知的発達に必要なもの
〜行動心理学的研究報告にみるアドラー心理学的思考
明治東洋医学院専門学校 教員養成学科1年
2002812 宮崎 潤二
人の行動決定に関する考え方は心理学によってさまざまであるが,多くの心理学では,人の精神活動や行動を過去の経験と遺伝的素養などの分析から原因論的に記述する事が多い.しかしそれらに対するアドラー心理学の用意する答えは非常にシンプルである.人の行動は,その瞬間に自分自身がある目的に対して決定されるということである.アドラー心理学はこうした目的論的立場によって人の行動を理解するという特徴的な視点を持つ心理学であるといえる.
今回のレポートは,アドラー心理学における育児・教育を考える上で重要なファクターである罰や賞,ライフスタイル〜自己概念と世界像の形成などが,実際に子どもの知的発達に対して実際にどう関連するかを,これまで様々に行われている学習行動の実験を参考に検証していくことを試みる.
人間らしさと知性
人間を人間たらしめたものは知性である.しかしその知性の獲得に不可欠なものとはいったい何か.それは知に対する内的欲求,つまり飽くなき好奇心ではないかと考える.人間のもつ好奇心は動物のそれをはるかに凌駕するものであったために,人間は「世界」を知ることとなった.それはヒトがサルから袂を分かち,安全で食料の豊富なジャングルから危険で食料の乏しい外の世界へあえて出て行く大きな原動力となったのは紛れもなく好奇心であり,動物にとって危険な存在であった火さえ道具へと昇華させたのも好奇心であるとするならば,ヒトにおける知性とは,知らないことを知る欲求に突き動かされる好奇心,動機そして野心などの存在によって初めて獲得されるものであるとはいえないだろうか.人間の脳はそのような情動を担う部位を劇的に発達させた為に,動物にはない精神活動を持つに至ったと考えることが出来る.つまり好奇心・意欲・関心・動機・目的意識・生きる方向付け・やる気・積極性・野心・自己抑制といったものこそ,動物と人間を決定的に分けた「人間らしさ」といえるのではないか.そしてこの「人間らしさ」が人間の知性を拡大してきたといえるかもしれない.こうした動物にはない「人間らしさ」を表象させる高次の情動作用というものは,脳に於ける前頭葉第9野,いわゆる前頭前野を中心とする機能であることが知られている.ロボトミー手術や脳損傷患者の観察によると,この領域を破壊または切除によっては,精神異常や知能低下などの変化は見られないにもかかわらず,前述のような「人間らしさ」を失ってしまう.ここは系統発生学的にも個体発生学的にも最終段階で発達する最も新しい領域であるため,比較解剖学的見地から動物と人間の違いはここにあるといえる.つまりこうした前頭葉的な精神機能の低下が,自発性の欠如,無気力,抑制性の欠如,積極性の欠如といった「人間を人間たらしめる」情動作用「知性を知性たらしめる」行動決定能力を欠如させ,それが知的刺激のチャンスを奪うことで,結果的に知的発達をも遅らせる傾向となる可能性がある.逆にそうした精神機能の向上が知性の発達を促す若しくは維持させることに必要であると言い換えることも可能である.では,そうした人間らしさともいえる好奇心・意欲・関心・動機・目的意識・生きる方向付け・やる気・積極性・野心・自己抑制といったものはどうすれば育まれ,或いはどうすれば抑制されることとなるのか.このことに関して行われたさまざまな実験や報告から,子供の意欲や能力を引き出すために必要なものを考えていく.
興味を持つこと
驚異的な能力を持つ天才のことを称して「サヴァン症候群(savant syndrome)」と呼ぶ.サヴァンとはフランス語で「優れた学者」が語源である.生後6週で脳損傷が認められ,水頭症から脳萎縮をきたしたクリストファは,後に一人のサヴァンとしての詳細な研究が世界の研究者から注目を浴びることとなる.彼は3歳ごろから「読む」行為に強い関心を示し始め,6〜7歳では外国語に執着したことで20ヶ国語を使いこなす「言語天才」となったのである.彼は卓越した言語習得能力を備えていたが,この能力は決して特別ではないと言語学者はいう.それは幼児期において言語を獲得する際には誰しもが持ちえる能力である,ということである.しかし一度母国語を獲得すると,次の第二言語の獲得は一般的に別の学習メカニズムによるといわれている.しかし彼がユニークな点は誰しもが持つ幼児期の言語習得能力を大人になっても失っていない点である,というのである.しかしクリストファがその能力を十分に発揮しえたのはそれだけではないと考える.つまり彼自身が言語に対して異常なまでの関心と興味を示していた点を重視すべきである.何者にも言語学習に対して強制されず,また抑制されないことで彼はそのユニークな言語能力を開花させたと考えられる.確かに彼は特殊な能力を持っていたが,こうした彼自身の言語に対する内的動機なしにはここまでの言語能力は開発されなかったであろう.なぜなら彼の言語性IQは平均値であったが,非言語性IQに関しては平均を大きく下回っており,成人時精神年齢については9歳と診断されていたのである.
意欲と環境要因
ハーターは,6歳の普通児と知的遅滞児との間の知的意欲の違いについて調べたところ,知的遅滞児は,その課題が彼らの知的範囲内のものであっても,それらの課題に挑戦する意欲の乏しいことを示した.こうした好奇心や意欲の低さが知的遅滞児の知的経験を制限し,知的発達の障害となっていることは容易に推察できる.多くの知的遅滞児における能力発達の遅れは,必ずしも知的側面にのみ問題があるわけではなく,やはりこうした意欲や動機づけといった 情動的側面に大きく左右されるものであることは否めない.しかし誤解してならないのは彼らの好奇心や意欲が低いのは決して生まれつきではないということである.ホスピタリズムという現象が知られている.ホスピタリズムとは,設備や人手の乏しい擁護施設などで育った子どもに見られるいちじるしい心身の発達遅滞のことで,2歳になっても歩行障害や言語障害を呈することがあるという.そうした環境下の幼児は,やはり好奇心や意欲の低下が非常に顕著であることが報告されている.そしてそれは刺激の乏しい施設環境のみではなく知的遅滞児と職員との関係性にも大きな問題があると考えられる.職員が知的遅滞児に対して「彼らは何も出来ない」という思い込みがあれば,職員は子どもが何かをする前にすべてのことを先にやってしまうかもしれない。または「何もできないのだから」何もやらせる必要はないということになるかもしれない.こうした職員の子供に対する意識の低さが症状を悪化させている可能性も考えられるのである.つまり彼らの関心や意欲の低さというものは,遺伝や個人の資質などに既定されたものというような原因論的に存在するものではなく,これまでに知的意欲が引き出されず興味を持ちえる目標や自分で達成されるべき課題が身の回りに存在しなかった,もしくは与えられる前に取り除かれていたためであると考えるのが自然である.このことは子供が自分の課題を認識し,自分で解決することを見守っていくことの重要性を示唆しているといえる.
押し付け教育と課題の解決
三宅和夫らの研究によるとこんな結果が示唆されている.4歳児とその母親66組を対象として,子どもとそれぞれの母親との遊びの関わり方と知的発達がどう関わっているかを,自由な待ち時間の間に観察した.すると親子同士が遊ぶ場面において,「この色は?」「この形は三角よ」「赤いのはいくつ?」などと,いつも何かを教えようとする親ほど,「これを作ってごらん」「もっと上手に」などと自分の考えを一方的に指図する場面も多い傾向が見られたという.こうした母親の子どもは,語彙テストの結果については平均以下で,二年後の知能テストでも総じて良くない傾向があったとしている.つまりこのような押し付け教育的な環境が,結果的に子どもの自主的な問題提起や解決能力を獲得する機会・体験を母親によって奪われ,自ら疑問を創出し思考することが出来なくなっている可能性があると考えられる.こうした親は子どものことを「無知で無力な弱い存在だからきっと問題の解決には至らないだろう」と捉えているのかもしれない.ここには親子の関係として信頼関係はあり得ない.子どもらが解決すべき課題は決して強制されず,そして干渉されてはならないはずである.それは子どもが人間としてリスペクトすべき存在であることに大人と何ら変わりはないからである.彼らもまた自ら決定するべき主体であることは疑うべくもない. そしてその責任を負うのは常に主体であることも忘れてはならない.
罰は無力感を獲得させる
こうした自発的思考の抑制は,「賞」や「罰」によっても,もたらされることが様々の研究により報告されている.波多野,稲垣らは,賞罰による行動の統制という考え方を,とくに不適当だといわなければならない理由として以下の二つをあげている.ひとつは賞罰により強制的な外力を持って行動を統制したり,問題を解決させたりすると,明らかな意欲の低下が子どもに見られるというのである.もうひとつは賞罰の与え方が結果に依存する主観的なものになりやすいということである.つまり自分なりに努力したのに,よくやっているつもりなのに,意に反した賞罰が与えられるといっこう報いられないと本人は考えてしまうことが起こる.あるいは,いいかげんに,あてずっぽうにやったのに誉めてもらえたという,なんとも納得できない結果を生むことにもなる.つまり自己評価と他者からの評価における不一致から自信を喪失し,外界とかかわる意欲を低下させることにつながりやすいと考えられる.しかし罰は,行動を変容させる際,非常に即効的に働くことは確かである.弁別学習における罰の効果に関して,ワルダンらは,正反応に報酬を与えるよりも誤反応に罰を与えるほうが学習の早いことを報告している.しかし果たしてそう単純に考えてもよいのであろうか.波多野らは,罰が本人の努カとはかかわりなしに与えられるときには,自分の働きかけが目標の達成に役立ちうるというような「効カ感」は得られず,自分の働きかけは外界に対して何の効力ももたないという「無力感」を植えつけるだけの結果になりがちであると指摘する.ある問題解決の際,本人の努力とは関わりなしに,しかも自分では逃れられない罰というものを反復して与えられると,以後,仮に解決可能な問題にぶち当たったとしてもその問題を放棄してしまうことが実験的に報告されている.ゼーリックマンらは,罰が意欲を低下させるということを,動物を用いて実験している.何をしても逃避できないショック経験を繰り返し与えた後,適切な行動によってショックから逃避できるよう環境を変えて逃避学習をさせると,動物は全く学習をしなかった.このことをゼーリックマンらは「獲得された無力感」と表現する.この獲得された無力感の研究は,ヒトを対象にも行われている.ある大学生に対して行った実験では,全く解けない弁別課題を繰り返し与えられると,その後に与えられた必ず解けるアナグラム課題に対して解答することを投げ出してしまい,課題に対する成績が非常に悪い傾向にあった.つまりここでの大学生は課題を達成できないという無力感を与えられたわけである.しかもここで獲得される無力感というものは,罰を与えられた問題に特異的なものではなく,一般化された反応傾向として他の行動領域にまで波及することも報告している.「自分のちからにあまる課題を与えられ,できが悪いとしかられる子どものすがたというのは,まさに自分にとって統制できない電気ショックに打ちひしがれたネズミや解決不可能な知的課題になげやりになった大学生の姿とひどく似かよっているように思われる.」と波多野らはいう.アドラー心理学ではライフスタイルの決定因として自己決定に基づく自己概念と世界像をあげているが,罰による「無力感の獲得」は,まさに不健康なライフスタイルというものを決断させていくこととなるのである.
賞は行動目的を変えさせる
それでは「賞」の効果についてはどうであろうか.一般的に流通する育児書や幼児教育書によるとほとんどが「ほめる」といった「賞」を推奨している.積極的な賞の供与は意欲を促進するとされ,子どもを誉めたり,約束のごほうびをあげたりといったことが日常的に行われている.ヒンテンらは,ほとんど口をきかず他の子供たちと遊ぶこともほとんどない状態の子供に対する行動修正の解決法として,くすくす笑いなどの声を出せば自動販売機で使用できる硬貨を報酬として与えた.その後,報酬行動レベルを段階的に上げていくと,最終的には子どもが2人1組で相互に働きかけるまで強化された.その結果,社会的相互作用の実質的な増加がみられたという.しかしこの結果はこう推測できる.子どもたちは口をきかないことで得られる利益よりも,口をきくことで得られる硬貨の報酬のほうがより利益になることを知った為に行動を変えた,と.これは子どもたちが真の意味において社会性を獲得したといえるのであろうか.また報酬をストップした後,これらの行動が維持されるのであろうか.この子どもたちは,自分が社会の一員であると自ら認識したわけでも,他者との関わり方を学んだわけでもない.硬貨を与えるという行為は,子どもたちがなぜそのような状態にあるのか,その目的が何なのかを分析したうえで対処したものでもない.おそらく子どもたちは報酬が与えられなくなったことを知ると,報酬目的の行動は消去されてしまうだろう.
レッパーらによる実験では,絵をみずからすすんで描くことの好きな3〜5歳の幼児を被験者として報酬と意欲の関係について報告している.実験群では「よく出来たらごほうびをあげる」という約束のもとに絵を描かせ,描けばごほうびを与えた.統制群は「絵を描くところを見たいから,描いてくれる?」とだけいって絵を描かせた.このとき描き上げた枚数は実験群のほうが統制群より多かったが,この「体験」の1〜2週間後,自由あそびの時間における子どもたちの活動を観察すると,実験群である絵を描いてごほうびをもらった子どもらは,統制群の子どもらにくらべて自発的に絵を描く者が少なかった.統制群の子どもでは,以前と同じように自由あそびの時間には喜んで絵を描いていた.このことは,もともと絵を描くことが好きで,それ自体を目的として楽しんでいた子どもたちが,ごほうびを与えられたことにより,描く目的を「楽しむため」という内的なものから「ご褒美をもらうため」という外的なものへと変容させてしまったと考えられる.
このような行動変容は,決して幼児だけではない.デシによる大学生についての研究でも同じ結果が報告がされている.デシは「評価する」こともまた意欲を低下させるとも報告している.波多野らは,「・・・・そうした自己評価を確認する形で,他人から評価されたときには,ひきつづいて学習していこうとする意欲を高めることさえある.事実,レッパーたちの最近の実験によると,ごほうびが自己評価にもとづいて与えられたときには,内発的興味の低下は認められなかった.さらに,活動自体が自分の「人生の目標」といったものと結びついているさいには,賞罰によって容易に興味が低下することはないであろう.しかし,いずれにせよ,個体の側の条件を無視して外側から強制することが,発達を促進する意欲の育成にマイナスの効果をもつことは確かなのである.子どもにせよ,大人にせよ,彼のもつ好奇心ややる気を無視して,外側からむりに意欲をつくりだそうとしても,結局,それは失敗に終わる」と述べている.結局,賞罰に一喜一憂するこどもというのは,自身の興味ではなく外的評価を気にした意思決定をするようになってしまう.意欲ややる気といったものは,内発的興味が生じていなければ,外的介入による賞罰ではマイナスにしかなりえないというわけである.
環境の応答性とライフスタイル
アドラー心理学ではライフスタイルの形成を10歳前後であるとしている.つまり幼少のこの時期までの経験が,以後における自己の性格を自ら決めてしまう際の大きな影響因となる.この10歳という時期は神経回路における爆発的な樹状突起の形成が比較的安定する時期だといわれており,生後の経験に基づく様々な学習がこの時期までに脳へ入力されるのである.尾本は2歳半から10歳までの時期を「創造の時期」と呼んでいる.ライフスタイルはこの時期に出合う様々な「生まれて初めての経験」を元に形成されていくとも言い換えられるかもしれない.こうした重要な時期に子どもが無力さを感じ,思考せず受容的な態度を学び,他者評価に既定されるような環境を与えられれば,前頭葉的思考が抑制されるであろうことは容易に想像きるだろう.ロバート・ホワイトは「自分は環境に影響を及ぼすことができる」という効力感の必要性を説く.つまり「自分は環境を動かすことができる」という体験が,更なる働きかけの「動機づけ」として獲得されていくのである.ワトソンらは乳児と応答的環境の関係についての実験で,乳児の動きに呼応して動作するモビールを与えられた群が,固定または常に動くモビールを与えられた乳児よりも,より豊かな感情表現をするようになったことを報告している.ヤロウらの調査によると,乳児が不快であることを意思表示した際,母親がより反応的であるほうが発達の水準が高く,目標志向行動の発達も優れていたとしている.B・ホワイトの研究では自由に動き回れて,自由にいじることが許される空間を有する家庭の子どもは,自分で興味対象を見つけ粘り強く働きかけることで楽しみと解決を見出す傾向にあるとしている.そして子どもから助けを求められた時には,教えすぎずにヒントや共感によって解決の糸口を,あくまで子どもに求めさせるような,関わり方の「技術」を持つ母親ほど,子どもとの関係もよく,子どももよく発達する傾向にある.このことから子どもからの依頼に対しては,放置せず共同の課題として対処していくことが重要であることがわかる.環境の応答性からは子どもが自分には能力があるということを学び,大人の応答性からは他者が共感し合える仲間であることを学ぶといえそうである.
アドラー心理学は対人関係を最も重要視しているが,その中で特に問題になりやすいと思われるのは他者と自己の価値評価の食い違いである.他者の評価がどうあれ,その評価に関係なく自分がくだす自己評価には自信を持つべきである.そのためにはこれまで様々な参考実験で示された例のように,応答性のある環境と必要以上に干渉せず見守ることによって得られる「世界への所属感」「問題解決への意欲」「世界への効力感」という関係性の積み重ねを子どもに経験させていく必要があると思われる.その中で行動に対する内的動機付けを育てていくことが知的発達や情動の発達に対して非常に重要であることが示唆されたのではないか.これらの感覚はアドラー心理学におけるライフスタイルの自己概念形成に共通するものであるのではないかと考えられる.このレポートで示した参考実験はアドラー心理学をベースにしたものではもちろんないが,その実証性を示唆するものも多分に含まれているとも考えられるのである.心身の発達や理解に関してアドラー心理学の与える知見は非常に広く深いものであることを実感するものである.
参考文献:
波多野誼余夫,稲垣佳世子『知力の発達』岩波新書[1977]
N・スミス,I=M・ツィンプリ『ある言語天才の頭脳―言語学習と心のモジュール性』
毛塚恵美子訳,新曜社[1999]
M・C・ダイアモンド『環境が脳を変える』井上昌次郎,河野栄子訳,どうぶつ社
尾本恵一『人はいかにして生まれたか』岩波書店
目次に戻る
TOPに戻る