疲れを解消させるかかわり方


岸見一郎(きしみ・いちろう 哲学者、アドラー心理学カウンセラー)

はじめに

 中学生の私の息子は、いつも夜遅くまで起きているが、これは今に始まったことではなくて早くも保育園に通っていた頃からである。保育園には生活点検表というのがあって、何時に寝て何時に起きたかというような項目について報告しなければならなかった。親としては早く寝てほしいと願ったが、遅くまで起きていることがよくあった。親の当惑をわかっていたのか、ある日息子は私にいった。「どうだ、うらやましいだろう。こんな丈夫な身体がほしいだろう」。

 私の子どもに限らず、一向に疲れている気配を見せない子どもがいる。遠足から帰ってからもなおくたくたになるまで遊ぶ子どもがいる。他方、すぐに「疲れた」という子どもがいる。いったい、この違いは何がもたらすのか。どのようにかかわれば、子どもたちの「疲れ」を解消できるようなかかわり方ができるかを私が学んでいるアドラー心理学の視点から考察するのが本稿の目的である。

なぜ「疲れた」というのか

 子どもたちの疲れは、身体の疲れではないように思われる。本当に身体が疲れているということもあるだろうが、いわば心が疲れているのである。自分のことを考えてみても、心から取り組みたいと思っていることであれば、そのことが多少困難を伴っても疲れを感じないか、あるいは、疲れを感じても苦痛にならない。

 では「なぜ」すぐに「疲れた」というのか。アドラーが「なぜ」と問う時、その意味は「原因」ではなく、「目的」である。人間の行動には目的があって、しかもそれは対人関係の中で、その行動が向けられる「相手役」から何らかの応答を引き出そうとしている、と考える。一体、子どもがすぐに「疲れた」という時、何を目的としているのか、どんな応答を引き出そうとしているのか。

●注目を引くために

 まず、「疲れた」といって頑張ると受けがいいということがある。疲れているのに頑張っていると大人はほめたくなるかもしれない。ふだん疲れたといわない子どもであれば「疲れた」といえば効果は一層絶大である。

 ところが、子どもが味を占めて、「疲れた」を繰り返すようになると大人は賞賛しなくなる。それどころかいらいらしたり煩わしくなる。そのようにして、注目、関心を引くことに成功する。

 さらに子どもがあまりにしつこいと本気で腹が立つ。教師が一人の子どもにかかわっている時に、他の子どもが割って入ってくるとする。「待ってね、今はAさんとお話してるからね」「いやだ、待てない。疲れたから」このような子どもは大人に権力争いを挑んでいるのである。

 さらに復讐の段階に進むことがある。カンニングなどの不正行為をするような場合である。どうしてこんなことをするのだろう、と怒るというより嫌な気持ちになり、傷つく。

 さらには、もう私は駄目だから見捨ててほしい、と無能力を誇示することがある。そのような子どもを前にして大人は絶望し、途方に暮れてしまう。

●課題からの逃避の口実として

「疲れた」ということには、次のような目的もある。ある習い事をしている子どもが、ある日、教室にくるなり「疲れた、疲れた」という。「なんでそんなに疲れたの?」「だって…今日は疲れたから(課題を)半分にして!」「しかたないなあ」

 理由は何でもよくて、課題の量を減らしてほしいのである。実際、子どもが「疲れた」といえば、多くの課題を与えることをためらってしまう。このようにして課題の量を減らすことに成功すれば、突如として元気になる。

 朝、子どもが学校を休みたいと訴える時は、お腹が痛いとか頭が痛い、といって元気がない。ところが、学校に連絡をとって、休めることが決まったとたんに、嘘のように元気になるというのと同じである。

 また、「疲れた」といえば家事の手伝いをしなくてもいいことを学んでいることがある。疲れているのなら家事を手伝わせることはできない、と親は考える。

 自分が行きたくない習い事を止めるための口実にすることもある。「家事を手伝ってよ」「だめだよ、疲れているんだから…でも、習い事を止めさせてくれたら手伝うよ」もちろん、このようなことをいう子どもは習い事を止めたからといって家事を手伝ったりはしない。

●自他への弁明として

 もう一つは、例えば試験でいい成績を収められなかった時に、自他ともに納得するためである。疲れるほど頑張っていたのだから、いい成績が取れなくても仕方ないと親に思ってほしい、と考える。自分もそう考えれば失敗したことを納得できる。勉強が足りなかったとしてもである。

 子どもが課題に挑戦する時、失敗が少しでも予想され、成功することが確信できなければ、最初から挑戦しないか、あるいは、失敗しても致命的な打撃を受けることがないように、いわば綱渡りをする人が転落することを予想して下に網を張っておくようなことをする。「疲れた」ということは、このような目的のために子どもが取る手段の一つである。

●気を遣う子ども

 以上とは少し違うケースもある。このタイプの子どもは気を遣いすぎて疲れる。先生のいっていることは、変だと思いながらも黙っていたり、友だち関係のことを気にして疲れてしまう。友だち関係のことで疲れる子どもを普通親は放っておけないだろう。

どのようにかかわればいいか

●「疲れた」という言葉に対処しない

 以上見てきたように、子どもたちは直面する課題を解決することができないと考えているという意味で勇気をくじかれているといえる。

 そこで、まず子どもたちは先に見たような仕方で注目を得ようとしているわけであるからあらゆる声かけ、対処を止めてみる。「疲れてるんじゃないの」と声をかけたり、「今日は疲れたといわないのね」というような注目をしないことができる。このような対処をしている限り、子どもは「疲れた」ということを止めない。

●勇気づけ

 その代わり、元気な子どもに注目する。子どもは「疲れた」という時にしか注目されないと思っている。実際その通りである。子どもがいつも疲れているとは思えないが、大人には疲れている子どもしか目に映らない。

 しかし、そもそも子どもは「疲れた」といってはいけないのだろうか。頑張らない子どもは駄目な子どもだと決めてかかれば、頑張れないと思って「疲れた」という子どもはいよいよ勇気をくじかれ駄目になってしまう。

 アドラーは「大切なことは何が与えられているかではなく、与えられているものをどう使うかである」といっている。すぐに「疲れた」という子どもは、自分の限界を知っているということができる。ストレスに強いと思っている人は、強いストレスがかかるまで我慢してしまう。頑張りすぎて途中で息切れがするよりもはるかに望ましいと見ることができる。

 このように子どもを見直したい。子どもを大人の理想にあてはめてはいけない。勇気があればどんな性格であれ、そのままで社会にたいして建設的に生きてほしい。自分自身については「私には能力がある」、他者については「人々は私は仲間である」と感じられ、与えられた課題に取り組めることを勇気があるといい、そのように感じられるように援助をすることを「勇気づけ」という。

●好きなことに無理な努力はいらない

 大人の持っている一つの思い込みは、課題の達成には努力が必要であるというものである。もちろん、努力は必要だが、苦しくてしかたないがそれでも歯を食い縛って頑張られなければいけないというのは本当ではない。息子の小学校の時の担任の先生が、「勉強するって、やらされているのではなく、夢中になって楽しんでするものだとあなたを見て思った」という手紙をくださったことがあった。

 本来、課題への取り組みは楽しい。他者からの強制でなければ、知らないことを知るという営みはそれ自体として楽しいことであり、さらにその取り組みが自分に役立ち、究極的には他の人への貢献になることを学んでほしい。そのように感じられる時、疲れは解消する。

●ストレートな言語表現

「疲れた」と子どもがいう時、ストレートに例えば勉強をしたくないといえないということがある。勉強したくないといおうものなら大人は怒る。だから子どもはまわりくどいいい方をするしかない。そこで、ストレートにしたいこと、したくないことをいえる雰囲気を作りたい。疲れなくても休息が必要だと思った時には、ただ止めればいいわけである。いずれにしても子どもが自分の責任で果たさなければならない課題なのだから、親は困るわけではない。子どもが自分の課題を成し遂げることを大人は信頼して待ちたい。

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 元気な時もそうでない時も、自分やまわりの社会にたいして貢献する建設的な行ないをしていることに注目し、貢献に感謝したい。そのようにかかわっていけば、子どもたちは、注目されるために、あるいは、失敗するための口実として「疲れた」とはいわなくなり、勇気を持って建設的に生きていくことを選ぶであろう。

(「児童心理」2002年4月号所収、金子書房)

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