晩年のアドラーの秘書を務めていたユヴリン・フェルドマンがアドラーが亡くなった時、アドラーがかけていた眼鏡をもらえないか、と妻のライサに頼んだ。フェルドマンは、なぜ眼鏡がほしいか、とたずねられて「アドラーが見たように人生を見たいのです」と答えた。
どんなスポーツでもいいが、ルールを知らなければ何が行われているかわからない。人を観察する時も基本的なルールを知っておかなければ何もわからない。アドラーはこの世界をどのように見ていたのか。
アドラーとウィーンで仕事を共にし、後にアドラーがアメリカに活動の拠点を移すことになった際、ウィーンでのアドラーの仕事を引き継いだリディア・ジッハーは、ある土曜日、アドラーの『神経質について』を読み始めた。月曜日も祝日だった。
「ひどく暑い日だったが、私は一人でいられることを幸せに思った。私はアドラーの本を最初から最後まで三回ほど読んだ。
火曜日の朝、私は椅子から立ち上がった。世界は違っていた……アドラーは私に教えてくれたのである。世界は信じがたいほどシンプルだ、と」
ところがジッハーがいうように世界は本当はシンプルなのに、そうは思えないとしたらなぜか。世界が、そしてその中に生きる私たちの人生が複雑なものに見えるとしたら、ジッハーによれば神経症的な意味づけをしているからである。神経症的な意味づけがどういうものかは後に見たい。神経症的な意味づけを止めれば「世界は信じがたいほどシンプル」になる。世界をシンプルに見ることを可能にする健康なライフスタイルを身につけることができる。
しかし、この世界についてシンプルな意味づけをするということは、現実を構成する諸要素を抽象することではない。数ある条件からわずかの条件を抽象すればたしかに世界はシンプルに見えるかもしれないが、そのようなことをジッハーはいっているのではない。
木の枝に五羽の雀が止まっているとして、そのうちの一羽を鉄砲で打ち落としたら雀は何羽残るかという問題は、算数や数学であれば四羽ということになるが、実際には鉄砲の音に驚いて一羽も残らない。しかしそのような事情は数学においては考慮されない。「抽象」というのは、このようにものの一面だけを取り出して他の面をすべて無視し切り捨てることである。抽象することができなければ、例えば、りんご三個とみかん二個を足したらいくつになりますかという問題を前にして(今はこんな問題はないだろうが)、りんごとみかんを足すということの意味がたちまちわからなくなるだろう。
このような抽象性は、数学だけにとどまらず、具体的なことを取り扱っていると考えられる経済学や政治学においても根本に認められるものだ、と田中美知太郎はいう(『哲学入門』筑摩書房)。このような抽象性のゆえに、実際問題の処理や批評において経済学者や政治学者がいうことがまったくの抽象論で何の役にも立たないということはよくある。しかもこの抽象性をすぐにははっきりと認めることができないので危険なのである。
また、理論が先にあって現実を理論に当てはめることがあってはならない。アドラーがよく引くギリシアの伝説上の盗賊であるプロクルステスは、捕まえてきた旅人を自分の寝台に寝かせ、もしも身長が寝台よりも短ければ足と頭を引っ張って引き伸ばし、他方、長ければ、はみ出た足を切り落とした。そのように現実から理論に整合する面だけを抽象してはいけない。理論はあくまでも現実を説明するためのものである。
この世界を、そしてその中に生きる人間を正しく理解するためには、現実的な諸条件を抽象することなく、世界を「具体的」に見ていかなければならない。しかし、そのことは個人を個別的に見ていくということではない。たしかに、同じ人は二人としてはいないのだから、人を一般的に考察しても、目の前にいるこの人は見えてこない。しかし「具体的」でなければならないと考えて、ただ対象を個別的に見ていくのであれば、そのことから経験則を得ることはできても、学問にはならない
もとより、抽象することなしですませることはできない。そもそも「言葉」すら使えないことになってしまう。例えば、「台風」という実体があるわけでない。しかし、雨風が強いというのではなく、台風○号が○○地方に接近というふうに見る方が、台風に伴う暴風雨に適切な仕方で対処できる。
他方、○○病というような病名をつけることはこのことと同じように有用であるが、症状を実体化しない方が治療に有効な場合がある。症状を実体化するということは、「私は床につき、眠りにつくまで三時間かかる」という過程を「不眠症」というようにある「もの」へと変えることである。しかしこのような実体化をやめ、例えば、「私は床につき、問題について考えると、本当にいらいらしてくる」という記述にすれば、実体としての症状ではなく、行動あるいは習慣そのものを変えることを示唆し、望む変化を引き起こすことができる(ビル・オハンロン/サンディ・ビードル『可能性療法』誠信書房)。
具体的であるということは、現実を見ていくために多くのものを無視したり、切り捨てたりするのではなく、いろいろなつながりから全体を見ていくということである。
タークルは、正統派心理学にとっては成熟した思考とは抽象的な思考であるというが、具体的思考を経て、より高度な、あるいは、より成熟した抽象思考に到達するのではなく、最初から具体的思考と抽象的思考は、まったく別の思考方法である。
僕の理解するアドラー心理学は、このことを世界についてこれまでの心理学とはまったく異なる意味づけをすることによってなしとげている。
一般的な考え方においては、人の言動の「原因」を問う。例えば子どもが問題行動をした時に、過去の出来事や、外的な環境が「原因」であるというふうに考える。僕の子どもが保育所で保育士の話を聞かないで壁のほうを向いてしまうということがあった時、そのような行動の「原因」は親の愛情不足であるといわれた。
PTSD(心的外傷後ストレス障害)という言葉が何か大きな自然災害、あるいは事件があった際によく使われる。そのような災害、事故、事件に遭遇することで「心が傷つけられる」ために起こる、と考えられる。人は「トラウマ」(心的外傷)を受け、そのために、強い抑うつ、不安、不眠、悪夢、恐怖、無力感、戦慄などの症状が生じるというわけである。
もとより、何かしらの影響を受けないということはないかもしれない。しかし、ある出来事によって人が誰もが同じ影響を受けるかといえば自明ではないと僕は考えている。この点については後に問題にしたいが、ここでは、原因論の立場では、Aという原因があればそれに伴って必然的にBという結果(例えば、問題行動、症状)が生じると考えるという点に注目したい。
問題は原因論と呼ばれるこのような考え方が、原因が原因に必然的な仕方で無限に続くという意味で人がなす誤りすら必然であり、つまりは他のあり方を選択する余地がない決定論になってしまうことである。しかし、人の行動は、例えば石を投げれば必ず落下し、その落ちていく石の道筋を計算できるというような意味で、何かが原因となって、必ず何かが帰結するということはできないのではないか。誰しもがある出来事を経験したからといって、同じように反応するわけではない。大きな災害に遭遇したからといって誰もがPTSDになるわけではない。
なんとかして自由意志を救わなければ、今とは違うあり方へと人を変えることに他ならない育児や教育、治療が意味をなさなくなってしまう。必然によって今のあり方以外のあり方をとりようがないことになれば本人の責任を問うこともできない。これらの働きかけは、自由意志を前提としなければ意味を持たないのである。
人間の行為は原因をどれほど見つけようとしても、人の意志は必ずその原因をいわばすり抜けてしまう。自由意志で選択した行為に見えるけれども本当はそのような行為も本当の原因が知り尽くされていないだけで、すべて必然の中に解消させられる、と考えるにはあまりに自由意志は自明でヴィヴィッドであるように見える。
エピクロスというプラトン、アリストテレスの時代から半世紀以上下った哲学者は原子論者ではあるが、自由意志を救うために、本来原子は虚空間の中を必然的な法則に従って直線運動をするのだが、時にわずかに進路から逸脱することがある、と考えた。
今日エピクロスの書いたものは若干の書簡を除けば大半が失われているが、ルクレティウスという詩人の残した著作の中にエピクロスの思想が伝えられており、その中に次のような言葉を見出すことができる。
「もしすべての運動がいつもつながっていて、古い運動から新しい運動が一定の秩序で生じるとするならば、もしまた原子がその進路から逸れることによって、宿命の掟を破る新しい運動を始めるということがなくて原因が原因に限りなく続いていくとするならば、地上の生物のもっている自由な意志というものはどこから現われ、いかにしてこの自由意志は宿命の手から解放されたというのか」
エピクロスは逸脱という概念を導入することによって、本来的な必然の動きの中に例外を認めたのだが、もともとは必然しかありえない中、自由意志を救うために逸脱という現象を認めてみても、体系としての一貫性を考えるならば破綻としかいいようがない。
原因論の立場をとる限り、意志の自由の存在余地はない。逸脱の概念はいわば取ってつけたものであるという感は否めない。世界観そのものに何か問題があるのであって、世界観をそのままにした上で若干の変更を加えるというような仕方では自由意志を救うことはできない、と考える方が論理的である。
そこで後に見るように哲学史においても、原子論がその一つである原因論とはまったく異なる世界観があることを知らなければならない。アドラーの理論もこのもう一つの世界観の流れの中にある。これは「原因論」に対比して「目的論」と呼ばれる。この自由意志を救う試みである目的論をアドラーも採用したのである。
人は求めて不幸であるわけではない。誰もが「幸福」であることを求めている。人はこのような意味での「善」を人がめざし、それを目的とするという観点から人の言動を見ることを「目的論」という。いわば、人が「どこから」きたかではなくて、「どこへ」向かおうとするかを見ていくわけである。
ジッハーはこのようにいっている。
「行動に問題があっても、刺激に反応している(react)のではなく、自分自身、進化における役割、社会における位置についての考えに応じて行為している(act)」。
人間を機械的に刺激に反応する者ではない存在としてとらえるためには原因論から脱却しなければならない。人間を自由意志を持った存在として見ようとするならば、目的論的に考察しなければならない。原因論ではなく目的論からこの世界をとらえるということが、アドラー心理学がそれまでの心理学とは世界についてまったく異なった意味づけをするということの意味であり、その見地から世界を見れば、ジッハーがいったように「世界は信じがたいほどシンプル」に見えることになる。デカルトがいうように「真理を知るためには方法が必要である」。目的論は、世界とその中に生きる人間についてを知るための有効な方法論である。