そもそもどうして哲学を学ぶ気になったかというと、小学生の頃、肉親を次々に亡くし、死というものをひどく怖れたことがきっかけでした。一体、人が死ぬというのはどういうことなのか、人はそもそもどこから来て、どこへ行くというのか、このようなことについて幼い思考でどれだけ当時考えていたのかは、今となっては定かではありませんが、死の影に脅かされていた僕は、大人たちが、死など存在しないかのごとく、明るく笑って日々を過ごしていられることを不思議に思ったものです。
アドラーが繰り返し著作の中で書いており(『個人心理学講義』第5章、『人はなぜ神経症になるのか』, chap.10; Individualpsychologie in der Schule, chap.6)、またアドラー自身がそうであるように、このような子どもは将来医者になろうと思うことがあります。
「最も重要なタイプの早期回想は、子ども時代の死の回想です。子どもたちが誰かが突然亡くなったのを見れば、子どもたちの心への影響は、非常に強いものとなります。時にはこのような子どもたちは、病的になります。病的にならないまでも、自分の生活のすべてを死の問題に捧げ、いつも何らかの形で、病気と死の問題と格闘している、ということもあります。このような子どもたちの多くは、後の人生で医学に興味を持つようになり、医者や化学者になるかもしれません。もちろん、このような目標は、人生の有用な面にあります。自分が死と闘うだけではなく、そのことが他の人を助けることになるのです。」(『個人心理学講義』p.110)
もっとも自己中心的で、人生の有用でない面に発達した子どもは、同じように肉親の死に遭遇しても、アドラーが例に引いているのですが、墓掘り人になりた、と願うようになるかもしれないのですが(「自分が埋められるのではなく、他の人を埋める人になりたいんだ」、ibid.)。
僕も医者になることを願っていたのです。しかし、やがて現実と直面し(!)医者志望を断念し、かわって、死の問題に答えを与えてくれそうな哲学に出会い、以来、受験勉強もそっちのけで、禁断の木の実である哲学の本を読むことに没頭するようになりました。医者にはならなかったけれども、「魂の医者」になったのだ、とよく考えたものです。