三年寝太郎


 ある日勤務先の精神科で患者さんたちを前にこんな話をしたことがある。

「どんな社会にも二:六:二という法則があって(二:五:三だという人もいる)、二割の人は一生懸命働く、六割はその時々によって働いたり働かなかったりする人で、後の二割はどういう人かというと、徹底的に何もしない人。ではそういう人を生産的ではないというような理由で排除したらどうなるか。残った人の中で二:六:二というふうになる…」

 するとこんな言葉が返ってきた。

「それは蟻の社会でも同じだ。すべての蟻が勤勉なのではなく、働く蟻とそうでない蟻は七:三なのだ」

「三年寝太郎」というような話があるように、日本は昔から実は何もしないことをよしとする伝統があったはずなのに、いつのまにか勤勉が美徳とされる社会になってしまったように思う。皆が勤勉に働く社会があるとすれば、そのような社会は実は健康とはいえないのかもしれない。

 一八七二年に官営の機械製糸工場である富岡製紙場が設立された。女工さんたちが朝九時に工場に入るということを習得するのに二十年近くかかったといわれている。なぜ仕事をするのに同じ時間に皆が一斉に工場に行かなければならないかは、従来の農村文化の枠組みの中では理解されなかったのである。

 一人の人生を見ても、何もすることなく過ごすということが人生の中にあってもいい、と思う。自分がしていることに意味を求めない、今日も何もしなかった、しかし、無意味な一日を過ごしたのではなく、ただ今日はそういう一日であったのだと思って過ごすことがあってもいいだろう。

 次のミーティングではこんな話をした。この時は三年寝太郎の物語をとりあげ、それを素材に話し合った。三年寝太郎の話と、"A rolling stone gathers no moss"(「転がる石には苔がつかない」)ということわざの解釈を関連づけてみた。

 活発に意見が表明され、どの考えも発言者の考えが反映され、興味深いものだった。特に、私の注目を引いたのは、
「身体と心の二面を考えなければならない。たしかに身体は三年間寝ていたが、心はそうではなかった。その間、彼はずっと用水路を引くことを考えていたのだ」
という発言だった。その人がさらに、

「最初は母親のためにだけ働いていたから、母親が亡くなった時、何もかもばからしくなって寝てしまうが、その後、母親ではなく、村人のために働こうと考えるようになったのだ」
といったことに驚かないわけにはいかなかった。

 この"A rolling stone gathers no moss"ということわざについては二つの解釈がある。苔が生えるということをどう解釈するかによって解釈は分かれる。苔が生えるくらい同じところにじっとしていないといけないという解釈が一つ。もう一つは、「じっとしていたら錆びがつく」という解釈である。

 表面的に見れば、三年寝太郎は、苔が生えるような生活をしている。しかし、外から見れば苔が生えるように見えても、心は絶えず「ころがっている」のである。

 寝ている生活にはいつ終止符が打たれるか…これは誰にもわからないという話をしてみた。「内からの準備と外からの働きかけが、一致した時に人生は動く」のであって、それがいつなのかはわからない。

 寝太郎が三年の眠りの後、用水路を引く仕事に着手した時、最初子どもたちが彼の仕事を手伝い始めた。どうして大人ではなく、子どもが最初に手伝い始めたと思いますか、とたずねてみたら、ある人がこう答えた。
「大人は仕事が可能かどうかを最初に問題にして、もし実現可能であるとわかれば、仕事に取りかかる。ところが子どもはそんなことは考えない。だから大人には遠くの川から用水路を引くという計画が無謀に思え手伝おうとしなかったが、子どもにとっては(計画の最終的な実現は)問題にならなかったのだ」
後に子どもたちの働きを見て、大人たちも仕事に加わった。子どもに大人が教わるわけである。

 見える時だけ動くのは大人の発想である。これからの人生を計画している人がいる。どの大学に入って、どの企業に就職して、そして何歳で結婚して、子どもは何人、というふうに…こんなことを小学生や中学生がいったりすることがある。「あ、私もそうです。先のことをそんなふうに考えています。何歳になったら結婚してというふうに…」。もちろんそのように考えることがいけないというわけではない。目標は目標であり、必ず実現しなくてもいい、と考えるのであれば、問題はない。人生は自分が希望するように進行しないことに遅かれ早かれ気づかされることになる。

 ある日、今の勤務先の院長から電話がかかってきて、今度開業しようと思っている、ついては一緒に仕事をしないか、と誘ってもらった。これが私の目覚めだった。ようやく眠りから覚め、世の中に出て行くことになる大きなきっかけとなった。

 こういう時期が、いつくるかはわからない。しかし、一つ明らかなことは、眠っているのであれ(寝太郎は寝ている間も考えていたのだろう)、準備をしていなければならないということである。準備ができていなければ、外からの働きがあった時も、それを見過ごすことになってしまう。だからいつも目覚めていたい。身体は、あるいは行動は眠っていても、心は覚めていなければならないのである。そんな日がくることまで含めて、目下、生産的でないことだけで人が貢献しているかそうでないかという判断をしてはいけない、と思う。

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