイヒマン裁判の記憶と、その記憶がどのようにイスラエル社会にとって教訓として役立つかということのあいだの関連性が問われなかっ た。つまり、「われわれ」犠牲者はつねに「善」であり、「アイヒマン」は「悪」であるというように、完全な障壁、境界線があったのです。ですから、アイヒ マンが忘れられていたということではありません。むしろ、記憶の作用ということなのです。

 「記憶」に関しては、一つ、さらに驚くべき例を挙げておきましょう。アイヒマン裁判の裁判長モシェ・ラン ダウについてです。彼こそ、レイボヴィッチが映画のなかで、イスラエルでの拷問を合法化した人物として言及している男なのです。『イットガベル』でレイボ ヴィッチがナチについて言及しているところです。彼はそこで、私たちの社会にナチがいることは全く例外的なことではない、どんな社会にもナチはいるのだ、 あらゆる法的システムがこの男を嫌悪せず、排除しなかったことは、私たちの国ではナチズムが一般化していることの証だ、と言っています。レイボヴィッチは ナチズムを、最高の価値として人民(peuple)に価値を置くことだ、と定義づけています。

——レイボヴィッチの言うように、法が不正でありうる上に、普遍的価値がないのだとすれば、人はどのようにして決断を下すことができるのでしょうか? たとえば、アイヒマンの死刑は正しいと言えるのでしょうか?

ES——アイヒマンの死刑は、死刑に対する立場の問題です。私は死刑には反対なので、アイヒマンの場合も反対です——同時に、アイヒマンのケースは死刑反対のキャンペーンをするためには良い例ではありませんが。ともかく、私は死刑に反対で、それが一つの側面です。

 しかし、アイヒマンは何によって裁かれるか? 彼は普遍的価値の問題にのっとって裁かれるのではなく—— 普遍的価値はないのですから——、彼は自分の行為との関連で、法的な犯罪行為との関連で裁かれたのです。法は不正でありえますが、法が正しいこともありえ ます。法は、私たちの集団の代表による集合的な決定です。ですから、アイヒマンの死刑にはノーと言いますが、アイヒマンの有罪判決にはイエスと言います。 どういう基礎にのっとってかといえば、必然的に社会的な決定であるところの、ある法が基礎なのです。

——レイボヴィッチは、シオニストかつ掟を守る正統派のユダヤ教徒(ハレディーム)であり、政教分離を主張 します。しかし、九〇年代のイスラエルでは、一方では、PLOの弱体化にともない、ハマスなどのイスラム過激派が台頭し、他方では、ラビン暗殺に象徴され るように、ユダヤ教国家を目指すような極右勢力が目立ちました。『イズコール』において、イスラム過激派によるユダヤ人殺害がテレビで放映され、それを見 ている母親が露骨な反アラブ感情を示すシーンは、そうした状況を敏感に写し取っているようにみえます。このような宗教的勢力の台頭について、どのようにお 考えですか?

ES——政教分離はレイボヴィッチにとっては宗教的立場です。つまり、彼にとって宗教的な独立を保証するの は、まさしく分離なのです。これはフランスの政教分離の立場でもありました。つまり、なぜ国家と宗教を分離するのかといえば、それは宗教を隔てるためとい うよりは、宗教が支配力を握るためなのです。そこで、宗教勢力がイスラエルで政治的勢力を増してきたのは、政教分離を拒む世俗から来る状況を利用したから です。政治的にも経済的にも、国家との関係から利益を得ることができると分かっていたのです。

 同時に、イスラエルは世俗的になれない国家でもある。世俗の人の目から見てさえそうなのです。なぜなら、 ユダヤ人国家を定義するかぎりは、ユダヤ教を定義する必要がありますが、どうやって宗教的な定義からはなれてユダヤ教を定義することができるのでしょう?  ユダヤ人国家としての定義を保ち続けるためには、政治システムの内部に宗教が必須なのです。

 過激派による宗教の政治的利用の問題についてですが、私はさきほど、イスラエルの世俗国家が自らを定義す るためにどのように宗教を用いるか、例を示しました。つまり、宗教上の譲歩をする必要があり、宗教的ないくつかの法がある。中東では、政治的勢力がどのよ うに宗教を用いるか、目撃されてきました。それは宗教の政治的な道具化です。〔ラビン暗殺犯のイガール・〕アミールのような人のケースも、イスラエルの過 激な宗教的運動が、政治のために宗教を道具化したのです。

二つの「アカバット・ジャベル」をめぐって

——あなたがインティファーダの直前に撮影した処女作『アカバット・ジャベル:通過の生』では、一様に帰郷 を切望するパレスチナ難民たちの終わりなき待機状態が描かれていて、そこには政治を超えた詩情があります。占領地内の難民キャンプというきわめて政治的な 主題を選択しながら、たとえばアモス・ギタイの『フィールド・ダイアリー』(一九八二年)とは対照的に、この映画にはイスラエル兵が登場しません。その選 択は意識的なものでしたか?

ES——もちろんです。この映画は私の最初の作品ですが、後から見返すと、「閉所恐怖症」が繰り返されてい るのが分かります。閉ざされた、閉所恐怖症的な一つの状況に身を置くという考えです。観客は、アカバット・ジャベルのキャンプの内部にいて、決して外に出 ることがない。同様に、観客は学校に閉じこめられ、レイボヴィッチの書斎に閉じこめられ、アイヒマンの法廷に閉じこめられる。ですから、そうした閉鎖的な 状況があるわけです。クロース・アップというのは、ある人物や顔や状況の物理的なクロース・アップという側面を持ちますが、単にそれだけでなく、発言させ るということ、つまり発言の土台を——私はそれがパレスチナ難民の政治的な発言であることには合意しますが——イスラエルの存在とは独立して、提供するこ とでもあります。つまり、何らかの客観的な形式を拒否するということです。

 私は、一方にパレスチナ人の発言を置き、他方にイスラエル人の発言を置く、ということはしない。さらに、 単純に、たまたまアカバット・ジャベルは自己充足していて、私は常にイスラエル軍の存在があるようなガザのキャンプとは異なる、孤立し、忘れられたキャン プを選んだのです。そこで、私は難民とは何かということを考えようとしました。すべての難民が帰郷を切望しています。アカバット・ジャベルの難民だけでな く、すべての難民がそうなのです。カンボジア、コソヴォ、ボスニアなど、すべての難民が帰郷を切望する。まさにそのことが、この映画に、類推の資格を与え ているのです。

——インティファーダと、一九九三年のパレスチナ暫定自治協定を経た『アカバット・ジャベル:帰還なき平 和?』では、パレスチナ旗が象徴するような明るい安堵の雰囲気が感じられます。しかし、人々の反応は一様ではありません。若い世代はイスラエルに対してよ り攻撃的になったように見える一方で(たとえばシャディアと呼ばれるイスラム教徒の娘)、帰郷を諦めたかのように、コンクリート造りの家屋が多くなってい る。七年を経て難民キャンプを再訪したとき、どのような変化が印象的でしたか?

ES——私が印象を受けた最初の変化は、まさにあなたが挙げた三つの要素のすべてです。まず、彼らの話の政 治化があります。イスラエル軍に首尾よく挑戦し、インティファーダでの戦いの映像が国際的に流れたことを通じて、パレスチナ人、とりわけパレスチナ難民は 自信を取り戻しました。八七年には政治的な話はなく、人々は恐れていましたが、その恐れがなくなったのです。特に子供たちがそうで、インティファーダのお かげでしょう。これが印象を受けた第一点です。

 第二に、建築がとても印象的でした。八七年には、一人だけが、家を建てていました。他に二人いましたが、 一人だけが「私は家を建てる、私はもう帰還を信じない」と言っていた。九三年には、家を建てようとしている人がたくさんいた。しかし、インティファーダを 通じた政治的変化の感覚があったので、彼らは家を建てるのですが、同時に、かつては家を建てないことが仮住まいを示すためのシンボルだったのに対して、ア カバット・ジャベルの一人の住人が映画の最後で「家を建てることは、帰還を諦めたことを意味するのではない」と言うように、そういうシンボルではなくなっ たのです。家を建てることは、永住したり、仮住まいを止めたりすることを意味するのではないのです。

(2000年1月20日、赤坂東急にて)
 聞き手=堀 潤之/川口恵子
訳・構成=堀 潤之
『現代思想』、2000年3月号)

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