第2次世界大戦でビルマ(現ミャンマー)方面で行われたインパール作戦に参加した父が、平成3年にその体験を本にまとめました。今回、こちらのサイトでも公開することにしました。父の原稿はなるべくそのままにしたかったので、明らかに誤字と分るところと句読点以外は修正しませんでした。


翔んだ青春 −泥んこ人生記−

はじめに

  翔んだ青春……
   とんでもない青春でもあった……。

 長い人生のほんの一コマではあるが、泥まみれになって生死の極限をさまよい歩いて来た者にとって、これは人生第一部の全巻のような気がしてならない。
 昭和14年12月1日現役兵として高田歩兵第30聯隊留守隊に入隊し、翌年の5月中支派遣歩兵第58聯隊に転属となり、支那事変、大東亜戦争と、7年間の戦争体験をして来ましたが、その中でも世界戦争史上もっとも悲惨な作戦と言われたインパール作戦に参加し、無二の戦友を多数失い、自らも負傷し敗走という悲惨な体験を、言葉だけの語り継ぎでは何時しか忘れ去られてしまう。
 戦死した戦友は語ることも書くことも出来ない。私達がその代弁をする事がせめてもの亡き戦友への供養になると思い、前々から書きためて来た原稿を、早く整理したいと思い立ってからすでに数十年の歳月が過ぎてしまった。
 無学な私にはとても無理と思いながらも、今やらなければ後がない、と追い立てられる気持ちでまとめてみました。
 戦場で散華された戦友のご冥福をお祈りします。

 平成3年2月          関口 榮


1.上海から南方へ

中支よさらば

 中支宜昌の第一線から退り、上海付近に集結し終わったのが、昭和18年1月22日だった。
 我々鳩班は、太山廟に鳩を残して来たのだが、まだ聯隊通信班に所属しており、和田 勇(寺泊)、関口 栄(南鯖石)、田中 信一(能生谷)、室川、諸橋、村田、吉田、伊藤、藤田等と共にウースンの支那軍兵舎跡に缶詰めされており、上海の街が目の前にあるのになかなか外出の許可は出ない。
 私達、和田、関口、田中は22次の現役兵補充で、戦地3年の最古参兵だった。
「俺達はここから別の船で内地へ帰還するが、お前達は南方行きだ」、
 と凱旋袋を作り毎日初年兵を前にして内地へ帰った時の挨拶の仕方を練習したり、土産には何を持ってゆくかなど専ら帰る話ばかりだった。
 宜昌出発の頃は内地帰還出来るものと信じていたが、上海に着く頃になるとかなり情勢は変わって来ていた。
 1月24日、街には時折粉雪が舞っていた。
 その寒空のなか全員に夏服が支給され、私達の内地帰還の夢は完全に消えてしまった。
「本当は俺達も、南方なら一度は行って見たかったんだ」。
 と強がりを言っているが、しがみついている木から無理やり引き落された様なショックだった。
 せめて一度内地へ帰り両親にこれまでの苦労を話し、その後ならあらためて覚悟はできているのだが。
 さて南方行きと決まれば心を新たにせねばならない。指揮班に交渉して外出が許可され、鳩班全員顔を揃えて上海の街へ繰り出した。
 これが支那最後の見納めになるかもしれない。街は余り綺麗ではないが、一般食堂、料理屋、土産物屋、おでん屋赤提灯もある。おそらく内地からの出稼ぎ者、というより一旗上げるつもりで海外へ来ている人達ばかりで随分景気の良さそうな店が多く、まるで内地へ来ているような錯覚をおこす。
 まず腹ごしらえが先だ、と或る食堂へ入った。丼物、ライスカレー、ラーメン、定食、色々あるが、みんな定食を食べることになり、出されたご飯の白いこと、農家生まれの俺もこんな白いご飯を見た事がない。
 初年兵は遠慮なく二膳三膳と食べるが、俺達古年兵はいざとなれば支払いを持ってやらねばならぬ、と財布の中身が心配になり我慢した。
 いざ支払いになると、全員同じ金額だったのにはいささか腹の虫が苦笑した。
 街の大通りは何も変わった事はないが、一歩路地へ踏み込むと何とも薄気味の悪い街だ。
 通信班の「及川軍曹」は、「先生(シーサン)」「先生」、「ジツエン」「ジツエン」、と寄って来るので、実印なら持っているよ、というと「先生」・「ソノジツインチガウヨ」という。「この実印でなければ何だろう」と皆を笑わせていた。とにかく船に乗る事になったのだから、色々持って行かねばならん物が沢山ある。それぞれ手分けして花札を買う、酒も必要だ、と僅か3、4時間の外出であったが最後となるかも知れない上海の街を思う存分楽しんだ。


乗船

 1月27日、我々を乗せた船は行く先を知らされないままウースンを出港した。
 甲板の上では手に息を吹き掛け、足踏みをしながら船倉へと降りて行く。
 私達の乗った輸送船は北海道の石炭を運搬する第三夕張丸という、5千トンの貨物船だった。「魔の海」と呼ばれる玄海灘に出ると揺れが激しくなり、頭上から石炭の粉が降ってくる。飯盒は船倉の隅へ行ったり来たり、船に弱い私は完全に酔ってしまった。
 漸く船の揺れが収まった頃には台湾高雄の港へ入っていた。
 甲板へ出て見るとお天気は上々、頬を撫でる潮風は青葉若葉の香りがして23才の心を躍らせる。
 粉雪の舞っていた上海と、台湾との気候の差はたった一夜にしてこんなにも違うものか。
 船は岩壁から大分離れた港内に停泊しており、甲板から見下ろすと数隻の手漕ぎの民船が輸送船の回りを行き来している。
 竹竿の先に網を付けて物売りに来ており、話がまとまると網にお金を入れて物と交換する。「バナナ」一篭日本円で5円だというので早速皆から集めた5円で「バナナ」一篭買って船倉へ降りる。
 バナナは青く新鮮で、皆に分配するのが待ち遠しく1本頂戴する。
「こりゃあ何じゃあ」 皮は堅く中身も渋い。「奴等にだまされた」仕方なく船倉の隅に押しやって置いた。
 その頃より敵の潜水艦出没が激しくなって、高雄での停泊が2、3日伸びる事になった。高雄を出港してからは海軍の駆逐艦が護送してくれて心強かったが、いつの間にかその姿も見えなくなった。


玄海灘のいたずら

 隣の指揮班では宴会が始まった、我々も潜水艦にやられる前に上海から持ち込んだ酒を呑むか、と一升瓶を探すが見当らない。さては指揮班の連中にやられたか。気のせいか俺達を見る目が笑っているようだ。
 仕方ないが俺達の酒だという証拠があるわけではない。
 玄海灘の荒波が、一升瓶を指揮班の方へ転がしたのかも知れない。
 酒を探していると、船倉の隅に放置してあった「バナナ」が柔らかくなっているのを見つけた。2、3日でこんなに柔らかくなるのなら、無理してあんな渋いのを食べなくとも良かったのに……。


黒 潮 ?

 赤道近くになったのだろうか、海は真っ黒く鏡の様にさざ波ひとつたっていない。
 これが黒潮というものか、と見とれていると飛魚が4、5十匹海面から飛び上がり、数十メートル先の海面へ吸い込まれていった。
 何事もない穏やかな航海が続く。


昭南島へ(現シンガポール)

 夜空は晴れて南十字星が見えるようになってきた。船内では色々な情報が飛び交ったが、ガタルカナル撤退援護の話も下火になって何処かへ変ったらしいとの噂が流れ始めた。しかし何処へ行くのかは誰も知らなかったが、入港した所が昭南島とわかると、皆大騒ぎとなり甲板へ飛び出して行った。
 港内には無数の小島があって濃緑の木々の間に綺麗な家が見える。
 港からの丘はゆるやかな傾斜になっており、頂上まで南方特有の緑の林のなかに、赤、黄、白と原色のトンガリ屋根が所狭しと並んであり、庭には椰子の木も間隔よく植えてある。
 初めて見る南国の風景は何と説明して良いやら、お伽の国とはこんな所をいうものか、と、夢見ごこちになった。
 岩壁に着いた船の甲板から「和田 勇」が降りて来て、
「オーイ鍋の尻みたいな顏をした黒ん棒がいるぞー」という。
「そんな黒い人間がいる訳がない」。
 と言いながら半信半疑で私も甲板へ上がってみて驚いた。黒いというよりまるで黒光りしており、本当に人間なのか、と目を疑った。


2.マレーの日々

南の島へ上陸

 昭和18年2月10日、昭南島(現シンガポール)へ上陸した部隊は、アレキサンドリヤ兵舎に落ち着いた。兵舎の前にある椰子の木には、緑の実を鈴なりにつけており「無断で取るな」、と書いた札が立ててあった。
 兵舎では慌ただしく糧秣の支給をうけ、その日の暮れかかった頃シンガポールの駅を、マレー半島の目的地に向かって汽車は出発した。
 昭南島と、マレー半島との接点、ジョホールバル水道を渡る頃は既に車外は真っ暗だったが、ジョホールの街は電灯がこうこうと灯って、都会らしい感じがした。
 マレー半島の西海岸鉄道の夜汽車は小さな駅には殆ど停まらず、途中マレーの首都クアラルンプールを発車してからは、目的地クアラカンサールの駅まで直行した。
 下車して見ると夜明けまでに少し時間があるのか、街はひっそり静まり返っており、客待の夜店のあかりだけがほの暗く灯っている。
 クアラカンサール駅の東方、ペラク川を渡った小高い丘に、点々と立つ白亜の建物の一角がわが通信班の宿舎となり、鳩班もその一棟を割り当てられた。
 芝生を綺麗に刈込んだ庭にはカンナの花が咲き乱れており、裏庭へ廻って見ると油椰子の葉陰からクアラカンサールの街並みが眼下に広がっていて、街の映画館からはボリュウム一杯の音楽が聞こえてくる。
 この豪奢な建物は元英国総督府高官の避暑地の建物だとの亊だった。
 部屋へ一歩入ると電灯がついている。
 誰かが、
「オーイ電気が来ているぞー」
 と怒鳴る声がする。
 天井には大きな扇風機がゆっくり回っていて「トイレ」は勿論洋式の水洗トイレだが、面白い事にシャワーと、トイレが同室だったのには驚いた。
 中支宜昌の山の中で敵と対侍しながら、壕のなかで3年間のランプ生活を過ごして来た我々にとって、乞食が一夜にして王様になった様な気分で、数ヶ月後に来る苦闘など知る由もなく楽しい日々が続く。


サルタン宮殿

 落ち付いて暫くした或る日、和田、関口、吉田の3人でゴム林へ猿を撃ちに行くか、と話がまとまり、それぞれ小銃を肩に出掛けた。
 ここは赤道に近いのか太陽は肌に焼け付く。しかし一歩林の中に入ると、とても爽やかさを感ずる。
 ゴム林を抜けると、左手に凄く豪華な建物が見える。門の前には小銃を持ったマレーの警察官が立っており、手真似を交えて尋ねると、ペラク州の王様の宮殿とのことだった。
 物珍しさも手伝って傍らの警察官に案内を乞うと、暫くして召し使いが出てきて、私達の小銃を警備の警察官に預けて宮廷内へ案内してくれた。
 玄関前の両脇には直径1メートルもある大きな大理石の柱が立っており、その床も大理石が敷かれている。
 宮廷内の廊下には赤いペルシャ絨毯が敷かれ、天井から豪華なシャンデリヤが吊り下がっていて一遍に度胆を抜かれてまった。
 階段を上がる頃には完全に足がすくみ、これはえらい処へ来てしまった、と後悔したが間に合わない。
 いよいよ度胸を決め、俺は日本の軍人だ、と自分の心に言い聞かせ陸軍のドタ靴で赤絨毯を踏みしめた。
 案内人に各所を見せて貰い、金、銀、ダイヤモンドや、素晴らしい象牙細工など装飾品のある謁見間に通された頃は大分落ち付きを取り戻してきたのだが、そこで「アルバム」のような記帳を出され署名して下さい、といわれ、めくってみると日本軍の高官、山下奉文、寺内大将などの他、世界各国の名士らしい英語が書き連ねてある。瞬間体中の血が一気に頭へ昇り詰めて、どうやって署名してきのか今でも分からない。
 逃げるように門を出た左手の塀に、「日本軍人軍属の立入禁止」と書いた大きな看板が立ててあった。
 中隊へ帰り、「指揮班の及川軍曹」に其のことを話すと、「貴様等、憲兵に見つかったらどうするんだ」、と、ひどく叱られた。


ドリアンの実

 或る日、通信班の演習の帰り、小休止をした大木の下で何気なく見ると、太い幹の中程に俵みたいなイボイボのある実がいきなりなっている。
 木の枝先になるのなら分かるが、幹にじかになる木の実など見たことがない。
 その場は大勢いるので取るのを止め、夜になって和田と2人で現地人に見つからないように盗って来た。持って来てみたものの食べ方が分からない。あくる日、遊びに来た現地人に教わった1週間が待てず、4、5日で割って見た。中身はクリーム色で芳香が強く甘味もあり、大きなドングリのような種をつつんでいるいる実は、舌もとろけそうだ。
 それは「ドリアン」という名の果物の王様だとのことだった。


外出の訓示

 日頃愉快な五十嵐中尉の外出に対する訓示があるという。皆何の話があるのか、と半分緊張して整列していると、当番兵が小さな紙づつみを1人2個づつ配る。つつみを見て中身を知ると、あちこちから小さな笑いが出てきた。軍刀が地に着く程の短身の中尉は、目で笑って大きな声を張り上げ「黙って話を聞け」と、柄先の丸い円ぴ(軍隊の折り畳みスコップ)の柄に何やら被せながら、先端には絶対に空気を入れてはならん、と真面目顔で説明する。「今笑っているものは後でどんな事になっても絶対に俺は責任は持たん」。と破顔一笑で訓示は終る。


アラカンサールの朝

 クアラカンサールの街は、駅からの幹道はもちろん、ゴム林の中の細道まで全部舗装されている。両側から巨大なネムの並木で覆われ、道路脇の芝生も綺麗に刈り込まれている。
 街の中心地の大通りの朝は、通勤や買物にでる人達の自転車で賑わっており、特に若い娘さん達のカラフルな服装と、曲線を浮き彫りにした裾割れチャイナ服の姿態が眩しく目に飛び込んでくる。
 中支宜昌時代は軍衣の汚れも気にならず、敵前の壕の出入りが激しいのでこまめな手入れは必要としなかった。しかし綺麗な街に来ると自然に身だしなみも良くなってくる。


マライの一日

 鳩のいない鳩班は、訓練と言っても専ら小銃訓練が多く、俺達最古参兵は訓練をサボって、ネムの並木の下で初年兵の訓練の終るのを待っている日が多かった。訓練終了後の駆け足には俺たちも一緒に走って帰り「訓練終了」「解散」の声に初年兵は一勢に俺達古参兵に走り寄り、巻き脚拌を取って背中の汗を拭いてくれる。汗でビッショリになった軍衣袴は夕方までに洗って、綺麗にたたんで持って来てくれる。
 自分たちも初年兵時代には同じ事をやって来たのだが、こんなにまでして貰って罰が当るような気がする。


ワニの木登り

 兵舎の下にはペラク川が流れていた。川辺の木の下では犬を連れた現地人が竹竿で何かを追っていて、逃げ場を失った獲物は木から落ちる。なんと1メートルもあるワニだった。こんな所にもワニがいるのか、と恐ろしくなり、兵舎に帰りこのことを話すと大「トカゲ」だという亊でみんなに笑われた。


書留郵便

 ある日、私の手元に1通の書留郵便が届いた。こんな南方の果てまでお金を送ってくれる訳がない。不思議に思って差出人を見ると、従兄弟の岡村吉治の名前が書いてある。
 さては内地の我が家に、何か変わった事でもあったのでは無いか、と悪い予感が走ったが、読んでいる内に「悪いことをした」と、後ろめいた気持になって来た。
 手紙には故郷の近況から、父母、兄姉妹の安泰が書かれてあり、特に父は、最近戦地からの手紙が来ないが、「栄は元気でいるだろうか」と、心配しているから忙しいだろうが時々手紙を出しなさい、と書いてあった。
 文盲の父母は手紙を書くことはできず、叉届いた手紙を読むことも出来なかった。親であれば子供の安否は一刻も早く知りたい。しかし其の手段を持たないもどかしさを従兄弟の岡村吉治に話し、確実に本人の手元へ届くであろうこの書留という事になったのかも知れない。
 中支にいた頃は随分便りを出したものだが、戦地生活が長くなるにつれて、最近は殆どご無沙汰勝ちだった。兄からの手紙はたまに来るが其の返事も書く回数が少なくなっていた。
 両親の心配をよそに、「どうせ俺達は女房子供がいる訳じゃ無し、死んでも泣いてくれるのは火葬場のカラスくらいなもんだ」、と呑気な事を言っていた申し訳なさに胸がつまる……。


鳩班の解散

 昭和18年3月末頃、新しく師団の編成ができて、58聯隊の編成替えも行われた。我が歩兵58聯隊通信班も、新しく通信中隊として発足し今までの通信班長、五十嵐末治中尉が中隊長として就任された。
 それぞれの中隊から派遣編成している我々鳩班は解散となり、吉田、伊藤(いずれもコヒマで戦死)そのほか、藤田の3名は残留となり、私は中支当時の原隊である速射砲中隊へ帰って来た。
 速射砲中隊の兵舍は、クアラカンサールのマレー大学の校舎が割り当てられてあった。
 速射砲から通信へ派遣されて3年は過ぎている。そこには初年兵当時からの無二の戦友、古川義信(戦死)、井上源治、赤掘市治、小野塚兵治(戦死)等が、私を暖かく迎えてくれて、本当に嬉しかった。
 以後、彼等とはインパール作戦で生死を共にする事になるのだ。


マレーの速射砲中隊

 嵐の前の静けさというものか、マレーでは本当に楽しい命の洗濯の日々が続いた。数ケ月後に来るインパールの激戦など知る由もなく。
 毎日の演習も、厳しい中にも楽しさがあった。
 マレーでは少数の「共産ゲリラ」がおり、それを討伐する名目の演習が多かった。目的地までの行軍も聨隊本部の経理班が先行し、木陰での「コーヒーのサービス」も行き届いており、喉をうるおす。時には観光的な演習も多くあった。
 ジャングル内の夜間演習となると大変だ。昼なお暗いジャングルの夜は、前の兵隊の姿が全然見えない。地面に「ホタル」の様に光る木があり、それを前の兵隊に付けてやっと行動する事が出来たが、方向が全然分からず明け方になり、ようやくジャングルを抜けだすと、そこにはアスファルトの道がスコールに濡れて、大きな「サソリ」が草むらから這い出していた。


コーヒーの店

 日曜日の朝は朝食を控え目に兵舎を出る。街の近くには、竹の柱に椰子の葉で被ったマーケットがあり、見たことも聞いた事も無い珍しい南方の果物が、ズラリ、と並んでいる。言葉は分からなくとも手真似で結構話は通じるもので、広いマーケットを一巡りする頃は試食の果物で満腹となる。
 街外れに、華僑の経営する店で、「栄達」と、「双獅園」という名のレストランがあった。
 ヒョロ長い椰子の木が、南方特有の青空へ吸い込まれる様に立っている、そんな風景にマッチした綺麗な建物で、店内も清潔で、そこには色白の可愛い華僑のウエートレスがおり、彼女の行く先々には店内の兵隊の視線が四方から伸びて、唯一杯のコーヒーを持って来て貰うだけで何となく胸のとめきがコーヒーを持つ手に伝わって来る……。
 色々な事はあったが、毎日毎日を楽しく過ごした。
 70余年の人生の中で、こんなに楽しく過ごしたことは他に無い。
 年も若かった事もあろう、しかし、後に来るビルマでの戦闘が余りにも悲惨だっただけに、生涯忘れることの出来ない楽しい思い出になっている。
 昭和18年6月4日、楽しく過ごした4ケ月余の思い出を残して、クアラカンサールを後にタイ国に向かって出発した。


3.タイ入国〜泰緬国境へ

タイ国へ

 マレーの汽車は時には呑気な走り方をする。我々の乗っている汽車は軍用列車だから途中の駅に止まらないのは分かるが、猛スピードで走るかと思うと、今度は山中で停車してなかなか走る気配がない。苛立ちながら車窓を見ると谷川で水浴している機関士の姿が見える。そんな呑気な汽車もやがてマレーとタイの国境に着いた。
 国境といっても特別変わった所ではない。国境点にバリケードが巡らされてあり、そこには両国の軍隊がそれぞれの国の領地を警備しているのみで、我々を乗せた列車はそのまま機関士だけがタイ人と交替する。
 しかし国が変わると建物が変わってくる、又、人種が変わると人間の気性が全然違って来た。
 マレーもタイもまだこの付近では南国の風景には変わりはないが、駅に着くたび子供の物売り集団がやって来る様になった。
 タイ国は泥棒と売春が多いと聞いていたが、我々は通過部隊であるから後者の事は分からないが、泥棒にはホトホト手を焼いた。
 子供の物売りは1人1人の値段の差が激しい。同じ品物でも10円で買った人と30円で買わされた人もおり、また発車間際にお金だけ取って逃げてしまう子供もいる。
 汽車といっても貨物並みで、有蓋車に数名の兵隊がゴロ寝しているのだが、窓際の品物を手当たり次第に盗って逃げる。誠に油断のできない人種だ。
 汽車は北部山岳地に向かってヒタ走り、暮れかかる頃には雨の降りしきる泰緬鉄道の分岐点、ノンブラドックという駅に着き、そこから鉄道隊がたった今敷設したばかりの泰緬鉄道へ乗り替えた。

 ――泰緬鉄道とは、タイ国のノンブラドックの町からビルマのタンビサヤと
いう既設鉄道の駅まで414キロメートルのことをいう。
 泰緬国境の山々は平均標高2000メートルと言われ、谷は深く断崖絶壁が多くほとんど人跡未踏のジャングルだった。如何に作戦上の命令とは言っても、これだけの超難工事を僅か1年で開通せよとの軍の至上命令だった。従って鉄道聯隊2個、タイ、ビルマの現地人各5万人、マレー作戦の浮虜5万人、合計15万人の労務者が投入され、そして昭和17年11月から工事は開始された。−−

 戦後英国で製作した問題の映画、「戦場に架ける橋」の舞台にもなったあの「ケオノイ河」沿いに、泰緬国境へ向かって汽車は線路をきしませながら走り、50キロ程行った所の「カンチャナブリ」という駅に着いた。
 タイ側からの鉄道敷設されているのはこの駅までで、いよいよこれから世界的に悪名の高い泰緬鉄道の建設現場を、ビルマ国境目指して徒歩で行くのだが、既にこの山岳地帯は雨期の真っ盛りであった。それにこの辺にはコレラが蔓延しており、行軍は暫く見合わせる亊となった。


泰緬国境の苦難

 我が中隊は各小隊に速射砲一門づつ馬に引かせ、其の他弾薬、糧秣などは牛車を使って行く事になった。
 最初の2、3日は牛や馬も頑張ってくれたが、日が経つに連れて牛の座り込みが始まった。
 この豪雨の中ジャングルを切り開き、山を崩して谷を埋め、路線を作っているのだから道と言ってもまるで田圃か沼地と言ったほうがよい。
 そんな所を車を引かせるのだから牛や馬も可愛想だ。しかし兵隊も腰から下は泥沼から這い上った様な格好で頑張っているのだから、牛にも頑張って貰わねばならん。
 牛が駄目なら兵隊が分担して運ばねばならず、其の兵隊も自分の背嚢だけでも40キロを背負っている。頼む、何とか頑張ってくれ、と哀願するが座り込んだ牛は、大きな目玉を「ギョロリ」とさせてこちらを睨む様に座ったまま……。
 赤堀君の発案で、牛の口と鼻を同時に押さえて呼吸を止める、牛が苦しまぎれに飛び起きるのを待って一斉に竹の棒で尻を叩きながら歓声を上げる。竹の棒は元まで割れるが黒い牛の尻は赤く腫れ上がって、血さえ出なくなっている。その作戦も1日と続かなかった。
 今度は誰かが牛の尻に火を付ける事を考え出した。突然の熱さに飛び起き様とするが、最早精魂つき果たした牛には其の気力もなく、唯恨めしそうに向けた牛の顔には、心なしか目が潤んでいた。
 とうとう此の牛も泰緬国境踏破の犠牲になってしまったか。
 私はホトホト困り果て、もう何をいう元気もなく泥沼の地面に座り込み、霧雨の降りしきる天に顔を向けると「ポロリ」、と涙がこぼれ落ちた。
 自分の身一つで行軍できる小銃隊がつくづく羨ましく思えて仕方がなかった。
 其の日は4里(16キロ)の目的地まで行けず、鉄道隊の宿舎に泊めて貰った。


作業隊

 路線未着工の道はジャングルが伐採されており、行軍には割合楽だった。しかし連日の雨で道はぬかるみ、急な山坂が多いので牛馬の用はなさず、専ら人力搬送に頼るしかなかった。
 こんなに苦労して行軍をしている兵隊には、可愛想だが牛の犠牲など考える余裕はなかった。
 鉄道隊、俘虜、現地人達の作業は、ツルハシ、スコップ、それにモッコ、文字通りの人海作戦だ。標高2000メートルの山々、人類未踏のジャングル、悪疫病魔にさらされながら、僅か1年たらずの期間に完成させ様とする内地にあって指揮する大本営の命令に無理があり、当然死者の数が多くなる。
 上半身裸、それも前のほうは無事だが、お尻は丸だしで腕に刺青をした、英国、オランダ、豪州軍の俘慮達の表情は意外と明るく、口笛を吹きながら全身泥まみれになってモッコを担いでいる姿に、我々はどうしても彼等の心境を理解する事ができなかった。
 鉄道隊の話では、彼等は必ず友軍が迎えに来る事を信じているとの事だった。
(少し大袈裟に思えたが、この作業隊の話しでは枕木3本に人間1人の割りで死んでいる、と聞かされた事があった。)

 −−後日調べた記録によれば、日本軍千人、俘虜1万人、タイ、ビルマ人3万人の死者が出たという−−


害虫と悪疫

 此の辺に来るとジャングルも竹薮が多くなって来た。竹と言っても群生しているのではなく、1株ごとに密生しており、しかも節々に刺があり、中身は無垢で穴がない。その株の間を縫う様に行軍するのだが、こんな所に虎が出るのではないか、と不気味な気配が漂う。
 虎には出合わさなかったが胡麻粒ほどの「ブヨ」に悩まされた。この虫は人間の露出している部分を所構わず襲って来る。目、口、鼻、耳の中、戦闘帽の中まで入って、気も狂わんばかりに痒い。泥手で掻きむしるので頭や顔は泥だらけだ。
 来る日も来る日も腰から下は泥だらけ、宿舎へ着いても軍衣を洗う時間がなく、割り竹で張りついた泥を落とし、着のみ着ままで焚火をしながら寝る毎日が続いた。
 その頃から腰の周りや尻の辺が痒くなり、夢中になって攪きむしると明くる日には粟粒ほどの化膿になり、それが次第に熱帯潰瘍となって腰を降ろすと軍袴が尻に張りつき、それを剥がすにまた一苦労する。
 苦難の泥道もビルマ側からの工事も進み、線路には機関車の姿も見えて来た。
 苦労の道も、タイとビルマの国境が何処だったか分からないうちにタンビサヤに着いた。


4.ビルマ入国〜エウー集結

ビルマの平原地

 タンビサヤからビルマ鉄道に乗り替え、モールメンに着いたのが昭和18年7月12日で、モールメンを経てベグーの町に設営する亊になった。この街は川沿いにあってなかなか景色のよい町だ。街外れに有名な釈迦の寝像があり、50メートルもある巨体を横たいて線香の煙の絶え間がなく、仏教国ビルマ人の信仰の的になっている。
 私は国境踏破の後遺症、熱帯潰瘍の治らない身体で、1週間の休養の後、北部ビルマの「イウー」地区に先発設営隊として7月19日ペグーを出発した。
 聯隊甲副官、長家大尉を設営隊長として、各中隊から10名位づつ選抜され先行することになった。
 速射砲中隊では小田少尉を長として、小野塚兵治、関口栄、村田勇、滝沢義一、渡辺正八、渡辺国一、黒埼孝吉、其の他2名が同行する事になった。
 ビルマの汽車も薪をたいて走るので火の粉が飛び散り、無蓋車輸送の兵隊は軍衣を焼く心配があった。
 敵に制空権を握られているビルマの汽車は昼間の運行は出来ず、夜間のみの運行なのでなかなか目的地への到着は円滑に行かない。


オッパイパゴダの由来

 途中爆撃にも合わず古都マンダレーに到着した。今の首都はラングーンに在るが、現在は昔の面影を残すお城と、其の周囲にお堀があり、ビルマ第二の都会となっているが、日本軍の爆撃で無惨に壊されて見る影もない。昼間でも人影はまばらで民家もあまり見当らない。
 我々は通過部隊宿舎に泊ることになり、そこでは酒もあって久し振りに楽しい一夜を過ごす事が出来た。
 明くる日、イラワジ河の渡河点に着いてみると「アバ」の鉄橋は橋脚だけを残し、日本軍の進撃阻止のため爆破されてあった。
 現地人の話しでは、英軍は撤退の際必ずここは取り戻すから、橋脚だけは確保しておくのだ、と、言っていたとの事……。
 ここでも英軍の自信のほどを見せつけられた。
 船舶工兵隊の鉄艇で7、800メートルもあるイラワジ河を渡り、対岸の「サガイン」の町に上陸、兵站宿舎に2日間休養する事になった。
(後にこの町は、インパール作戦の撤退患者で地獄絵図を繰り広げられる所だ。)

 サガインの町は緑の多い大きな街で、シエボー方面に行く鉄道と、エウー線の分岐点であり、また、ラングーンからイラワジ河を船で塑航する物資の集積地で、日本軍の軍事的にも重要な地点となっていた。
 そのため敵機の爆撃も毎日激しく繰り返し行なわれた。
 ペグー出発以来始めて2泊の休養とあって、馬車で「サガイン」の街を見学に出かけることになった。
 ここの馬車は、砂利道のせいもあるが非常にクッションが悪い。その上座席は板張りとなっていて走り出すとお尻の潰瘍が痛い。
 仕方なく我慢して乗っていると、街はずれに見慣れない形の変わった「パゴダ」が見えて来た。
 馬車の馭者はその「パゴダ」の由来を詳しく説明してくれた。

 −−昔この地方を支配していた王様は、若くして美しいお妃を亡くし、嘆き悲しんだあげくお妃の乳房を型取って建立したのがこのバゴダで、カンムドウパゴダというが、通称オッパイパゴダと呼んでいる。−−

 そう言われて見ると、なるほどオッパイの形にそっくりだ。
 やがてサガイン2日間の休養も終わり、エウー線の目的地に向かって出発した。
 クッションの悪い馬車が、潰瘍の膿を全部出してくれたのか、その頃から自然と治って来はじめた。途中「モニワ」の町に下車し1泊する事になった。


モニワの町

 この町は、小京都を思わせる様な静かな町で、裏手には、「チンドイン」河の豊かな水をとうとうと流している。街の中心部は爆撃により殆ど廃墟と化していたが、ここはこの地方の仏教信仰の中心地となっていた。
(地方の村々で「モニワ」はどうなっているか、と良く聞かれたことがあった。)


異様な光景

 7月30日、エウー線の終点に到着した。ここは小さな田舎町だが、何処となく落ち付いた雰囲気のある街で、辺りは草むらが多く、隣村へ行くにはかなりの距離がある。
 この駅の付近で異様な光景に出合った。私達の降りた汽車は折り返しエウーの駅を緩やかに走り出すと、線路の両側にいたビルマ人が何やら大きな幟を持って汽車を見送っている。汽車が近付くと其の人達は一勢に両手を上げて「バンザイ」の様な仕草をしている。
 車窓から身を乗り出して盛んに手を振っている人達はみんな泣いている様だ。
 汽車が近付くと、見送りの中の一団が汽車を追いかけて走り出した。
 子供や若い奥さんだろうか、また年老いた親か、皆、目を真っ赤にして涙を拭こうともせず何やら叫びながら走っている。
 其の人達の持っている幟には「国境建設奉仕隊」と書いてあった。
 そうか、この人達もあの生地獄の泰緬鉄道建設に狩リ出されるのか。
 残された親子も、作業の苛酷さを噂に聞いて知っているから、泣いて別れを惜しんでいるのであろう。果たしてこの人達の中で何人生きて帰れるだろうか、内地の出征兵士を送る駅頭の光景が浮かんで来た。


タダウの部落

 エウーからの道は細いデコボコ道で、両側には雑草と一緒にピンクの綿毛を付けたオジギ草が群をなして咲いている。軍靴でさわると一勢に葉を閉じて、私達に挨拶している様だ。
 ここは数十戸の集落となっていて、殆どの家は竹の柱に椰子の葉で屋根を葺いてあり、窓のない粗末な家が多かった。
 村には井戸が一箇所しか無く、煉瓦で積み上げた井戸の回りには「メマー」(主婦)達の社交の場となっていて、言っている言葉はわからないが話に花が咲いている。昔からある井戸端会議という日本の言葉は、或いはこの国が先祖かも知れない。
 私達は「マンポイユ」さんの家を兵舎として借りる事になった。
 一見2階に見えるこの家も、実は高床式の家で、床下は牛の寝床になっていた。家族は裏手の米倉に住まいを移し母家は私達に住ませてくれた。
 家主の「マンポイユ」さんは、体格はがっちりしており、垂らせば腰までも来る髪を無造作に束ねている。ビルマ人は男女とも髪を長く伸ばしているので、始めのうちは男女の見分けに苦労した。
 妻の「マコー」さんは、背が高く骨太で、お世辞にも美人とは言えなかった。一人息子の「マンコイマン」は5才位の我がまま盛りで、親の言うことを聞かず、時々「コイマン、コイマン」と叱られて尻を叩かれていた。
 ビルマの男性は名前の前に「マン」と呼称をつけ、女性には「マ」というらしい。隣の家には「マンポーイ」という青年がおり、夕方になると毎日遊びにきて、彼に日本語を教えたり、またビルマ語を私達が習ったりした。時には南十字星を見上げながら彼の将来の抱負を聞いたり、日本のことを語って聞かせたりして、熱帯の夜の更けるのも忘れて語り合ったことも度々あった。
 英国の植民地だったビルマは、現地人と白人とは一定の距離をおき、絶対に同等の対話や、レストラン、集会所などあらゆる処での同席は許されなかった。
 日本の兵隊が来てからは、ビルマ人大衆の中に溶け込んで、汚い家のなかまで入り込み、同じ釜の飯を食べたり、手真似足まねで話をするなど信用され、あらゆるところで好感を持たれた。
 さて、道一つ隔てたところにビルマ酒を作っている家があって、そこの主人は大学を出たというインテリーだった。彼は酒が強く、ある日小野塚兵治君(コヒマで戦死)と飲みくらべをやったが、さすが酒豪の小野塚君も頭を下げ
たという。
 その妻がビルマ人には珍しく色白で綺麗な顔形をしていて、一目見ただけで気も遠くなるほどの美人だった。その容姿を自負してか凄く気位の高い女だった。一人娘の「マッケンセ」は6才位で母親に似て器量もよいが、なかなか気の強い女の子だった。
 我々設営隊は真っ先に便所の設置から取りかかった。衛生観念の乏しいこの国の農村部は、殆どの家には便所がない。人が草薮に入って行くと犬が後から付いて行くという話にはうなずけるものがある。
「マンポイユ」さんは大の親日家で、私達の作業の終わる頃を見計らって「ブランデーとおつまみ」(そら豆とお茶の葉を油で炒めたもの)を毎日持って来てくれた。
 1週間後に来る予定だった本隊が大巾に遅れ、全員集結し終ったのが1ヶ月後だった。
 部隊が到着すると「タダウ」の小部落も俄然活気付いてきた。しかし今度はいままでの様なビルマ人との家族的な生活が破られ、私達が1ヶ月間かかってやっと築き上げて来た部落民との「コミュニケーション」が崩される様な事件が度々あった。その都度私が中に入り、たどたどしいビルマ語を駆使して部落民との調和をはかった。


愛国の花

 或る日、エウーの設営隊本部より映画会を開催するから見に来る様にとの連絡があった。
 南方へ来てから映画など始めてのことだ。「愛国の花」という題名からして、劇映画だろうか、まさか「メロドラマ」など来る訳はない。
 あれこれ想像しながら会場ヘ早々と行き、上映開始をいまや遅しと待った。
 いよいよ上映された画面には、男女大勢の合唱隊が、愛国の花というコーラ
スを、
  「真白き富士の気高さを
       心の強い盾として
   御国につくす女ならは
       輝く御代の山桜
        地に咲き匂う国の花」

 と唄っている、この歌が終ると本題の映画になるののだろう、と、最後まで見ていたが、とうとう唯ただ歌の宣伝だけで終ってしまった。
 期待していただけに、裏切られた時の虚さが大きく胸にこたえ、帰りの2キロの夜道は暗く遠かった。


黒崎君の武勇伝

 部隊が着いた数日後、中隊内で大変な事件が起こった。
 クアラカンサール出発以来、泰緬国境の苦難と数ヶ月にわたる行軍の後、ようやく一応の目的地エウーに無事集結が終った事を祝って、各小隊ごとに会食をする事になった。
 皆それぞれ料理の腕をふるって会食も終わりになる頃、黒崎孝吉(現存)がこっそりやって来て、今晩やるから22次兵は全員集まってくれ、といって来た。私は何のことか良く分からなかったが同年兵で一杯やるのかな、と軽い気持ちで飯盒に天麩羅を入れ、「源ちゃん行こうか」と井上源治を誘ったが、彼は余り良い返事がなかったので私一人で出かけた。
 黒崎君の所へ行って見ると異様な雰囲気に驚いた。あちらこちらで、ゴソゴソ、ヒソヒソ、これは何か始まるぞ、と悪い予感がした。
 若林見習士官が私を見つけて、「おー関口来たか、これからは作戦が始まるとこんな呑気なことはできん、今日は大いに飲もう」、となかなかのご機嫌である。
 さては何かあるぞ、と思った私の予感が的中してしまった。
 誰かの合図で、回りにいた兵隊が一斉に見習士官に殴りかかる。「上官に向かって何をするか」、と強気をいっていた彼も多勢に無勢とてもかなわん、と姿を消してしまった。
 殺気だっている兵隊は彼を捜すが、とうとう見付ける事が出来なかった。
 巻き添えをくった形になった私は、この場にいたからには言訳が出来ず、困った事になってしまった。井上源ちゃんはこの事を事前に知っていたのだろうか。
 上官侮辱の罪で重営倉は間違いない、と覚悟をした。
 さて、明くる日公用で聯隊本部へ行くと、通信隊の神林伍長に、
「速射砲はなかなか元気が良いのー」と言われた。
 仕方なく私も、「もう知れたのか」と苦笑いすると、「地獄耳だからねえ」と笑っていた。
 しかし何日たっても何の沙汰も無く過ぎてしまった。しかし黒崎君だけが聯隊本部へ呼ばれ、長家甲副官に油を絞られた、と彼は後日私に語った。
 それからの若林見習士官は、私を見ると「この作戦が終わったらまた一杯やろうよ」といっていたのだが、彼はコヒマで戦死してしまった。
 ご冥福を祈る。
 色々あったが、本隊が到着後1ヶ月で思い出多いタダウの部落に別れを告げ、最前線へ向かって出発した。


5.馬の調達

前線基地の設営

 インパール作戦も決定したのであろうか、チンドイン河に程近い「ワヨンゴン」という所の部落を避け、わざわざジャングルの中に部隊は設営することになった。敵機の爆撃を避けるためと作戦を秘慝するためであろう。
 付近には竹が多く生えており、兵舎を立てるには好都合だった。竹の柱にチークの葉で屋根を葺き、床と建物の回りは竹のアンペラの囲いで何とか雨露だけは凌げることができた。
 軍隊と言うところは色々な職業や特技を持った人がおり、馬糞を穴に埋め其の熱を利用して豆モヤシも食べることができた。


巨大な山芋

 馬の退避所を作るため山を削っていると、白い「ネバネバ」した根が出てきた。手でさわると山芋のようだ。根をたどって見るとなんと2メートルもある本物の山芋であった。古川と二人で折らない様に兵舎へ持ち帰ると皆も驚いていた。しかし半分から上の部分は筋が堅く食べられず余り美味しいものではない。後で方々捜して見ると至るところに生えており、蔓の太さは人の小指ほどあり、しかも蔓には刺が生えている。
 この地方の人はこれを食べると皮膚病になると敬遠しているらしい。


生活の知恵

 文化、という言葉さえ知らぬ奥地の原住民にも、それぞれ天然資源を上手に生かした生活の知恵がある。
 或るジャングルの大木に穴をあけ、其の樹液を竹筒に入れて灯火として使っている。物が無ければ必ずそれに替わる物を見つけ出す、代々使っているのであろうが良くも考え出したものだと感心する。


再会

 馬の買い付けのため「ワヨンゴン」から退り、元駐屯していたエウーの町付近で1日休養することになって、久し振りに「タダウ」の部落を訪ねる事にした。
 お父さんの「マンポイユ」お母さんの「マコー」、「マンコイマン」隣の「マンポーイ」青年、みんな元気でいるだろうか、と胸をはずませながら訪問した。
 家の回りの垣根代わりに植え込まれた「クジャクサボテン」、緑の松笠の様な実を付ける「オーダデー」の木、みんな当時のままだ。
 家の前まで行くと、マコーさんが私を見つけ、懐かしそうに走り寄って来て泣きながら、「セキグチシャン」「ピヤーレー」(病気)と言って私を裏手の米倉の方へ連れていった。
 病気だというが、息子でも具合が悪いのかな、と思って彼女の後を付いて行った。
 そこには主人の「マンポイユ」さんが寝ている。日頃余り肥っていない彼は益々痩せ細って頭は丸坊主、苦しそうな顔にも懐かしいのか無理に笑って、「セキグチシャン、ピヤーレー」と悲しそうに言った。
 お母さんの「マコー」さんの話では、私達の前線移動後、日本軍の食糧輸送に部落から7、8名の牛車隊に狩り出され、悪性の「マラリヤ」に患り殆どの人が死んでしまった、との事。
 私は、これは大変だ、何とかしてやらねばならぬ、と早速背嚢から塩基錠(マラリヤの薬)を取り出し彼にやって「ケサムシブ(心配無い)この薬を飲めばすぐ治る」、と慰めてやった。
 彼は非常に明るい顔になり、何度も何度もお礼を言った。
 私の来ていることを知った隣の青年「マンポーイ」君が訪れてきて、私のお父さん病気です、「関口さん、シロサトクダサイ」(白砂糖)、と彼は少し日本語が出来る。
 そうか、この人のお父さんも病気なのか、と思った。
「よし、今度持ってきてやる」、といってエウーの町へ帰って来た。


再来

 それから私達はまた方々の部落を馬の買付けに回って、エウーへ帰って来たのが1週間程過ぎていた。
 もう一度「タダウ」の「マンポイユ」さんを訪ねてみた。
 彼の顔色はまだ本物ではないが、病気はすっかり良くなっていて妻のマコーさんに起こして貰い、「部落で私だけが助かりました、有難うございました」、と二人で何度も何度も泣きながらお礼を言った。
 国は違い人種は違っても、皆同じ地球上に生きている人間である。困っている時助けてやるのは当然のことだ。しかも人間一人の命を救う事ができたのだ、と思うと胸に「ジーン」とくるものがあった。
 妻の「マコー」さんは母家の方から巨大なバナナを持ってきて私に食べるようすすめた。


約束

 私の来ている事を聞いた隣の青年「マンポーイ」君が来て、「関口さん嘘言いました」「私のお父さん死にました」といわれた。
 さあ悪いことをしてしまった。あの時は「マンポイユ」さんの病気の事で頭が一杯だったので、唯何となく「今度持ってきてやる」、と言ってしまった。
 病気の父に、せめて日本の白砂糖を食べさせてやり度いという彼の親孝行の気持ちを踏みにじってしまった、と思うと申し訳ないやら、何とも言われぬ気持ちになってきた。
 事実私達は任務があり、今日まで来ることが出来なかったのだが、あの時なぜはっきり其の事を言わなかったのだろうか、と後悔した。
 私は僅かだが、有り金全部香典の気持ちで彼に差し出した。しかし心を硬くしている彼は受け取ることを拒んだ。
 困った私は、来られなかった理由を彼に説明し、このお金は君にやるのではない、お寺に上げて仏の供養をしてくれ、と、たどたどしい「ビルマ」語で精一杯話した。
 さすが仏教国の青年である。お寺へ上げてくれと言われ私の気持ちが理解できたらしく、「ありがとう」「ありがとう」と言って、気持ち良く受け取ってくれた。
 帰りに、これは普通の米ではない、といって餅米を2升程持って来てくれた。
 私は何とも割り切れない気持ちで皆の待っているエウーへ急いだ。


青春の血潮

 馬の買い付けも順調に進み馬の頭数も大分増えてきた。ビルマ人の人夫数名を雇い、兵隊一人監視として道順通り同道し、隣部落へ行くことにした。
 私達は裸馬に毛布を掛け、手綱を取ると思いっきり馬の尻を叩いた。
 隣と言ってもビルマの平原地は広い、かすかに見える部落の森まで2キロは充分あり、乾季の田圃をまっすぐに部落へ向かって突っ走る。
 馬も若いし我々も若い、馬の背に胸をすり付け、大きな土手、小さな畦を跳び越えるときのスリルに、青春の血潮が全身に漲って来る。


デジー(村長)の歓待

 着いた部落には気に入った馬はいなく村長の家に宿を取る事にした。
 我々がこの村から1頭の馬も買わなかったのを喜んだ村長は、私達を非常に歓待してくれた。
 ビルマ料理の一番は何と言っても鶏のぶつ切り煮と言っても過言ではない。
 ニンニク、トマト、唐辛子、カレー、あらゆる物を入れて煮込む。一流のコックさんの手にかかると絶妙な味を出す。
 アイエー(酒)も出て皆上機嫌になった。(馬の世話は勿論ビルマ人が全部引き受けてくれた)。
 −−ビルマの農家の鶏はほとんど離し飼いで、夜になると高い木の上で眠っている−−


珍しいお経

 さて目標の馬購入も順調に終わり、いよいよ帰隊する事になった。
 時には宿を見つける事ができず「ポンジー、チョン」(お寺)に泊めてもらうことも度々有った。そんな時には絶対に靴を脱いで跣になって本堂へ上がり、先づ本尊様に手を合わせて何事でも良いから口ずさんでお参りをすると、「ポンジー」(お坊さん)が喜んで歓待してくれ、もちろん精進料理だが精一杯持て成してくれた 。
 或る時ひょうきんな兵隊が、いつもの如く本尊様に手を合わせお経を読み出した。「おや」、と思って聞いていると流行歌ではないか。本人は真面目顔で当時戦地で盛んに唄われていた「勘太郎月夜唄」を、お経の節にして唄っている。「ポンジー」も真面目に一緒に手を合わせているので私達は笑う訳には行かず、後で腹を抱えて笑い転げた。
 夕食後村人たちが集まってきて、日本のお経を教えてくれと言われて困った、と彼は笑っていた。


虎除けの炬火

 1ヶ月に渡りのんびりとした馬の買い付けの帰路も、ジビュー山系に入ってからは一変して険しい山道となってきた。
 私達が馬購買班として出発した、ワヨンゴンの部隊は既に前線へ移動しており、兵舎も敵機の爆撃で跡形も無くなっていた。
 ワヨンゴンを過ぎてからビルマ人の先導で、近道だと教えられた山道に入ってきたが、いつの間にか道を見失って谷川に出てしまった。
 ジャングルの日暮れは早くすっかり暗くなってきて、もう引き返す事もできない。
 ビルマの人夫は夜になると「虎」が出るから行軍はいやだと渋る。
 さりとてこんなジャングルのなかの露営はなおさら危険が多い。
 嫌がるビルマ人を説得して枯竹で炬火をつくり一晩中歩き通し、漸くジャングルを抜け出すことができた。
 いやはやとんだ近道になってしまった。


焼けた飯盒

 私達が部隊に追及した所は「カウンカシ」と言う地で、ジビュー山系の末端チンドイン河に近い所だった。
 山系に降った豪雨が土砂を流し、谷というか、天然の防空壕といったところだ。
 部隊と合流した気の緩みか、朝まで何も知らずに眠ってしまった。
 誰か大きな声で怒鳴っているのに目が覚めた。
「I、今日は一日飯はお預けだ」
「ハイ」
「明日から何で飯を炊くんだ」
「ハイ」
 叱っているのは同年兵のA君、不動の姿勢で立っているのは補充兵応召の私達よリ年上の、I一等兵だ。
 炊飯の水が少なかったのか、飯盒の底に穴を開けてしまったらしい。
 軍隊という所は年より食器の数だといわれる言い伝えがある。しかし一旦戦闘が始まればそんな事は通用しない。


虎騒動

 この付近は竹薮が多く、時々虎や猪の出没が多く不寝番は専ら焚火を切らさないのが任務となっていた。
 或る夜、異様な物音に不寝番が駆けつけると、馬が2頭虎に殺されるという事件があった。
 それ以後夜間の行動は炬火を持ち、二人以上で行動する様厳しい通達があった。


ジャングルの鳴き声

 今日もいつもと同じ爽やかな朝だ。
 ジャングルは陽が高くなるにつれて賑やかになって来る。
 東の山から「キャーン」とも、「クワーン」ともいう鳴き声が聞こえてくる。
 朝食の時其の事が話題になり、鳥の声と、猿の声と意見が分かれ、偵察に行く事になった。
 山を二つ越えた稜線の向う側らしい。それぞれ小銃を手に稜線に這い上った。
 稜線上に僅か頭が見えかかった瞬間、「キャーン」と言う一声に木の上から「ドドー」と猿の一群が逃げ去った。
 のどかに遊んでいる様に見える猿の仲間にも、外敵を警戒する歩哨が立っている事を始めて知った。
 あの死闘の地「コヒマ」へ出撃直前の、のどかな朝の出来事だった。


6.最前線へ

終夜の敵機

 昭和19年3月10日頃、いよいよ「チンドイン河」渡河の日も近付いた様だ。
 速射砲中隊にも前進命令がきて、渡河点附近に移動した。
 その頃から敵機の飛来が昼夜を問わず、全然爆音の絶え間なく幾日も続き、わが軍の進撃を察知しての行動かと思われた。
 すると聯隊本部より、敵の空挺部隊がグライダーを引いて「インドウ附近に」、一夜にして飛行場を作り、大砲、戦車、兵員を輸送し後方攪乱を策している、との情報が入った。
 わが軍の渡河点を察知される恐れがあるから、各隊は斥候を出し敵の行動を監視せよとの命令が出た。


赤い巻脚拌

 私と古川伍長は渡河点付近一帯の偵察を命ぜられ、度胸のよい古川はこんな所に敵が来るはずがない。
「命令ならば仕方がないからなあ」
 と、気の合った二人は、特別警戒もせず足にまかせて遠くまで来てしまった。
 陽が傾きかけて、慌てて引き返したが途中で暗くなってしまった。
 夜になれば敵よりも、ジャングルの王様(猛獣)の方が恐い。
 丁度道すじに空き家を見つけ、一夜を過ごすことになった。
 腹がヘって来たが敵前であれば火を焚くことも出来ない。仕方なく空腹を抱えて夜明けを待つ事にした。
 朝早々に飯の炊けるところまで引き返してきて、何気なく足を見ると巻脚拌が赤くなっている。
「おや」と思って良く見ると蚤ではないか。
 何百匹もの蚤を空き家から着けて来たらしく、思わず身震いがした。


先に食った禿鷹

 中隊へ帰ってきたのがお昼近くだった。
 聨隊本部から帰った命令受領者が「禿鷹」を一羽持ってきた。
 名前を聞いただけでも気持ちが悪くなる様な鳥で、羽を広げると1メートルもあり、曲がった觜に赤灰色をした翼を見ると、なおさら気持ちが悪くなってくる。
 この鳥は肉食でしかも動物の死体などを食べると言われ、人間の死体など数十羽の群れで来ると、1時間程で白骨にしてしまう鳥だ。
 さすが「ゲテ物食い」の俺も、この「ドブ」臭い味には堪えられなかった。
 誰かが「ポツリ」と言った。
「俺達も何時かはこいつの餌食になる運命なんだ、早く食べた方が勝ちだ」。
 そうかも知れない。戦闘が始まれば、「たった今が我が人生なのだ」そうだ、其のたった今を大事にしなければ、と思った。


チンドイン河渡河

 3月14日。嵐の前の静けさなのか、今夜はジャングルも静まり返っている。
 しかし相変わらず敵機の飛来が間断なく続いている。
 3月15日。
 朝から急に忙しくなって来た。まだ私物の整理をやっている兵隊もいる、指揮班へ連絡に行く者、馬の餌をやる兵隊、皆それぞれの分担に忙しい。
 いよいよ「チンドイン河」の渡河命令が出たのだ。
 速射砲中隊も、日暮れと共に渡河点のホマリンへ集結した。
 河岸に近付くにしたがって葦が密生している。
 「タコの木」の地上5メートル程の所まで泥が付着していて、雨季になるとここまで水位が上がるらしい。
 日没になると幾日も続いた敵機の飛来が急に途絶えた。「不思議だ」助かった、「これを本当に(神風)と言うのだろうか」、と思った。
 河岸まで行くと、小銃隊が渡河のまっ最中である。
 我が速射砲では砲を優先に渡し、次に馬と兵隊だ。
 筏に乗せた馬は、河の中程に来ると驚いて暴れ出し、馭者が必死になだめるが、手綱を持ったまま兵馬諸共河に落ちてしまう。船上では一斉に「綱を離せ、綱を離せ・・・・」と、絶叫しながら兵隊を助ける。
 馬はそのまま濁流に流されて行く。弾は来ないがまさしく渡河戦さながらである。
「天の助けか幸か」、敵機の飛来もなく、対岸には敵もいなかった。


巨大な葦

 対岸の河辺から部落まで約1キロの間、巨大な葦が密生している。
 人間の背丈の3倍程あり、しかも強靱な葦は兵隊の足で踏み付けても折れない。
 こんな葦の中を道を付けた先頭の部隊の苦労がしのばれた。
(しかしこれは前日渡河した斥候隊の作業だった事がわかった)


馬も戦友

 葦から抜け出た部落には敵も住民もいなかった。
 部落の裏からはすぐ山道になっていて、前進するにしたがって道は次第に険しくなってきた。
 道と言っても、兵隊が通ったから道らしくなっているが、住民など通った形跡は全くない。
 その道々、「マラリヤには塩基錠」、「塩基錠を忘れずに」、と書いた札が草や木に着けてある。
 衛生隊の注意事項だったが、これが又夜行軍の道標にもなった。
 山は益々険しくなってくる。
 日頃から馬を可愛がっている赤掘市治君(柏崎市畦屋、現存)は、山に水が無ければ馬が可愛想だ、と麓から背負ってきた水も、頂上の見えない坂道に流石にへこたれてしまって。
「ヨーシ、飲めるだけ飲んでくれ、後は捨てるぞ」、と諦めてしまった。


アラカン桜

 ジャングル内の行軍は敵機の心配がないので、翌日から昼間行軍に変わった。
 アラカン山脈は、ヒマラヤ山脈の裾野になると言われているが、2、3千メートル級の山々が、波打つ様に連なっている。
 我々は馬を連れ速射砲をもち、持てるだけの食料を入れた脊嚢は40キロを越える。
 馬は平坦地では非常に役立つが、急な坂道になると全然馬の用をなさない。
 そこで兵隊は馬に早変わりして砲を担いで山越えするのだが、砲を担がない兵隊は2人分の脊嚢を背負わなければならない。
 あえぎあえぎ登り詰める頂上と思ったところには、また気の遠くなる程の高い山が待っていた。
 2、3千メートル級の山を登り切るには容易ではない。それでもへこたれる兵隊は一人もいない。やはり若さだ。
 漸く頂上へたどり着き、汗を拭きながら眺める眼下の山々の峰に、名も知らないピンクの花を付けた木が群生しており、谷から吹き上げて来る爽やかな風と共に私たちの気持ちを和ませてくれる。
 古川義信君(戦死)が、「アー極楽の余り風だ」と、みんなを笑わせながら軍衣を脱いだ。
(私達はこの花を「アラカン桜」と呼んでいたが後で「シャクナゲ」という花だと聞かされた。)


頂上の飯炊き

 夕食の支度をしている兵隊が、飯がよく炊けないといって来た。
「そんな筈がない」、と言いながら自分で炊いて見るとやはり同じ変な飯になる。
 昔、富士山での飯はうまく炊けないと言われた事を思い出した。
「山が高いのだから仕方がないだろう」、と半煮えのような飯で空腹だけは満たす事が出来た。


浮いた魚

 山を下り切ると谷川があり、密林の谷間から澄み切った水が原始の姿そのままに流れている。
 人跡未踏のこの川に住む魚は、恐らく人間の姿を始めて見て戸惑っているのかも知れない。
 少し広い川原を見つけて休憩する。汗を拭きながら川へ顔を突っ込み冷たい水を腹一杯飲んだ。
 魚は人間を恐れていない様子で物珍しそうに寄ってきて手や顔を突っつき、捕まえようとすると「スルリ」と逃げる。
 伊藤中隊長は「手榴弾の投擲演習だ」と、初年兵に手榴弾を2、3発川へ投げ込ませた。
 鈍い爆発音と共に水しぶきが2、3メートルも上がり、それが治まると同時に川一面に魚が白い腹を見せて浮いた。
 「ソレ、流すな、」とみんな裸になって川へ飛び込んだ。
 収穫は各小隊毎に「バケツ」で山分けとなり、大休止の後また山登りが始まった。


首狩族

 一旦登り詰めた山の頂上から次の山までの谷越えは、標高は高くても登るに楽だ。
 頂上には「チン族」の集落があり、山頂の回りには軒のない茅葺きの粗末な三角屋根の家が建ててあった。
 家の入口には「トカトカ」に研ぎ澄ました槍が数本竹筒に立てあり、野生の獲物を捕るためと、異部族との抗争に使うものらしい。
 十数年前までは異部族との争いに、敵の首を取って来て其の肉を食べたと言われる、いわゆる首狩族とも「人食い人種」ともいわれ、其の地方を訪れる人に非常に恐れられていた人種だ。
 今でも昔の名残りとして、首を形どった彫刻が家の入口の両側にたくさん飾ってあった。


焼畑農業

 高山に住居を構えるこの高地民族は文化など程遠い生活をしている。
 精悍な顔に刺青をして、跣で山を駆け登る姿はまるで獣の様だ。
 頂上付近の急斜面には、麓へ向かって焼畑農業が行われ、陸稲が作られていた。
 このあたりの民族はインドで一番の働き者と言われている。谷底へ水を汲みに行くには、太い竹筒を4、5本篭に入れて担ぎ上げるのだが、往復で半日はかかる。だから水と塩はとても大切にした。
 こんな山の上で生活をしなくても良さそうに、と思うのだが、彼等にすれば異部族からの攻撃を防ぎ、悪疫病魔から身を守る唯一の理想の地だと聞く。


野戦倉庫

「ウクルル」の町へ近付くに従って道は自動車も通れる程に整備されていた。
 ジャングルの山坂を何日も歩き続けて来た兵隊は「アスファルトだ」「アスファルトの道だ」と喜んだ。兵隊達にはこのベト(土)道もアスファルトに見える様だ。
 持参して来た米もソロソロ底を突いて来たが、「ウクルル」へ着けば敵の野戦倉庫があるから糧秣には心配ない、と教えられて来たのだが、町へ入って見ると敵は野戦倉庫を焼き払って退却し、まだ煙が上がっていた。
 町といっても、こんな山岳地帯の僅かな人口の町に、先発の小銃隊が殆ど徴発し私達には一粒の米も手に入らない。さあ、これからどうすればいいのだろうか、と、心細くなって来た。
 敵も日本軍の作戦通りには事を運ばせてくれない。


インパール街道

 「ウクルル」からは道巾も広く、行軍には割合骨は折れなかった。
 しかし敵陣に近付いて来たらしく、偵察機が超低空で私達の頭上をかすめて行くが何の攻撃もなかった。
 暫く行くと「トヘマ」という所に着いた。そこは尖兵隊との戦闘があったらしく、道端には敵の戦車、ジープ、兵器などが放棄してあり、いよいよ来る時が来たか、と身の引きしまる思いがした。
 ここには、「コヒマ」から「インパール」方面に通ずる幹道が通っている。道巾はさらに広くなり、何より嬉しいことに道路は全部「アスファルト」の完全舗装だ。
 数十日後には死の街道になろうとはつゆ知らず、「アスファルトだ」「これが本当のアスファルトと言うもんだ」、と誰が始めたともなく、大地を踏みしめる軍靴の音が一斉に揃って、今までの苦労を発散させるかの様にコヒマの谷間に谺した。


7.戦闘激化

初の遭遇

 まだ敵機の攻撃もなく白昼堂々とコヒマへ向かって進軍して行った。
 道路の真ん中に陣地を敷いた山砲隊は、鉄帽も被らず鉢巻きをしめて威勢良くコヒマを砲撃している。砲側には一升ビンの姿も見えた。
 その夜半から戦闘が始まった。
 敵は、あの峻険なアラカン山脈を越えて、よもや日本軍が進撃して来るとは夢想だにしなかったらしく、コヒマ守備の兵員も少なく、不意をつかれた英軍のその慌てぶりは各所に見られた。
 急造の掩蔽壕には、砂糖や缶詰、乾パンなどが土嚢替わりに使われていて久し振りにチャーチル(当時の英国大統領)給与にありついた。
 古川、井上、関口、津島、村田など数名は道路下の沢を駄馬位置とさだめ、前線の砲陣地への食事の補給などを受け持つ事になった。
 沢には腰の丈ほどある芹が密生しており、毎日の食事に貴重な野菜として役立った。


死の順番

 日増しに戦闘は激しくなって来て、中隊でも戦死者が続出した。
 前線から次々運ばれて来る遺体(遺体と云っても小指一本しかない)の処理をしながら、「今日はお前がやられたか」「明日は必ず俺が行くから先に行って待っていてくれ」、と心の中で語りかけていた。
 小野塚兵治君(同年兵)が速射砲と運命を共にした。戦友が、分隊長の戦死というので、肘から先の遺体を持ってきた。片手で受け取った私は思わず遺体を取り落とすところだった。新ためて人間の身体の重さに驚いた。
 小野塚分隊長の後任に、古川義信君(同年兵)が前線で小隊の指揮を取る事になった。日頃度胸のよい古川君も、激闘の最前線とあって緊張と重責に顔の表情が少し変わっている。
 もし、戦死に籤というものあるならば、弾に当った人は籤運が悪いということになる、悪い籤は引きたくないものだ。
 駄馬位置はいやだ、敵情と戦況が分からないから何となく不安で気が滅入ってしまう。
 明日の命という言葉があるが、明日という日は今は無い、「たった今が俺の人生なんだ」。


伊藤中隊長の戦死

 最前線と駄馬位置とは時折交替した。
 司令部高地の戦闘では、私は砲側で敵陣地の観測をやっていた。
 高地の稜線上に速射砲を据え付け、コヒマ三叉路からデマプール方面に退却する敵軍を、上村軍曹の指揮で撃ちまくっていた。そのうちに敵迫撃砲に発見されるところとなり、敵の砲撃が始まった。
 弾着は次第に迫ってくる。「危ないぞ」と壕に身を縮めた瞬間、物凄い炸裂音と同時に壕の中に下半身埋まってしまった。
 隣の壕から「ウメキ」声がする。とっさに壕を飛び出し、「隊長がやられた」「伝令、伝令」、「衛生兵、衛生兵」と叫びながら中隊長を抱き起こした。
 指揮班の杉田軍曹が壕から飛び出し、「そっちは危ない」「こっちへ来いー」と叫びながら誘導したが、ぐったりしている隊長を抱いた3人は思う様に行動が出来ない。そこへまた一発命中した。笠原衛生兵が即死、菊池伝令は負傷、私だけが無事だったが、中隊長は其の場に放り出された様な格好になってしまった。
 私は夢中で壕に飛び込もうとするが壕は既に満員で入る余地がない。とっさに皆の隙間に頭だけを突っ込んだ。(頭かくして尻かくさずの自分の姿を思い苦笑いした。)
 稜線の下に収容した中隊長は、苦しみながらも部下の事を心配して、「みんな命を粗末にするなよ、自分を大切にしなさい。」といって其の夜のうちに息を引き取った。
 昭和19年4月5日であった。
 後に私の鉄帽に親指の腹が埋まるほどの凹みがあるのを見付た。
 戦場での運、不運は紙一重、いや、それ以下かも知れない。


ドラム缶転がし

 インパール街道は迂回路なしの一本道で、デマプールからコヒマを経てインパールに通じている。(青海町の親不知街道に良く似ている)
 軍の正式作戦名は「ウ号作戦」というのであるが、一般には「インパール作戦」と呼んでいる。本来はインパールを占領するのが目的の作戦であるが、わが部隊は其の一本道を押さえ、インパールへの敵の援軍と物資の輸送を遮断する任務を持っていた。
「インパール危うし」と、戦車を先頭に重火機を無制限に持った敵が続々とコヒマに集結し、緒戦の劣勢を挽回すべく反撃に出て来た。
 夜間攻撃でやっと手にした陣地も、日中になると数十門の砲が一斉に火口を開き、まるで連続落雷の様な炸裂音が半日も続くと、密林のひと山が、耕した畑に電柱が数本という姿に変わってしまう。そんな攻守が数日続いた。
 ここでは雨霰の如くなどの言葉は通用しない。私達は、またドラム缶転がしが始まった、と言っていた。


黒焦、半熟、生卵

 昼間は敵の猛攻を避けて壕の中に潜み、夜になると敵前に這いだし敵さんの食料を盗りに出かける。
 日中の砲撃でパン工場が焼けたという。敵前は特に足音に気をつかいながらやっとパン工場をみつけた。「あった、」バナナ篭に卵が入って焼けている。物音に気を配りながら勇んで持ち帰った。
 陣地に着いて撰り分けて見ると、半分は黒焦げと半熟、下の方は完全に生卵で、何ケ月ぶりかに卵にありついた。


砲を確保せよ

 敵の攻撃は日毎に厳しさを増して来て、小銃隊は夜を日に継いだ突撃に全滅に近い損傷を受け、突撃要員は皆無に等しかった。
 聯隊長は窮余の一策として、非戦闘員の通信中隊に陣地攻撃を命じたのである。
 基本的な戦闘訓練しか受けていない通信兵は、唯の突撃要員にひとしく、その惨状は目に余るものがあった。(鳩班の残留者、吉田、伊藤もここで散華してしまった。)
 我が速射砲は戦車を攻撃する対戦車砲でありながら、逆に敵戦車の攻撃により破損がひどく、敵を攻撃し得る砲は殆どなかった。しかし中隊長は、速射砲中隊に砲がなくなれば砲中隊の威厳にかかわる、といって壊れた砲でも絶対に保持せよ、と命じた。
 そのため速射砲中隊は突撃要員を免れ、結果的に我々の生死を左右する事にもなった。


8.コヒマから撤退

弾を、弾を

 コヒマ進撃以来、後方からの糧秣、弾薬の補給は皆無で、敵の我が軍に対するシラミつぶし作戦の応戦も既に限界が来ている。
 また、これらの輸送を担当している部隊も大変だ。我々が苦闘の末ようやく越えて来たあのアラカン山脈を日夜輸送に励んでいるのだが、後方から送られて来る糧秣も、最後の輸送隊に届く頃には自分達の糧秣を確保すれば前線に送れるものは全然無くなってしまう。
 兵器、弾薬とて同じこと、あの峻険なアラカンの山々を臂力で搬送するのだから、敵の物量作戦に対抗出来る弾薬などとても補給出来るものではない。
 更に小銃中隊の兵力も、戦死者、負傷者を除けば完全に戦い得る兵隊は数名しか残っておらなかった。
 我が31師団長、佐藤幸徳中将は、最早これ以上戦いを続けるならば大切な兵隊を無駄死にさせるばかりだ、と、軍司令官、牟田口中将の「コヒマを絶対に死守せよ」との命令を無視し独断で我々をコヒマの前線から撤退させた。
 −−−後にこの事が、軍隊史上未聞の坑命事件として佐藤師団長は軍法会議にかけられる事になるのだが。−−−


撤退行

 一時は完全制圧かと思われたコヒマの地に、無数の戦死した友を残してこの地を去る無念さに胸がいたむ。しかし、無駄死にだけはさせてはならん、と撤退を決意した師団長の判断に、真っ黒く覆いかぶさっていた死への雲行きも幾分明るさを増してきた。
 そんな複雑な気持ちを交錯させながら撤退して行く我々に、更に追い打ちを掛る様に、アラカンの山々にはすでに雨季が待ち構えていた。
 トヘマからの間道は、進攻時の整備されていた道も今は泥田と化しており、道路脇のジャングルには多数の負傷者が収容されていた。
 自力で歩ける患者は腕を釣ったり、杖を付いて集団で衛生兵に付き添われて歩いている。重傷患者は、独立輜重隊による急造の竹ゾリを馬に引かせて出発したはずなのに、ウクルルを過ぎる頃には其の姿は全然見えなくなってしまった。そのことが不思議に思いて、いつまでも心の底に重く残っていた。
 −−戦後、当時の独立輜重隊にいたという人に逢って、其の後のいきさつを質したが、言葉を濁し確答を得られなかった?。−−


T.中隊のW軍曹

 ウクルルを過ぎたすぐの道端に、T.中隊のW軍曹が腰を下ろしているのを見かけた。W軍曹は元私と同じ中隊に居たことがあり、顔見知りなので目礼して通り過ぎた。
 数日後同じ部隊の兵隊に会ってW軍曹の事を話すと、彼は言いにくそうに「W軍曹は可愛想なのさ」と語った。
 彼は頭をやられ神経麻痺となり、言語、足腰が不自由で、ようやくここまで連れて来たものの、中隊でも負傷者が多く健兵も次々に斃れ、彼を一緒に連れて退る事は不可能になった。
 仕方なく、僅かな食料を預け「次の宿営地に着いたら必ず引き返し迎えに来るから、それまで頑張って待っていてくれ」、となだめて出発した。
 しかし敵の追撃が激しく、遂に迎えに行く事が出来なくなってしまった、と彼は顔をゆがめて言った。


幼友達との別れ

 進撃の時は険しいと言ってもまだ道は良かったが、既に雨季に入ったアラカンの道は一歩一歩足元を確かめて行かねばならぬ。しかもジャングルの夜道は真っ暗で道は殆ど見えない。
 その時、私達は後退するのに前線へ向かって行く一人の兵隊と視線が合った。
 瞬間、「あっ松栄じゃないか」。
 彼は故郷の隣の家の三男坊で、私より一つ年下の行田松栄だ。
 真っ黒で、顔の上下が分からない程の髭を生やしていた。いくら偶然だとしても、人の顔の見分けもつかない程の暗闇の中で、よくも彼を見つけたものだ。
「どうした」、というと彼は、
 マラリヤに患り「インパール作戦」に参加出来ず、今中隊復帰するところだとの事だった。
「一中隊は今撤退の後衛部隊で危ないから、途中から引き返した方がいいぞ」、とほんの何十秒間か話した。
 彼は、「ああ」、と言ってまた前線へ向かって行った。
 それが幼友達「行田松栄」との最後の別れとなった。
 彼はその後中隊と行動を共にし、ビルマ領に入ってから又悪性のマラリヤの再発でサガインの野戦病院で死亡した、と風の便りに聞いた。


アラカンの雨

 アラカン山脈の雨は、世界最大の雨量を記録すると言われている。降り始めると止めどなく、木の葉も破れんばかりに降り続く。
 密林の中は敵機の心配もなく、昼間の行軍になった。
 夕方になっても雨のやむ気配はなく、ジャングルの中で露営する事になったが、飯盒炊さんするにも乾いた薪を集めるに苦労した。
 天幕を張って回りに溝を掘り、木の枝葉を集めて滴を払い床に敷きつめた。
 連日の疲れもあってすぐ寝込んでしまった。夜中に背中が冷たくなって目が覚めた。
「ウワー、コリャーどうした事だ」天幕の回りに溝を掘ったはずなのに。洒落ではないが、私達3人は川の中に川の字に寝ていたのだった。


9.食糧がない

飛行場整備するな

 食料も大分底をついてきた。
 もう少し我慢をすれば「フミネ」に野戦倉庫があり、米は大量にあるという。それまで何とか食べ延ばさなければならん。
 この密林の中には民家は無く、野生の動物すらあまり姿を見せない。
 たまに猿は見えるが、顔が人間に似ているので銃で撃つ気にもならない。
 夜炊いた飯は三食分で、翌日のお昼の分まで有るのだから、朝は少し加減しなければならないのだが、食べ始めるとお腹の方が言うことを聞いてくれない。
 飯盒の片方が少し高いから平にして、と思って食べていると今度は反対の方が高くなってしまう。それでもまだ未練が残って、浮いている一粒一粒を竹箸で拾い上げていた。
 そこを古川義信君が覗き込んで、
「関口いい加減で止めろよ」と言う。
「あまりデコボコしているから飛行場の整備をしているんだ」、と笑いながら答えた。
 すると古川も、
「そうか、俺のも大分デコボコしているから整備をするか」
「飛行機の発着に困るからなー」
 とまた食べ始めた。
 結局二人の飯は飯盒の底に僅かしか残らず、お昼は早々と食べ終わってまだ皆が食べているのが恨めしく、満足しないお腹をなだめながら飯盒の中を眺めていた。
 いつの間にか其の事が相言葉となって、
「おーい、あまり飛行場を整備するなよ」という言葉が私達の中に流行した。
 山は下り坂になってきたが、雨は相変わらず降っている。
 さていよいよ「フミネ」も近付いてきた。


フミネの糧秣補給

 待望の「フミネ」の野戦倉庫へたどり着いたのが、昭和19年6月末頃だった。
 なんとか食べ伸ばして来た背嚢の米も殆ど無くなっていた。兵站での給与が楽しみだ。
 まだ密林からは抜け切らないが、この辺りからだんだん平坦地続きになり、「チンドイン河」へも大分近付いて来て、ジャングルの向こうが明るくなって来たような気がする。
 各班から出た糧秣受領の仕役兵が天幕を袋のようしてに担いで来た。
 「持ち切れなければ迎えに行ったのに」、と言うとこれで全部だとの事。
”「なに、これだけを中隊全部で分けるのか」”
 結課的に、ここで受けた給与は、各人米一合、塩少々にタバコは1本を3人で分ける事。
 但し米は1週間分だから、各人は其の様に節約せよとの通達だ。
 タバコ1本3人で分けるのは兎に角として、一合の米をどうして1週間食べ伸ばしが出来るのか、と激しい怒りを感ずると同時に、さてこれからどうしようか、との不安感が先に走った。
 だがその怒りの中に、もう一つ腹に据えかねた事が伝わって来た。
 コヒマで伊藤中隊長を失って以来後任に来たO中尉が、
「わしはオカユは大嫌いじゃから、わしの米を沢山とっておけ」、
「みんなの米の中から三本指で摘みだしても、わし一人位普通の飯は食べられる」と申し付けた、と聞いた。


苦い飯粒

 フミネを出発したのが午後をかなり過ぎていた。
 次の設営地には明るいうちに着き、みんな手分けして食べられそうな草を捜しに出た。
 内地にある「ミヨウガ」に似た赤い花が根本で咲いている、匂いも良く結構食べられる。
 花が食べられるなら葉も食べられるだろう、ときめ込んで、フミネでもらった一合の米をいれて殆ど水のような七名分の雑炊を作った。
 頃合いを見て味見をした古川君が、「オーイ苦いぞ」と言う。
 なるほど苦い、これではとても食べられた物ではない。勿論汁も苦いしつまみ上げた草に付いている飯粒もやはり苦い。
 仕方なく、「勿体無い、勿体無い」と言いながら捨ててしまった。
 その日の夕食はもう当らず、仕方なく水を飲んで寝ることにしたが、隣の天幕の飯盒の音が耳障りでいつまでも寝つかれず、ようやくまどろんだ明け方、甘い「ボタモチ」が沢山あるのに食べさせて貰えない夢を見た。


お腹と背中

 次の日は2日間休養する事になった。
 この近く10キロ程のところに部落があるという。井上、村田、等と一緒に中隊から10名程で物資の徴発に行くことになった。人が住んでいるところには必ず何かあるはずだ、と勝手に決め込んで朝飯を食べずに出発した。
 平坦地のうちはまだ良かったが、山道にかかると流石こたえた。
 部落につけば何とかなる、と頑張った。昨夜からなにも食べていないから、「お腹と背中がひっつく」と言う言葉があるが本当だなあーと、つくづく感じた。
 部落は十数軒ばかりあった。みんな手分けして徹底的に捜したが食べる物など何もない。
「さあー困った事になったぞ」。
 本当に何もなかったらとうしよう、このまま何も食べずにどうして中隊にたどり着く事が出来るだろうか、と悲愴な気持ちになった。
「オーイいたぞー」「いたぞー」、と井上の声に駆けつけてみると、大きな牛を追い回している。
「逃がすな」。
 と怒鳴りながら、私も協力してようやくつかまえた。
 他中隊の兵隊が集まって来て、初めて見つけたのは俺達だ、と文句をつけて喧嘩となる。「見付けただけでは権利はない」、と突っぱねる。
 一時はどうなるものかと思っていたが、我々の強硬な姿勢に恐れをなしてか渋々散っていった。
 日頃温和な井上源治君のどこにあの様に攻撃的な言葉が潜んでいるのか、と改めて彼を見直した。
 思わぬ収穫に心がわいて、それぞれで集めた三升程の米を全部炊いて久し振りの牛汁、焼肉で大いに満腹感を味わった。
 残りの肉は、我々の収穫を首を長くして待っている者への土産として持ち帰ることにした。


白骨街道

 雨は相変わらず降り続き、アラカンの山を下り終わる頃から暑さは増してきて、平坦地に来ると更に蒸し暑さと泥と雨と脂汗が背筋を伝って行く。
 その頃から疲労と病気で倒れる兵隊が続出した。
 道の両側にはどこの兵隊か分からないが、至るところに寝ている。いや、こんな泥道に寝ているのだから、おそらく死んでいるのであろう。
 中には死にかけている兵隊もいるであろう。しかし、もはや人間の死と言うものに無神経になっているのかも知れない。またその兵隊の死を確認したところでどうする事も出来ず、唯見過ごして来るだけとなってしまう。
 我が一小隊でも、神保義雄君が栄養失調で目が見えなくなり、小さな川の辺で泥塗れになって死んでいるのが見つかった。
 彼は遅い招集兵で私より大分年上だったが、明るい性格で中々指先の器用な兵隊だった。悪い事とは知りながら、我々も良く彼を利用したものだ。−−悪い先輩だった事を謝し神保君の冥福を祈る−−
 フミネから、チンドイン河畔のシッタン部落までの死体は、無数としか言いようがなく、誰言うともなくこの道を「白骨街道」と呼ぶ様になった。


勝又清一等兵の死

 小休止の度に急いで薮にはいる兵隊がいる、見ると勝又君だ。
「勝又どうした、背嚢を持ってやるから元気をだせ」、と私に声をかけられた途端その場に座り込んで動けなくなってしまった。
「さあ困った」
 一人を担架で運んでいるし、最早どうする事もできない。仕方なく勝又君には元気な兵隊を一人付けて残し、中隊が次の宿営地に着いてから引き返し迎えにくる事にした。
 宿営地に着くなり休憩もせず、健兵4人で雨の降りしきる中を引き返し迎えに行った。
 勝又君を乗せた担架の到着したのは既に夜の10時を過ぎていた。
 シッタンからさらに下流の、オークタンと言う部落に落ち着き次の命令を待つ事になった。
 この部落は十数軒の小さな木造造りの家が多かった。しかしここは部落の中心地らしく古いが立派なお寺があり、寺には木造の船が備え付けてあった。
 中隊は各班毎に設営する事になって、ようやく雨露だけはしのぐ事が出来た。
 勝又君の容体は日増しに悪化して行くばかりで、飯を運んでやっても食べる元気が無くなって来た。
 彼は赤痢患者なので、特に便所へ行くに便利な隣の部屋を選んだ。
 私は彼のそばを離れず、
「勝又、元気を出せよ」
「近いうちに、ラングーンから病院船が患者を迎えに来る事になったから、それまでの我慢だ、頑張れよ」
「飯を食べないと元気が出ないから少しづつでも食べた方がいいぞ」
 と元気付けるが、彼は寝たまま天井の一点を見つめ、無表情に唯うなずくばかりだった。
 医者さえおれば、薬さえあれば彼を助ける事が出来るのに、ただ手をこまねいて見ているのが残念でならない。
 彼は自分の死期が分かっているのだろうか、それとも淋しいからだろうか、私が部屋を出るとすぐ呼び戻す。
 しかし既に運命は決まっていた。彼は其の日の午前中に息を引き取ってしまった。彼の腕にかけてあった時計も止まっていた、彼と運命を共にするが如く。
 遺体は一番目標になる大きな木の下に埋葬した。
「勝又君、きっと迎えにくるから、と語りかけながら」。
 しかし、この戦況で果たして再びこの地を踏む事が出来るだろうか。
 俺たちもいつかは同じ運命をたどらなければならない宿命なのだ。
 −− 勝又君達の遺骨は昭和50年2月、秋山誠治さん達遺骨収集班の手で無事日本へ帰り着くことが出来た。30年間、さぞ待ったであろう。ご冥福を祈る −−


烈師団長の解任

 戦況は非常事態を迎えていた。
 牟田口廉也軍司令官の命令に背き、我々をここまで退げてくれた佐藤幸徳師団長がついに解任された。
 後任の師団長が着任するまでの間、宮崎少将が代行する事になった。
 解任された師団長は、離任に際して我々将兵に対し離任の辞という言葉を残して去っていった。
 その言葉を聞いた我々は皆、師団長の兵隊を思う心の暖かさに手放しで泣いて離任を惜しんだ。
 師団長が交替すると事態は一変した。今まで軍司令部の命令に逆らって来た師団長というつっかい棒がなくなった今は、軍の命令をまともに受けなくてはならなくなって来た。
 福永聨隊長は「何兵たりともチンドイン河を渡る事は相ならん」、と命令を出した。
 仕方なくチンドイン河を目の前にして暫くここに留まる事になった。


糧秣輸送船来る

 師団長が解任されてから暫くすると、ラングーンから糧秣を満載した舟が遡航して来た。
 各中隊から運搬仕役兵を出す事になり、皆で作戦を練った。仕役兵の他に横取班を編成して、降りやまぬ暗闇の雨の中へ出ていった。
 糧秣は一旦聯隊本部の給与係へ運ぶのだが、途中薮の中に待機している横取班に渡し、仕役兵は何食わぬ顔で又船に戻る。其の作戦が成功して数百キロの米が手に入った。
 正規の分配米と合わせて当分米の心配は無くなった。


10.マラリヤとの戦い

患者に渡河命令

 どうも体調が変だ、寒気がする、またマラリヤの再発らしい。
 部落では爆撃の目標になるので、少し離れた竹薮へ退避するのが日課となった。完全にマラリヤになり熱は40度を越えていて、この僅かな道のりを行くのに何十キロも歩く様な気がして、爆撃されてもよい寝ていた方が楽だ、と思った。
 数日後、「負傷者と疾病者は直ちに渡河し、病院で適切な治療を受ける事」、と師団命令が出た。
 小隊長代理の上村久治軍曹は、私にも退がる様勧めたが、私は、マラリヤだから2、3日すれば治るので部隊と一緒に行動させてくれ、と何度も頼んだが上村軍曹は、遅かれ早かれ全員渡河せねばならないのだから、此処はなるべく少数の方が良いので是非退がれ、と言われ仕方なく中隊を離れる事にした。
 渡河点は此処より少し上流のクンタンと言う所だった。
 暗闇の渡河点には傷病者で黒山だ。軍医が一人いて患者の診察をするのだが、診察と言っても患者が軍医の前を通りながら、腕です、足です、マラリヤです、と言えば軍医は唯うなずくばかりで兵隊を後方へ退げる手段に過ぎなかった。
 真っ暗な濁流渦巻くチンドイン河を民舟で渡り、対岸に取り付いた。
 足元が滑るので柳の木につかまり、網の目のような泥だらけの枝の下をくぐりながらようやく河岸を這い上がった時は、「ああ又命を一つ拾った」、と思った。
 上陸した患者は誰が引率するでも無く、三三五五、暗闇の中へ逃げる様に消えていった。


高熱の急降下

 私達は中隊毎に一緒に行動する事になった。
 進攻の時に通った道を戻るので、夜でも道を間違えることはない。
 カウンカシも過ぎ、ジビュー山系に入ってからは敵機の心配もなく昼間の行軍に戻った。
 ワヨンゴンを過ぎる頃は一時晴れ間も見える様になって来たが、ピンレブに近付くにしたがってまた毎日の篠つく雨は、防雨外套を通して肌まで濡れる様になって来た。
 その頃から、一時治まっていたマラリヤが又再発した。いつもの様に悪寒から始まり、40度近い発熱で歩行困難となり、仕方なく山の中の一軒屋で休む事にした。
 同じ小隊の宮下金作一等兵は私の為に他の兵隊と別れ、飯の支度や頭を冷やすなど面倒を見てくれた。
 高熱にうなされて寝ていたが、急に便意を催し、肌着一枚で霧雨の降る中で用をたした。
 すると、不思議な事に急に高熱がなくなり、一変に元の元気が出てマラリヤが治ってしまった。
 便の出たのが良かったのかも知れない、この分では明日は元気にここを出発する事が出来る、と喜んだ。
 しかし喜んだのも束の間で、5分もたたない内に今までに増して高熱となり、その晩は一睡もせず夜を明かしてしまった。
 宮下君には申し訳ないのでその朝お礼を言って先行してもらった。
 2日ほど寝ていると、ふらつきながらも歩ける様になり、一日歩いて漸くピンレブの町に到着した。
 ここの町には兵站部隊の糧秣補給所があり、甘味品や色々と補給する事が出来た。
 そこで意外な事を知らされた。二日程前まで私の面倒を見てくれた宮下一等兵が病死したとの事。私の世話をしてくれた時から具合が悪かったのではないか、と思うと申し訳ないやら可愛想でならなかった。
 ご冥福を祈る。


象の木出し

 ピンレブの町を過ぎると一面チーク林になって来て、今盛んに伐採が行われていた。切り出されたチーク材は直径1メートルもある大木で、運搬は専ら象に頼っている。
 長さ10メートルもある大木に鎖を付けて引き出すのだが、人間の腕ほどある木を根こそぎ倒し引き出す象の怪力に、さすがに驚いた。
 山奥のこの地方には陸上の交通機関はなく、雨季の増水を利用して川に流して運ぶのが唯一の運搬機関というものらしい。
 川沿いの道を暫く行くと、途中の河原に流れ着いたあの巨大なチークの原木を、象の鼻で流れの方へ押しやっている。しかも河原の砂の上を一回転ずつ転がして行く鼻の力に、唯々あきれて暫く見ていた。


屋根の寝台車

 ピンレブの町を出てから何日たったであろうか。漸く「ウントウ」の町に着いた。
 この町には鉄道の駅があり、サガインを経てラングーン方面まで通じている。
 駅の周辺には、チンドイン河を渡って撤退して来た患者の集団が、溢れんばかりに汽車待ちをしていた。
 汽車が到着すると集団は怒涛の如く押し寄せ、汽車はまるで蟻に巻かれたミミズの様になって発車した。
 それでも半分ほど取り残されてしまった。今着いたばかりの私達は勿論乗る事は出来なかった。
 汽車と言っても軍事物資輸送の専用車で、前線からの撤退兵など運ぶ汽車ではない。
 次の列車には必死で乗ることは出来たものの、既に余裕などあるはずがない。どんなところでも乗りさえすれば何とかなる、と有蓋車の屋根の上にしがみつ
いた。
 ビルマは平坦地でトンネルが無いから頭を打つ心配はないが、列車の振動が激しい。それでも疲れているので何時の間にか眠ってしまった。
 ハッと目を覚ますと、屋根の半分ほどずり下がっていた。「危ない」と掴む処をさがすが何もない。手の平をすり付けながら揺れる列車の屋根をなんとか這上がる事が出来た。
 次の停車駅で今度は、前線から撤去して来たレールを満載した無蓋車に乗り替える事にした。
 それでも歩くよりは早くて楽だ。昼は汽車から離れ退避し、夜になると何処からともなく集まってくる。
 そんな事を繰り返しながら、イラワジ河畔のサガインの町に着いた。


生き地獄のサガイン

 サガインは、進攻時にも通過した所だが、今は其の当時とは様相が一変していた。
 前にも書いたように、ここはラングーンから船で遡航する物資の直送地であって、鉄道の分岐点でもあり、また古都マンダレーがイラワジ河の向こうに広がって見える風光名媚な所であった。
 イラワジ河に架かるアバの鉄橋は敵の撤退時に破壊され、結局ここが部隊や患者の中継点になっている。
 私もマラリヤは既に治っているのだが、一応患者という事で入院する事にした。もし居心地がよければ休養を取り、体力をつけて中隊復帰したいと思って入院の手続きを取った。
 病室の中へ入ってみると、土間の両側の一段高い床には患者で一杯、床に上がる元気の無い患者は土間に寝ている。病室に見切りを付けた兵隊は外の木の下で寝ているのが随分いた。
 私は、割合元気そうな兵隊に病院の様子をきいて見た。彼の話では、
「身体に自由のきく兵隊はこんな所にいるもんじゃない、」
「俺達も明日出発するんだが、毎日30人位の死亡者が出て、元気な兵隊は其の死体の始末に使われるぞ」と云っていた。
 毎朝大型のトラックで、イラワジ河上流地点の凹地に捨てるとの事。
 これは大変な処へ来てしまった、しかし今晩の飯を貰うためには逃げ出す訳には行かず、明日は早々に出発する事にしてここで世話になる事にした。
 夜になると患者のわめき声が一段と騒がしくなって来た、この病舎はマラリヤの患者だけが集まっているらしく、外傷患者はほとんど見当らない。
 私の横にいた患者がいきなり飛び起き、「お母さん、お母さん」、と大声を出して呼んでいる。向かい側では「佐渡おけさ」を唄う声も聞こえてくる。彼等はなにを考えているのか、唯内地の事、家族のこと、今自分が何をしているかは分からないのであろう。
 自分の奥さんの名前か、それとも子供か、同じ名前を一晩中呼び続けていた兵隊も翌朝には死んでいた。
 衛生兵が見迴りに来た。
「皆よく聞け」、
「今度内地へ手紙を出せる様になった」
「今から紙を渡すから家族のところへ手紙を書く様に」、と紙を配り始めた。
 変だな、こんな戦況の悪いさなかに内地へ手紙など、と不審に思っていると私達の方には回ってこない。
 そうか、この病室には今日の命しか持たない兵隊がたくさんいる。その人達に遺言状を書かせようという、衛生兵の暖かい思いやりだったのだ。
 いつの間にか静かになったので少し眠った様だ、回りのざわめきに目が覚めた。
 衛生兵が朝の点呼に来て、次々名前を呼ぶのだが、返事のない兵隊は皆死んでいた。
 外の木の下で寝ていた兵隊も、昨夜のまま寝ているから殆ど死んでいるのであろう。
 昨夜の光景が頭に残り、生き地獄というか、地獄絵図と言うか、情景がはっきりと分かりながら、それを表現する事の出来ないもどかしさだけが心に残る。
 いつまでもこんな所にいると自分も本物の病気になりそうで、朝飯を食べ早々にアバの鉄橋を歩いて渡り、マンダレーの町へ向かった。
 注…… 戦後遺骨収集班の資料によれば、サガインの病院での戦病死者は1,600名を越えた、と書いてあった。……


11.部隊へ復帰

ラングーン到着

 コヒマを撤退しラングーン到着まで、何百人、いや何千人の患者は途中で振り落とされ、ラングーンまで到着出来た兵隊はよほど運の強い兵隊か、身体の丈夫な兵隊で、それ以外の兵隊は殆ど死んでしまった。
 ラングーンの陸軍病院は回りが緑の樹木に囲まれた静かな場所で、ラングーン大学の校舎がそれである。


シラミの運動会

 病院では毛布を一枚貰って病室に案内された。誰が着たのか分からない毛布を屋上で陽に当てようと広げてみると、「ウワー」出てきたわ、何十匹ものシラミが一斉に動き出し、シラミの運動会が始まった。自分の身体にも中支以来のシラミもいるのだが、この毛布だけは気持ちが悪くなりそのまま返納した。


体重32キロ

 汽車の到着する毎に全員が病院に殺到する。皆自分の部隊を離れ、イラワジ河を渡った患者だから一応ここの終点まで来る事になるのだが、とても病院側ではさばき切れるものでは無い。
 私は40度の高熱の身を2日間収容され、トコロテン式に病院を追い出されてよろめきながら練成隊という所へたどり着いた。
 練成隊はラングーン郊外の「シュイダゴン、パゴダ」(金色パゴダ)のある近くで、人造湖で有名なビクトリヤ湖の付近にある。
 練成隊の本来の使命は、退院した兵隊に体力を付けて再び前線へ送り出す訓練所なのだが、今は既に患者の収容所と化しているが、練成隊の名前の通り身体の鍛練をしなければならない。
 食事の当番が廻ってきた。10キロ程の飯を二人で担ぐのだが腰が抜けて歩く事ができない。
 翌日医務室で体重測定をすると、なんと32キロしか無く、徴兵検査の時は68キロあったのだから36キロも減っている。骨に皮が巻き付いている様な哀れな姿になっていて、自分の体重を支えるのに精一杯いだ。


餡ころ餅

 練成隊には15日ほどおり、いよいよ中隊復帰する事になってラングーンを出発した。汽車は10トンの有蓋貨物車で15人乗りだが、横になれるだけ有難かった。
 ラングーンを出発した翌日あたりから腹の具合が悪くなってきた。便が緩くその回数も次第に多くなって来た。途中の駅の停車時間は短く、止まる寸前に飛び降りて用を達し、軍袴を上げないうちに発車する。
 悪戦苦闘の末ようやく退避駅に到着した。
 腹の具合が悪いので、出来るだけ物は食べないように我慢したが、今日はおそらく40回以上用達しに行っているだろう。何も食べないから出る物は何もない、最後には片栗のような物しか出ない。
 何も悪いものは食べた事も無いのに、と便を見ると血便が出ている。
〃「しまった」〃
〃「とうとう赤痢になってしまった」〃
 途端にオークタンでの勝又一等兵の事が頭に浮かんだ。
「さあ弱った事になってしまった」。
 とにかく下痢をしているのだから、それを止るのが先決だ、と焚火の消し炭をかじった。
 だが赤痢とわかれば先は見えている、「どうせ俺も勝又君の様に血便で身体中餡ころ餅の様になって死んで行くんだ」、もはや未練を残すことはない。思いきり食べたい物を腹一杯食べろ、と覚悟を決めた。
 財布を空にして、バナナ、パパイヤ、モー、(ビルマのお菓子)、ウドン、何でも手当たり次第に腹に詰め込んで、後はどうなろうと運を天にまかせる事にして早々と寝た。「不思議だ」
 その夜は1回も便所へ行かず、朝になっても便意がない。
 出るものが全部でてしまったからか、それとも空腹にいきなりなんでも詰め込んだからか、体力が付いたのも一つの原因かもしれない。
 それっきり発病せず完治してしまった。
 逆療法が効果的だったのかも知れない。


体力の回復

 カンバルにいる部隊に追及出来たのが19年11月頃だった。
 敵も戦線の整備をするためか、1ヶ月ほど攻撃に出なかった。その間毎日3食ともオジヤに胡麻油を入れて食べた。それ以外普通の飯はどうしても身体が受け付けなかった。自分ながらよくも1ヶ月も続けたものと思った。
 そうする内に徐々に普通の飯が食べられる様になって来ると体力が付いて来た。


12.両脚負傷

深夜の砲受領

 12月に入るとまた敵の攻勢が始まった。
 聯隊本部より兵器受領にこいとの連絡があり、佐藤康二、渡辺正八、他、私を含め6名は、速射砲を受領のため日没と同時に牛車3台に分乗して壕を出発した。
 その夜のうちに砲の受領を終わり帰隊する予定だったが、夜の事とてなかなか兵器廠が見当らず、ようやく到着したのが午前3時頃だった。
 砲を受領し牛車に積み込みが終わった時には既に東が白んできた。敵前での白昼行動は危険だ。仕方なく陽の沈むのを待ち兼ねて帰路についた。
 昨夜来た道と同じ道を帰るのだが、月影に浮き出る砂糖椰子の群生、見上げる様なサボテンの木など何処を見ても同じ地形に見えて、出発した壕を捜すに時間がたってしまった。
 ようやく目的の陣地を見つけた時にはやはり夜が明けかかって来た。
 壕の回りは静かだ。
「変だな、壕を間違えたかな」、と思っていると誰か一人飛び出して来た。
「あー井上だ、井上源治だ」、
「中隊はどうしたんだ」、と聞くと彼は、
「本隊は今夜後退して、俺に残って皆が来たら本隊へ誘導して来い、と言われ皆の来るのを待っていたんだ」、と言う。
 しかし、よくもたった一人で残っていたものだと、感心した。
 だが既に夜は明けてきた。皆と相談して日中は危ないから日没まで待つことにした。
 牛車には枯れ草で偽装して壕の中へ入った途端、敵陣の方から戦車の音と機関銃の乱射が始まった。
「もう来たか」、と敵方を見ると、火焔放射器が真っ黒い煙を吐いて点在するボサを片端から焼き尽くしている。
「駄目だ逃げろー」
「見つかると危ないからビルマの格好して逃げるんだ」、と怒鳴りながら私も牛車に飛び乗った。
 裸になり、頭に白いターバンを巻き、腰にも白い布を巻き付けて牛の尻を叩いて逃げた。
 しばらく行った所に水溜りがあった。それを見付た牛は、私の引く手綱を無視して水の方へ突進して行き、泥水を夢中で飲んだ。
 兵器廠を出てから兵隊も牛も、一滴の水も餌も食べていない。私はあせる気持ちを押さえながら腹一杯飲ませてやった。
 少し行った薮の中から兵隊が一人飛び出して来て、いきなり「ビルマビルマ」、と牛車を呼び止めた。「どうしたんだ」、というと、兵隊は驚いて、「あー兵隊さんですか」と言った。
 本隊からはぐれた兵隊らしく、聯隊本部のいる方向を教えてやった。
 黒い顔にターバンを巻き、ビルマ人に見られても仕方がない。これで敵に見つかる心配はない、と安心した。
 お昼近くに本隊へ追及することが出来たが、危うく敵と友軍に挾み撃ちにされるところだった。友軍の逃げ足の早いのには驚いた。
 その夜は前後不覚に眠ってしまった。


忙中の閑

 翌朝はもう敵の砲弾が迫って来ている。
 中隊では陣地構築、タコ壷堀りに忙しい。私と井上は、昨日からの疲れもあって、陣地から少し離れたボサの中に待機していた。
 もう何ヶ月も風呂に入らず、水浴もしていない。
 二人で裸になりシラミ取りを始めた。その後メンタームの蓋で背中をこすってもらった。誠に気持ちがよい。
「関口、貴様の背中はどうしたんだ馬の背中よりひどいよ」
「何をいうか、貴様のはどうだ」、とさわってみた。
 いや、ひどいなんて物ではない、背中一面簿紙を張ったようで、さわれば剥がれ落ちる。
 すっかり気持ち良くなった二人は草の上に寝ころがり、当時初年兵が内地より持って来た流行歌を、

  影か柳か勘太郎さんか
        伊奈は七谷糸引く煙
   捨てて別れた故郷の土に
        しのぶ今夜のほととぎす

「忙中閑アリ」で思いきり大声で故郷を偲びながら唄っていた。
 すると、何物かが凄い音を立てて草をなぎ倒して行った。
「不発弾だ」
 敵の砲撃が活発になって来た。
「オーイ危ないから壕に入ろう」。
 と二人は慌てて陣地の壕に飛び込んだ。


イラワジ会戦

 サガインヒルから撤退した聨隊は、イラワジ河左岸で敵の進撃を阻止する、イラワジ会戦と云う作戦に転換する事になった。
 民家から川端まで4、5百メートルほどある。土地が肥えているのか作物の育ちがよく、長葱や薩摩芋、特に玉葱などが多く植えてあった。
 川砂のせいか各所に井戸が掘ってあり水を汲み上げて畑の中に流していた。
 井戸水は塩分が多く飲用には適さないので、敵を警戒しながらイラワジ河まで水を汲みに行くのだが、静かな夜は敵も対岸で何かやっているらしく話声が聞こえ、不気味さと緊張感が身体の中を走る。
 夜明けとともに又敵の砲撃が始まる。そんな日が2、3日も続くと、対岸の敵の様子に変化が起きて来て、下流の方へと砲撃目標が移動して行った。
 対岸にいるとばかり思っていた敵が、突然下流の陣地に戦車が出没する様になって来て激しい戦闘が始まった。
 前方の敵を警戒しているうちに完全に後方を包囲されてしまったらしい。
 現陣地を放棄して後方へ下がる様に、と聨隊命令が出た時には既に完全に包囲され、抜け出す隙もないありさまだった。
 暗夜を利用して撤退するのだが、行く所どころに敵の匂いがして歩く音さえ神経を使う。


戦車に追われて

 タマビン付近まで退がって来た部隊は、夜明け前に設営する事になったが辺りは全然林のない平坦地で、皆それぞれやっと身の隠れるボサを選んで宿にし、私達、古川、井上、佐藤(康)、関口など牛車の運転者は、中隊より少し離れたボサの中に設営した。
 イラワジ河畔を撤退してから2、3日殆ど米の飯を食べた事がない。幸い今日は近くに民家があり久しぶりに飯にありついた。
 私達が民家にいると、一人のビルマの青年が遊びにきた。何をしに来たのか分からないうちに出て行った。
 すると井上源治が、「今来たビルマが俺の薬盒から小銃弾を抜き取って行った」という。一体何のために小銃弾を持って行くのか不思議でならなかった。
 民家にいると敵の目標になるので近くのボサで寝ることにした。
 すると又、別の青年が二人でボサの中を見ながら薄気味の悪い笑いをする。
「トアメ、トアメ(行け、行け)」と追い返す。
 東の空が白みかけてきた。付近に点々とある民家からビルマ人が逃げて行くのが見える。
「変だな、彼等の行く方に敵がいるのではないか」、と胸さわぎがした。
 腹こしらえは出来たし、連夜の疲れもあり、早く寝ることにした。
「フル」(古川義信君の事を私達はこう呼んでいた)
「お前は一番早く下士官になったのだから、今日はお前が不寝番一番立ちだ」
 と言うと、古川は笑いながら、
「よし俺が一番立ちとするか」と身支度を始めた。
 井上は更に、「もし戦車の音が聞こえたらすぐ起こすんだぞ」と言って、彼一人を不寝番に立てて何時でも応戦出来る態勢で背嚢枕に寝た。
 横になったものの寝付かれぬ耳にまたもや戦車の音がする。
「フル、戦車じゃないか」、「うん戦車だ」と彼は悠然と音のする方を眺めている。
 井上は、「戦車が来たのになぜ起こさないんだ」と怒鳴った。
 古川は、「何処へ行くか確かめているんだ」と悠々としている。
 俺達3人は飛び起きボサの隙間から音のする方を見ると、戦車は1台や2台ではない。
 しかも古川の見ている戦車とは別の戦車が、我々の方に向かって射撃の準備をしている。
「駄目だ逃げろ」
 誰ともなく叫ぶと井上が飛び出して行った、私が後を続いて出ようとすると、頭上に飛行機が飛んでいる。
「下駄だ、もう少し待て」(戦車を誘導する軽飛行機で形が下駄に似ているので俺たちはこう呼んでいた)
 その間数秒であったか、戦車からは猛烈に火をふき出して来た。
 弾着はあきらかに俺たちを狙っていることが分かる。今朝来たビルマがこの戦車を誘導して来た事には間違いない。
「行くぞ」
 今度は佐藤が先に「ボサ」から「ボサ」へ伝わって飛び出し、私も後を続き、最後に古川が飛び出した。
 2、3十メートルほど走った凹地に佐藤がヘバリ付いている所へ私も飛び込んだ。少し遅れて古川が来た。左手に小銃を持ち、右手からは赤黒い血が軍衣を伝わっている。
「右手をやられた」と言う彼の、苦痛をこらえる髭だらけの顔は真っ青である。
 責任感の強い彼は、負傷しながらも兵器である小銃を左手に持ち替えて走っ
て来たのだった。
 敵の戦車からは狂ったように撃ちまくって来て、ちょっとの身動きも出来ず、古川の傷の手当をしてやることも出来ない。
 今来た方を見ると、敵は火焔放射機で私達のいた「ボサ」を焼き払っている。
「そんな小銃なんか捨てて行け、逃げるに邪魔になるから」、と言うと、
「わかった」といって古川は其の場に小銃を投げつけた。
 弾の間断を利用して佐藤が先に、私が次に飛び出そうと腰を浮かした瞬間、両腿をムチで打たれた様な熱さを感じた。
「やられた」、と思ったが夢中で走った。
 またもや機関銃の掃射である。「危ない」と伏せた地面に先に飛び出した佐藤が、やっと身を隠せる凹地に伏せていた。
 敵の狙い打ちだから、まったく前後左右弾は耳をかすめ、周りは土煙を立てている。
「俺は両脚をやられた」と言うと、彼は無言で私の顔を見詰めた。
「おい、一緒に死のう」と、突然言い出した。
「こんなに包囲されていてはとても逃げ切れん」「まして脚をやられたお前一人を残して行く訳には行かん」、と腰の手榴弾を取り外し発火しようとしている。私は咄嗟に彼の手榴弾をもつ手をおさえた。
「俺は両脚をやられてもお前の行くところへは付いて行ける」
「途中でやられるならば仕方ないが、とにかく逃げられる処まで逃げよう」。
 私は彼の戦友愛に感謝しながらも、「こんな処で死んでたまるか」、との思いが頭にいっぱいだった。
「よーしお前がそう言うなら行ける処まで行ってみよう」と、彼は安全栓を抜いた手榴弾を其の場に捨てながら、「フルはどうした」と言った。
「俺の後からすぐ来たわけだがなー」と振り返って見たが、古川義信の姿は見えなかった。


出血多量

 古川の事が気に掛かりながらまた其処を飛び出した。
 脚が痛い。出血が多いのか身体がふらつく。
 足がガクガクして走れない。
 心臓が苦しい、目の前が見えなくなって思わず倒れる。
 こうしてはおれん、と又起き上がって走る。
 機関銃の弾が頭上をかすめて、「ピュウ、ピュウ」と音を立てながら飛んで行く。
 走るたびに腰に下げた図嚢が負傷した脚を叩くので尚痛い。
(図嚢は中支より持ってきたもので、ビルマで手に入れた象牙のバイプ、象牙の印鑑、財布、貯金通帳などが入っていて、何時でも身体と一緒に行動出来る様にしてあった)
「こんな物を持っていては逃げ切れない」と思いきり遠くまで投げつけた。
 喉が渇く、舌がくちびるの上下にひっついて仕方がない。
「もう走る体力も限界に来た」
「こんな苦しい思いをしてまで助からなければならないのか」
「もう弾も戦車も何も恐くない」
「よーし、弾が当るものなら当ってみろ」、と覚悟をきめ、唯運を天にまかせて、気持ちだけはあせるのだが、歩くようにして走り続けた。


戦友愛

 ようやく椰子の茂る林にたどり着いた。もう戦車の音も大分遠くに聞こえる様になって来た。
 少し行くと、佐藤康治と真っ先に飛び出した井上源治も一緒に私達の来るのを待っていてくれた。
「助かった」と思った途端、脚の痛みが一層激しくなって椰子の木の根本に倒れるように腰をおろした。
 そこで始めて脚の傷を見た。両脚とも腿のつけねあたりで、左足はザクロのように口を開け、青や白い筋が飛び出している。
 腰から包帯包を取り出しズボンの上からしばり、片方は手拭いでしばりつけた。
 後ろを向いて椰子の木に寄りかかっていた井上が、「フルはどうしたんだろう」と心配してつぶやいた。
「俺と一緒に飛び出したのだが、又やられなければ良いが」、としばらく待ってみたがとうとう古川の姿は見えなかった。
 付近に井戸があった。
 夢中で走って来たのと、出血のため喉が渇いて仕方がない。
 なまぬるい水だったが、何物にも替えがたい味がした。
 古川の事が気に掛かりながら長居も出来ず、後ろを振り向きながら3人は出発した。
 少し行くと小銃隊数名と出合った。戦闘にはベテランの小銃隊と一緒になった事で心強さを感じ行動を共にした。


間違った友軍

 椰子林も過ぎ、また平原地に出た。四囲を警戒しながら進むと前方から小銃を担いだ兵隊が近付いてくる、小銃隊の曹長が「友軍だ日の丸を出せ」と指示をする。
 その言葉の終わらないうちに誰かが「ゴルカだ逃げろ」と叫んだ。
 皆一斉に左のわずかな丘をかけ登った。
 それに気付いた敵の一斉射撃が始まったが、幸に弾も散発的で機関銃はなかった。
 しばらく行くと、椰子の木や周りに茂みのある少し大きな凹地を見つけた。
 時間はまだ午前10時頃だが敵の包囲網の真っ只中にいる模様だ。
 もはや日中行動は危険だ。私と、もう一人の負傷者を中心にして円形を作り、四囲の警戒にあたった。
 小銃隊の曹長は「ここで夜になるのを待つ事にしよう」「もし我々を発見したものは誰でもかまわぬ殺してしまえ」、と言った。
 茂みの西側は道になっているらしく、ジープや戦車が頻繁に通り、時には何やら英語らしい話し声も聞こえる。
 全身を耳にして身動きも出来ず、胸の鼓動だけが伝わって来る。
 しばらくして二人のビルマ人が、椰子の水を取りに来た。
 我々を見付け一瞬びっくりした様だがすかさず呼び止め、ビルマ語の得意な曹長は二人に何やら盛んに話していた。
「オーイ、このビルマを放してやろうか」と言う。
「なんて事を言うか、もし敵に密告されたら大変な亊になる」、殺せ殺せ、と皆に反対された。
 しかし曹長は、「このビルマ人は近くの村のデジー(村長)なんだ」「話して見ると我々に好意をもっている様だ、飯と水を持って来ると言っているから、どうか俺に任せてくれないか」、と我々を説得する。
 水筒の水はカラカラ、逃げるにしても腹がへってはどうにもならん。
 半信半疑で二人を放してやる事にした。
 果たして我々の思い通りになるかどうか、確率は50パーセントあれば最高だ。もし敵を連れてきたら全滅になる。
 あれこれ考えているうちに1時間は過ぎた。すると人の近付く気配がする、皆一斉にその方へ銃を構えた。
 顔を出したのはさっきのデジーだった。デジーの後から続々とビルマ人が頭に篭を乗せて集まって来る。篭の中には飯、水、バナナ、ババイヤ、椰子の水、思いもかけない贈り物に、さっきまでの疑いを申し訳ない様な気がしてならなかった。
 私はビルマ人の素朴な気性が好きで今まで可愛がって来たつもりだ。
 私はたどたどしいビルマ語でお礼を言うと、彼等は「ケサムシブ、ケサムシブ」(心配ない、心配ない)と云って私を元気付けてくれた。


脱出行

 ようやく陽が沈みかけて来た。
 敵中の凹地は本当に長く感じた。全神経を使い果たし緊張した一日は数十日も過ぎた様な気がした。
 村長の好意で若者を一人道案内に付けて、敵のいない処を縫って夜道を脱出する事になった。
 電話などないこの地では伝令が唯一の連絡機関である。
 若者は村長の命令で隣村まで案内してくれた。そこの村長に事情を話し、村長も心良く承知してくれ、別の若者に案内させてくれた。
 それから次々と引き継がれ、難なく敵中を脱出する事ができた。
 東の空が白みかけてきた、私達は若者にお礼を言って帰ってもらい、聞かされた東南の方向へ向かって歩き続けた。


13.生死をかけた行軍

傷と発熱と太陽と

 両腿の傷が触れると痛い、足をガニマタにして皆に後れないように必死に歩き続ける。
 熱が出て身体中が熱い、鉄帽の覆をとって背中に付けると「ヒヤリ」として気持ちがいい。だがそれも長続きはしなかった。
 喉が渇いて舌が上下にひっついてしゃべる事が出来ない、唯黙々と歩き続ける。
 陽は昇り始めたが目指す部落は見つからない。
 これ以上日中の行軍は敵に見つかる恐れがあるから出来ない。そこで小銃隊より3人の斥候兵を出して部落を捜す事になり、皆はボサの中に身を隠し斥候の帰るのを待った。
 乾季の平原地は草も木の葉も枯れ果てて砂漠地帯のようだ。所々に人の背丈の何倍もあるサボテンの木が群れをなし、その下に、小さな刺だらけの頭にピンクの花を付けたサボテンが、転がる様に生えている。
 私は、ようやく身を隠すだけの茂みを見つけ横になった。
 南方特有の強烈な太陽が、弱り切っている私の身体を照り付ける。喉はカラカラだが水筒の水は1滴もない、高熱が続き頭は「ガンガン」殴られる様に痛み、目の前が真っ暗になって来る。
 灼熱の太陽は私の身体から容赦なく油汗を絞り出す。「死んでたまるか」「死んでたまるか」と、気持ちだけの抵抗では無駄のようだ。
「何もいらない、狭くてもいい、父母の待っている平和な我が家でゆっくり休みたい」、と思っているうちに気が遠くなって行くのをどうする事も出来なかった。


斥候兵帰る

 先に偵察に出た斥候兵が帰ってきた。この先の部落には敵の姿は見えない、直ちに出発する事になった。
 やっと体を起こし、夢遊病者の様に「よろよろ」とようやく部落へたどり着く事ができた。
 佐藤康二、井上源治、二人の世話になり、米の飯に有りついた。
 水も飲むことができた。しかし負傷している私には腹一杯の水は飲ませて貰えなかった。
「関口、あまり水は飲むなよ」
「分かっている、口をゆすぐだけだ」と言っているが、我慢出来るものではない。


コレラ発生

 小銃隊からコレラが発生した。初めは下痢と嘔吐、それが段々激しくなって発病後8時間ほどで死んでしまった。
 私は見られなかったが、井上君達の話しでは身体中の水分がなくなり肉の形すら無くなっていた、と言っていた。
 しかしコレラなど経験のない者ばかりで、何の病気か分からないのでとにかく下痢をしているのだから水は飲むな、と殆ど与えられなかったらしい。


第二夜の行動

 しばらく安静にしていたせいか多少元気が出てきた。第二夜の行動が始まり、佐藤と井上が前後について私を護ってくれた。
 背嚢や装具は全部捨てて来たので身軽なはずなのに、歩き出して見ると、気持ちだけは落ち着いているのだが足がいうことを聞かない。
 イラワジ河畔を撤退する時部隊長の訓示に、途中で部隊から離れた時は東南の方向に進めば必ず部隊に追及出来るとの訓示があった。しかしこんな事態になるとは予測もしなかった。
 ビルマの乾季の夜空は星で眩しいほどだ。南十字星、北極星、オリオン座など手が届きそうだ。
 夜間方向を知るには北極星を見つけ、両手を横に上げ顔を北極星に向けると東西南北がすぐ分かる。右手が東、左手が西、後ろが南ということになる。またオリオン座の回転によって時間を知ることも出来る。
 こんなに星の有難さを知ったのは生まれて初めてだ。
 皆もくもくと歩いている。話しをするにも声を秘そめなければならない。
 私は痛い足を引きずりながら、皆に遅れない様に必死で歩く。井上と佐藤は私を看護してくれるように時々元気を付けてくれた。
 早く友軍にたどり着きたい気持ちから、自然と行軍の速度が早まるのは仕方ないのだが、私にとってはとても苦しい行軍である。
 もはや私の体力にも限界がきたようだ。このままでは皆に迷惑が掛かるから私一人で行くことを考えた。
「源ちゃん、俺は皆と一緒に歩けないから先に行ってくれ」
「俺は後から一人で行くから」と言って腰を降ろした。
「バカ、何を言うか」
「貴様俺達を先にやって後で死ぬつもりだろう」と、ひどく叱り付けた。
 私としては一人で行ける所までは行くつもりだが、いよいよ最後になれば自分の身のふり方は覚悟をしていた。
 私がどんなに言い訳をしても駄目だった。
「俺達はどんな事があってもお前を連れて行く」と言って聞かない。
「それじゃあ牛車を見つけてくれ、俺の最後の願いだ」と頼んだ。
 小部隊は休憩をとり、私のために暗闇の中を民家を捜し牛車を一台見つけてくれた。
 皆の好意に心から感謝して牛車を走らせた。


コレラの恐怖

 暫く行くと小銃隊の一人が叉腹痛を訴えて、私の牛車に乗る事になった。
 やはり前の患者同様に水を欲しがった。あまり可愛想なので自分の水筒の水を飲ませてやった。
 その後行軍は順調に進み、夜明け前に「キャウセ」の本隊にたどり着く事が出来た。
 そこで腹痛の患者は軍医の診断ではコレラだと聞かされた。牛車の上では自分の水筒の水を飲ませ、自分でもその水を飲んでいるのだ。
 コレラの潜伏期間は1週間だと聞き、その1週間はまた生きた心地がしなかった。
 私は第31野戦病院に収容される事になって、本当にお世話になった井上、佐藤達にお礼を言って、ジャングルの中の病院に向かった。


新しい出血

 野戦病院に収容されたのが3月18日昼前頃だった。
 野戦病院と云うので気持ちを落ち付かせてゆっくり治療出来ると思って来てみると、病院とは名ばかりで、100名近い患者に軍医3名、衛生兵10数名の集団だった。
 元気な患者はお昼の支度で忙しそうに動いていた。
 私は背嚢も米も戦車に追われた時全部捨てて来てしまった。さてどうしたものか、と考えていると、
「及川助七」と、入院者を呼ぶ衛生兵の声に振り向くと、「あ」、私が前に所属していた通信隊の軍曹ではないか。
 思わず、「及川軍曹」、と呼ぶと、
「なんだ関口じゃないか」
「何処をやられた」と言いながら軍医の方へ歩いていった。
 私も呼ばれ軍医の前に行く。軍医は無表情に、「何処だ」、と云って包帯を取らせた。
 ズボンと一緒に縛り付けた包帯は、傷口に張りついてなかなか取れない。
 黙って見ていた軍医は、「イライラ」しながら衛生兵に早く取ってやれ、と言った。
 衛生兵は無言で、いきなり傷口に張りついた包帯を剥ぎ取った。
「うううー」私は悲鳴にもならないうめき声を上げてしまった。
 傷口からは又新しい血が流れ出した。
 それでも軍医に見てもらったと言う安心感が、今まで張り詰めていた気持ちを和らげてくれた。


病院の移動

 及川軍曹には刈羽郡出身の尾見一等兵が伝令として付いて来ていた。
 私は彼に世話になり、お昼と夕食も食べさせて貰った。
 今夜はゆっくり眠れると思っている耳に、遠くで又敵の機関銃の音が聞こえて来る。
「もう敵が追って来ているのか」、と思っていると衛生兵が、「野戦病院は直ちに後方へ向かって出発する」
「皆その様に準備しておけ」
「もし歩けない患者がいる時は担送するから申し出ること」との事だった。
 私は両足の負傷だから、出来る事なら担送にしてもらいたい、と思った。
 更に衛生兵は「もし担送患者の多いときは2回に運ぶ事になるからそのつもりで」、との事だった。
 さあ、これは大変なことになったぞ。
 以前「コヒマ」撤退のときに同じ事があったのだ。敵の追撃が早く、迎えに行く事ができず敵中置き去りにされた兵隊もいたのだ。
「ようーし歩くことにしよう」と決心した。
 及川軍曹が、「関口どうする」と云うので。
「歩いて行きますから一緒にお願いします」と頼んだ。
「それじゃあ関口は足をやられているから、それに合わせて歩く事にしよう」と、私を中心にして行軍をはじめた。


14.負傷兵の苦難

シャン高原の山登り

 平原地のメークテーラの町は既に敵に退路を遮断され、仕方なく各隊ともシャン高原ヘ退路を求めて行った。
 私達は数名ずつの集団となって山登りを開始した。
 最初の1日は私本位に歩調を合わせてくれるのだったが、杖にすがって「ピョコン、ピョコン」と歩く私に、元気な者はどうして付き合うことが出来よう。
 次の日は一緒に出発したものの、何時の間にか別れ別れになり皆それぞれ自分のペースで行軍する様になった。
 2日間の山登りでようやくシャン高原へ上り詰めると、頂上には軍用トラックが待っていて患者を乗せてカローへ向かって後送してくれた。
 途中トラックの都合で3日程歩く事になり、その時には既に足の悪いもの同志の集団になっていた。
 シャン高原は高冷地で、昼夜の温度差が激しく、空気が澄んでおり、気ままな夜行軍の旅は気分も爽快で、しばし足の痛さを吹き飛ばすかのように、当時流行の「シャン高原ブルース」という歌を

   野行き山行き南の果てに
        来たぞ高原シャンの町
   お花畑に松風聞けば
        遠い故郷がしのばるる

 と、瞬時敵に追われている身を忘れて大声で唄いながら歩いた。


カローの町

 高原を登り始めてから何日くらいたったであろうか、ようやく「カロー」の町についた。
 この町は戦前ビルマ在住の外国人の別荘や、英国軍高官などの避暑地でもあった。
 小ぢんまりした盆地の町には、トンガリ屋根のしゃれた建物がたくさんあり、庭には「ケイトウ」や「コスモス」の花も咲き乱れ、赤土の丘の上からは赤松の香りが漂い真緑が目に飛び込んで来て、さながら内地へ帰った錯覚をおこす。


脚の蛆

 カローの病院は飯を食べさせてくれるので有難い。
 病院も爆撃を避けるためジャングルへ退避していた。到着したばかりで治療所を見付けることが出来ず、付近の大木の下で夜になるのを待つことにした。
 昨日あたりから、傷口が痛い中にも「チクリ、チクリ」と針で突かれるような痛さを感じた。
 何日ぶりかに包帯をとって見ると傷口の回りに蛆が這っている。
 死体にたかる蛆は何処でもみられる光景だが、生身の身体にたかるなど思っても見なかった。
 仕方なく竹のピンセットで肉の中に食い込んだ蛆を1つ1つ取り除いた。


カローの宿舎

 夕方になり病院の宿舎へ帰って見ると建物は爆撃で跡形もなかった。
 朝ジャングルへ退避のとき、装具の一部を残して行こうかと思ったのだが、万一のことを考えて持って行って助かった。
 両腿が痛く、立ったり腰を降ろすのが辛く、腰を降ろす時は前方に位置を決め、直立のままパッタリ倒れ、両腕で支えてから尻をつく、なんとも奇妙な格好をしなければならない。
 大便をするのに一番困った。膝を曲げられないから、ほとんど立ったたままするのだから、なかなか技術が必要だ。


乞食の悲哀

 食事は病院から貰えるから困らないが、飯盒も背嚢も捨てて来てしまったから何処かで見付けなければならない。おぼつかない足取りで空き家を捜し歩いた。
 衛生兵宿舎の倉庫の前に白砂糖がこぼれている。もう何ヶ月も甘い物など有り付いた事がない、拾ってこようかと思っていると衛生兵が兵舎から出てきた。
「そこにこぼれている砂糖を少し下さい」と言うと、衛生兵は私の顔をチラリと見て、「あ、またやられた」と言ってこぼれた砂糖を靴でけちらかして兵舎へ飛び込んで行った。
「あヽ勿体無い」
 敵弾でボロボロになった軍袴に、汗と垢で黒光する軍衣を着て、杖をつきながら人に物乞いする自分の姿が哀れでならなかった。
 近くに空き家を見つけた。色々な物が散乱している。
 鉛筆や通信紙も拾い、飯盒の代用品もあって、何とか間に合わせる事が出来た。


シャン高原の首都へ

 兵站病院の移動に先立ち、患者もカローを出発する事になり、日没後患者を病棟前に全員整列させ、引率隊長の訓示があった。
 シャン州の首都タウンジまで約30キロの道程がある、只今から出発するが身体に自信のない兵隊は申し出ること。「その者は後で自動車で輸送される事になる」といった。
 私は健脚者と一緒の行軍はとても無理だ、と思って残留を申し出た。
 中には自動車輸送という事で、ずるい気持ちで残った患者もいて衛生兵に徹底的にビンタを取られた。
 色々あったがその夜のうちにトラックで「タウンジ」まで輸送して貰った。
 シャン高原最大の都市も敵の爆撃で廃墟と化していて、三角山の麓の英国軍の兵舎に落ち着いた。
 しかし敵に制空権を握られている間は、何処へ行っても安住の地はない。この宿舎も假のねぐらで、朝になれば退避せねばならない。
 この辺は水田もあり、畑にはキャベツ、ニンニク、トマトなども植えてあり、殆どの兵隊がニンニクを食べるのには閉口して、仕方なく自分も食べて同等になる事にした。
「タウンジ」にしばらく居る間に、3月16日負傷以来丁度1ヶ月ぶりの4月16日には傷口が完全に塞がった。


インレー湖

 タウンジを出発し、高原を少し下がった処に「インレー湖」という湖水があった。向こう岸がかすんで見える程大きな淡水湖で、付近から流れ込んでいる水は淀んで水郷のようになっている。
 湖と言っても岸辺の水は川のように流れ、底には緑の昆布のような水藻が流れの方になびいて不気味な感じがする。
 岸辺の近くには湖の上に家を建て、湖の魚を取って生計を建てている水上生活者もいた。
 私達の宿にしたお寺の前には大きな「マンゴー」の木が数本あり、まだ青梅のような実を沢山つけていた。


蟹との戦い

 日中は少し離れた民家に退避し、夕方にはお寺に帰る日が続いた。
 その行き帰りの道筋に、内地の沢蟹に似た小さな蟹が遊んでいるのを見つける、捕まえ様と手を出すと素早く穴に逃げ込んでしまう。其の逃げ足の早いこと、何度挑戦しても其の都度失敗に終わる。色々考えたあげく、蟹の逃げ込む前に帯剣を穴の途中に差し込むことで成功し、半日で飯盒に半分程の成果を上げ、一日の蛋白源として意気揚々と引き上げた。
 この付近の農家は砂糖黍の栽培が多く、今取り入れの真っ最中で牛の動力で大きな車を回転させて水を絞り取っている。
 お寺の宿も4、5日で今度は民舟で舟下りをする事になってお寺を出た。


首長族の町

 移動した宿舎はかなり賑やかな町で、市場には付近の部落からの買い出しで活気を呈していた。
 ここにはビルマの平地民族、カチン族、シャン族、と人種は色々様々で其の中に一際目立つ若い女がいた。首に真鋳の環を何本もはめてその上に首がニョキンと乗っている何とも奇妙な格好をしている。首長族のお金持ちの貴婦人とのことだった。


丸木舟の川下り

 このインレー湖は「ナムビル河」の源流で、あの大きな「サルウイン河」に注いでいる。
 もはやビルマの空は雨季に入り始めていた。
 丸木舟には船頭を入れて15人が乗り組み、身動きも出来ない状態で暗夜を利用して丸木舟は出発した。
 この地方の船頭は独特な櫓の使い方をする、舟縁に片足で立ち、もう片方の足で櫓を漕ぐのだが、さながら一本足のカカシみたいだ。
 舟が出発してすぐ雷雨に見舞われ湖上の家に雨宿りをした。暗闇で何も見えなかったが出発の際「カボチャ」を1つ失敬してきた。


螢の交響楽団

 舟が湖上の中程に来た頃、対岸の螢が先ほどの雨に鮮やかに光っている。その数は数千匹、いや数万匹位もいるか、しかも真中から二つに分かれ、あたかも指揮者でもいるかのように左右交互に点滅して誠に見事だ。こんな事って本当にあるものだろうか、まさか夢ではなかろうかと目をこすって見たが夢ではないまさしく螢である。
 こんな光景は二度と見る事が出来ないであろう、もし生きて内地へ帰る事が出来たなら貴重な土産話になるが、果たして皆がこの話を信用するだろうか、と考えながら何時までも見とれていると、湖は何時の間にか川になっていた。


川舟の敵中突破

 今日は第3日目の川下りの夜である。月は10日位だろうか、風もなく静かな夜である。川の魚も浮かれているのか時々舟の中に飛び込んでくる。川の両側には大きな水車が水を汲み上げて農地を潤している。
 なかなか考えた生活の知恵である。こんな風景は処所に見られた。
 第4日目いよいよ難関の日がきた。
 我々の前日川を下っていった、第124兵站病院の本田見習士官の指揮する川舟が、川の両側に陣地を敷いて待機しているチン族の部隊に襲撃され、多くの犠牲者を出した難所を通過せねばならない。
 陸地なら迂回する事も出来るが川下りとなると、どうしても同じ場所を通過せねばならない。
 船頭もその事を承知しているので夢中で舟を漕ぐ、暫く行くと右手の林の中からいきなり「カランカラン」と木鈴が鳴り出した。みんな一斉に舟底に身を伏せた。たとえ撃たれても絶対に川に飛び込んではならない、という輸送隊長の言葉が頭をかすめる。
 その間数分であったが逃げ場のない舟の中の心細さが身にしみた。
 昨日の戦闘のあとの気の緩みか、敵の隙を突いた形になり無事通過する事ができた。
 インレイ湖を出発以来1週間で目的地「ロイコー」の町へ到着する事が出来た。
「ロイコー」には兵站部隊がおり、糧秣1ヶ月分の支給を受け58聯隊の消息を尋ねると、すでに2、3日前にここを通過して「サルウイン河」下流に沿ってモチ鉱山の方に向かって行った事を知らされた。
 何の事はない、我々患者部隊より本隊の方の逃げ足の早いのには驚いた。
 一日も早く中隊へ帰り、元気な姿で皆と行動を共にしたいと思って今日まで頑張ってきたのだが、これで本当に中隊復帰の望みは完全に断たれ、戦友とも別れ別れになってしまって何とも淋しい気持がこみあげてくる。
 仕方なく他の患者と同道して「サルウイン河」を渡り「タイ国」へ行く事に心を決めた。


渡船場

 翌朝渡船場へ行って見ると既に黒山の兵隊が乗船を待っている。
 対岸から舟が到着すると、我先に乗り込もうと押し寄せる患者の整理に当る船舶工兵隊の苦労は並大抵ではない。
 それはもう兵隊と名の付けられる人間は一人もいない。敵に追い詰められて浮き足立った患者の群れと言った方が適切かもしれない。
 誰が引率するでもなく、その時その時気の合った者同志が集まって歩いて来たというだけの事で、軍隊の統率など何処にも見られない。
 それでもここまでたどり着かれた患者はまだ良いほうだ。部隊としての機能がないから、途中で倒れても誰も面倒を見てくれる者はいない。
 自分自身は自らが護らなければならない。


15.再びタイへ

タイ緬国境へ敗走

 サルウイン河を渡った所にも兵站部隊があり、糧秣と兵器を渡していた。
 私は割合元気だったので、これから向かう国境の山越えに備えて糧秣と手榴弾数発をもらった。
 小銃も持って行くように勧められたが、タイへ行けば敵はいないからと断った。
 始めの2、3日は平坦な道が続いたが、いよいよ道も険しくなって来て、タイ緬国境のある「ドーナー山脈」は霧のため山頂をすっぽり被って我々を遮るようにそびえ立っている。
 私はいつの間にか長岡出身の金子五郎さんと直江津女学校の先生をしていたと言う軍曹等と行動を共にする様になった。
 雨季特有の雨はシトシトと降り続く、何処かで拾った防雨外套は雨を通して肌まで濡れてきた。背中に悪寒がはしる、またマラリヤがでたようだ。高熱のため足が「フラフラ」と夢遊病者の様に歩き続ける。
 暫く行くと小さな川に土橋がかかっていた。まだ時間は早いがこの橋の下で休む事にした。金子五郎さん達には先に行ってもらい私一人でこの橋の下で一晩過ごす事にした。
 橋の下とは良く言ったもので、雨が当らないから大助かりだ。
 飯はあるのだが高熱のため食欲が全然ない。
 ほとんど眠れないまま夜を明かしたが頭痛は止まらない。体を起こして見ると目先の目標が定まらない。しかしこんな橋の下に何時までもいる訳には行かず、心に鞭打って橋の下を出発した。
 幸い雨もやんで熱も少し下がったようだ。しかしもとの元気も何処へやら何も考える気力もない、唯々足を前に出すだけ倒れない様にふんばるのが精一杯だ。
 前線から遠のき、敵に追われる心配はないので幾分気持ちだけは明かるかった。


小便の流れ

 暫く行くと、いよいよ急坂になって来た。
 雨はやんだが山は霧で頂上は見えない。這うように露草を掴みながら登って行くと、ようやく頂上が見えて来た。登りきって喜んであたりを見回すと、目の前に今登ってきたのと同じ様な山が待っていた。
「なーんだ、頂上じゃなかったのか」、と思った途端全身の力が抜け露草の上に崩れる様に腰を降ろした。
 頂上までの途中に死んでいる兵隊もおり、休んでいる兵隊も大分いたが果たして何人登ってこられるだろうか。
 その頂上にはまだ第2第3の頂上があり、登り詰めたところはタイとビルマの国境で、四角い木の柱には「泰緬国境」と書いてあった。
 ようやくタイ国へ入れるのか、今度こそ本当に敵に追われる事がなくなった。しかし累々と続くジャングルの山中を果たして「チェンマイ」までたどり着ける自信はなかった。
 しかし何となく「ハシャギ」たい様な気持ちになり、片足をビルマへもう一方をタイ国へ置き「さらばビルマよ」と小便をした。果たしてどちらへ多く流れたやら。


三本のバナナ

 山を下り切った所に「トッペ」という部落があった。其処には、私がマラリヤで橋の下で一夜を過ごした時先に行ってもらった金子さん達がおり、彼等もマラリヤに患り休養していた。驚いた事に、私が発熱の時見向きもしないで先行した「饅頭傘の佐藤」と呼ばれていた兵隊が病死したと言う。何という皮肉な事だろうか。
「トッペ」では家の中で眠れると思っていたが駄目だった。先に行った兵隊が悪いことをして行ったのであろうか中々民家へ泊めてくれなかった。仕方なく家の軒下に寝る事になった。
 今朝はまた霧雨で昨日越えてきた山々は頂上が見えるだけだ。
 今日の旅立ちも同じメンバーだ。長岡の金子さんは、表面物静かな商人タイプの人だが中々芯の強い人間だった。彼はまた物資調達の名人で、ちょっと姿が見えないと思うと米を3合ばかり持って現れ、農家で米搗きの手伝いをして貰ってきた、と言って笑っている。彼のおかげで道中ずいぶん助かった。
 其の日の行程は短く、「クーニャン」という町に泊まる事になった。
「姑娘」、面白い地名だと思っていると「クンニャム」だとのことだった。よその国の地名は似た様な発音が多く分からない事がある。
 ここでも糧秣補給所や兵站宿舎もあり久し振りに家の中で泊まる事が出来た。
「クンニャム」からは「チェンマイ」に通ずる3本の兵站線があるという。何処がどんな道かは分からない、大分遠回りになるが山が一番少ないという北兵站線を行くことにした。
 先日来の発熱で食欲が全然ない。腹は減っているのだが飯盒の蓋を開けた途端、飯の匂いが嫌になってしまう。
 色々考えて焼きオニギリにすると香ばしい香りに誘われて何とか食べられる。しかしそれも二日続けるとすっかり胃を悪くしてしまった。
 そうこうしている内に金子さんが或る部落でバナナを一房見つけて来てくれた。
 久し振りに食べるバナナが非常に美味しく、夢中で3本食べてしまった。いや不思議なことが起こった。今までどうしても受け付けなかった飯がどんどん食べられる様になって来た。
 食欲が出てくると急に元気が出て体調も元通りになって来た。


将校と兵隊

 相変わらず雨とも霧ともつかぬ雨が降り続く。泥道に足を取られ無理に抜くと靴の半張皮が取れそうになる。
 ようやく少し平坦の道に出た。どうした事か道の両脇に点々と遺体が1キロ程にわたって転がっている。同じ場所に多数かたまっているところもある。人間死ぬまで集団心理があるのだろうか。
 少し行くと将校が兵隊を叱っている。
「貴様何処の兵隊だ」
「はあ」
「はあでは分からん」
「いやしくも日本の軍人が、同じ日本兵の遺体から物を取るとは何事だ」。
 と盛んに叱られている。
 見ると遺体の背嚢から米を取っていたらしい。既に死んでいるのだから米は必要ないかもしれない。しかし何とか生き延びようと食べたい飯も腹一杯食べず食い延ばして来たのだ。
 あのコヒマの悪戦苦闘から逃れ、今あの国境を越えやっと平坦地に来たというのにと思うと可愛想でならない。
 だがこれから生き延びて行かねばならない兵隊も大勢いるのだ、と思う心と気持ちは複雑だ。


新しい飯盒

 今晩もまた露営をしなければならない。霧雨はあきもしないでよくも降り続く。
 私は天幕はなし、どうすれば良いのか思案にくれていると、すぐ道端に新しい天幕を張って一人で寝ている兵隊を見た。何とか頼んでみる事に決め、「申し訳ないが一晩横に休ませてくれませんか」と声を掛けると無言で寝返りをした。
 大分疲れているのだろうと思って其の人の端に寝かせてもらった。
 私も疲れているので朝まで何も知らずに眠ってしまった。
 翌朝は明るくなって目が覚め、「有難うございました」と声を掛けたが返事がない。「変だなー」と思って顏をのぞき込んでみると既に呼吸が止まっている。
 昨夜私がお願いしたときは確かに寝返りをしたのだから、眠ったまま死んで行ったのであろうか。
 其の人の枕元に真新しい飯盒が置いてあり、軍服も全部新しいから最近部隊に配属になったばかりの兵隊に間違いない。
 私は負傷のとき全部捨てて来たので代用の飯盒しか持っていない。
「一晩お世話になって申し訳ないが、君はもう飯盒の必要がなくなったのだから私に下さい」、と言葉にはならないが頼んで貰って来た。
 その後飯盒は有効に使って復員の時内地まで持ち帰り、今でも我が家の家宝として大事に保存してある。


ざまー見ろ

 或るお寺に宿泊した時のこと、本堂には15、6人程泊まっていた。
 翌朝出発する事になると、其の中の九州訛の将校が今から俺がみんなの指揮を取るから俺の命令に従う事、と言い出した。
 今まで誰の指揮というでもなく、自分の体力に合わせて思い思いの行動を取って来たのに、今更直属上官でもないこの将校に従ういわれは無い、と皆不満をもらしていた。
 中に元気のいい軍曹が一人おり、俺は部隊行動はしない、言い出して収まらない。
 将校は駄目だといい張る。軍曹も負けてはいない、「誰に指揮を取れと云われた」と怒り出す。
 回りにいた兵隊は一斉に将校を取り巻き、将校が手を出したら袋叩きにしてやろうと身構えた。
 この雰囲気に気付いた将校は、我に利あらずと悟ってか「そうだ其の意気だ」と、分かった様な、分からない様な言葉を残していずれかへ立ち去った。
 兵隊達は「ざまーみろ」と言って何時ものように思い思いに行軍を始めた。


敗残兵の標本

 毎日続く雨季の雨も時には晴れ間もある。しかし部落から部落へ通ずる道はほとんど泥田とおなじである。
 インパール作戦の始まる時もらった編上靴は糸が切れ、破損寸前だ。
 私はどこかで拾ってきた銅線で補修しながら来たので何とか形だけはよいのだが、満足な靴を履いている兵隊は殆どいない。
 爪先から足の指先を覗かせているのはまだ良い方で、靴も履かず裸足で歩き皮膚がやぶれ赤身をだしている人もある。
 まるで敗残兵の標本の様だ。
「メーホンソン」の町の入口に将校と兵隊が待ち受けていて、「この町はメーホンソンの県庁のある町だ」「日本軍の威厳に係わるから規律を正して行軍する事」、と注意していた。
 たとえどんなに整然としても、もはや日本軍の威厳を保つことは不可能なことだ。
 将校達は半ば強制的に裸足の兵隊にボロを巻かせて通過させた。


16.そして終戦

チェンマイの町

 自分で選んだ此の北平坦線の退路は良かったのか悪かったのかは分からないが、随分日にちが掛かったようだ。
 田圃の真ん中に温泉の湧き出ている所もあった。親切な農民もいた、不気味な部落もあった。餅米を常食にしている地区もあり、ウルチ米を見つけるに西奔東走した事もあった。
 昨日親しくなった兵隊も明日は離れ離れになる事もある。悪意がある訳ではないがとにかく自分だけが頼りである。自分に起きた事は自分で解決をしなければならない。
 色々あったが何とかチェンマイの町にたどり着くことが出来、チェンマイ郊外の野戦病院に収容された。都会と言っても郊外の病院は竹の柱に椰子の葉で葺いた病舎が数十棟も林の中に整然として並んでいる。


終戦を知る

 チェンマイに着いて何日か過ぎたある日、マラリヤの発熱で休んでいると夜中の2時頃非常呼集がかかり全員集まった。こんな夜中に何の話しがあるのだがろうかと思った。しばらくして帰ってきた兵隊に、何があったのかと聞くが誰も話してはくれない。2、3人で寄ってはヒソヒソと話している、これは重大な事が起きたに違いないと思ったが自分で起きて聞きに行く気力もなかった。
 朝になってようやく日本が無条件降伏したことを知らされ、非常なショックを受けた。しかしガダルカナルの撤退やビルマ戦線の敗北、また内地の空襲など、こんな悪戦況の中で果たして日本が本当に勝てるだろうか、との疑問は絶対に口に出すことの出来ない心の秘密としてインパール作戦に従軍した兵隊達は皆持っていた事と思う。
 朝の点呼時の若い将校達の嘆きぶりは見るに忍びない程だった。
 しかし、何か内地が近くなった様な気がして来た。また一方では捕虜としてどんな扱いを受けるかとの心配も出てきた。
 ドイツ軍は7年間も重労働をさせられているとか、色々な噂が飛び交ってくる。
 しかし戦争は終わって敵の弾で殺されることは無くなったのだが、まだまだ今頃タイ緬国境をさまよっている兵隊もいるかも知れない。
 タマビンで負傷の際別れ別れになった井上源治、佐藤康二さん達や中隊の皆さんはどうしているだろうか、サルウイン河をモチ鉱山方面へ撤退していったとの情報を最後に、その後の様子は分からない。


バンコクへ集結

 英国軍の武装解除を受けた後バンコクへ集結すべくチェンマイを後にした。
 チェンマイからバンコクまで距離はどのくらいあったかは分からないが、チェンマイに1ヶ月程の滞在後の行軍であるだけに何処まで頑張られるか自信はなかった。
 最初の1週間は足に豆を作りながら何とか頑張り通した。それ以後は何日歩いても今日の疲れは明日に残らなかった。
 2日歩いて1日休養を取り、また2日歩くという行程だったが、明日の宿営地はどんな所だろうかとの希望が湧いて宿へ着くのが楽しみだった。しかし全然疲れがない訳ではない、宿へ着いてから、明日1日分の飯の支度をせねばならない。行程によっては暗くなってから宿営地に着く事もある。
 タイ名物の強盗団に襲われた事もあった。敗戦を哀れんでか、それとも日本軍の勇敢さを称えてか部落民総出で果物をふるまって迎えてくれた所もあった。
 チェンマイを出発以来45日目にバンコク近くのナコンナヨークへ到着したのが12月頃だった。
 そこには方々の部隊が集結しており軍の町ともいった処だった。行動中行を供にした事のある金子五郎さん達もすでに来ていた。
 翌昭和21年のお正月も過ぎて、さらにバンコクの郊外に移動しその年の5月に迎えの船、航空母艦葛城が沖へ待っている。小さな船から葛城に乗り移って船のエンジンの音が一段と高くなり、ゆっくり船が動き始めた時、今度こそ本当に内地に帰れるのだ、との実感が湧くと同時に大勢の亡き戦友を、あのインド、ビルマの地に残して来た無念さと交々入り混じった思いがとめど無く溢れて来る。

 さようーなら亡き戦友よ、 さようーならインド、
            さようーならビルマよ………。
   ありがとうタイ国よ、タイ国よさようーーならーー。

採録:1999年7月24日
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