(数年前に書いたものですが、修正、加筆をして再掲します)
毎週一度、奈良までギリシア語の講義に通っています。学生は例年少なく今年は二人です。学生の数が少ないということは僕には問題になりません。去年は一人でしたし、今年も一人だけのことがよくあります。学生にしてみれば逃げられないので大変かなと思いますが、最後まで出てくる学生はそんなふうには考えないようです。
今年は今日でギリシア語の教科書を最後まで終えました。この教科書は必ずしもベストだと思えないのですが、大学の授業時間数を考慮した、したがって、課の数が少ないので授業には使いやすいものです。早いうちから古典からのそのままの引用があってきっと学生には負担なのでしょうが、もうギリシア語の原文が読めるという満足感を味わうことができます。
今年はかなり速いペースで最後の課まで到達したのですが、しかし、これで古典がすぐにすらりすらりと読めるわけではありません。そういうことは期待してはいけないのかもしれません。相談の結果、来週からプラトンの『ソクラテスの弁明』を読むことにしました。日本語による注釈書がある数少ないテキストの一つであることがこの本を選んだことの大きな理由ではありますが、日本語の注釈書がなくてもこれを選んだかもしれません。
ソクラテスは毎日朝から晩までアテナイの街で若者を相手に議論をしていました。そういうソクラテスを見て、青年に悪しき影響を与えるという理由でソクラテスを告訴する人が現れました。その裁判の際のソクラテスの「弁明」演説がプラトンの『ソクラテスの弁明』です。有罪が確定してからのソクラテスの演説は死刑になることを望んでいたのではないかと思わせるほど挑発的なものです。真理を愛するソクラテスの真摯な姿勢は死をも超えさせます。「心のケア」に相当するギリシア語も出てきます。もっとも今日使われる意味とはずいぶんと意味が違いますが。哲学と聞くと難しい論文の類を想像される人にはプラトンの対話篇が哲学書であることにとまどわれるかもしれません。
今日も実は学生は一人でした。これまでどの学生もよくできましたが、その中でもとりわけできる学生を三人あげることができますが、その中でも一番できるのではないかと思います。ギリシア哲学を専攻したいという希望を持っているのですが、今の大学でそれがかなうかについてはむずかしい問題があります。しかし何とか力になりたいと考えています。日頃、寡黙な学生で授業に関係のない話はほとんどしないのですが、今日は少し話をすることができました。来週からの授業の段取りについて説明しました。
「注釈書の中に§(セクション)番号が書いてありますが、これは田中、松平著の『ギリシア語文法』から引いてあります、この本はよくできた文法書ですが、今は絶版ではないかと思います」
というと、
「あのー実は古い本ですけど、私、その本を持っているのです」
との返事。そして続けて、
「実は私の父がギリシア語に関係のある仕事をしていまして…それで聞いてみたら、バーネット(J.Burnet)の校訂したテキストを使うのだと…」
というので驚いてしまいました。そして、さらに
「実は…去年、先生のギリシア語に出ていた学生は、私のいとこなんです」
と。その学生も三人のうちの一人です。ギリシア語を学ぼうとする学生は今はほとんどいないと思うのですが、こんなことがあるのですね、いとこだったとは…
彼女のほうは、考古学が専攻で、教科書を終えてからは、プルタルコスの作品を読みたいというのでいろいろ読みました。ある日の話の中で、幼い頃、ローマで暮らしていたことがわかりました。
「二歳年上の兄は今でもイタリア語のコメディー番組を見て笑えるのです。でも私はそこまで力がつきませんでした。でも(イタリア語の)力を落としたくはないので、ずっと勉強を続けています」
この学生が、また今年の学生が外国語ができるのは才能の問題ではないと僕は考えています。環境はたしかに重要ですが、家にどんなに本があっても子どもは読もうとしないかもしれないし、本を読むことを執拗に勧められた結果、本が嫌いになるかもしれないのです。
(その後、先の学生は僕が学んだ大学院の研究室に入ることができました。僕の一年の講義に出た後は、一度も会うこともなく、結局、僕は何も力になることはなかったのです)