真理の辿る運命


 アドラーの『子どもの教育』の中にカエサルのエジプト上陸のことが引かれています。

「主観的な考えが人間の行動に影響を及ぼすということの典型的な例を、カエサルのエジプト上陸に見ることができます。カエサルは上陸した時に跳躍しました。ところが、つまずいて大地の上に倒れてしまいました。ローマ人の兵士たちは、このことを不吉な前兆と見なしました。彼らは勇気がありましたが、もしもカエサルがその時両手を差し出して「アフリカよ! あなたは私のものです」といわなかったら、踵を返してそのまま戻っていってしまったでしょう」

 僕はこの話を読んだ時に、次のような日食をめぐる話を思い出しました。今はギリシア哲学の歴史について話すつもりではありませんから、話をできるだけ簡単にします。初期のギリシアの哲学者たちは万物の根源(アルケー)が何かを考察のテーマとしてました。タレスはアルケーを「水」であるとしたのですが、このタレスがいつの時代の人かは、彼が予言したという皆既日食によって知ることができます。今日の天文学の計算から前585年に起こったものであることが明らかになっているのです。

 この日食は、ミレトスと友好関係にあったリュディア王国と、ペルシアの兄弟国メディアとの戦争の最中に起こりました。互角の力で戦争していたのですが、6年目に衝突が起こったとき、その戦闘の途中に突如として皆既日食が起こりました。この日食をタレスが予言していたというのです。

 話は飛びますが、このタレスの後約1世紀、アナクサゴラス(前500-428)が、日食と月食について正しい説明をしました。日食と月食をそれぞれ地球や月が太陽の光をさえぎるので起こるのであり、月の光は太陽の反射にすぎないと説いたと伝えられているのです。

 タレスが予言した日食が起こったのは、ペルシア戦争の前駆をなすリュディア・メディア戦争の中の事件でした。ペルシア戦争はこの約100年後のギリシア側の勝利に終わりました。ペリクレスがこの後30年以上にわたってアテナイを支配したことはよく知られていますが、このアテナイはさまざまな矛盾を抱えており、新しい政治の基礎が十分に生かされないうちに、スパルタとのペロポネソス戦争(前431-404)に突入しました。

 この戦争中の出来事として次のような話が伝えられています。ペリクレスは150隻もの大艦隊を率いてペロポネソス地方を攻めようとしていましたが、ちょうど出発間際に皆既日食が起こりました。水夫たちはこれを恐れ、何かの前兆ではないかと考えました。狼狽し、恐れる水夫たちを前にペリクレスは自分のレインコートを広げました。そして水夫たちの視野をそのレインコートで遮って、これが何か恐ろしいことの前兆であると思えるかとたずねました。もちろん、何も恐ろしいことではないと水夫たちは答えないわけにはいきませんでした。ペリクレスはいいました。それならば、あの日食も、これとどこが違うというのか。ただ眼前を暗くするものがこのレインコートよりも大きいだけのことではないのか、と。

 このペリクレスの説明は、先に見たアナクサゴラスのものだったのです。ペリクレスが凡庸な政治家と異なっていたのは、アナクサゴラスに学ぶところが少なくなったからであるといえます。

 しかし、このような政治家を指導者にいただくアテナイが、では完全に啓蒙された社会であったかといえば、そうではありません。水夫たちの多くはたしかにペリクレスによる日食の説明によって啓蒙されたでしょうが、最初は日食を不吉な前兆であると感じ、恐れをなして混乱に陥っていたという事実を見逃すわけにはいきません。

 アナクサゴラスは、前467年にダーナネルス海峡の近くのアイゴスポタモイに落ちた隕石を調べて天体に関する新しい考えを得たといわれています。即ち、太陽は灼熱した鉱石の塊であり、月には丘や谷があって、住める場所があると考えていました。この日食の正しい説明者であるアナクサゴラスは、実は、ペロポネソス戦争の起こる少し前に(あるいは、それよりもっと前に)不敬罪の罪のゆえに、30年滞在したアテナイを去らなければならなかったのです(アナクサゴラスは若くしてアテナイへ来て、ペリクレスの客として30年にわたって滞在したのです)。

 このような反動は、ペリクレスの死後のペロポネソス戦争において、アテナイに不幸な結果をもたらすことになりました。前413年8月27日シシリー島で月食が見られました。アテナイ軍はシュラクサイを海陸の両方から封鎖、攻略しようとしていたのですが、手違いによって封鎖を完了させることができず、それどころか、歓待は狭い港湾の中での不利な海戦によって多大の損害を受け、ついに、攻略を断念して退却しなければなりませんでした。ところが、その出発の前夜に月食が起きたのです。兵士たちは、これを悪しき前兆であると恐れ、占い者も出発を延期するように忠告しました。

 この時のギリシアの総司令官はニキアスという保守的な敬神家で、ペリクレスと違ってアナクサゴラスと交際して物議をかもすような危険人物ではありませんでした。ニキアスは、この月食の際、ペリクレスのように月食の説明をすることなく、むしろ、彼自身が月食に前兆を感じてしまいました。その結果、シュラクサイ脱出の機会を逸し、湾の入り口は敵が閉鎖、アテナイ軍は海陸からの攻囲によって全滅してしまいました。アテナイ海軍兵力のほとんど三分の二が全滅することになったのです。

 ペリクレス時代の啓蒙はどこへ行ってしまったのか? ニキアスの迷信は、アナクサゴラスの学説が、アテナイ人の生活には無縁であったことを示していると考えることができます。

 いつの時代も、真理はこのような運命を辿るのでしょうか?

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