藤原公任

よみがな きんとう
名前 公任
訓読み ****
氏名 藤原
家名 ****
頼忠
厳子女王
養父 ****
養母 ****
最高位 正二位・権大納言
呼称・院号等 四条大納言
生年 966年
没年 1041年
享年 数え76才
成婚年 990年
成婚時年齢 数え25才
第1子誕生年 992年
誕生時年齢 数え27才
夫・妻 昭平親王女(藤原道兼養女)
定頼(992-1045)
女子(藤原教通室・1000-1024)
女子(遵子の養女となる・?-1023)


太政大臣・関白頼忠の一男。小野宮と号された実頼の孫。

966年、頼忠の正妻・厳子女王を母として誕生。厳子女王は代明親王(醍醐天皇第三皇子)の三女で、きょうだいに恵子女王(藤原伊尹室・義懐らの母)、荘子女王(村上天皇女御・具平親王らの母)、源保光(桃園中納言・藤原行成の祖父)らがおり、天皇家や上流貴族に深い閨閥関係を持つ尊貴の血筋であった。

この時、父の頼忠は数え43歳。正四位下・参議・右大弁の地位にあり、祖父の実頼に至っては左大臣の位を極め、まさに政界の首班を成す一族の元に、正妻腹の嫡男として公任は生を受けたのであった。

同じ年、従四位下・左京大夫・藤原兼家に五人目の男子が生まれていた。母は摂津守・藤原中正の娘である時姫。時姫にとっては末子にあたるこの男子が、後の藤原道長である。

公任誕生の翌年、村上天皇が崩御し、冷泉天皇の即位となった。政界の首班たる祖父・実頼は関白に任じられ、太政大臣の名誉職に転じた。実頼の官位はここに極まったのであるが、それは「名」のみであり、「実」の伴わないものであった。というのも、冷泉天皇は「九条殿」と呼ばれた実頼の異母弟である師輔の娘・安子の所生であり、師輔自身は既に薨去していたが、安子のきょうだいである天皇の叔父達が実権を握りつつあった。前述の兼家はその「叔父達」の一人である。

公任が数え5歳になった970年、ついに摂関の地位は「九条流」師輔の嫡男・伊尹の手に渡った。これにより、公任は「摂関家嫡流」の流れから外れ始めた訳であるが、父・頼忠は翌年には右大臣に任命されており、「小野宮」の威光はギリギリのところではあるが、なんとか光を放っている状態であった。

977年、思いもかけず摂関職が父・頼忠の元に転がり込んでくる。九条流の内部抗争の結果であり、頼忠が政界の有力者であったからではないのだが、事情はともあれ頼忠は冷泉天皇の後を受けて即位した円融天皇の関白に任命されたのである。公任は「関白殿の嫡男」となった。

公任は980年に清涼殿、つまり天皇の御前において元服し、いきなり正五位下に叙された。これはまったくもって破格の扱いであり、時の関白の嫡男として公任の元服式は極めて華々しいものであった。そもそも「公任」という名は「公の政を委任する」という意味を持つのであろうから、公任に対する期待がどれ程のものであったか窺い知ることが出来よう。公任の同母姉・遵子は円融天皇の女御となっており、頼忠の一家がまさに一番煌いていた時に、公任は元服したのであった。

しかしこの980年という年は、頼忠一家にとっては必ずしも好事ばかりのあった年ではなかった。

円融天皇には公任の姉・遵子の他に、天皇の叔父である兼家の二女・詮子も女御として入内していた。その詮子がいち早く天皇の第一皇子・懐仁を生んだのである。

後宮政治においては皇子を生むか生まないかが重要なファクターであり、結局この懐仁親王の存在が頼忠と兼家の勝敗を分けるのであるが、年若い公任がどこまでその事実を認識していたかは不明である。982年、姉・遵子は皇子を生んでいないにもかかわらず、関白の娘であるということから、詮子を差し置いて中宮となった。兼家と詮子がそれを不服としたことは言うまでもない。公任は姉の立后により従四位上となった。弱冠数え17歳で、異例の昇任であった。得意の絶頂であった公任が、詮子のいる東三条第を通りかかった時、「ここの女御様はいつになったら立后できるのでしょうね」などと言い放った話が「大鏡」に記載されている。事実だとすれば、まさに公任の若さ故の暴言であり、また、頼忠一家がいまだ遵子の懐妊に期待をかけ、楽観視していたことの表れだろう。

遵子の懐妊に先に見切りをつけたのは、円融天皇その人であった。円融天皇は、内裏が焼亡した際には頼忠の邸宅である四条坊門大宮第に遷御されるなど、叔父である兼家よりも頼忠の方を重用している感すらあったのだが、結局、藤原氏の政権争いに疲れ、自ら譲位し、自身の唯一の皇子である懐仁親王を新東宮とすることで兼家との和解を図ったのである。兼家が東宮の外祖父となったことで、頼忠の一家はまさに崖っぷちに立たされた。しかし、新たに即位した花山天皇の関白にも頼忠は引き続き就任し、まったく基盤の無い脆弱な環境下ではあったが、とりあえず「関白」という「名」を維持することは出来ていた。

寛和元年(985年)の11月、公任は再び遵子の恩給により正四位下に昇任され、翌年の3月には伊予権守を兼ねたが、それが「関白の嫡男」としての、最後の昇任となった。

その年の6月、花山天皇は兼家の謀略にはまり、出家・退位した。東宮・懐仁親王が即位(一条天皇)し、摂政には外祖父である兼家が就任した。これ以降、頼忠・公任の属する小野宮流に摂関職が巡ってくることは二度と無いのである。公任はこのとき数え21歳であった。

政治の実権は、名実共に兼家とその息子達が握ることになった。

兼家が摂政に就任した翌年には、公任と同年生まれの道長が従三位に叙されている。兼家の五男坊にすぎず、しかも受領階級の娘を母とする道長が、いとも簡単に位階を抜かしていく現実。公任が従三位になるには、この後12年の年月を経ねばならない。

公任が和歌に極めて優れた才能を発揮したことは有名である。花山天皇の御世には優秀な歌人を集めたサロンのようなものが形成され、公任もその一員であった。また、公任は和歌だけでなく、あらゆる文芸に秀でており、いわゆる「三船の才」の説話は「大鏡」に載るものである。道長主催の舟遊びにおいて、「漢詩」「管絃」「和歌」に秀でた人々をそれぞれ3つの舟に分けて乗せ、その才能を競わせるという企画を立てたのだが、公任はいずれの才能にも優れていたので、いったいのどの舟に乗せるべきか決めかねる状況であった。道長は公任本人にどれに乗るか問いただしたところ、公任は「和歌」の舟を選んだのであった。その時に詠んだ「小倉山 嵐の風の寒ければ もみぢの錦きぬ人ぞなき」は人々の期待を裏切らぬ秀歌であったが、後に公任はやはり「漢詩」の舟を選ぶべきであったと後悔したという。

「大鏡」に描かれている公任は、文芸を愛好する純粋な風流人などではない。そこには、自らの才能を活かし、地位や名声を望む一官僚としての姿がある。「和歌」ではなく「漢詩」を選べばよかった、というのは、当時の男性官人にとって漢詩が第一の文学であり、必須の教養であったことを示している。和歌も出世のためには重要な要素ではあるが、多分に遊戯的な意味合いも多く含むものであるから、官人としての立身を望むのであれば、漢詩によって名声を高めておいた方がよかった、ということなのである。

上記の説話は多分に脚色されてはいるが、それに近いことは史実としてあったらしい。そして、風流人には成り切れない公任の心境を明確に表しているのが、993年の大原野行幸のサボタージュである。一条天皇の初の大原野神社への行幸であり、ほとんどの公卿が同行したにもかかわらず、公任は参加を拒否したのであった。

もはや時代は九条流のものとなっていたから、官位の昇進などは公任の望むべくもない。門地の高さでは誰にも引けをとらない公任であったが、前年の992年にやっとのことで参議に昇進している状況であった。ちなみに道長はこの年、従二位・権大納言に昇進しており、その差はもはや比較の意味さえ持たぬものになりつつあった。己の華やかなりし時代を体験しているだけに、立場の逆転した現在の状況を認めることは公任にとって大変な苦痛であり、どれだけの葛藤があったかは想像に難くない。翌年の行幸のサボタージュは、それらの不満が鬱積した結果、もはや気持ちの収まらぬところまできてしまったということなのであろう。このサボタージュについては人々の批判を当然浴びたが、やはり公任に対し同情の余地もあるということなのであろうか、それとも九条流の懐柔策の表れであるのか、一時的な出仕の停止だけで済んだのであった。

もちろん公任とて、いつまでも過去の栄光にすがっていた訳ではない。九条流の人々と妥協、かつ迎合しようという意思も見せている(それこそが葛藤の原因であるのだが)。

話は前後するが、正暦元年(990年)の12月、数え25歳の公任は昭平親王の娘と結婚している。この年まで公任が一人の正妻も持っていなかったとは到底思えないが、あるいは政治的に常に不安定な立場にいた公任は良縁に恵まれぬまま年を経てしまったのであろうか。

さて問題はこの昭平親王の娘が兼家の三男・道兼の養女であったことである。「栄花物語」には「昭平親王の娘は大変な美女で求婚者が多く、その中で特に公任の文は見事で感じ入るものがあったので、道兼は意を決して公任を姫君の婿として迎えた――」という、いたって表層的な説明のみがされており、その裏にある政治的な事情については一切語られていない。しかしこの結婚が、道兼と公任が手を組んだことの表れであることは言うまでもなかろう。

兼家は同年の7月にすでに薨去しており、政治の実権は兼家の一男である道隆に移っていた。道隆の一女・定子は兼家がまだ存命中の同年の1月に一条天皇の女御として入内しており、兼家としても道隆を自身の後継者と認定していたようである。

道兼はそれが多いに不満であった。兼家一家の元に政権が安定したのも、己の努力に拠るところが大きいとの自負があったから、道隆に対してはあからさまな敵愾心を持っていたし、また、父・兼家に対しても恨むところが多かったのである。

定子の入内、兼家の薨去・道隆の関白就任、道兼養女と小野宮流である公任との結婚。これら一連の動きが、990年という同じ年に行われているのは、果たして偶然なのであろうか。

あるいは、道兼の養女は、そもそもは入内を目的として貰い受けた姫君だったのかもしれない。しかし、道隆の関白就任により、入内の可能性は限りなく低いものになったので、道隆への当て擦りの意味を込めての、他流派である公任との結婚だったとは考えられないだろうか。

いずれにせよ、九条流内部でも様々な衝突があり、必ずしも一枚岩といえる状況ではなかった。公任としては九条流の人々に迎合する必要に迫られていた訳であるが、その相手に道兼を敢えて選んでいるところに、公任の複雑な心境を垣間見ることができる。もともと道兼と公任の間には交流があったようで、「主流」に対する「傍流」の反逆という意味で共通する感情があったのかもしれない。道隆に睨まれている道兼とタッグを組んだのであるから、公任の昇進がさらにはかばかしいものでなくなったのは、ある意味当然の流れではあった。

公任は自身の血筋に対しては相当な誇りを持っていた。兼家の母も、道隆らの母も、代々受領層の娘であり、定子に至っては高階氏の娘が母であるから、「血統」の意味においては、公任は最高貴種といってもいい部類の人間であった。道兼の養女は、村上天皇の第九皇子であった昭平親王と、藤原高光(兼家の異母弟・師輔の八男・母は雅子内親王)の娘の間に生まれた姫君で、この血筋の良さにも惹かれるものが大きかったのだろう。官位的には不遇であっても、己の尊貴性だけは守りたいという公任の心理が、少なからず働いているように思われる。

しかし、こうした入り組んだ人間関係や感情をよそに、自然界の法則は無差別に人々に襲い掛かる。995年、京に疫病が猛威をふるい、多くの公卿たちの命を奪っていった。権中納言以上、14人いた公卿たちの実に8人までもが、この年に亡くなっているのである。

道隆・道兼が薨去した後の摂関職を巡る争いについては割愛するが、勝利したのは、公任と同年生まれの道長であった。当時道長は従二位・権大納言。内大臣であった甥の伊周を抑えての内覧(摂関に准じる地位)就任であった。

「権中納言以上」ですらなかった公任は、これらの急激な政治変動の中で、一傍観者にすぎなかった。栄華を極めたはずの一家があっけなく敗れ去っていく現実。特に目立たなかった道長が一気に政界の頂点に上り詰めていく様子を見て、公任はある種の悟りの境地に至ったのかもしれない。これ以降、公任は権力者である道長に追従し、道長一家との閨閥関係をもって己の立身出世の糧としていくのである。

悟ったとはいっても、政治的な興味を失って風流人として生きることを志したわけではなく、あくまで自身の文芸の才を活かしつつ道長に追従することで出世を狙った、というところがポイントである。

999年、公任はようやく従三位に叙せられた。そしてその年に行われた道長の嵯峨遊覧に公任は同行し、「滝の音は たえて久しくなりぬれど 名こそ流れて なほ聞えけれ」(この歌は百人一首に採られている)と詠んでいる。さらに同年、道長の一女・彰子は一条天皇の許に入内するのだが、その際、道長は入内のための屏風に和歌を執筆することを有力貴族に依頼した。公任も当然依頼を受け、もったいぶりながらも七首ほど詠んだらしい。そのうちの一首、「紫の雲とぞ見ゆる藤の花 いかなる宿の しるしなるらむ」は「紫の雲(皇后の異称)のように見える藤の花(藤原氏の象徴、ここでは藤原彰子そのひとを指す)はいずれの家の吉兆の印として咲いているのでしょうか」という意味であり、道長に対する世辞以外のなにものでもない歌である。

そもそも、嵯峨の遊覧にしろ、彰子の入内にしろ、事は道長一家の私事にすぎず、公人である公任らが参加する義務はないのであるが、時の権力者には追従すべきという意思から、およそほとんどの公卿が道長の行動に従ったのであった。公任と同じ小野宮流で従兄弟の実資は気骨のある人物であったから、これらの道長の公私の分別の無い行動に対しては概して批判的であり、同じ一族でありながら道長に迎合する公任を不愉快に思っていた。

実資の不快をよそに、公任は道長との親密の度合いを深めていった。従三位に叙された翌々年には正三位・中納言に昇進し、1005年に従二位、1009年に至って権大納言となった。道長は「飴と鞭」の使い分けが上手な人物であったし、無駄に敵を増やすことを望んでもいなかったであろうから、道長に同調する意思を明白にした公任に対しては好意的に接していたのである。その最たるものが、1012年に執り行なわれた道長の嫡妻腹の五男・教通と公任の一女との結婚であった。

道長には息子が多かったが、それらの男子を婿として貰うことは、政治的に非常に有効なことであった。おそらく道長の息子達は、年頃の姫君をもつ各公卿たちからは引く手あまたの状態であったろうが、その中でも公任の娘が教通の正妻となれたことは大変な幸運であった。やはり公任の門地の高さが、今だ人々の心に根付いていたことの表れであろう。

公任の一女と教通との仲は、至って愛情深いものであったから、公任としても愛娘の幸福に胸を撫で下ろしたことであろう。結婚の翌々年には女子が誕生しており(後の後朱雀天皇女御・生子)、その後も間断なく二人の間には子供が生まれ続け、結局、公任の一女は8人もの子の母となったようである。

公任はこの結婚の年に正二位に昇任している。これは女婿である教通の譲りを受けてのもので、教通を婿に貰ったことが早速功を奏した訳であるが、結局この昇任が公任にとっての最後の昇任となるのであった。

公任自身には比較的子供が少なかったので、次々生まれる孫たちをどれ程愛しく思ったことであろう。孫たちの中でも、特に長女の生子は幼少の頃から才気の片鱗を見せる美少女だったようで、公任の孫娘に対する期待は大きかった。道長の嫡男・頼通は、具平親王(公任の母方の従兄弟)の一女・隆姫女王を正妻としていたが、未だ子供を生むに至っていなかったので、生子は道長一家の大事な「后がね(お后候補)」として有望な姫君だった訳である。自身の直系は無理であっても、外孫を通じて天皇家、摂関家に交わることに望みをかけたのであった。

官人としての公任の終焉は、1024年のことである。

前年に姉の遵子の養女としていた二女を亡くしていたのだが、この年になって教通の室となっていた一女が産後の肥立ちが悪く、引き続いて亡くなってしまったのである。一女を亡くした後はまったく出仕しない日が続き、12月になって辞表を提出、受理されたのであった。

立て続けに二人の娘を亡くした公任の嘆きは深く、ついに出家の意志を固めた。これまで数々の不遇に喘ぎながらも、世俗から離れることなく必死に政界を泳いできた公任であったが、やはり子に先立たれた事実は、この世の全てのしがらみを打ち消すほどの衝撃であった。

出家の前に、最後の別れと思い孫たちのいる二条殿に出向いた。孫の中でも生子や真子(教通の二女)はすでに事の次第を理解する年齢になっているので、祖父との別れを惜しんで泣きじゃくるのであった。通基(二男)や信長(三男)はまだ幼子であるので、祖父の来訪を純粋に嬉しく思い、公任の頸にすがったり膝に乗ったりして無邪気な様子であるのが、かえって人々の涙をさそうのであった。

1025年の年末になって、公任は精進のために長谷に入山。翌年の1月、僧都を呼び、剃髪、戒を受けるに至った。

こうして公任は世俗の全てのことから解き放たれた。教通などは舅の出家に衝撃を受け、長谷まで駆けつけて「(東宮妃候補である)生子の将来などについてもこれからだというのに、お見捨てになってしまうとは」と嘆くのであった。

実際、この教通の嘆きは尤もなことで、公任の出家の翌年には道長が薨去し、その後は道長の息子達の間での抗争が表面化してくるのであるが、教通としては舅のバックアップがあればと思うこともあったであろう。

博識で文芸の才に秀でた公任は、政界を離れてもその方面では重用され、長谷への来訪者は多く、最初の頃はかえって出家前よりも忙しいほどであったという。

公任は出家後、15年の長い年月を生き、長久2年(1041年)の1月1日に至り逝去。数え76歳。関白・頼忠の嫡男として生まれ、天皇の御前で元服式まで行った彼が、ついに大臣どころか「正」大納言にもなれずに終わったのであるから、政治家としての彼は不遇であったと言っていいだろう。しかし、彼の才気は和歌を始めとして、あらゆる分野において人々の認めるところであり、「寛弘の四納言」として後世に讃えられた。また、「歌人・藤原公任」の残した「三十六人撰」など数々の業績は、貴重な資料として現代においても多くの研究対象となっているのである。

妄想発言……でもないか。「栄花物語」の紹介です↓

余りにも悲しすぎる「栄花物語」のあの場面について語らせてください。上↑にも書きましたが、出家直前の孫たちとの別れの場面です(泣)。

公任は、別れを告げに二条殿までやってきたのはいいのですが、門をくぐったところでもはや感無量状態。涙を堪えるのに必死です。西の対に行くと、数え12歳の生子が手習いをしているところでした。母を亡くした生子は子供ながらも一家の女主人然としており、それがまたいじらしく映るのでした。生子の隣には、妹の真子がにこにこ笑いながら座っています。生子の手習いを見てみると、昔を恋い慕う古歌を繰り返し書いているのでした。亡くなった母のことを想っているのでしょう。公任はもはや涙を堪えきれず、生子たちの前で涙を零しました。それを見て、生子は祖父の来訪の真意を悟り、泣きじゃくります。真子も泣きたい気持ちでしたが、まだ幼いので、「悲しいことが起こっている」ことは理解しているのですが、それにつられて泣くことが恥ずかしく思えて、顔を紅くしながらも涙を我慢しているのでした。

そうこうしていると、生子の弟たちである通基と信長がわいわい言いながらやってきました。「あっ、おじいちゃん来てたんだ! 今まで気付かなかったなんて、ぼくたちってばかだなあ!」「おじいちゃんの首につかまるのは、ぼくだよ!」「膝に乗るのは、ぼくだい!」なんて言いながら、公任にひっついて騒いでいます。「ああ、駄目ですよ、そんなにおじいちゃんに乱暴にしては。やめなさい、やめなさい」などと注意するのですが、そんな孫たちの無邪気な様子が人々の涙をかえってさそいます。公任は着物の袖に顔を押し当てて泣いています。周りにいる人たちも皆、もらい泣きしてしまうのでした………。(以上、超異訳。でもだいたいこんなカンジ)

ああっ、悲しい(号泣)。なんでこんなに具体的なの、この場面! 特に通基・信長の無邪気な様子ときたら…。なお、こんなに愛しい通基は、公任の亡くなる丁度1年前に、喀血して数え20歳の若さで亡くなります(悲)。いっぱいいる孫たちのほとんどが、実子を得るに至らず、教通と公任の一女の血筋が早くに絶えてしまうのは非常に残念なことです。

光と影を両方経験しつつも懸命に「道長の時代」を泳いだ公任については、もうちょっと書きたいこともあるのですが、あんまりにも長くなるのでやめます(笑)。「寛弘の四納言」なんて一回しか書けなかった(爆)、それがメインなのに。

公任と、お父さんの頼忠については二つで一つの項目としたかったのですが、止めました。内容がかぶってるところも多いのですが、カットしちゃうと意味が通じなくなるところもあるので、そのまんまにしてあります。