ページロゴ 大日本クリスマス小史


■キリスト教の伝来とクリスマス

そもそもの“いわれ”(*1)は置いておくとして、クリスマスが、キリスト教の祝祭として日本で初めて祝われたのは、フランシスコ・ザビエルが離日した翌年といいますから16世紀の中頃、1552年のことでした。
この年の8月、守護大名の大内義長は、ザビエル離日後も滞在していた布教長・トルレスに山口での教会建設を許しています。これを記念して1552年の12月、山口の同教会にて、日本で最初のクリスマス礼拝が厳かに催されたのでした。

ついで1559年、ポルトガルの宣教師ガスパル・ヴィレラが来日し、時の将軍足利義輝に布教の許可を得てからは信徒の数も増え、1563年、大村純忠が洗礼を受け、日本で最初のキリシタン大名となって大村領長崎の地に教会本部が置かれると、資料によれば天正8年(1580年)、西日本全域に信徒10万を数えるほどにキリスト教は普及していました。

もちろん、信徒がいて教会があれば、そこでクリスマスが祝われます。

けれども7年後の1587年6月、豊臣秀吉が伴天連追放令を全国にくだし、つづく天下人・徳川家康も禁教を命ずると、信徒が消えてゆくとともにクリスマスもまた消えてゆくのでした。
ひょっとすると、長崎の出島などでは南蛮人たちが内々に祝っていたかもしれませんが、いまのところ詳しい資料を手にしていません。
 
それが幕末、日本の開国とともにクリスマスは“再伝来”します。
1858年7月29日、米国とのあいだに結ばれた「日米修好通商条約」には、その第8条に「居留地における外国人の信教の自由の保証」と「礼拝堂の建設許可」が盛りこまれていました。
開国ののち、日本には各国の公使や商人などが居留するようになりましたが、そんな彼らの手により、幕末、クリスマスは日本に復活します。
ただし幕末・開国といえども家康・家光以来の禁教令は生きていたので、日本人への布教はむろんのこと、日本人が教会・礼拝堂に立ち入ったり、クリスマス礼拝に参加することは厳しく禁じられていました。

■浦上事件と禁教令の廃止

幕末の1865年(元治2年・慶応元年)、できたばかりの長崎の大浦天主堂に浦上在住の潜伏キリシタン(隠れキリシタン)があらわれ、信仰を告白するという事件が起きました。これを契機として長崎に秘密教会が作られ、ひそかに日本人への布教がはじめられます。
やがて明治――。
実は明治政府も当初はキリスト教徒に対して厳しく、明治2年(1869年)、4年前に信仰を告白したものをふくむ浦上信徒3384名を断罪し、長崎から西日本各地へと流罪に処す事件が起きました(*2)
処分理由のひとつには、島原の乱のような争乱が起きては困る――というものもあったそうです。また、江戸時代以来のキリスト教禁教措置の継続については、時の仏教界が政府に強く働きかけてもいました。
国内的には異論もなく一件落着した事件でしたが、これを重大事と受けとめたのが、日本の近代化を見つめていた欧米各国でした。
キリスト教を重んじる欧米各国は、この事件を「宗教弾圧」と見なし、在日公使を通して強く抗議したのです。
とばっちりを喰ったのは欧州を歴訪していた岩倉具視一行で、各国との条約改正の論議もそこそこに、この事件について正される始末だったとも伝えられています。
結果、明治6年2月、明治政府は徳川以来の禁教令をついに廃したのでした。
むろん流罪に処されていた浦上信徒も無罪放免となりましたが、流刑の地で牢に押しこめられ、日々、改宗を迫られ責められていた信徒のうち600名ほどは、すでに亡くなっていたといわれています。

■文明開化とクリスマスの普及

明治初頭に再伝来、再普及しはじめたキリスト教は、先進の西洋文化のひとつ、自由思想や人権思想といった学問のひとつとして、時の知識人たちのあいだに浸透してゆきました。
当時、キリスト教を「文明の宗教」とも呼んでいたそうです。

こうして禁教令が解けた明治6年以降、クリスマスは在日の外人キリスト教徒や日本人教徒のあいだで祝われはじめたのですが、では、これがなぜ信徒でもない庶民のあいだにも広まってゆくことになったのでしょう?

答えは簡単。そう、サンタさんがいたからです。

近代日本初のサンタクロースは、明治7年、築地の東京第一長老教会にあらわれました。
けれども、このときサンタに扮したのが元江戸南町奉行所の与力・原胤昭なる人物だったため――その姿といえば、裃に大小を差したサムライ姿にカツラをかぶった珍妙なものだったと伝えられています。
クリスチャンだった原胤昭は明治9年、築地三十間掘に原女学校というミッション・スクールを開き、ここでもクリスマスを祝いました。この祝いに参加した生徒のなかには、のちに津田塾大学を起こす才媛・津田梅子の母親こと津田仙がいました。

また、明治8年には横浜にもサンタがあらわれたそうです。このクリスマス会を主催したのは、横浜・山手にフェリス女学院を開いたアメリカ改革派教会の女性宣教師メアリ・エディ・ギターでした。
こちらはきっと、ちゃんとしたサンタさんだったのはずです。

こうして、各地の教会やミッション・スクールに年1回あらわれはじめたサンタクロースは、やがて「プレゼントをくれる爺さま」として庶民のあいだにも興味をもって記憶されてゆくのでした。

ひとつには、よい子にしていればサンタがプレゼントをくれる――という説話が日本人にも受け入れやすかったことがあるでしょう。これを横田順弥氏は「傘地蔵」と表現していますが、まさにサンタの来訪は、日本人にもなじみある善因善果の説話の一形態といえます(*3)。
横田順弥氏の『明治不可思議堂』(ちくま文庫)には、明治31年、日曜学校用に編纂されたと思われる『さんたくろう』なる物語本のことが紹介されています。
とってもおもしろいので要約のうえ簡単に紹介しておきますと――。

吹雪の夜。8歳になる少年峰一のもとに、飼い犬が見たこともない帽子をくわえて帰ってきた。犬はなお、峰一少年の袖をくわえて外に引っ張ろうとする。連れられるままに峰一が吹雪のなかを歩むと、なんとそこには行き倒れの男がいた。家に保護した男が目を覚ますと、峰一の父は、これは神のおぼしめしだといい、男にもキリスト教徒になるよう諭した(峰一の家族はみなクリスチャンなのであった)。
数日後、男は自分の村へと帰ってゆく。
そうこうして翌年の春、峰一の父親が倒れた。容態は悪かったが、峰一が熱心に神へ祈りを捧げると、ようやく父親も回復した。
けれど好事魔多し、父親は半年以上も床にふせっていたので、収入はなく家には蓄えもない。
孝行息子にクリスマス・プレゼントも買ってやれない。
そんなクリスマス・イブの夜。
プレゼントがもらえないと知った峰一はガッカリして寝てしまったが、そこに深夜の来訪者があった。
あの、行き倒れていた男だった。
彼はクリスチャンになっていた。
村の仲間を引き連れ、たくさんの贈り物をもって彼は恩返しにきたのだ。
以下、引用。

目を覚ました峰一が枕元を見ると、たくさんのプレゼントが置いてあり、一枚の紙があった。
よく神様の教へを守り、阿父さんを助けて旅人を命を助けたり、誠に熱心な子でありますから、此の贈物を上げます。

ホクコク オヤヂ サンタクロウ
北国の老爺 三太九郎

峰一殿

ね、ほとんど『傘地蔵』のような話でしょう?

善因善業を具現するサンタクロースという存在は、やがて明治末から大正時代にかけて、キリスト教義や宗教祭事とは関係なく、1年をしめくくる歳末にふさわしいキャラクターとなってゆきます。

これには、明治も末になると商業が盛んになり、国産、舶来、さまざまな商品が店にならぶようになったことが関係します。たとえば、浅草12階とも呼ばれた凌雲閣が、店内に46の売店を擁してオープンしたのが明治23年のことでした。
いよいよ街は活気づく――。
そんななか、いかにしてさまざまな品を売るか……と考えたとき、歳末クリスマス特売というアイデアが商人たちの頭にきらめいたわけですね。
いっぽう大正時代、東京や大阪といった都市部が栄え、新興住宅地に若いビジネスマン夫婦や核家族が住み始めると、ここを中心としてモダンなライフスタイルが流行しました。
当時の言葉でいう「中産階級」のひとびとが、西洋のモダンな風習であるクリスマスを楽しみはじめたのでした。
これはちょうど戦後、アメリカのホーム・ドラマに描かれたライフスタイルが若い世代の憧れのまととなった事情とよく似ています。

大正期の『アサヒグラフ』には、サンタに扮した外国人男性やさまざまな玩具の写真とともに、こんな一文が添えられていました。

メーリークリスマス
可愛い、嬢ちゃん、坊ッちゃん達はどんなに楽しんでお待ち兼だつたでせう。
サンタクロースのお爺さんは沢山のきれいなおみやを下さいましたでせう。

クリスマスが戦後のものとばかり思っていた方々には意外でしょうが、実は大正末あたりには、さまざまな商店や百貨店が、こんな塩梅でクリスマス商戦を組んでいたのです。当時、すでに「クリスマス」は俳句の季語になっていたほど知られていました。

それが廃れたのは――昭和戦中のことでした。
満州事変の勃発が昭和6年。満州国の建国をめぐり欧米と対立、日本が国際連盟を脱退したのが昭和8年。
ついで昭和12年には支那事変が起き、日本は長く中国大陸で戦いながら、昭和16年12月8日、とうとう米英との決戦に突入しました。

この年の12月は、いったい、どんな風景だったんでしょうね。

焼け跡や、焼け残った街にぽつりぽつりとツリーが戻り、ひとびとがクリスマスをふたたび祝うようになったのは、戦後も昭和20年代末から昭和30年になってからのことだそうです。もちろん占領下日本では、戦勝に酔う米兵たちの手でクリスマスが祝われていたようですが――。

【補足】
石井研堂の『明治事物起源』から。ちなみに同書は、初版本発刊が明治41年、増訂版が大正15年刊、増補改訂版が昭和19年刊という歴史あるもので、近年、増補改訂版を底本としつつ諸版を参照した筑摩書房版が全8巻シリーズとして刊行されました。
クリスマスについては、第7巻収録の第15部「暦日部」に「クリスマスの始め」として解説があります。

クリスマスの初めは、右のごとく、真の基督教信者のみ打ち集まりて、日本在来の蜜柑やおこしや手帛(ハンカチ)、前垂れなどの交換に過ぎざりしが、外国より、クリスマスについての物品を輸入せるは、横浜のケレー商会を始めとし、東京にては丸善を始めとす。

同書によれば、ノートブックやプレゼンテーシヨンブックの輸入は明治18年ごろから始まり、明治21年ごろにはクリスマスカードの輸入も始められていたそうです。
で、明治も中頃から末にむかうにつれ、クリスマスも広まり、もとは信者の祝いだったクリスマスも、日本の年中行事のひとつになっていったわけですね。
明治35年には、こんなアンケートが可能となるほど庶民のあいだにもクリスマスは広まっていました。

横浜のクリスマス人気プレゼントベスト3

<明治35年12月24日調べ>

 1位 人形などの玩具      1〜5円
 2位 麻のハンカチ  1ダース 3〜7円
 3位 帽子           4〜5円

 以下、メリヤス      1組   9円
    手袋           2円50銭
    香水      3本1函 4〜7円
    写真ブック        5〜10円
    舶来シルク傘       7〜12円

  協力:西洋小間物屋境町大宮商店
     山下町59番レンクローフォールド

以下、断片的な情報を紹介しておきます。

■明治21年、横浜グランドホテルで“クリスマス夜会”が開かれた。
「来る廿五日は例のクリストマスに付き、横浜居留地の各商館及び各銀行とも休業、思い思いに祝祭をなし、かつ廿番グランドホテルに於いて夜会を催す」

■明治25年から、新橋日吉町の壺屋支店が「クリスマス菓子」を発売。

■明治37年12月、銀座二丁目の“キリンビール明治屋”では、すでにクリスマス・イルミネーションを夜ごと点灯していた。
店内では“年末年始の贈答品として、種々の趣向を凝らせる珍品を廉価に販売する由なり”といった塩梅でクリスマスセールが催されてもいた。

■明治41年ごろ、明治屋は「今年も例の通りクリスマスの売出しを致し見せへは花やかなクリスマス飾りを施し」ていた。

■明治43年、横浜・元町の不二家が初めて「クリスマスケーキ」なるものを製造販売する。


(*1)そもそものいわれ 
イエス・キリストの生誕日を正式に12月25日としたのは、4世紀の教皇ユリウス1世だった。それ以前には日がまちまちだったどころか、教会としてクリスマスを祝うこともなかったという。
というのも、そもそも年末のこの時期には、古代ローマ由来の冬至祭や各民族の神話に由来した通過儀礼としての祭りがあった。クリスマスが広く欧米社会に根づいているのは、もともとキリスト教とは関係なく祝われていた祭りが、長い時間をかけて生誕祭と習合していったからである。
ひとびとがいきなりロマンチックになり、食事だプレゼントだと騒ぐ姿も、年末恒例の消費的、家族的、恋愛的な通過儀礼とくくり直せば、それほどバカバカしいことでもない(かも)。

(*2)浦上事件
浦上教徒事件とも。1865年3月18日、浦上天主堂のマリア像の前で、隠れキリシタンがパードレに信仰を告白したことが発端。ちなみにパードレとはポルトガル語で司祭を意味し、これが訛って「バテレン」の語が生まれた。
以降、浦上信者たちは信仰生活にはいり、幕府由来の寺請制度を破ってゆく。これを問題視した明治政府は、明治元年および2年に、浦上村のキリシタンたちを根こそぎ流罪に処した。これが外交問題に発展し、禁教令廃止につながったことは本文に書いたとおり。

(*3)善因善果の説話
異界の住人が福を与える話は、たとえば桃太郎、一寸法師などの説話にも共通するパターンであり、西洋にもある。
ヨーロッパでおこなわれている「聖(セント)ニコラウス祭」は、聖ニコラウスが異形のしもべを従えて家々を訪ね、子供たちを怖がらせながら「よいこ」がどうかを調べてプレゼント授ける。日本の「なまはげ」とよく似た祭りだ。

参考文献
『日本キリスト教総覧』   新人物往来社
『サンタクロースの大旅行』 岩波書店   葛野浩昭
『明治不可思議堂』     筑摩書房   横田順弥
『明治事物起源』      筑摩書房   石井研堂
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