神経症の論理


 アドラーは仕事の課題、交友の課題、愛の課題という人生には避けては通ることができない課題がある、という。これらの課題を解決する能力がないと考える人は、なんとか理由を考えて、人生の課題から逃れようとする。

 アドラーが「劣等コンプレックス」という言葉を使う時、次のような意味として使っている。すなわち、「Aであるから(あるいは、Aでないから)、Bできない」という論理を日常のコミュニケーションの中で多用するという意味である。このAとして他の人がしかたがないと納得しないわけにはいかない理由を持ち出すのである。

 神経症はこの劣等コンプレックスに他ならない。人生の課題を前に直面しようとしなかったり、「ためらいの態度」を取って立ち止まる。「はい〜します、でも」(yes...but)といって、結局課題に取り組まない。

 神経症に限らず、人は意識しなければ、すぐに「でも」といってしまう。何かをしようと思う、しなければならない、「でも」と…

 カウンセリングの時、あまりに頻繁に「でも」という人があって僕はその人が「でも」というたびにカウントすることにした。本人はそのことを意識していなかったからである。やがてこんなふうにいわれるようになり、次第にこの言葉が用いられる回数が減っていった。「まだ今日は一度も『でも』といってませんから、一度だけ『でも』といわせてください」

 人生の課題に挑戦する時、失敗すること、敗北することを恐れる人は、課題から退却しようとする。何をする時にも必ず成功しなければならない、と考え、成功するという保証があれば挑戦する。しかし失敗が少しでも予想され、成功することが確信できなければ最初から挑戦しようとしないか、失敗してもそのことによって致命的な打撃を受けることがないように、いわば綱渡りをする人が転落することを予想して下にあらかじめ網を張っておくようなことをする。症状はこのような目的のために創り出される。

 人生の課題を前にして敗北を恐れる人は、課題に挑戦することを回避するために時に神経症になって、「足踏みしたい(時間を止めたい)」と思う、とアドラーはいう(『人はなぜ神経症になるのか』)。

 ある少女について次のようにいっている。アドラーは、人は新しい状況に入る時その人のライフスタイルを明らかに示すというが、このことはとりわけ学校に入る時にそうである、という。それまでどれほど注目の中心に立っていようと、もはやちやほやされることはなくなるからである。所属感があるということと、注目の中心に立つといことはまったく別のことであるということについては既に見た通りである。ところが、一人で課題の解決に取り組むことなく他の人が課題の肩代わりをしてきたので、困難に直面する準備ができていないので、恐れを抱き逃げ出そうとした。

「実際にも見かけの上でも敗北から逃れるため、勇気をくじかれた人がしばしば取る手段を彼女も取りました。すなわち、どんなことであれ、していることをやりとげないということです。そうすれば、最終的な判断を免れることができたのです。そこでできるだけ時間を無駄に過ごしました。このような人にとって時間は最大の敵です。社会状況のもとでは、時間はたえず「私をどう使うの」という問いかけているかのように感じられ、そのような人はそれによって苦しめられるからです。それゆえ、愚かなことをして「暇をつぶす」奇妙な努力をします。この少女はいつも遅刻してきました。そして、あらゆる行動を延期しました。たとえ非難されても人と敵対するということはしませんでした」

 これとの連関でいうと、悩むのも同じである。悩んでいる限り、決めなくてもいいから悩むのである。悩むことで課題に直面することを延期しているわけである。

 アドラーは別の著作においては(『個人心理学講義』岸見訳)「劣等コンプレックスが発達した形が神経症である」といっている。

 その劣等コンプレックスについてはいくつか事例を挙げているのだが、緊張する(あがる)人について、後で失敗した時に「もしもあんなに緊張さえしなければ何でもできるのに!」というということを指摘している。怠惰であることについても同じ論理を使うことができる。

「奇妙な関心」を発達させることを例にあげている。

「(劣等コンプレックスのある人は)奇妙な関心を発達させるのがよく見られます。新聞や広告を集めるというような、取るに足らないようなことにいつも心を奪われるのです。このようにして時間を無駄にし、いつも言い訳をします」

 強迫神経症はこの延長に出てくるわけである。

「劣等コンプレックスが発達した形が神経症です。不安神経症であればできないことなどありません。いつも誰かに付き添ってもらおうとするかもしれません。もしそうすることができれば、目的を達成できたことになるのです。神経症者は、いつも誰かに支えられ、他の人を自分にかかりっきりにさせます」

 このような人が欠いているのは、人生の課題に挑戦する勇気である。

「コンプレックスが発達するあらゆるケースにおいて、社会的で有用な方向で働くことができないのは、個人の側で勇気が欠けているからです」

 アドラーは必ずしも区別してないが、厳密には神経症者(the neurotics)と神経質者(the nervous)は違う。神経質でない人は、この世に一人としていない。神経症者はまったく動かないが、神経質者は時に「ためらいの態度」を取って立ち止まることがあってもまったく止まってしまうということはないのである。このような人は、先に見たようにしばしば「はい〜します、でも」(yes...but)という。

 人生の課題に挑戦するとき失敗を恐れる限り、課題から退却することになる。何をするときにも必ず成功しなければならない、と考え、成功するという保証がある限り挑戦することになる。失敗したなら、もう一度チャレンジすればいいのである。

 神経症者の適切な治療は勇気づけることである。ためらいの態度を取らないように訓練し、自分には困難に直面し、人生の課題を解決する能力がある、と理解してもらうことが自信を築く唯一の方法である、とアドラーはいう。さらに、人は、仲間である他者に支えられながら生きている。しかし、同時に他者に貢献できると思え、そして、そのように貢献できる自分のことを受け容れることができる…このような方向に人を援助するという意味での「勇気づけ」が、アドラー心理学の基本であり、育児、教育、治療に最も求められるものである。

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