大連市内で知り合った中国人に、是非旅順に行ってみたいと思っていることを話しました。
彼等は「中国人と一緒に遊びに行くことはことはかまわない」と言うのです。
半信半疑ながら土曜日ホテルに迎えに来てくれると言うので待っていました。
明け方まで降っていた雨はあがって、ひんやりとした空気が、ちょっぴり緊張した身体に心地よく爽やかな朝でした。
約束にたがわず9時過ぎ、知り合った時と同様、明るくなんの屈託もない笑顔で迎えに来てくれました。9時半のバスに乗るから急いでと……ちょっとせかされて、こうして旧三越の裏手からバスで南路経由、旅順に遊びに行ったのです。

昨年(1987年)5月のことでした。
途中左手の大きく茂ったアカシヤの林にカササギの巣が沢山ありました。
アカシヤは例年より遅いようでやっと咲きはじめたかな?といったくらいでした。
白銀山のトンネルを抜けて旧市街の終点でバスをおりました。
10時40分でした。
停留所近辺は大変賑やかでしたが、私にはそこがどのあたりなのかわかりませんでした。
少し歩くと白玉山の登り口の所に出ました。その前は公園になっていました。
彼等は白玉山に案内したかった様ですが、私は博物館の方に行きたいと言うと、そこからまた市内バスに乗り、懐かしの新市街へ……。

後楽園の所で下車しました。なんと静かな、なんと広々とした風景でしょう。
まず感じたのは空の広さでした。
高い建物によって区切られた狭い小さな空間でしかない東京の空を見慣れている私には、旅順の空の広さが大変印象的でした。
そしてその事が街全体を広々と、とても明るくしているように思えました。
風もなく晴れた五月の空に、薄むらさきの花を満開に咲かせた桐の並木が、グラウンドの方へと続いていました。
その蔭にあの懐かしい白亜の校舎、胸がキュウンとつまって息苦しくなりました。
ああ、こここそは旅順なり、母校なり、わがふるさとなり。
あの向こうは旅順の海、思わずかけだしたくなるのを、涙とともにこらえました。
そしてゆっくりと師範学校の正門の方にまわりました。
42年前、この道を馬車で旧市街へ非難する時、校舎の窓やベランダに白衣をまとつたソ連の傷病兵が群がって、去り行く私たちを眺めていた光景が脳裏をかすめました。
正面から見ると、築山はなく玄関に数人の中国人の姿が見えました。
守衛らし人に入ってもいいか尋ねたのですが、断られました。
スポ―ツの合宿所になっているとの話も聞きましたが、それらしい雰囲気は伝わってはきませんでした。うしろ髪を引かれる思いで来た道を引き返しました。
後楽園の入口には「旅順植物園」と書かれていました。
師範学校北側には「○○総公司」とか「○○酒店」といった看板が出ていました。

今度は関東神宮への道を、かつて通いなれた学舎への道をわが家の方へと行くことにしました。
頭上をおおっていて桜並木はなく、広い道路には二本のグリ―ンベルトが整備され、とてもすがすがしく清潔な感じがしました。
右手のゴルフ場には新しい建物が並び、かなり大きなホテルも建っています。
広い道の真ん中を、行き交う人もなくて、ぶらぶら歩いて吉野橋を右手に折れ、日進町のあたりをひと巡りして松村町のロ―タリ―へと出ました。

日進町は私が終戦まで住んでいた所です。
かつての自分の家も隣近所の家々も昔のままに残っていました。
半世紀以上を経て傷んではいても、まぎれもなく「わが家」だったのです。
今どんな人がどんな生活をしているのでしょう……。
でも訪ねることは許されません。
あの庭に、この小径に、つきぬ思い出を胸に、そっとその場を去りました。

松村町のロ―タリ―は今もバスの発着所になっています。
そこには多少人がいましたが、住宅街での人影はまばらでした。
静寂そのものです。時折荷馬車が通ります。
大連などで見る自転車の洪水は、ここにはありませんでした。
それから元警察官練習所の方に出て、博物館の前の広場に建てられた友誼塔のそばの食堂で、昼食に「餃子」をを食べました。
丁度お昼時だったこともあり、若い人や家族づれでかなり混雑していました。
土曜日で動物園や博物館に遊びにきている人達でしょう。
私はそそくさと食事を済ませて、千歳クラブを捜しました。
戦後の一時期ここに避難していたのです。夜中に二人のソ連兵が入ってきました。
既に目ぼしいものなど何も残っていない荷物をあれこれ物色していたらしいのですが、応対していた父が「酔っぱらっているから逃げろ」と奥の押入で息をころして隠れていた私たちの方に向かって叫んだのです。
当時まだ二十代だった母が、あのロシヤ建の二階の高い窓から飛び降りて外に逃げました。その気配に気付いたソ連兵が窓に走り寄り、闇に向かってピストルをやみくもに発砲しました。
いっときして彼等が出て行ってから、父が母の名を呼びながら探しに行った間、
押入の隅で怯えながら帰りを待った恐怖を、忘れる事は出来ません。
そんな恐ろしい思い出の場所ですが、やはり見ておきたかったのです。

博物館はかなりの人でした。入場券を買うのに時間がかかりましたが、一応入ってみました。桜のマ―クの入った陳列棚が使用されていました。
陳列品が昔のままに残っているかどうかは、私にはわかりませんでしたが、ミイラはありました。
ゆっくり見ている時間はありませんでしたので、ほとんど素通りで、パンフレットを買って満足することにしました。
動物園にも寄ってみました。孔雀が羽をひろげた歓迎してくれました。
水鳥のいる金網のド―ムも変わりありません。
藤棚には藤がきれいに咲いていました。
小さな桜の木にちぃちゃな実が色づきはじめているのを見て、遠い日、一緒に遊んだ幼な友達を懐かしく思い出しました。
動物園を出て、師範学校の東側、戦時中私たちが畑にしていろいろな作物を作っていた所には、戦後ソ連が建てたという「勝利の塔」があり、小さな公園になっていました。植わってある木は貝塚伊吹でしょうか。
そばには街頭写真屋さんが数人いました。お客さんはあるのかしら……?
それから高崎町の方へと、ゆるやかな坂道を登っていきました。
広い簡易舗装の道、右手には塀こそ新しいものの様ですが、昔のままの家並みが続いています。高崎荘の前を左に折れて日進町の方まで行ってみました。
左手は昔ゴルフ場で、遠く見張らしがきいたのに、今では建物がすっかり視界を遮っています。
幼い日に遊びまわった最も懐かしい場所、春には桜が咲き、秋には吾亦紅が赤紫の実をつけて風にそよぎ、見上げた空には飛行雲が長く尾をひいていた、あののどかな日々はもうかえらない。
右手の高等官官舎の一つはレストランのようでした。

扶桑町を経て日本橋の停留所でバスを待ったのですが、満員で結局旧市街まで歩いてしまいました。
駅を過ぎて朝日町の海岸まで来ると、もう大勢の人で「普通の町」でした。
帰りは北路経由。途中水師営のバス停留所がありましたが、賑やかな商店街で、私の幼ない記憶とはどうしても一致しませんでした。
北路はがたがた道で、土埃が舞い上がる、久しぶりの体験をしました。
でも道路の整備は着々と進んでいるようでした。大連まで二時間かかりました。

   いくとせふるさときてみれば 咲く花鳴く鳥 そよぐ風
   かどべの小川のささやきも  なれにし昔に変わらねど……

八っつの時に旅順を離れて、42年振りのふるさとは、昔のままに静かで美しい街でした。

---1988年 同窓会誌「霊南」より---

採録:1997年10月29日
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